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ネイキッドと翼 ケモ耳天真爛漫長男夫/モラハラ気味クール美青年次男義弟/
ネイキッドと翼 7
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蓮は黙っている。
「女の子が産まれるかも知れなくて、女の子が産まれたらきっと蓮さんは厳しいことを言うのでしょう。それならわたし、産みません。好きな人ができても引き裂いて、お家のために顔も知らない人と結婚させるのでしょう?本人の意思も関係なく、子を産めと圧力をかけて……きっと蘭さんは、お父さんとしてよりも兄であることを大事にするのだろうし」
茉世は車窓の遠い外を望んでいた。
「うちに女児は要らん。分家の養子に出す」
「それならわたしは産みません。そんな人のところに、男の子だって産めません。霖くんみたいに育てばいいですけれど、そうはいかないでしょう。育てるのが蓮さんだというのなら」
「援助はする。金には困らない」
「降ろしてください。わたし、自分で帰ります。蓮さんに連れ回されるくらいなら、自分で帰ったほうがましです」
「この炎天下に?」
幸い、外に衣料量販店が見えた。そこで帽子なり日傘なりを買うだけの手持ちはあった。
「はい」
「言ったな。女だてらに啖呵を切ったからには、降ろしてやる」
本当に蓮は道端へ車をつけた。チャイルドロックが解かれる。
「はい。じゃあ。またおうちで」
除草されたばかりの道の端の植え込みへと、彼女は降りた。ドアを撥ねる力が心無しか強くなった。
真夏の日光に炙られて焼肉でもできそうな真っ黒な装甲の車はすぐには動かなかった。同行を探られている。茉世は結局、衣料量販店には寄らなかった。手持ちの金を惜しんだ。日陰を選び、セミだの螻蛄だのがミンミンジージー鳴いている道を往く。永世からもらったペットボトルを鞄に挿していたのも幸いだった。生温くはなってしまったが、多少の塩分も含まれているものだった。
そのうち日も落ちるだろう。田舎すぎるほどの田舎ではない。途中にコンビニエンスストアもある。少し涼むこともできる。
結局、霖の言ったことは現実に起こってしまった。しかし茉世から望むかたちだった。
暑さは怒りに似ていた。蓮の発言を反芻してしまう。茉世は金に窮したことがまだない。いいや、今、実際、手持ちの金というのは少ないものだ。タクシーを呼んで三途賽川家へ戻れるかどうかといったくらいで、戻れたところで残りは雀の涙といったところだ。だが彼女は食うに困ったことも、着るに困ったこともなかったし、経済的な理由で進学に悩んだこともなかった。けれど、金のみで人が幸せになれるとも思えない。喜ばれない命を金で囲い、人生を決めさせられる。それは幸せなのだろうか。幸せならばそれでいい。だが幸せでなかったら?そして茉世がそれを子の幸せと思えなかった。せめて的外れの門違いでも、親はそこに子の幸せを見出し、近付け、手前の身をも捨ててやろうとするくらいの気概を持っていてやるべきだ。だが茉世は、三途賽川家の嫁としてならば、それを持ち合わせていない自覚があった。蓮というのも意外に人が好いのかもしれない。綺麗に飾りたてられた甘く美しく優しい嘘のひとつでも吐けば、強情な嫁を騙すこともできたのだ。いいや、蓮という男も頭が悪いのだろう。
アスファルトは眩しく、行く先はかぎろう。陰に入ったところで、暑さは変わらず、日差しが肌を焼いていく。市販の日焼け止めにも限度がある。永世からもらったペットボトルの中身は甘く、すぐに底を尽きた。
文明の中にいながら砂漠である。しかし砂漠よりは選択肢があった。しかし無いふるをした。
金に困らなければ、産む機械になることを当然と受け入れなければならないのか。それを宣言されているにもかかわらず、男児か女児か分からない命を作れという。
蘭は父親として頼りにならなかった。茉世は夫としても信じていなかった。毛尨の三角耳は、保護者ではなく古風な父親、長男をやるのだろう。三男の霖は頼れるだろうか。彼は年若い。人が好いというだけであれこれ背負わせるわけにはいかなかろう。
茉世は歩き続けた。サンダルのストラップが肌に食い込む。長距離を歩くための履物ではなかった。汗が落ち、濃い染みを作っていく。太陽が徐々に落ちてきているような眩しさだった。北に行くにしても、アスファルトはあまりにも照りつけていた。彼女は前後左右も分からなくなっていた。やがて視界が白くなる。彼女は暑気中りを起こしたのだろうか?
