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シークレットクレスト 6話放置/浮気/溺愛DV美青年カレシ/既婚先輩
シークレットクレスト 4
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「つまらなかっただろう」
映画館から出て駐車場を歩いているときに月城綾麻が言った。
「え……?」
立ち止まった恋人を追い抜かしてから振り返る。
「疲れているんじゃないか」
「そんなこと、ないよ。映画も……面白かったし……」
「そうか。それならよかった。時間を作ってくれてありがとうな。霞未と過ごせて楽しかった」
夜だった。ダークカラーの服装を好む月城の姿は薄らと暗い中に浮き上がり、フィクションでよく表される死神を彷彿とさせた。
先程まで既婚者とその配偶者に黙って会っていた。不穏な心地がする。霞未は成り行きで交際している相手を視界から外した。
「手、繋いでいいか。車までだから」
「う、うん」
この交際相手の体温が苦手だ。肌理の相性も悪い感じがする。ところがそれは互いにそう感じるものではないらしい。月城は霞未に何度も手を繋ぐことを求めた。身体を赦されないために代替的な行為としているのかも知れない。
月城の手が霞未の手を取った。彼との接触は氷とも鑢ともいえない異様な印象を受ける。
「緊張しているのか?」
「ううん。ちょっと寒くなっちゃって」
何か求めたつもりはなかった。しかし霞未の腕に月城が寄り添う。握られた手は彼の衣嚢に突っ込まれた。
「上着、着るか」
「大丈夫。ありがとう。ほんのちょっとだけだから」
服の下の質感は固い。身体が強張る。男である。牧野宮には覚えなかった翳りが夏の空みたいに訪れる。
恋人の緊張を月城は敏く感じ取ったらしい。ぐいとさらに接触を深めようとする。まるで邪魔だと押し退けられているようだった。咄嗟に霞未は避けてしまう。進行の妨げになったらしいことを済まなく思ったのか、はたまた警戒心が男性というものを拒んだのか彼女自身にも分からなかった。
「悪いな。歩きづらかったな」
「あ……う、ううん。足踏みそうになっちゃって」
「そうか」
作り物みたいな左右対称の生物的なグロテスクさのないところが却って恐怖を与える美貌が和らいだ。
彼の家で観たサイコホラーの映画に似ている。外面を取り繕うのが得意な、共感性の大きく欠如している暴力的で漁色家の美男子が複数人の女と関係を持ち、その一人ひとりに甘言蜜語を囁くのである。それに気を好くした女は身の破滅を厭わず彼の駒になる。霞未はその男とこの月城が重なって見えた。恰も自分に恋人は1人しかいないといった様子だが、実は器用に隠して他に女がいるのではあるまいか。たとえば互いに想い合った末の交際ならばその疑問とも不信感とも曖昧なものは色濃くなり霞未の胸で蟠ったかも知れない。しかしその疑問にも不信感にもなりきらなかった可能性を認めたとき、彼女のもとに去来したのはむしろ安堵であった。
車内で2人きりになる。牧野宮には覚えなかった焦燥感に霞未はぎこちなくなってしまった。手が震え、シートベルトを握った。月城の手が伸び、彼女の手を握る。
「あ、ごめんね。シートベルト、皺になっちゃうかな」
「そんなことは気にしなくていい。寒いのかと思った。今暖房を点ける」
彼は上着を脱ぐと助手席の恋人の膝に掛ける。映画館でも自身のコートを膝掛けにしていた。彼女はジーンズパンツを履いている。布には覆われているが寒さはあった。
「幸せだ」
センタークラスターを操作する月城がぽつりと呟いて、それから霞未を一瞥する。
―重い。
「お酒飲もうか、爽ちゃん」
明日朝早い血縁者の同居人がもう寝ているかも知れないという理由で月城を斥けた。マンション前で別れ、その足で酒と肴を買ってきたところだった。血縁者の同居人の存在は事実であり、月城も顔を合わせたことがあるが明日早いことは嘘だ。彼はリビングでゲームをしている。ボタンを押す音が小気味良い。ソファーに転がって顔を上げる様がどこか小動物的な可憐さを帯びる。
「おかえり、霞未姉ちゃん。帰ってきていきなり酒かヨ」
携帯ゲーム機を置いて彼はソファーとローテーブルの間に腰を下ろした。
「ただいま、爽ちゃん。いいじゃない。お腹いっぱい?」
敢えて由利爽太の好きなハムチーズだのキムチきゅうりだの桃ブロックなどを買い物袋から取り出してその目に晒す。
「食べる!」
牧野宮との密会から帰り、正式な相手と映画館に行く間に霞未はこの同居人にオムライスを作っていったが、もう消化も終えたらしい。まだ少年然とした彼はなかなかの健啖家で空腹になるのも早い。
霞未はそれぞれの容器や包装を開けた。酒の缶のプルタブを起こし、飲みながらテレビを点けた。
『セックスさせない女がカレシに好かれるワケないでしょ』
