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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/

ネイキッドと翼 16

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 辜礫築つみいしづく氏の車が停まったところというのは、火寺鬼藤かじきとう家であった。茉世まつよもこの家名を聞いたことがある。というのは、蓮の許嫁がいる家だからだ。蓮もここにいるというらしい。
「蓮ちゃんとは不仲だと聞いていますが、知っている人のいない家よりはいいかと思って……却ってまずかったでしょうか……家もそう遠くありませんし」 
 火寺鬼藤家は三途賽川さんずさいかわのある市の隣で、確かに遠くはない。蓮とは仲が悪かったけれど、許嫁の家であるし、彼は三途賽川の人間ではなくなった。急な呼び出しに応じた辜礫築氏の厚意を無下にはできなかった。ばんがデイシアマーケットの衣料品売り場で買ってきた下着だの服だのの入った袋と、タオルで包んだものを持って車を降りる。辜礫築氏も降りてきた。
「あまりに急なのでぼきからも挨拶をします」
「すみません……」
「いいえ。義理の姪ですからね」
 火寺鬼藤の邸宅は三途賽川よりも古めかしかった。古都の老舗旅館という風情だ。立派な棟門が構えられ、庭の灯籠から赤い光を発している。庭にしろ家屋にしろ本家よりも豪奢な感じがあった。
 門を入って緩やかにカーブする敷石を辿ると、これまた大きな玄関へ到る。
「ごめんください、ごめんください!」
 インターホンはなかった。磨りガラスのみの三途賽川邸の引戸ではなく、格子戸であった。やがて開く。
「家の者は今おりません」
 甘い声質が無愛想だった。背の高い、黒い髪の男が出てくる。来訪者をすぐに帰す腹積もりでいるようなのが見てとれる。
「さっきぶりだね、蓮ちゃん」
 蓮はふいと辜礫築氏から目を逸らし、横にいる茉世で留まる。彼女は辜礫築氏を見上げた。横顔に苦笑いが浮かんでいる。
「どうしました」
「当分、三途賽川のお宅には帰れなくなりましてね」
「……何故?」
 横柄な態度は人見知りのせいなのだろうか。彼は茉世を見つめたまま、身体だけ辜礫築氏に向けている。
「三途賽川さんのお宅で、茉世さんを狙う不届者がいましてね」
 辜礫築氏は冷静だった。刹那、蓮の表情が歪んだ。彼は茉世を睨む。
「何かされたのか!」
 それは狂犬が吠えたようである。
「い、いえ…………まあ………」
 近付こうとする蓮との間に、辜礫築氏が肩を割り込ませた。
「お家の方々は、どちらに?」
 蓮を玄関へ押し戻すようにして、辜礫築氏は話を戻す。
「あの会議の後、飯に。その後温泉だとさ。家族小旅行というわけだ」
「そうですか……」
「あの家に帰れないから、ここに来たのか」
「ですです。けれどご不在では……」
 辜礫築氏は踵を返そうとした。何とも言えない微笑を茉世へ向ける。
「俺がマンスリーマンションを借りたから、そこで一緒に暮らせばいい」
「は?」
「マンスリーマンションを借りた。今日から入れるぞ」
 蓮は一旦、玄関ホールに引っ込んでいった。三途賽川を出ていったときと同じザックを肩に掛けた。
「ちょ、ちょ、待ってください」
「火寺鬼藤に入るつもりはない。少し世話になって出ていくつもりだったが、そういうことならすぐにでも……」
 蓮はまた辜礫築氏から目を逸らして茉世を見下ろした。
「茉世さんをお一人にしたくないんです」
 氏は防犯の面でそうはいうけれど、茉世は一人になりたかった。
「だ、大丈夫です、わたし……平気です、平気です………」
 蓮と共に暮らすのは嫌だった。制服を着た強姦魔・尼寺橋渡にじのはしわたりてんと何が違うのだろう。性交の強行がなかったという違いだけだ。三途賽川から離れた今、彼は安全といえるのだろうか。いいや、行動原理が変わったとて過ぎたことは覆せない。そこに焼き付けられた感情も、印象も。
「平気ですから!すみません。三途賽川に帰ります。三途賽川に帰してください!」