アスファルトが敷かれ、車が行き交い、建物がぽつぽつあった風景はそこにはなかった。竹林の中に立っていた。暑さのいくらか失せた、夕暮れのように思える。セミの鳴き声が静かに響き渡り、谺し合っている。
遠くで遮断機のサイレンが聞こえた。少し経つと、電車が通っていったらしかった。小さな振動をサンダルの裏に感じる。
彼女は少し歩いた。周囲を見回してみても、竹林であった。夢を見ている。少し歩くと、塀に使われているブロックが2つほど重なっていた。ブロック塀と残骸のように思えた。そこに腰を下ろす。サンダルのストラップでできた擦り傷を見た。鞄の中にある絆創膏を貼る。
夢を見ているのかもしれない。だがストラップによって皮膚の削れる痛みがある。ではここはどこなのか。地獄か。彼女の持つ地獄のイメージとは大きく違っていた。赤い世界ではなく、熱くもない。棍棒を振る鬼もいなければ血の池もない。むしろ涼しかった。竹だか笹だか篠だか分からないのが生い茂り、大いに暑さの失せたこの環境では小鳥が囀っている。
熱中症で死んだ者が堕ちる地獄か、或いは天国か。
少し休んでから、彼女は歩き出した。死んだという実感はない。歩き続けた。景色は変わらなかった。不思議と怖くはなかった。ストラップが絆創膏の上から擦り傷を締め付ける小さな痛みはあるけれど、疲れはなかった。彼女は屈み込んだ。もらったばかりのレモンの髪ゴムを取って、手慰みに見つめていた。そのうち、祭囃子が聞こえてきた。低い男性の謠が、重く腹に響く。その節を知っていた。分かった途端に、地震が起きる。だがそれは地震ではなかった。ゾウやマンモスが歩く様というのを彼女は肉眼で見たことはない。だが、イメージは浮かぶ。どしん、どしん、と前足が左右交互に踏み出し、その足に体重の多くを乗せているかのような振動が起こるのだった。短く切られた直下型地震を思わせる。巨大な生き物が近付いてきている。ゾウか、マンモスか、ティラノサウルスか。彼女はいくらか楽観的だった。だがそれが接近してきているらしいことを生々しく感じた途端に、ふとヒグマではないかと考えはじめた。ヒグマを実際に見たことはなかったが、その脅威はゾウよりも知られていたし、マンモスやティラノサウルスよりも現実的であった。急に恐ろしくなった。逃げようとした。だが、ヒグマを前に背を向けていいものか……
彼女は薄ら寒くなった。胸が痛くなるほど心臓が早鐘を打つ。鼻は線香の匂いを嗅ぎ取るが、しかし落ち着けることもなかった。辺りは一気に暗くなり、竹林は闇に包まれた。依然として、巨大生物の歩行を思わせる下方へ響く振動は続いていた。そして線香の匂い、鈴の音。風や、上下の衝撃に鳴っているものではないようだった。人為的に鳴らされているような、故意のもののように感じる。
茉世は近くの竹に隠れた。だが隠れ切ることはない。
そのうち、目の前を群衆が通っていく。人々の群れは、いつか夢で見たように、人だと認識はできたが、輪郭がなかった。顔の造形を一人ひとり、捉えられない。それは影のようであった。彼等は神輿のようなものを担いでいた。だがそれは、祭の神輿というにはあまりにも貧相であった。大きな木板に持ち手の丸太をつかて担ぎ棒としたようなもので、頑丈さのみの素朴な筏のようにも見えた。その上には……
線香の匂いに鉄錆めいた匂いと生臭さ、獣臭さが混ざっていた。いいや、線香の匂いで隠しているらしかった。
筏めいた神輿の上には、巨大な猪の頭部が乗っていた。茉世はそれを知っていた。見たことがあった。胴がないというのに、胴のあるものよりも頭部のみでその大きさを上回る猪は虚空を見つめて、だが瞬きをした。茉世はただ一人、神輿を担ぐのには参加せず、脇でその様を眺めていた。猪の頭部の後には、食器ばかりどこか荘厳な感じのする料理が運ばれていった。料理だと思った。料理を模しているのだと。だが人の食べられるものではなかったのだろう。汚泥であったし、生きたヘビだのミミズだのが入っているとしか思えない蠢きが見えた。それから、何かの臓物としか思えぬグロテスクな肉感のあるもの。腐っているか、そもそも食えないものなのか判断はつかないが、汚らしいフルコースが流れていくのを戦々恐々とした先にある呆然とした様子で彼女は見ていた。
生臭さげな行列は延々と続く。茉世は小枝を踏んだ。しかし誰にも気付かれた様子がなかった。むしろ自身のたてた音に彼女は驚いた。ふらついた足にふわ、とまとまわりつく毛尨でやわらかなものもある。彼女の足はさらに覚束なくなった。踊るように足が縺れたが、触れてきたものを潰さないように努めた結果、転んでしまった。白い猫が、尻もちをついた女の周りをふらふらしていた。首輪をしている。ルンだとかロンだとかいっていた猫ではないか。三途賽川の飼猫ではなかったか。峻厳な顔立ちに夏毛が痩せて見えた。外に逃げてしまっている。茉世は立ち上がって、嫁ぎ先の飼猫を捕まえようとした。だが猫は俊敏だった。