画面に映る女性俳優が叱りつけるように言った。画面の外にいる霞未がどきりとした。それは台詞の内容のためか、彼女にとってはいつまでも子供同然の由利爽太がこの場にいるためか。爽太は酒よりも肴に感心を示し、チーズを齧りながらきょとんとしてドラマを観ている。霞未はすぐにチャンネルを替えた。ニュース番組がやっている。世間は不景気で物騒だがどこか他人事でいられる。
「カレシとなんかあったってコト……?」
アルコールが混ざったジュースの缶を傾ける。彼はテーブルに顔を乗せて溶けているみたいだった。いくらか行儀が悪いがこれという食事の場でもない。
「なんで?」
「なんとなく」
きゅうりについてきた爪楊枝で生ハムに包まれたチーズを細かく切り刻んで口に入れている。
「月城くんとは何もないよ。別に普通」
セックスどころかキスもない。手を繋ぐのもそう多くなかった。そのままでいれば彼もやがて冷めるだろう。
「まだ苗字で呼んでるんだ」
「うん。へ、変だよね。でもなんかその、照れ臭くて……」
由利爽太は生ハムを長いこともぐついていた。彼は同居人の年上のはとこが既婚者と密会していることを知らない。恋人関係が損得勘定の元に成り立っていることも知らない。
「…………ふぅん」
愛犬よろしく由利爽太は霞未を上目遣いで窺っていたが、視線を逸らして細切れにされたチーズを食らう。彼の月城綾麻に対する印象は好いものではなかった。霞未にとっても特別好いものではなかった。否、好いも悪いも考えていなかった。由利爽太みたいな親戚ではない。牧野宮でもない。
酒缶を呷る。アルコールの臭みが鼻を刺す。
「名前で呼ばないと、嫌われちゃうかな」
「好かれてないかもなって、自分から離れるのはあるカモ」
彼は可愛らしく左右に首を捻ってから答えた。
「爽ちゃんは浮いた話ないの」
「ない」
桃ブロックが噛み潰されていった。
◇
周りの人たちに、付き合ってることは言わないで。
月城綾麻は霞未の要求を簡単に受け入れた。取引のような交際であるが、かといってそこまで緊迫感の伴うものでもなかった。ただ霞未が彼を恐れているだけである。
『どうして言ったらいけないんだ』
学舎の窓ガラスに反射した不釣り合いなカップルを口実にした。地味ない装いの目立ったところのない、どこか野暮ったい女と、その隣にいるのか将又偶々並行している通行人なのか瞭然としない長身痩躯の男との差について彼女は思ったほど気に留めていなかった。しかし周りの目があれば話は変わってくる。目立たないよう過ごしてきた。元々、目立ちたがりな性分でもない。
『だってわたしと月城くん、釣り合わないよ』
手を構え、半歩踏み入ろうとする月城に霞未は反射的に怯えを見せた。怒らせて殴られるのではないかと彼女の思考が追い付く前に本能で判断されたらしかった。その直後、彼は頬なり髪なりに触れたかっただけなのだと知る。
『釣り合わないか、俺は。陰気に見える?はっきり言ってくれ。霞未の気に入るようにする』
『月城くんのほうじゃなくて……』
無機質な美貌は霞未に後退られ、悲哀の感情を滲ませた。口角や眉に動く筋肉があったらしい。
『霞未が?何か言われたのか?周りのことなんか気にしなくていい』
しかしそうはいかない。この美男子は人目を惹く。その美しさに、そうでなくともある種の不気味さに。
『お願い、隠しておいて。色々訊かれたりするの、面倒だから……』
中学生・高校生時代を思い出す。霞未自身の話ではなかったけれど、何か目立てば囂しい女子の集団に構われ絡まれる様を見たことがあった。
『どうして……―
―どうして……」
待ち合わせた場所へやってきた月城の表情は凍っている。しかし霞未はその変化に気付かない。些細な違いである。
「あ、月城くん」
「…………今のは?」
彼女はつい今しがた、高校生から道を訊かれていた。コンビニエンスストアを探していたらしい。
「コンビニ探してたんだって」
月城の冷えた眼差しが霞未を捉える。初めて向けられた。疑念が滲んでいる。だがやはりそれに気付く霞未ではない。彼女は恋人の目さえまともに見ていなかった。わざわざ無機質な黒曜石めいた瞳へ視線をぶつけて金縛りに遭う必要もない。否、彼女はそれすら認識していなかったかも知れない。この傍に居たがる男を、世間的に許されざる関係にある者を監視し罰したい、正義の徒としか見ていなかったのかも知れない。そしてそれが惰性へと変わっている。意味もなく目的もなく向き合う気もなく何となく一緒にいる。これもまた惰性で、さして意識もしていない。
「コンビニか……」
彼が鼻を鳴らして嗤った。そこでやっと霞未は月城の双眸を見遣る。意地の悪そうな笑みが口元に浮かんでいる。胡散臭さいほどに整って生々しさのない美貌から一瞬で嫌味な綻びが消えた。
「霞未」
呼ばれるのと同時に腕を引かれる。肩の関節を外さんばかりであった。そういう乱雑な扱いを今までこの男からはされたことがない。彼女は即座に気付いたつもりになった。牧野宮との関係を知られたに違いない。
「月城くん……!」
いつもならば呼べば食い気味に振り向く質の良い陶器人形みたいな顔が顧眄することはない。彼は激怒している。当然だ。交際しているにもかかわらず、他の男、それも既婚者と密会していたのだから。