 氏に迷惑がかかることは重々承知していた。だが今回避すべきは蓮と二人でいなければならないという状況である。許嫁さえ、ひとつ屋根の下にいれば……だが実物の蓮を前にすると、尼寺橋渡霑にされたことが加算されて身の上に降りかかる。
 アロハシャツから伸びた腕に縋りつきたくなった。茉世はこの中年男を脅威として見做していなかった。彼女自身もそのことに気付いていなかった。20代半ばの息子の被害に憤慨する様は、世間から見れば噴飯と冷笑の的になるものであったかもしれないけれど、彼女にとっては脅威ではなく真っ当な庇護者の姿であった。
「三途賽川に帰ります……!」
 だが彼女は氏の腕に縋りつかないように、服を握り締めていた。
「すみません。ちょっと車の中で、茉世さんとお話してきます。ご迷惑をおかけしますね」
 蓮は昏い双眸を茉世に留めたままである。
「叔父貴」
 沸騰する前のような目が、睨む眼差しに変わり、辜礫築氏へ映る。
「は、はあ……」
「"茉世さん"を三途賽川の長男に近付けないことだ」
 茉世には見えなかったが、辜礫築氏はくっと眉を上げた。
「それは……」
「夫婦仲が深まることに、面白くないやつがいる」
「蓮ちゃんは、ご存知だったんですね」
「だがもう他所様のことだ」
 彼は嘆息する。自嘲的であった。
「茉世さんとお話してからまた来ます。―行きましょう」
 車内に戻ると、辜礫築氏はルームランプを点けた。
「どうしました?なんだか様子が変でした」
 話すべきか否か、選択するときであった。
「あ………いいえ………その………」
 だがすぐには選べなかった。話すのが義理かもしれなかった。しかし口にするのは気持ち的な問題があった。何よりも、瑕疵かしのある嫁は去らなければならなくなったら……茉世に行くところはない。辜礫築氏も温厚げな面を厳めしくして、車から降りるよう言うのかもしれなかった。彼女は三途賽川を本家とするこの一族を信用していなかった。
 隠し通すしかない。六道月路ろくどうがつじには戻れないのだ。辜礫築氏の案に乗るべきだ。ここで蓮と行けば、氏の負担も減るだろう。会議が開かれたことは知っていた。そして急に呼び出し、不要な遠回りをさせている。息子を殴った家の嫁である。その怨嗟えんさも聞いたではないか。
「すみません。ちょっと混乱してしまって……蓮さんといきます」
 震える声を誤魔化すと上擦った。三途賽川に戻っては、夫婦仲が深まるとおもしろくないやつ―尼寺橋渡霑にまた手籠にされるだけである。そういうことにした。蓮と行くことは間違っていない。正しい。
「……大丈夫です?」
「はい。ありがとうございました。急に呼び出してしまって、申し訳ありません……蓮さんにもご迷惑をおかけするのに、失礼でした」
「そこはお互い様だと思いますよ。蓮ちゃんも大家族の人ですからね」
 茉世は蓮と共に火寺鬼藤の邸宅を出ていった。辜礫築氏は夜に紛れたがっているような車が出ていくのを見送った。氏に対してすまなく思い、彼女は後部座席から何度も頭を下げたが、おそらく相手には見えていなかった。
「申し訳ないです……こんなことになってしまって………」
 それは酔っ払いを起こそうとした過日の件についても含まれていないとはいえなかった。投げ返されてくる嫌味を待つ。
「別に貴方の謝ることじゃない」
 幽霊みたいに運転手は静かだった。無人の自動運転かと思うほどだった。存在感もなかった。ウィンカーなどは不思議な力で鳴らされているのかと勘違いしていた。昔どこかの施設で見た、勝手に演奏されるピアノのような不気味さがある。だが運転手は実在していた。
「都合良く、頼っているわけですから」
「嫌なら言わない。一緒に暮らそうだなんて」
 彼なりに同情しているらしかった。血も涙もない現代の俗世を生きる鬼にも人情というものはあるようだ。蓮という人物を誤解していたのだろうか。
「でも、婚約者の方がいらっしゃるのでしょう……?」
「俺を根無草だとでも思っているんだろう。だから婿入りだなんてことを言い出しす」
 では行くあてがあるというのだろうか。
「大丈夫なんですか、それで……」