シミめいた柄ひとつない真っ白な猫は、尻尾を垂らしてのろのろ歩いた。茉世は猫を捕まえることを諦め、ついていくことにした。いずれ捕まえる機会はこよう。追いかけ、走らせて見失うほうが愚策だと判断した。気味の悪い行列に背を向けるかたちですすんでいくと、やがて先程聞いた遮断機の下りるカンカンいう音を耳が拾った。踏切があるらしい。
瞬きをした途端に、皮膚を炙る強い日差しを感じた。レモンの輪切りみたいなゴーストフレアが見えたような気もする。
茉世はハンカチで汗を拭った。薄く施した化粧も、今では無惨に崩れているのかもしれなかった。彼女は吸血鬼みたいに季節柄、自然災害みたいに強い日の光を恐れた。濃い影を求めると、彼女は嫁ぎ先の家みたいに高台に造られた神社を見つけた。石段が設けられている。
彼女は涼を求めていた。またそこは三途賽川邸のように緑に覆われていた。サンダルのストラップを皮膚に食い込ませながら彼女は階段を登った。汗が落ちていく。
『きゃはきゃは』
後ろで笑い声がした。その質感に覚えがないでもなかった。だが馴染みのある調子ではなかった。その声質であるのなら、気品があるはずだった。当てられた字の意味合いこそ違えど、その名の響きが示すとおり、凛としているべきだった。しかし、どこか下品なのである。賤しさを露呈することに恥じらいのないいやらしさがある。
『きゃはは』
茉世は振り返った。さーっと風が吹いた。この季節のこの時間帯。天気は快晴。ところが暑くはなかった。むしろ涼しい風が、空を狭くする枝葉を掻き鳴らす。
後ろには誰もいない。
『きゃは』
彼女は階上のほうへ向き直った。すると正面に、人が立っていた。少年といえる頃合いで、小学校の高学年か第二次性徴はまだ遂げていない幼さの残る中学生に思えた。制服を着ている。霖である。しかし年齢が合わない。霖であった。だが霖ではない。顔や首や、半袖から伸びた腕の片方は赤痣で覆われていた。
茉世はぎょっとした。霖の身が心配になってしまった。
「霖くん―……」
白昼夢か、暑気中りを起こしていたに違いない。そこに石段もなければ木陰もない。あるのは熱されて眩しい擦り下ろし器のごときアスファルトである。サンダルの彼女は素足を炙られていた。ストラップは相変わらず薄皮を削っている。セミも鳴くのを諦め、蚊も身動きを取れないのだろう。蟻は列をなして暑苦しい黒い容貌をして必死に働いている。真横を通り過ぎるのはこの炎天下でも自転車に乗らねばならない中学生だった。少し背中を押された気分だった。
大通りを歩いていると、前から来た車が小さくクラクションを鳴らした。白い装甲のその車種に覚えがあった。植え込みの途切れに車を寄せ、窓が降りていく。
「茉世さん」
別れたのが遠い昔に感じられた。義いとこにあたる辜礫築永世だ。
「乗ってください」
事情を伺いもしなかった。だがこの季節のこの時間帯の暑さである。あと数歩先であろうと乗るよう急いたかもしれない。強張った顔に拒否権はない。乗れば叱責のひとつでもありそうなものだった。
「失礼します」
茉世は車に乗った。背中いっぱいの汗に、シートへ凭れるのは気が引けた。冷気に包まれ、やっと十分な呼吸ができた気がした。
「あの……」
「まずはシートベルトを。偶々ですよ。偶々なんです」
彼は早口だった。そして叱責されるのはこちらだとばかりに弱気な感じを漂わせた。
車が走り出す。茉世は蓮との間にあったことを話そうとは思わなかった。三途賽川とはいとこであるのだから、味方はされないだろう。味方をしてもらいたかったわけではないが、自身の意見がおかしいと自身が判断してしまうような展開に持っていきたくなかった。そうしたら……呑まれるのだろう。第一、永世は男である。子を生むという点のみについて心身のリスクは比較的軽い側である。無邪気に子を求め、子を産み堕とすことを容易に考えているかもしれなかった。第二に三途賽川の縁者である。好いてもいない女を家の都合で娶り、孕まなければ捨て、産むと同時に身罷れば、また新しい女を見繕えばいい家の人間ではないか。この価値観に触れていれば、いずれ染まる。片鱗を理解してしまう。恐ろしいことだ。
「霖くんはおうちですか」
彼女は嫌になって、まったく関係のない話題を切り出した。
「はい。家にいますよ。どうかしましたか?」
「いいえ……いいえ、特にどうということはありません」
大怪我をしてはいないか、などとはあまりにも縁起が悪かろう。縁起云々と言わず、彼は血縁者で付き合いも長かろう。不安に囚われるとまでは言わずとも、いい思いはしないはずだ。
「このまま帰宅しても構いませんか」
「永世さんは、何かご用があったんじゃ……」
「もう済ませました。これどうぞ」
彼は信号で停まり、常温のほうじ茶のペットボトルをよこした。
「すみません……」
ちょうど、甘くない飲み物を欲していた。
「冷えてなくて申し訳ないです」
「2本もいただいてしまって……ありがとうございます」