無言のまま目を合わせようとすることもなく月城は霞未を引っ張っていった。後ろめたさから拒むこともできない。
月城の足は普段とは違うルートを辿っている。大型の駅構内を通り抜け、北口の歓楽街へ向かっていった。霞未はやがて踏み留まる。しかしその腕を引く力が緩まることはない。この先にあるのは色街だ。彼女の知らない、否、避けてきた異様な雰囲気が渦巻いている。
「月城くん……!」
もう行けない、この先には進みたくない。霞未は己の咎も忘れた。確かに世間から見ればあれは不倫であったかも知れない。しかし牧野宮と一線を越えたことはなかった。牧野宮からそのものずばりとした言葉を聞いたことはない。片想いである。浮気ではない。いつでも牧野宮が選び取り帰っていくのは妻のもとだ。
「黙れ」
この月城の低い声を彼女は初めて耳にした。彼は怒らない。過保護、過干渉に注意をくれることはあっても威圧することはなかった。
「ごめんなさい……」
黙れと言われたが彼女は無言を貫けなかった。早めに謝ってしまうのがいい。そうしてすぐに別れ話に移行するはずだ。
「赦さない」
妖異な空気の停滞する雑踏に引き摺り込まれていく。
「いやだよ、月城くん。わたし、そういうことしたくない……」
この先にあるものがラブホテルであることを漠然と知っていた。北口にある繁華街は色街で有名だ。
何度か膝をぴんと張った。しかし靴の裏は罅割れて煤けたアスファルトに擂り下ろされる。
「月城くん!」
誤解である。否、半分は誤解である。性懲りも無く牧野宮と密会を重ねていたのは紛れもない事実である。だがそこに肉体関係はない。手を繋ぐのが精々であった。恋心を打ち明けたのも一方的である。牧野宮からは"可愛い後輩"としか表現されていなかった。霞未はすべて白状しかけ、しかしできなかった。月城はまだ何に対して憤慨しているのか明言していない。
問うに落とさず語るに落とそうと謀っているのかも知れない。月城の行動次第で牧野宮に迷惑がかかる。それならばここは従うほかなかった。耐える覚悟を持たねばならない。彼女の脳裏に清々しく笑う快い先輩の姿が映写される。
口にハンカチを突っ込んだ。激しい呼吸はただ酸素を求めるつもりで空回りし、窒息を恐れてのものだった。清潔さの感じられないベッドが揺れる。股裂きに遭っているかのようだ。実際彼女は脚の間に男を挟み、その肉体の一部を捩じ込まれて、柔らかく敏感なところを裂かれているも同然だった。些細ながらも厭悪感を催す断裂の音と痛みに肌は汗ばみながらも身体の芯は冷えていた。引き千切られるような痛苦は一瞬ではあったものの、今度は継続的な鈍痛に襲われる。月城は肉人形に容赦がなかった。遠慮のない力加減で彼女の肌を掴み、引っ張り、組み敷いて捻じ伏せた。彼女が苦しそうにしていることにまるで気付いた様子がない。だが果たして本当に気が付いていないのだろうか。月城の冷淡な目は水の無い場所で溺れているような息遣いを繰り返すセックス人形を見下ろしている。
「牧野宮のオナホにもしてもらえなかったワケか」
跳ねるように息をするセックスドールの頬を彼はべち、と叩いた。この手の商品にありがちなシリコン素材よりも張りのある音がした。
「牧野宮先輩とは……何も、」
彼女の視界は明滅していた。視力を失ったわけではないが、何故か上手いこと機能していない。妙な翳りによって月城の姿を認めることができなかった。それでいて聴覚は耳鳴りを伴いながらも必要分の機能を果たしていた。身体のあらゆるところから分断されたような思考もまた働いている。牧野宮。弁明が必要な事柄である。
「そうみたいだな」
体内で暴力的な衝突が起こった。視界が白波に呑まれる。咽喉から内臓のすべてをぶちまけそうになった。
「あひっ」
顎を鷲掴みにされながらの乱雑な抽送に彼女は悲鳴を上げた。臍の裏から突き破る気なのかも知れない。やがて内部のものがはち切れた。飛沫を腹で嚥下させられる。霞未は喉を擦り切らせるような絶叫を上げたが、彼は縊ってそれを抑えた。明確な殺意だったのかも知れない。
時間としてはそう長くなかった。しかし人ひとりの首を殺すでもなく圧し折るでもなく鷲掴んでいる割りには長かった。声まで奪い取ると月城は彼女から栓を抜いた。恐怖の底という底まで叩き落とす氾濫が起こる。刻み込まれたあらゆる箇所の結託した恐怖である。
月城は自身の身形を整えると早々出て行ってしまった。襤褸雑巾のように扱われ彼女は暫く全裸のまま蹲って泣いていた。薄暗い部屋で本当に人形になってしまっているようだ。
咽ぶことは忘れていたが、ただ静かに繊維へ涙が染み込んでいく。
牧野宮との密会が優しかった月城を壊してしまったに違いない。裏切りだったのだ。上面の、建前の、偽装の恋人に対する背信だったのだ。彼がこの交際に本気だとは思っていなかった。既婚者に想いを寄せる女が赦せない、見た目の印象に反した正義感の強い熱血漢であるとしか思えなかった。何故ならば霞未は、月城がなぜそう自分に交際を求めたか分からなかったからだ。彼は役者だった。世間的な職業や趣味としてカテゴライズされた役者ではない。気質に於いて役者だった。そしてその素振りに嫌味も違和感もなかったのはその甘い声と無機質な美貌、端麗な風采のせいだったのかも知れない。