「第二の人生は好きにやるさ」
 車内はまた静かになった。茉世は走行音を聞いていた。
 マンションは思ったより広かった。家電も揃っている。やはり田舎だ。駐車場も広くとってある。
「いつ、借りたんですか」
「昨日の夜に。鍵は帰ってきたときだ」
「そうですか……」
 彼は三途賽川と離別することを望んでいると言っていた。すぐにでもその支度をしたのだろう。
「明日、本家に荷物を取ってくればいい」
「そうしていただけますか」
「とりあえず、晩飯を買ってくる。何がいい?」
「お任せします。後日に立て替えでもいいですか」
 立て替えるとはいえ、茉世はそう持っていなかった。だが払う意思は見せねばならない気がした。
「期待はしていない」
 マンションに着いて早々、彼は引き返していった。茉世は閉められたドアを所在なく見つめた。人が変わってしまったのだろうか。威圧感のない、穏やかな声音と顔付きをしていた。三途賽川から逃れるのが本望だという主旨の発言をしていたが、まったくの漱石枕流そうせきちんりゅうではないのかもしれない。
 茉世は着替えた。デイシアマーケットのプライベートブランドの衣料品が2着ずつ入っていた。景気は悪く、物価は上昇している。1つひとつは安くとも、総計すればそれなりの値段はしただろう。ばんに、きっちりと礼ができなかったことを改めて後悔した。着ていたシャツだけでなく、タオルも借りてきたままだった。
 新しい部屋の匂いだった。落ち着かない。勉強机はあるが、テーブルはなかった。単身者用である。そう長居はできないだろう。そして茉世もまた長居をする必要はなかった。ただ、時間がほしい。尼寺橋渡霑に何をされたのか、理解する時間が。夫に話すこともある。でなければ、内情を訴えた中学生女子が報われない。
 しばらくして、蓮が帰ってきた。玄関で出迎える。ファストフードの袋を両手に提げている。彼は一旦、それらを置いて、また別のビニール袋を手渡した。
「え……?」
「歯ブラシと、タオルと、下着を買ってきた。それから水も。足りないものがあったら遠慮なく言ってくれ」
 彼は本当に三途賽川蓮なのであろうか?りんと霑が瓜二つの別人なのと同様にして、酷似して判別もつかない別人なのではないか。
「蓮さんですよね……?」
 形の良い眉が顰められる。
「何が言いたい」
「い、いいえ……すみません。部屋に持っていきますね」
 蓮と飯を食うのは初めてだった。ボスバーガーを食らう姿を見ていた。他にもボスチキンと、オニリンポテト、コーラ。なかなかの量である。
「食欲がないなら無理をするな」
 無愛想に突き出されたまま、円柱形のウェットティッシュのケースが2人を隔絶しているようだった。
「い、いいえ……いただきます!」
 腹は減っていた。だが食欲が湧かなかった。けれど匂いを嗅ぐと、腹は食えると判断した。包装紙とクーラーが、沈黙に呆れているようだった。
 蓮は先に食い終わり、ごみを纏めていた。それからちらと茉世を一瞥した。彼女もその視線に気付いた。
「すみません……食べるのが遅くて……」
「別にいい。好きなペースで食ってくれ」
 彼は徐ろに立ち上がって、備え付けの机に向かい、書類を書いていた。
「風呂は好きに使うといい。俺は車で寝る」
「それは悪いです……わたし、床でも寝られますから、蓮さんがベッドを使ってください」
 彼女はまだ晩飯を食らっていた。
「女が床で寝ると言って、はいそうですかと受け入れられるほど、俺は男女平等の世界に生きてない」
 振り向きもしないで彼は言った。ペン先をしまいさえしない。
「色々あったんだろう。ただでさえ環境が違う。ベッドを使え。"名家めいか"の嫁を床に寝かせるのも夢見が悪い」
「で、でも、それじゃ……さすがに…………」
「異論は要らん。少しここで夜更かしはさせてもらうが」
 結局、そのとおりになった。スマートフォンの機能としてあるライトで仄かに部屋を明るくして、蓮は書類を書いている。茉世はベッドの上で、背を向けていた。
「アパートの契約書ですか」
「いいや。大学を中退することになった。ということは内定も辞退することになる。食い扶持を稼がないとだろう」