「暑いですからね。でもよかった。日傘も帽子もなくて、大変だったでしょう」
茉世は彼と喋りながら、ふと窓の外に目をやった。街路樹の木の下に子供が見えた。車の通り過ぎる少しの間のことだった。赤痣の、霖にそっくりな、霖よりも幼い子……
「霖くんて、双子とかじゃないですよね……?」
双子ならば初日に説明があるはずだ。留学をしているなり、寮に入っているなり、何かしらの。ところが兄弟の話は何度かされたことがあるというのに一度たりとも霖の双子については話題には上がらなかった。いいや、あれは双子ではない。霖の弟だろう。とすれば禅の上か下であろう。
「え?どうしてそう思ったんです?」
「なんとなく………なんとなくです」
茉世はシートベルトの許すかぎり、後ろを振り返った。通り過ぎた街路樹の下に子供などいない。
「双子ではないんですけど、分家の尼寺橋渡家に、霖さんそっくりの子がいます。…………お会いになったんですか」
突き放すような緊張した雰囲気が伝わった。これ以上訊ねることに躊躇いが生まれるような。
「い、いいえ……すみません、変なことを訊いたりして」
「そんなことは、ないですけれど……」
だが社交辞令であろう。話題の収束を察し、安堵している様子は隠しきれなかった。
「あ、あの……」
今度は永世からだった。
「はい……?」
「あまり気を悪くせずに聞いてほしいのですが……」
少し声が震えている気がした。
「は、はあ……」
「霖さんに似ている人のことは、話さないほうがいいです。もしご興味があるのなら、ぼくから話します。結構、その……話していいことと悪いことが決まってるお家柄なんです。堅苦しいですよね。でもお嫁さんなのに何も知らされないのも、どこかで不便しそうですし……」
「そうなんですね。ありがとうございます。なかなか……複雑な家柄なんですね。そう教えていただけると助かります」
「差し出がましい真似をいたしました」
茉世は首を振り、控えめに否定した。
車は三途賽川家の裏庭へと着いた。運転手がサイドブレーキを引いた。シートベルトが軽快な音を鳴らしていた。茉世もシートベルトを外した。
「ぼくが茉世さんを見つけたのは偶然で、だから皆さんは何も知りません」
車を降りてから見た永世は、自信のなさそうな優男だった。日焼けが似合わなそうな雰囲気と面構えで日焼けしている。睫毛を伏せて、目を合わせることを怖がっているようだった。
玄関を開ける。茉世にとってみれば、三途賽川家の親戚である永世のほうが三途賽川に近しくみえた。だが永世からしてみれば、茉世は三途賽川の嫁であり、三途賽川の一員であり、辜礫築は部外者の域を出ないのだろう。自覚の甘さで、間誤ついた。どちらが玄関を開けるべきか?先に通るべきか?彼女等彼等の一個人的気質も関係したようだった。茉世が引戸を横に滑らせた。
「はぁい」
客人が来たとでも思ったのだろう。すぐ近くの茶の間から、蘭のまぬけ声が聞こえた。そして永世と共に帰ってきた茉世にわずかに驚く。
「あれ、蓮くんは?」
茉世はすぐには答えなかった。
「言い争いが起きて、降ろされてしまったようです」
彼女は何もこの件について話さなかった。だが永世は横から口を挟んだ。蘭は浴衣姿で腕を組んでしまった。軟派で軽率げな顔が渋面を作る。忌々しい毛尨の耳がジェット機の両翼みたいだった。
「降りたいと言ったのはわたしのほうなのです」
「ああ、そうなのですね。申し訳ありません」
「でもフツーは降ろさないよねぇ」
蘭は宙を睨みながら、顎に手を当て、左右に首を傾げた。
「わたしが降りたいと言って、勝手に降りました」
「そう言えって言われたの?」
「違います」
「永ちゃんが迎えに来てくれるまで、暑いなか、立ってたんでしょ?」
「迎えにはいっていません」
永世は急に焦りはじめる。
「え……?そうなん?」
「偶然なんです。偶々」
「はい……」
「偶然ならもっとダメじゃん。まぁ、この話は蓮くんが帰ってきたら蓮くんとするよ。茉世ちゃんは、冷たいシャワー浴びてきたら?で、永ちゃん、ありがとう。おでのおヨメさん見つけてきてくれて」
茉世はそのときにはすでに玄関ホールを通り抜けていた。わずかに顧眄する。騎士物語のように跪いたり、時代劇のように平伏したりはしていないが、そこには主従関係のような、見ていて居心地の悪い空気が漂っていた。現代に相応しくないような雰囲気を読み取ってしまう。
彼女は浴室に向かった。照りつけるアスファルトの眩しさのせいか、眼球の奥から頭が痛くなった。
シャワーを浴び終え、蒸し暑い小さな部屋に閉じこもった。蓮に酷評されたシンプルな服装で横になる。冷やした身体は体温を取り戻し、すぐに暑くなった。それでも動くのが面倒だった。しかし荷物を隣に運べ、というこの家の独善的な次男の言葉を思い出す。
私物は少なかったし、纏まっていた。隣の無人の大部屋へと移動する。
「茉世ちゃん」