月城の優しさが急激に惜しくなった。それはこの肌と肉と粘膜にこの短時間で刷り込まれた恐怖と不安と痛苦の裏返しであったのか否かは定かではない。ただ霞未は優しかった月城の姿を思い出していた。しかしあまりよく覚えていない。ただただ漠然と優しかったと認識している。彼のことを何も知らない。知ろうとしなかった。興味がなかった。やり過ごす質問をして、聞いてもいなければ覚えてもいない。まず見ようともしていなかった。やがて飽きて別れ、長続きする関係でもないと高を括っていた。霞未自身から長続きさせる気がなかった。―月城の優しさが急激に惜しくなった。しかしそこには条件がつく。この関係が続けられるのならば。
関係解消の一言はなかった。もしかするとまだ恋人なのかも知れない男を霞未は避ける。毎日決まった時間にくる連絡は途絶えた。帰りの待ち合わせもない。彼は10分以上の遅刻を赦さなかった。赦さなかったといって怒ったり機嫌を損ねるわけではない。嫌味を通り越した過度な心配をする。講義やゼミが長引けば人付き合いもある。その時に生まれる自省と自責が鬱陶しさだと彼女は分かってしまった。
久々にキャンパス内のカフェテリアへ環絹を誘った。ガラス張りの壁が瀟洒である。このカフェテリアは地下にある。白とグレーともシルバーともいえない2系統の色を基調としたモダンで無機質な感じのする4階建て新校舎に四方を囲まれ、屋上こそ緑を植えてあるが、空くらいしか自然なものが目に入らないところがある。入り組んだ階段には隅々にベンチやテーブルが気を利かせて置いてあるけれど昼時しか使われない。
環絹はカプチーノを飲んでいた。霞未はキャラメルマキアートを頼んだ。学生以外の出入りもあるためにそれなりにメニューは充実している。
「元気そう?最近忙しそうだったから」
環絹は相変わらず化粧が派手だった。そして上手い。参考にしようとしても霞未はすぐに失敗してしまう。卒業後は美容の方面を志望していると以前さりげなく口にしていたような気がする。
「元気、元気。ちょっと課題が終わらなくて。環絹ちゃんは?なんか久し振りな感じするね」
「いやだわ、あーた。昨日会ったばっかでしょうが」
「あれ、そうだっけ?あ、そだそだ。ごめん」
艶消しされた赤いリップカラーが柔和に綻ぶ。
「でもちゃんとこういうバカみたいな話はできてなかったでしょう。なんか忙しそうだったし」
「え、わたしが?環絹ちゃん?」
「あーたよ、あーた。必修の単位落としそうなのかと思ったじゃない」
霞未は軽やかに笑んだ。気が楽だった。久々に環絹といるからであろうか。
「全然!単位の心配なんてしたことなかったよ。ただ課題が難しかっただけ」
目を見て話していた環絹の瞳が側められた。グレーの色が入ったコンタクトレンズを隔て、その視線が何かを捉える。霞未も咄嗟にその先を追ってしまった。背の高いすらりとした後姿が遠去かっていく。霞未はそれが誰だか分かると寒気がした。環絹は彼を見ていたらしい。好意を寄せているのだろうか。
「どうしたの?」
平静を装って訊ねた。この親友にも交際している或いは交際していたことは告げていない。
「気にしてたから、あーたのこと」
「え……?」
霞未はまたアースカラーの後姿を見遣ってしまった。
「怖くって、あの人。顔はいいけれど」
どこか真剣な面持ちの環絹に、親友との雑談で安堵のあった霞未の表情を引き締めていく。
「たまに、とりあえずフリーそうな異性ぜんぶにアプローチしておきたい男っているのよね」
「じゃ、じゃあ環絹ちゃんのこと見てたのかも!」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「まさか。あーたがあった向いた瞬間去っていたけれども。……ごめんなさい、霞未。付き合ってるんでしょう?答えたくなければ、いいのだけれど」
少し棘のある喋り方があまり嫌味っぽくなくむしろ魅力的だった環絹の語調が柔らかくなる。媚びるような微苦笑がどこか痛々しい。霞未は謝られた意味が分からなかった。
「えっと……」
「あの男の友達が、何か匂わせてたから、ちょっと気になっちゃって……」
つまりは調べたらしい。水から吹聴するなとは言ったけれども、実際月城と2人きりでキャンパスを歩いていたことはある。それなりに人目を避けていたけれど、人目に触れていないとは限らなかった。月城の距離は近く、確かに友人とはいえ異性間の距離とも言い難いものだった。
霞未の唇が開いた。肯定か否定が出るつもりだったのであろう。
「よっ!女子会!」
しかし横から来た陽気な声に遮られてしまった。対面の環絹がこれでもかというほど呆れた様子で背凭れに身を打った。
「覚えてる?お奈々都」
形の良い額と少し色抜けした短髪がやたらに爽やかな男だった。
「おれも女子になるから混~ぜ~て」