 淡々とした口振りであった。だが茉世はショックを受けた。彼は履歴書を書いている。
「どうして……」
「三途賽川の一員ではなくなったから」
 眠気が吹っ飛んでしまったことで、多少なりとも眠かったことを知る。
「三途賽川の生活費の多くはどこから出ている?分家だ。分家の奴等が稼いで賄っている。本家存続のために。そうまでしている。何故だ?あそこは忌み地だからな。生贄さ」
「そんなすぐに、切り替えられるものなのですか」
「まだ貴方は勘違いしている。切り替えるという言葉には、俺の未練と後悔が含まれていないか?それなら違う。俺はあの家を出たかった。切り替えるという言葉は相応しくない」
 彼はボールペンの先をしまった。それから散らかした紙を纏める。席を立つ姿に、茉世は怯えてしまった。身体が反射的にそうなったのだ。彼女も予期しないことだった。
「寝るか」
「車は暑いでしょう?エンジンを点けっぱなしというわけにはいきませんし……」
「だがここで寝られるのは落ち着かないだろう」
 蓮は彼女の様子にこだわるでもなく、出ていこうとした。茉世は枕を投げる。
「なんだ」
「せめて枕は、どうぞ。わたしはタオルを丸めれば大丈夫ですし、この部屋で……」
「……お優しいことだ」
 枕を投げ返してくるのとはなかった。彼はリビングと通路を隔てる引戸を閉めたが、玄関を開閉した様子はなかった。



 心臓が痛かった。苦しかった。胸に何か乗っているのだろうか。いいや、重みではなかった。明確な感覚ではなかった。どんよりとしているのだった。
「もううちには要らないよ」
 蘭は笑ってはくれなかった。声は刺々しい。腕を組み、見下ろしている。耳も尻尾もなかった。隣では、霖がぺたりと座り込み、嘔吐えづいている。喉に手を当て、身体を震わせている。
「汚れた嫁の腐ったお弁当を食べていたなんて……」
 茉世は苦しくなった。喉が拉げるようだった。擦り切れるように痛い。
 彼女は居場所を失った。六道月路に帰るしかなかった。養父ならば受け入れてくれると信じていた。だがそうはいかなかった。養父の楓は書斎で書きものをしていた。金色フレームの丸い眼鏡を外し、久々に帰ってきた養女を振り返る。
「誰だ、君は」
 そうしてまた机上に吸い寄せられる。
「知らない子だね。うちにそんな人はいません」
 六道月路には帰れないことを彼女は強く思い出した。何故帰ってきてしまったのだろう。
「出ていきなさい!」
 厳しい怒声だった。聞くことを避けて、理想の娘になろうとした。だが叶わなかった。彼女はその場で泣いてしまった。苦しみからは逃れられなかった。養父は背後で泣く女のことなど見えていなかった。悲しい。寂しい。不安。孤独―……



「大丈夫か?」
 後頭部に敷いたタオルが動いたことで、目が開いた。まなじりが濡れてくすぐったい。ぼんやりと明るいのは、裏返しになったスマートフォンから発せられるライトだった。
 顔はすぐにはよく見ることができなかったが、声からしても蓮に間違いなかった。
「蓮さん……」
「魘されていた。タオルが枕じゃまずかったか?」
「い、いいえ。すみません……起こしちゃいましたか。ごめんなさい」
「別にいい。環境も違うからな。気にするな」
 だが、それは蓮も同じはずだ。生まれ育った家族が、もう家族ではないのだ。
「蓮さんだって、そうなのに……」
「いいや。土下座でも何でもして、反省したふりをすれば、或いは赦されたのかもしれない。誰一人として、俺を義絶しろとは言っていなかった。それは嫁が来て間もなくだし、霖がまだ子供だからというのもあるんだろうが、俺は自ら出ていった。貴方とは違う…………何か飲むか?下の自販機で買ってきてやる」
 茉世は首を振った。穏やかで優しい蓮に調子が狂った。それは彼もまた孤独の道を往くことになったからではないのか。
「大丈夫です。お水いただきましたから……」
 喉が嗄れていた。彼女は水を飲んだ。薄明かりのなかで、ペットボトルに閉じ込められた怒涛を聞く
「傷、まだ消えてないんだな」
 ペットボトルを脇に置こうとした手に、両手が添えられた。冷たい掌だが、どこか凪いでいる。