離れたところで夫が呼ぶ。二間隔てた廊下からだ。彼は妻が小部屋の外にいるのが分かったらしい。互いに向かって鉢合わせる。
「茉世ちゃん」
彼は両腕を開いて、真夏の昼間だというのに妻に抱擁を求めた。躊躇いがちに彼女は応える。
「蓮くんにはお灸を据えなきゃいけないよね」
「降ろすよう頼んだのはわたしのほうですし、明日にはエアコンを入れてくださるそうですし……」
だがそれが善意や親切心でないことは知っていた。目論見がある。隠しもせず、嫁側に強いる企みが。
「いくらそう言われてもフツーは降ろさないよ。中卒のおででも分かる」
「中卒は関係ありませんよ」
色気のない摩擦が背中で起こる。
「蓮くんは頭いいんだけどな」
「"頭がいい"にも色々ありますから」
夫はぽむぽむと妻の背を軽く何度か叩いた。
「女の子が産まれるかも知れなくて、女の子が産まれたらきっと蓮さんは厳しいことを言うのでしょう。それならわたし、産みません。好きな人ができても引き裂いて、お家のために顔も知らない人と結婚させるのでしょう?本人の意思も関係なく、子を産めと圧力をかけて……きっと蘭さんは、お父さんとしてよりも兄であることを大事にするのだろうし」
茉世は車窓の遠い外を望んでいた。
「うちに女児は要らん。分家の養子に出す」
「それならわたしは産みません。そんな人のところに、男の子だって産めません。霖くんみたいに育てばいいですけれど、そうはいかないでしょう。育てるのが蓮さんだというのなら」
「援助はする。金には困らない」
「降ろしてください。わたし、自分で帰ります。蓮さんに連れ回されるくらいなら、自分で帰ったほうがましです」
「この炎天下に?」
幸い、外に衣料量販店が見えた。そこで帽子なり日傘なりを買うだけの手持ちはあった。
「はい」
「言ったな。女だてらに啖呵を切ったからには、降ろしてやる」
本当に蓮は道端へ車をつけた。チャイルドロックが解かれる。
「はい。じゃあ。またおうちで」
除草されたばかりの道の端の植え込みへと、彼女は降りた。ドアを撥ねる力が心無しか強くなった。
真夏の日光に炙られて焼肉でもできそうな真っ黒な装甲の車はすぐには動かなかった。同行を探られている。茉世は結局、衣料量販店には寄らなかった。手持ちの金を惜しんだ。日陰を選び、セミだの螻蛄だのがミンミンジージー鳴いている道を往く。永世からもらったペットボトルを鞄に挿していたのも幸いだった。生温くはなってしまったが、多少の塩分も含まれているものだった。
そのうち日も落ちるだろう。田舎すぎるほどの田舎ではない。途中にコンビニエンスストアもある。少し涼むこともできる。
結局、霖の言ったことは現実に起こってしまった。しかし茉世から望むかたちだった。
暑さは怒りに似ていた。蓮の発言を反芻してしまう。茉世は金に窮したことがまだない。いいや、今、実際、手持ちの金というのは少ないものだ。タクシーを呼んで三途賽川家へ戻れるかどうかといったくらいで、戻れたところで残りは雀の涙といったところだ。だが彼女は食うに困ったことも、着るに困ったこともなかったし、経済的な理由で進学に悩んだこともなかった。けれど、金のみで人が幸せになれるとも思えない。喜ばれない命を金で囲い、人生を決めさせられる。それは幸せなのだろうか。幸せならばそれでいい。だが幸せでなかったら?そして茉世がそれを子の幸せと思えなかった。せめて的外れの門違いでも、親はそこに子の幸せを見出し、近付け、手前の身をも捨ててやろうとするくらいの気概を持っていてやるべきだ。だが茉世は、三途賽川家の嫁としてならば、それを持ち合わせていない自覚があった。蓮というのも意外に人が好いのかもしれない。綺麗に飾りたてられた甘く美しく優しい嘘のひとつでも吐けば、強情な嫁を騙すこともできたのだ。いいや、蓮という男も頭が悪いのだろう。
アスファルトは眩しく、行く先はかぎろう。陰に入ったところで、暑さは変わらず、日差しが肌を焼いていく。市販の日焼け止めにも限度がある。永世からもらったペットボトルの中身は甘く、すぐに底を尽きた。
文明の中にいながら砂漠である。しかし砂漠よりは選択肢があった。しかし無いふるをした。
金に困らなければ、産む機械になることを当然と受け入れなければならないのか。それを宣言されているにもかかわらず、男児か女児か分からない命を作れという。
蘭は父親として頼りにならなかった。茉世は夫としても信じていなかった。毛尨の三角耳は、保護者ではなく古風な父親、長男をやるのだろう。三男の霖は頼れるだろうか。彼は年若い。人が好いというだけであれこれ背負わせるわけにはいかなかろう。
茉世は歩き続けた。サンダルのストラップが肌に食い込む。長距離を歩くための履物ではなかった。汗が落ち、濃い染みを作っていく。太陽が徐々に落ちてきているような眩しさだった。北に行くにしても、アスファルトはあまりにも照りつけていた。彼女は前後左右も分からなくなっていた。やがて視界が白くなる。彼女は暑気中りを起こしたのだろうか?