「遠慮なさいよ……」
尻尾を振る柴犬のような雰囲気の奈々都が、どこか世界ごと塗り替える風のようだった。
映画館から出て駐車場を歩いているときに月城綾麻が言った。
「え……?」
立ち止まった恋人を追い抜かしてから振り返る。
「疲れているんじゃないか」
「そんなこと、ないよ。映画も……面白かったし……」
「そうか。それならよかった。時間を作ってくれてありがとうな。霞未と過ごせて楽しかった」
夜だった。ダークカラーの服装を好む月城の姿は薄らと暗い中に浮き上がり、フィクションでよく表される死神を彷彿とさせた。
先程まで既婚者とその配偶者に黙って会っていた。不穏な心地がする。霞未は成り行きで交際している相手を視界から外した。
「手、繋いでいいか。車までだから」
「う、うん」
この交際相手の体温が苦手だ。肌理の相性も悪い感じがする。ところがそれは互いにそう感じるものではないらしい。月城は霞未に何度も手を繋ぐことを求めた。身体を赦されないために代替的な行為としているのかも知れない。
月城の手が霞未の手を取った。彼との接触は氷とも鑢ともいえない異様な印象を受ける。
「緊張しているのか?」
「ううん。ちょっと寒くなっちゃって」
何か求めたつもりはなかった。しかし霞未の腕に月城が寄り添う。握られた手は彼の衣嚢に突っ込まれた。
「上着、着るか」
「大丈夫。ありがとう。ほんのちょっとだけだから」
服の下の質感は固い。身体が強張る。男である。牧野宮には覚えなかった翳りが夏の空みたいに訪れる。
恋人の緊張を月城は敏く感じ取ったらしい。ぐいとさらに接触を深めようとする。まるで邪魔だと押し退けられているようだった。咄嗟に霞未は避けてしまう。進行の妨げになったらしいことを済まなく思ったのか、はたまた警戒心が男性というものを拒んだのか彼女自身にも分からなかった。
「悪いな。歩きづらかったな」
「あ……う、ううん。足踏みそうになっちゃって」
「そうか」
作り物みたいな左右対称の生物的なグロテスクさのないところが却って恐怖を与える美貌が和らいだ。
彼の家で観たサイコホラーの映画に似ている。外面を取り繕うのが得意な、共感性の大きく欠如している暴力的で漁色家の美男子が複数人の女と関係を持ち、その一人ひとりに甘言蜜語を囁くのである。それに気を好くした女は身の破滅を厭わず彼の駒になる。霞未はその男とこの月城が重なって見えた。恰も自分に恋人は1人しかいないといった様子だが、実は器用に隠して他に女がいるのではあるまいか。たとえば互いに想い合った末の交際ならばその疑問とも不信感とも曖昧なものは色濃くなり霞未の胸で蟠ったかも知れない。しかしその疑問にも不信感にもなりきらなかった可能性を認めたとき、彼女のもとに去来したのはむしろ安堵であった。
車内で2人きりになる。牧野宮には覚えなかった焦燥感に霞未はぎこちなくなってしまった。手が震え、シートベルトを握った。月城の手が伸び、彼女の手を握る。
「あ、ごめんね。シートベルト、皺になっちゃうかな」
「そんなことは気にしなくていい。寒いのかと思った。今暖房を点ける」
彼は上着を脱ぐと助手席の恋人の膝に掛ける。映画館でも自身のコートを膝掛けにしていた。彼女はジーンズパンツを履いている。布には覆われているが寒さはあった。
「幸せだ」
センタークラスターを操作する月城がぽつりと呟いて、それから霞未を一瞥する。
―重い。
「お酒飲もうか、爽ちゃん」
明日朝早い血縁者の同居人がもう寝ているかも知れないという理由で月城を斥けた。マンション前で別れ、その足で酒と肴を買ってきたところだった。血縁者の同居人の存在は事実であり、月城も顔を合わせたことがあるが明日早いことは嘘だ。彼はリビングでゲームをしている。ボタンを押す音が小気味良い。ソファーに転がって顔を上げる様がどこか小動物的な可憐さを帯びる。
「おかえり、霞未姉ちゃん。帰ってきていきなり酒かヨ」
携帯ゲーム機を置いて彼はソファーとローテーブルの間に腰を下ろした。
「ただいま、爽ちゃん。いいじゃない。お腹いっぱい?」
敢えて由利爽太の好きなハムチーズだのキムチきゅうりだの桃ブロックなどを買い物袋から取り出してその目に晒す。
「食べる!」
牧野宮との密会から帰り、正式な相手と映画館に行く間に霞未はこの同居人にオムライスを作っていったが、もう消化も終えたらしい。まだ少年然とした彼はなかなかの健啖家で空腹になるのも早い。
霞未はそれぞれの容器や包装を開けた。酒の缶のプルタブを起こし、飲みながらテレビを点けた。
『セックスさせない女がカレシに好かれるワケないでしょ』
画面に映る女性俳優が叱りつけるように言った。画面の外にいる霞未がどきりとした。それは台詞の内容のためか、彼女にとってはいつまでも子供同然の由利爽太がこの場にいるためか。爽太は酒よりも肴に感心を示し、チーズを齧りながらきょとんとしてドラマを観ている。霞未はすぐにチャンネルを替えた。ニュース番組がやっている。世間は不景気で物騒だがどこか他人事でいられる。