「傷?」
 どこか怪我をしただろうかと、彼女は左の手首の辺りを見回した。ぽっこりと突き出た骨の上に、よく肥えたオオカナダモを貼り付けたような傷跡がある。高校時代についたものだった。腕を取られる。彼の頬へ、傷跡が触れた。
「六道月路先輩……」
 身体が微かに痒く、くすぐったくなった。
「え………っと、」
「ガラスの破片で切った傷だろう、これは」
 彼女は高校時代に記憶を飛ばした。サッカーボールが窓を破り、その破片を浴びたのは間違いない。そのはずみで切ってしまった。保健室で、血が止まるのを待っていたときに、確かに下級生がやってきた。それは覚えている。高校時代の上履きはバレエタイプのものではなくシャワーサンダルで、色によって学年が分かるのだった。
黒縄くろなわ高校?」
「黒縄高校」
 三途賽川の家と、六道月路の家がある地域の大体中間といった場所だろう。しかし、三途賽川があるのはあまり路線もない田舎である。通学が大変だったことだろう。だがそれでも遠い。
「オウチトオクナイ?」
「下宿してた」
 彼女はぎこちなくなった。蘭から聞いた話を思い出したのである。

―高校ときに会った先輩のことが忘れられないみたい。
―怪我させちゃったらしいよ。
―蓮くんは高校時代の先輩のことをずっと引き摺ってるんだよ。

 いやいや、しかしそれだけで断定はできなかろう。彼は問題児で、次から次へと人を怪我させている可能性も否めない。そして"忘れられない"というのは覚えているという話であって、それ以外の意味合いはないのかもしれなかった。
「とんだ偶然ですね……」
「そうでもない。傷付けたのは確かに偶然だが、いずれ嫁入りする人のいる高校で様子を見る。それが高校進学の条件だった」
 彼は茉世の左手首にある傷に唇を寄せた。彼女は腕を任せていることをまったく忘れていた。
「あの……」
「保健室に来たチビの坊主頭が俺だよ」
 傷はすでに塞がっていた。元の平坦な皮膚には戻らず、目立たないわけではないが、痛みはなかった。日常的に気になることはなく、後遺症もなかった。だが、いざ意識してしまうと、急に敏くなる。
「蓮さん…………っ?」
 緩やかな力で、引き寄せられている。だが茉世は、ただ左手を返してほしかった。彼は力尽くではなかった。だが強引だった。彼女が力の加わる方向へ身を委ねないと悟るやいなや、彼からやってきた。柔らかな抱擁のなかにまだ三途賽川の匂いが残っている。
「ちょ、っと、蓮さ………」
 蓮に化けた別人なのかとまた疑ってしまう。口では強がっても、やはり寂しいのだろう。危ない匂いはしなかった。茉世は硬直していたが、そのままにしておいた。むしろ、同類だと思った。背中に手を回す。彼女も単純で浅はかなものだった。安い同情であった。
「先輩……」
 真新しい呼ばれ方だった。だが慣れていた。彼は内心で、遺伝的には兄に当たる者の妻に対して、そう呼んでいたのではあるまいか。感極まったときに、咄嗟に呼んでしまった。そういう響きであった。
「ぅんっ!」
 薄明かりのなかで、暗い塊が飛び込んできた。冷たく湿ったものが唇に当たった。不快感のない眩暈に似ていた。均衡を崩す不安のない浮遊感に似ていた。
 茉世は人妻である。中学生とはいえ男の力に傷付けられたばかりである。彼女は拒否すべきだった。倫理と理屈でいえば。怯えていたのであろうか。分からなかった。ただ、妙な安堵があった。
 押し付けられている唇が溶けたような感じがした。しかしそれは違った。茉世の唇を割って、蓮が入ってくるのだった。冷たそうだった。だが彼女の体温に馴染んでいた。気付かずにいた。抉じ開けられた生傷を今だけは縫い合わせていくような安心感は、己の立場も状況も痛みも忘れさせてしまうのだった。それは眠りであったのかもしれない。濡れた眦がまた濡れ、大振りな朝露を作るのだった。やがて落ちていく。心地良い無になる。恐れのない虚無だった。たとえ幸せな者でも気付いてしまう痛みや苦しみのない。
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