アスファルトが敷かれ、車が行き交い、建物がぽつぽつあった風景はそこにはなかった。竹林の中に立っていた。暑さのいくらか失せた、夕暮れのように思える。セミの鳴き声が静かに響き渡り、谺し合っている。
遠くで遮断機のサイレンが聞こえた。少し経つと、電車が通っていったらしかった。小さな振動をサンダルの裏に感じる。
彼女は少し歩いた。周囲を見回してみても、竹林であった。夢を見ている。少し歩くと、塀に使われているブロックが2つほど重なっていた。ブロック塀と残骸のように思えた。そこに腰を下ろす。サンダルのストラップでできた擦り傷を見た。鞄の中にある絆創膏を貼る。
夢を見ているのかもしれない。だがストラップによって皮膚の削れる痛みがある。ではここはどこなのか。地獄か。彼女の持つ地獄のイメージとは大きく違っていた。赤い世界ではなく、熱くもない。棍棒を振る鬼もいなければ血の池もない。むしろ涼しかった。竹だか笹だか篠だか分からないのが生い茂り、大いに暑さの失せたこの環境では小鳥が囀っている。
熱中症で死んだ者が堕ちる地獄か、或いは天国か。
少し休んでから、彼女は歩き出した。死んだという実感はない。歩き続けた。景色は変わらなかった。不思議と怖くはなかった。ストラップが絆創膏の上から擦り傷を締め付ける小さな痛みはあるけれど、疲れはなかった。彼女は屈み込んだ。もらったばかりのレモンの髪ゴムを取って、手慰みに見つめていた。そのうち、祭囃子が聞こえてきた。低い男性の謠が、重く腹に響く。その節を知っていた。分かった途端に、地震が起きる。だがそれは地震ではなかった。ゾウやマンモスが歩く様というのを彼女は肉眼で見たことはない。だが、イメージは浮かぶ。どしん、どしん、と前足が左右交互に踏み出し、その足に体重の多くを乗せているかのような振動が起こるのだった。短く切られた直下型地震を思わせる。巨大な生き物が近付いてきている。ゾウか、マンモスか、ティラノサウルスか。彼女はいくらか楽観的だった。だがそれが接近してきているらしいことを生々しく感じた途端に、ふとヒグマではないかと考えはじめた。ヒグマを実際に見たことはなかったが、その脅威はゾウよりも知られていたし、マンモスやティラノサウルスよりも現実的であった。急に恐ろしくなった。逃げようとした。だが、ヒグマを前に背を向けていいものか……
彼女は薄ら寒くなった。胸が痛くなるほど心臓が早鐘を打つ。鼻は線香の匂いを嗅ぎ取るが、しかし落ち着けることもなかった。辺りは一気に暗くなり、竹林は闇に包まれた。依然として、巨大生物の歩行を思わせる下方へ響く振動は続いていた。そして線香の匂い、鈴の音。風や、上下の衝撃に鳴っているものではないようだった。人為的に鳴らされているような、故意のもののように感じる。
茉世は近くの竹に隠れた。だが隠れ切ることはない。
そのうち、目の前を群衆が通っていく。人々の群れは、いつか夢で見たように、人だと認識はできたが、輪郭がなかった。顔の造形を一人ひとり、捉えられない。それは影のようであった。彼等は神輿のようなものを担いでいた。だがそれは、祭の神輿というにはあまりにも貧相であった。大きな木板に持ち手の丸太をつかて担ぎ棒としたようなもので、頑丈さのみの素朴な筏のようにも見えた。その上には……
線香の匂いに鉄錆めいた匂いと生臭さ、獣臭さが混ざっていた。いいや、線香の匂いで隠しているらしかった。
筏めいた神輿の上には、巨大な猪の頭部が乗っていた。茉世はそれを知っていた。見たことがあった。胴がないというのに、胴のあるものよりも頭部のみでその大きさを上回る猪は虚空を見つめて、だが瞬きをした。茉世はただ一人、神輿を担ぐのには参加せず、脇でその様を眺めていた。猪の頭部の後には、食器ばかりどこか荘厳な感じのする料理が運ばれていった。料理だと思った。料理を模しているのだと。だが人の食べられるものではなかったのだろう。汚泥であったし、生きたヘビだのミミズだのが入っているとしか思えない蠢きが見えた。それから、何かの臓物としか思えぬグロテスクな肉感のあるもの。腐っているか、そもそも食えないものなのか判断はつかないが、汚らしいフルコースが流れていくのを戦々恐々とした先にある呆然とした様子で彼女は見ていた。
生臭さげな行列は延々と続く。茉世は小枝を踏んだ。しかし誰にも気付かれた様子がなかった。むしろ自身のたてた音に彼女は驚いた。ふらついた足にふわ、とまとまわりつく毛尨でやわらかなものもある。彼女の足はさらに覚束なくなった。踊るように足が縺れたが、触れてきたものを潰さないように努めた結果、転んでしまった。白い猫が、尻もちをついた女の周りをふらふらしていた。首輪をしている。ルンだとかロンだとかいっていた猫ではないか。三途賽川の飼猫ではなかったか。峻厳な顔立ちに夏毛が痩せて見えた。外に逃げてしまっている。茉世は立ち上がって、嫁ぎ先の飼猫を捕まえようとした。だが猫は俊敏だった。
シミめいた柄ひとつない真っ白な猫は、尻尾を垂らしてのろのろ歩いた。茉世は猫を捕まえることを諦め、ついていくことにした。いずれ捕まえる機会はこよう。追いかけ、走らせて見失うほうが愚策だと判断した。気味の悪い行列に背を向けるかたちですすんでいくと、やがて先程聞いた遮断機の下りるカンカンいう音を耳が拾った。踏切があるらしい。