「カレシとなんかあったってコト……?」
アルコールが混ざったジュースの缶を傾ける。彼はテーブルに顔を乗せて溶けているみたいだった。いくらか行儀が悪いがこれという食事の場でもない。
「なんで?」
「なんとなく」
きゅうりについてきた爪楊枝で生ハムに包まれたチーズを細かく切り刻んで口に入れている。
「月城くんとは何もないよ。別に普通」
セックスどころかキスもない。手を繋ぐのもそう多くなかった。そのままでいれば彼もやがて冷めるだろう。
「まだ苗字で呼んでるんだ」
「うん。へ、変だよね。でもなんかその、照れ臭くて……」
由利爽太は生ハムを長いこともぐついていた。彼は同居人の年上のはとこが既婚者と密会していることを知らない。恋人関係が損得勘定の元に成り立っていることも知らない。
「…………ふぅん」
愛犬よろしく由利爽太は霞未を上目遣いで窺っていたが、視線を逸らして細切れにされたチーズを食らう。彼の月城綾麻に対する印象は好いものではなかった。霞未にとっても特別好いものではなかった。否、好いも悪いも考えていなかった。由利爽太みたいな親戚ではない。牧野宮でもない。
酒缶を呷る。アルコールの臭みが鼻を刺す。
「名前で呼ばないと、嫌われちゃうかな」
「好かれてないかもなって、自分から離れるのはあるカモ」
彼は可愛らしく左右に首を捻ってから答えた。
「爽ちゃんは浮いた話ないの」
「ない」
桃ブロックが噛み潰されていった。
◇
周りの人たちに、付き合ってることは言わないで。
月城綾麻は霞未の要求を簡単に受け入れた。取引のような交際であるが、かといってそこまで緊迫感の伴うものでもなかった。ただ霞未が彼を恐れているだけである。
『どうして言ったらいけないんだ』
学舎の窓ガラスに反射した不釣り合いなカップルを口実にした。地味ない装いの目立ったところのない、どこか野暮ったい女と、その隣にいるのか将又偶々並行している通行人なのか瞭然としない長身痩躯の男との差について彼女は思ったほど気に留めていなかった。しかし周りの目があれば話は変わってくる。目立たないよう過ごしてきた。元々、目立ちたがりな性分でもない。
『だってわたしと月城くん、釣り合わないよ』
手を構え、半歩踏み入ろうとする月城に霞未は反射的に怯えを見せた。怒らせて殴られるのではないかと彼女の思考が追い付く前に本能で判断されたらしかった。その直後、彼は頬なり髪なりに触れたかっただけなのだと知る。
『釣り合わないか、俺は。陰気に見える?はっきり言ってくれ。霞未の気に入るようにする』
『月城くんのほうじゃなくて……』
無機質な美貌は霞未に後退られ、悲哀の感情を滲ませた。口角や眉に動く筋肉があったらしい。
『霞未が?何か言われたのか?周りのことなんか気にしなくていい』
しかしそうはいかない。この美男子は人目を惹く。その美しさに、そうでなくともある種の不気味さに。
『お願い、隠しておいて。色々訊かれたりするの、面倒だから……』
中学生・高校生時代を思い出す。霞未自身の話ではなかったけれど、何か目立てば囂しい女子の集団に構われ絡まれる様を見たことがあった。
『どうして……―
―どうして……」
待ち合わせた場所へやってきた月城の表情は凍っている。しかし霞未はその変化に気付かない。些細な違いである。
「あ、月城くん」
「…………今のは?」
彼女はつい今しがた、高校生から道を訊かれていた。コンビニエンスストアを探していたらしい。
「コンビニ探してたんだって」
月城の冷えた眼差しが霞未を捉える。初めて向けられた。疑念が滲んでいる。だがやはりそれに気付く霞未ではない。彼女は恋人の目さえまともに見ていなかった。わざわざ無機質な黒曜石めいた瞳へ視線をぶつけて金縛りに遭う必要もない。否、彼女はそれすら認識していなかったかも知れない。この傍に居たがる男を、世間的に許されざる関係にある者を監視し罰したい、正義の徒としか見ていなかったのかも知れない。そしてそれが惰性へと変わっている。意味もなく目的もなく向き合う気もなく何となく一緒にいる。これもまた惰性で、さして意識もしていない。
「コンビニか……」
彼が鼻を鳴らして嗤った。そこでやっと霞未は月城の双眸を見遣る。意地の悪そうな笑みが口元に浮かんでいる。胡散臭さいほどに整って生々しさのない美貌から一瞬で嫌味な綻びが消えた。
「霞未」
呼ばれるのと同時に腕を引かれる。肩の関節を外さんばかりであった。そういう乱雑な扱いを今までこの男からはされたことがない。彼女は即座に気付いたつもりになった。牧野宮との関係を知られたに違いない。
「月城くん……!」
いつもならば呼べば食い気味に振り向く質の良い陶器人形みたいな顔が顧眄することはない。彼は激怒している。当然だ。交際しているにもかかわらず、他の男、それも既婚者と密会していたのだから。
無言のまま目を合わせようとすることもなく月城は霞未を引っ張っていった。後ろめたさから拒むこともできない。