瞬きをした途端に、皮膚を炙る強い日差しを感じた。レモンの輪切りみたいなゴーストフレアが見えたような気もする。
茉世はハンカチで汗を拭った。薄く施した化粧も、今では無惨に崩れているのかもしれなかった。彼女は吸血鬼みたいに季節柄、自然災害みたいに強い日の光を恐れた。濃い影を求めると、彼女は嫁ぎ先の家みたいに高台に造られた神社を見つけた。石段が設けられている。
彼女は涼を求めていた。またそこは三途賽川邸のように緑に覆われていた。サンダルのストラップを皮膚に食い込ませながら彼女は階段を登った。汗が落ちていく。
『きゃはきゃは』
後ろで笑い声がした。その質感に覚えがないでもなかった。だが馴染みのある調子ではなかった。その声質であるのなら、気品があるはずだった。当てられた字の意味合いこそ違えど、その名の響きが示すとおり、凛としているべきだった。しかし、どこか下品なのである。賤しさを露呈することに恥じらいのないいやらしさがある。
『きゃはは』
茉世は振り返った。さーっと風が吹いた。この季節のこの時間帯。天気は快晴。ところが暑くはなかった。むしろ涼しい風が、空を狭くする枝葉を掻き鳴らす。
後ろには誰もいない。
『きゃは』
彼女は階上のほうへ向き直った。すると正面に、人が立っていた。少年といえる頃合いで、小学校の高学年か第二次性徴はまだ遂げていない幼さの残る中学生に思えた。制服を着ている。霖である。しかし年齢が合わない。霖であった。だが霖ではない。顔や首や、半袖から伸びた腕の片方は赤痣で覆われていた。
茉世はぎょっとした。霖の身が心配になってしまった。
「霖くん―……」
白昼夢か、暑気中りを起こしていたに違いない。そこに石段もなければ木陰もない。あるのは熱されて眩しい擦り下ろし器のごときアスファルトである。サンダルの彼女は素足を炙られていた。ストラップは相変わらず薄皮を削っている。セミも鳴くのを諦め、蚊も身動きを取れないのだろう。蟻は列をなして暑苦しい黒い容貌をして必死に働いている。真横を通り過ぎるのはこの炎天下でも自転車に乗らねばならない中学生だった。少し背中を押された気分だった。
大通りを歩いていると、前から来た車が小さくクラクションを鳴らした。白い装甲のその車種に覚えがあった。植え込みの途切れに車を寄せ、窓が降りていく。
「茉世さん」
別れたのが遠い昔に感じられた。義いとこにあたる辜礫築永世だ。
「乗ってください」
事情を伺いもしなかった。だがこの季節のこの時間帯の暑さである。あと数歩先であろうと乗るよう急いたかもしれない。強張った顔に拒否権はない。乗れば叱責のひとつでもありそうなものだった。
「失礼します」
茉世は車に乗った。背中いっぱいの汗に、シートへ凭れるのは気が引けた。冷気に包まれ、やっと十分な呼吸ができた気がした。
「あの……」
「まずはシートベルトを。偶々ですよ。偶々なんです」
彼は早口だった。そして叱責されるのはこちらだとばかりに弱気な感じを漂わせた。
車が走り出す。茉世は蓮との間にあったことを話そうとは思わなかった。三途賽川とはいとこであるのだから、味方はされないだろう。味方をしてもらいたかったわけではないが、自身の意見がおかしいと自身が判断してしまうような展開に持っていきたくなかった。そうしたら……呑まれるのだろう。第一、永世は男である。子を生むという点のみについて心身のリスクは比較的軽い側である。無邪気に子を求め、子を産み堕とすことを容易に考えているかもしれなかった。第二に三途賽川の縁者である。好いてもいない女を家の都合で娶り、孕まなければ捨て、産むと同時に身罷れば、また新しい女を見繕えばいい家の人間ではないか。この価値観に触れていれば、いずれ染まる。片鱗を理解してしまう。恐ろしいことだ。
「霖くんはおうちですか」
彼女は嫌になって、まったく関係のない話題を切り出した。
「はい。家にいますよ。どうかしましたか?」
「いいえ……いいえ、特にどうということはありません」
大怪我をしてはいないか、などとはあまりにも縁起が悪かろう。縁起云々と言わず、彼は血縁者で付き合いも長かろう。不安に囚われるとまでは言わずとも、いい思いはしないはずだ。
「このまま帰宅しても構いませんか」
「永世さんは、何かご用があったんじゃ……」
「もう済ませました。これどうぞ」
彼は信号で停まり、常温のほうじ茶のペットボトルをよこした。
「すみません……」
ちょうど、甘くない飲み物を欲していた。
「冷えてなくて申し訳ないです」
「2本もいただいてしまって……ありがとうございます」
「暑いですからね。でもよかった。日傘も帽子もなくて、大変だったでしょう」
茉世は彼と喋りながら、ふと窓の外に目をやった。街路樹の木の下に子供が見えた。車の通り過ぎる少しの間のことだった。赤痣の、霖にそっくりな、霖よりも幼い子……
「霖くんて、双子とかじゃないですよね……?」
双子ならば初日に説明があるはずだ。留学をしているなり、寮に入っているなり、何かしらの。ところが兄弟の話は何度かされたことがあるというのに一度たりとも霖の双子については話題には上がらなかった。いいや、あれは双子ではない。霖の弟だろう。とすれば禅の上か下であろう。
「え?どうしてそう思ったんです?」
「なんとなく………なんとなくです」
茉世はシートベルトの許すかぎり、後ろを振り返った。通り過ぎた街路樹の下に子供などいない。
「双子ではないんですけど、分家の尼寺橋渡家に、霖さんそっくりの子がいます。…………お会いになったんですか」
突き放すような緊張した雰囲気が伝わった。これ以上訊ねることに躊躇いが生まれるような。
「い、いいえ……すみません、変なことを訊いたりして」
「そんなことは、ないですけれど……」
だが社交辞令であろう。話題の収束を察し、安堵している様子は隠しきれなかった。
「あ、あの……」
今度は永世からだった。
「はい……?」
「あまり気を悪くせずに聞いてほしいのですが……」
少し声が震えている気がした。
「は、はあ……」
「霖さんに似ている人のことは、話さないほうがいいです。もしご興味があるのなら、ぼくから話します。結構、その……話していいことと悪いことが決まってるお家柄なんです。堅苦しいですよね。でもお嫁さんなのに何も知らされないのも、どこかで不便しそうですし……」
「そうなんですね。ありがとうございます。なかなか……複雑な家柄なんですね。そう教えていただけると助かります」
「差し出がましい真似をいたしました」
茉世は首を振り、控えめに否定した。
車は三途賽川家の裏庭へと着いた。運転手がサイドブレーキを引いた。シートベルトが軽快な音を鳴らしていた。茉世もシートベルトを外した。
「ぼくが茉世さんを見つけたのは偶然で、だから皆さんは何も知りません」
車を降りてから見た永世は、自信のなさそうな優男だった。日焼けが似合わなそうな雰囲気と面構えで日焼けしている。睫毛を伏せて、目を合わせることを怖がっているようだった。
玄関を開ける。茉世にとってみれば、三途賽川家の親戚である永世のほうが三途賽川に近しくみえた。だが永世からしてみれば、茉世は三途賽川の嫁であり、三途賽川の一員であり、辜礫築は部外者の域を出ないのだろう。自覚の甘さで、間誤ついた。どちらが玄関を開けるべきか?先に通るべきか?彼女等彼等の一個人的気質も関係したようだった。茉世が引戸を横に滑らせた。
「はぁい」
客人が来たとでも思ったのだろう。すぐ近くの茶の間から、蘭のまぬけ声が聞こえた。そして永世と共に帰ってきた茉世にわずかに驚く。
「あれ、蓮くんは?」
茉世はすぐには答えなかった。
「言い争いが起きて、降ろされてしまったようです」
彼女は何もこの件について話さなかった。だが永世は横から口を挟んだ。蘭は浴衣姿で腕を組んでしまった。軟派で軽率げな顔が渋面を作る。忌々しい毛尨の耳がジェット機の両翼みたいだった。
「降りたいと言ったのはわたしのほうなのです」
「ああ、そうなのですね。申し訳ありません」
「でもフツーは降ろさないよねぇ」
蘭は宙を睨みながら、顎に手を当て、左右に首を傾げた。
「わたしが降りたいと言って、勝手に降りました」
「そう言えって言われたの?」
「違います」
「永ちゃんが迎えに来てくれるまで、暑いなか、立ってたんでしょ?」
「迎えにはいっていません」
永世は急に焦りはじめる。
「え……?そうなん?」
「偶然なんです。偶々」
「はい……」
「偶然ならもっとダメじゃん。まぁ、この話は蓮くんが帰ってきたら蓮くんとするよ。茉世ちゃんは、冷たいシャワー浴びてきたら?で、永ちゃん、ありがとう。おでのおヨメさん見つけてきてくれて」
茉世はそのときにはすでに玄関ホールを通り抜けていた。わずかに顧眄する。騎士物語のように跪いたり、時代劇のように平伏したりはしていないが、そこには主従関係のような、見ていて居心地の悪い空気が漂っていた。現代に相応しくないような雰囲気を読み取ってしまう。
彼女は浴室に向かった。照りつけるアスファルトの眩しさのせいか、眼球の奥から頭が痛くなった。
シャワーを浴び終え、蒸し暑い小さな部屋に閉じこもった。蓮に酷評されたシンプルな服装で横になる。冷やした身体は体温を取り戻し、すぐに暑くなった。それでも動くのが面倒だった。しかし荷物を隣に運べ、というこの家の独善的な次男の言葉を思い出す。
私物は少なかったし、纏まっていた。隣の無人の大部屋へと移動する。
「茉世ちゃん」
離れたところで夫が呼ぶ。二間隔てた廊下からだ。彼は妻が小部屋の外にいるのが分かったらしい。互いに向かって鉢合わせる。
「茉世ちゃん」
彼は両腕を開いて、真夏の昼間だというのに妻に抱擁を求めた。躊躇いがちに彼女は応える。
「蓮くんにはお灸を据えなきゃいけないよね」
「降ろすよう頼んだのはわたしのほうですし、明日にはエアコンを入れてくださるそうですし……」
だがそれが善意や親切心でないことは知っていた。目論見がある。隠しもせず、嫁側に強いる企みが。
「いくらそう言われてもフツーは降ろさないよ。中卒のおででも分かる」
「中卒は関係ありませんよ」
色気のない摩擦が背中で起こる。
「蓮くんは頭いいんだけどな」
「"頭がいい"にも色々ありますから」
夫はぽむぽむと妻の背を軽く何度か叩いた。
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