月城の足は普段とは違うルートを辿っている。大型の駅構内を通り抜け、北口の歓楽街へ向かっていった。霞未はやがて踏み留まる。しかしその腕を引く力が緩まることはない。この先にあるのは色街だ。彼女の知らない、否、避けてきた異様な雰囲気が渦巻いている。
「月城くん……!」
もう行けない、この先には進みたくない。霞未は己の咎も忘れた。確かに世間から見ればあれは不倫であったかも知れない。しかし牧野宮と一線を越えたことはなかった。牧野宮からそのものずばりとした言葉を聞いたことはない。片想いである。浮気ではない。いつでも牧野宮が選び取り帰っていくのは妻のもとだ。
「黙れ」
この月城の低い声を彼女は初めて耳にした。彼は怒らない。過保護、過干渉に注意をくれることはあっても威圧することはなかった。
「ごめんなさい……」
黙れと言われたが彼女は無言を貫けなかった。早めに謝ってしまうのがいい。そうしてすぐに別れ話に移行するはずだ。
「赦さない」
妖異な空気の停滞する雑踏に引き摺り込まれていく。
「いやだよ、月城くん。わたし、そういうことしたくない……」
この先にあるものがラブホテルであることを漠然と知っていた。北口にある繁華街は色街で有名だ。
何度か膝をぴんと張った。しかし靴の裏は罅割れて煤けたアスファルトに擂り下ろされる。
「月城くん!」
誤解である。否、半分は誤解である。性懲りも無く牧野宮と密会を重ねていたのは紛れもない事実である。だがそこに肉体関係はない。手を繋ぐのが精々であった。恋心を打ち明けたのも一方的である。牧野宮からは"可愛い後輩"としか表現されていなかった。霞未はすべて白状しかけ、しかしできなかった。月城はまだ何に対して憤慨しているのか明言していない。
問うに落とさず語るに落とそうと謀っているのかも知れない。月城の行動次第で牧野宮に迷惑がかかる。それならばここは従うほかなかった。耐える覚悟を持たねばならない。彼女の脳裏に清々しく笑う快い先輩の姿が映写される。
口にハンカチを突っ込んだ。激しい呼吸はただ酸素を求めるつもりで空回りし、窒息を恐れてのものだった。清潔さの感じられないベッドが揺れる。股裂きに遭っているかのようだ。実際彼女は脚の間に男を挟み、その肉体の一部を捩じ込まれて、柔らかく敏感なところを裂かれているも同然だった。些細ながらも厭悪感を催す断裂の音と痛みに肌は汗ばみながらも身体の芯は冷えていた。引き千切られるような痛苦は一瞬ではあったものの、今度は継続的な鈍痛に襲われる。月城は肉人形に容赦がなかった。遠慮のない力加減で彼女の肌を掴み、引っ張り、組み敷いて捻じ伏せた。彼女が苦しそうにしていることにまるで気付いた様子がない。だが果たして本当に気が付いていないのだろうか。月城の冷淡な目は水の無い場所で溺れているような息遣いを繰り返すセックス人形を見下ろしている。
「牧野宮のオナホにもしてもらえなかったワケか」
跳ねるように息をするセックスドールの頬を彼はべち、と叩いた。この手の商品にありがちなシリコン素材よりも張りのある音がした。
「牧野宮先輩とは……何も、」
彼女の視界は明滅していた。視力を失ったわけではないが、何故か上手いこと機能していない。妙な翳りによって月城の姿を認めることができなかった。それでいて聴覚は耳鳴りを伴いながらも必要分の機能を果たしていた。身体のあらゆるところから分断されたような思考もまた働いている。牧野宮。弁明が必要な事柄である。
「そうみたいだな」
体内で暴力的な衝突が起こった。視界が白波に呑まれる。咽喉から内臓のすべてをぶちまけそうになった。
「あひっ」
顎を鷲掴みにされながらの乱雑な抽送に彼女は悲鳴を上げた。臍の裏から突き破る気なのかも知れない。やがて内部のものがはち切れた。飛沫を腹で嚥下させられる。霞未は喉を擦り切らせるような絶叫を上げたが、彼は縊ってそれを抑えた。明確な殺意だったのかも知れない。
時間としてはそう長くなかった。しかし人ひとりの首を殺すでもなく圧し折るでもなく鷲掴んでいる割りには長かった。声まで奪い取ると月城は彼女から栓を抜いた。恐怖の底という底まで叩き落とす氾濫が起こる。刻み込まれたあらゆる箇所の結託した恐怖である。
月城は自身の身形を整えると早々出て行ってしまった。襤褸雑巾のように扱われ彼女は暫く全裸のまま蹲って泣いていた。薄暗い部屋で本当に人形になってしまっているようだ。
咽ぶことは忘れていたが、ただ静かに繊維へ涙が染み込んでいく。
牧野宮との密会が優しかった月城を壊してしまったに違いない。裏切りだったのだ。上面の、建前の、偽装の恋人に対する背信だったのだ。彼がこの交際に本気だとは思っていなかった。既婚者に想いを寄せる女が赦せない、見た目の印象に反した正義感の強い熱血漢であるとしか思えなかった。何故ならば霞未は、月城がなぜそう自分に交際を求めたか分からなかったからだ。彼は役者だった。世間的な職業や趣味としてカテゴライズされた役者ではない。気質に於いて役者だった。そしてその素振りに嫌味も違和感もなかったのはその甘い声と無機質な美貌、端麗な風采のせいだったのかも知れない。
月城の優しさが急激に惜しくなった。それはこの肌と肉と粘膜にこの短時間で刷り込まれた恐怖と不安と痛苦の裏返しであったのか否かは定かではない。ただ霞未は優しかった月城の姿を思い出していた。しかしあまりよく覚えていない。ただただ漠然と優しかったと認識している。彼のことを何も知らない。知ろうとしなかった。興味がなかった。やり過ごす質問をして、聞いてもいなければ覚えてもいない。まず見ようともしていなかった。やがて飽きて別れ、長続きする関係でもないと高を括っていた。霞未自身から長続きさせる気がなかった。―月城の優しさが急激に惜しくなった。しかしそこには条件がつく。この関係が続けられるのならば。
関係解消の一言はなかった。もしかするとまだ恋人なのかも知れない男を霞未は避ける。毎日決まった時間にくる連絡は途絶えた。帰りの待ち合わせもない。彼は10分以上の遅刻を赦さなかった。赦さなかったといって怒ったり機嫌を損ねるわけではない。嫌味を通り越した過度な心配をする。講義やゼミが長引けば人付き合いもある。その時に生まれる自省と自責が鬱陶しさだと彼女は分かってしまった。
久々にキャンパス内のカフェテリアへ環絹を誘った。ガラス張りの壁が瀟洒である。このカフェテリアは地下にある。白とグレーともシルバーともいえない2系統の色を基調としたモダンで無機質な感じのする4階建て新校舎に四方を囲まれ、屋上こそ緑を植えてあるが、空くらいしか自然なものが目に入らないところがある。入り組んだ階段には隅々にベンチやテーブルが気を利かせて置いてあるけれど昼時しか使われない。
環絹はカプチーノを飲んでいた。霞未はキャラメルマキアートを頼んだ。学生以外の出入りもあるためにそれなりにメニューは充実している。
「元気そう?最近忙しそうだったから」
環絹は相変わらず化粧が派手だった。そして上手い。参考にしようとしても霞未はすぐに失敗してしまう。卒業後は美容の方面を志望していると以前さりげなく口にしていたような気がする。
「元気、元気。ちょっと課題が終わらなくて。環絹ちゃんは?なんか久し振りな感じするね」
「いやだわ、あーた。昨日会ったばっかでしょうが」
「あれ、そうだっけ?あ、そだそだ。ごめん」
艶消しされた赤いリップカラーが柔和に綻ぶ。
「でもちゃんとこういうバカみたいな話はできてなかったでしょう。なんか忙しそうだったし」
「え、わたしが?環絹ちゃん?」
「あーたよ、あーた。必修の単位落としそうなのかと思ったじゃない」
霞未は軽やかに笑んだ。気が楽だった。久々に環絹といるからであろうか。
「全然!単位の心配なんてしたことなかったよ。ただ課題が難しかっただけ」
目を見て話していた環絹の瞳が側められた。グレーの色が入ったコンタクトレンズを隔て、その視線が何かを捉える。霞未も咄嗟にその先を追ってしまった。背の高いすらりとした後姿が遠去かっていく。霞未はそれが誰だか分かると寒気がした。環絹は彼を見ていたらしい。好意を寄せているのだろうか。
「どうしたの?」
平静を装って訊ねた。この親友にも交際している或いは交際していたことは告げていない。
「気にしてたから、あーたのこと」
「え……?」
霞未はまたアースカラーの後姿を見遣ってしまった。
「怖くって、あの人。顔はいいけれど」
どこか真剣な面持ちの環絹に、親友との雑談で安堵のあった霞未の表情を引き締めていく。
「たまに、とりあえずフリーそうな異性ぜんぶにアプローチしておきたい男っているのよね」
「じゃ、じゃあ環絹ちゃんのこと見てたのかも!」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「まさか。あーたがあった向いた瞬間去っていたけれども。……ごめんなさい、霞未。付き合ってるんでしょう?答えたくなければ、いいのだけれど」
少し棘のある喋り方があまり嫌味っぽくなくむしろ魅力的だった環絹の語調が柔らかくなる。媚びるような微苦笑がどこか痛々しい。霞未は謝られた意味が分からなかった。
「えっと……」
「あの男の友達が、何か匂わせてたから、ちょっと気になっちゃって……」
つまりは調べたらしい。水から吹聴するなとは言ったけれども、実際月城と2人きりでキャンパスを歩いていたことはある。それなりに人目を避けていたけれど、人目に触れていないとは限らなかった。月城の距離は近く、確かに友人とはいえ異性間の距離とも言い難いものだった。
霞未の唇が開いた。肯定か否定が出るつもりだったのであろう。
「よっ!女子会!」
しかし横から来た陽気な声に遮られてしまった。対面の環絹がこれでもかというほど呆れた様子で背凭れに身を打った。
「覚えてる?お奈々都」
形の良い額と少し色抜けした短髪がやたらに爽やかな男だった。
「おれも女子になるから混~ぜ~て」
「遠慮なさいよ……」
尻尾を振る柴犬のような雰囲気の奈々都が、どこか世界ごと塗り替える風のようだった。
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