18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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蜜花イけ贄 不定期更新/和風/蛇姦/ケモ耳男/男喘ぎ/その他未定につき地雷注意

蜜花イけ贄 13

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 目が覚めて少ししてから戸が叩かれた。身体中がまだあらゆる感覚を敏く拾って身震いした。隣に横たわっているはずのダリアの姿はなかった。
 桔梗は身を起こす。もう一度戸が叩かれ、哀れな使用人の応答が小さく聞こえた。彼女は思い出す。薬屋裏の邸宅を訪ねなければならなかった。
 骨が軋み、肉は疲れ、喉も焼けていたが、階下へと降りる。
 ダリアを退けると、家僮かどうの任に就いている石蕗つわぶきとかいう役職持ちが玄関先に来ていた。
「お迎えに上がりました」
「ごめんなさい。少し寝入っていたみたいで……」
 桔梗は髪に手櫛を入れ、草履に爪先を突っ込んだ。
「葵の旦那様の様子をみて、早めに参りました」
「そうですか。遅れていないようならよかった。お手間をかけさせました」
 石蕗へ頭を下げると、彼女は玄関を顧眄こべんする。
「ダーシャ。もしアサガオさんが帰ったら、よしなにしておいてちょうだい」
「はい」
 ダリアは深々と頭を下げた。その姿がいじらしく、そして痛々しい。夫婦生活には彼の肉体を介する。そして目覚めたとき、彼は女主人のあられもない姿態をまず見つけるのだ。津液に照る熱傷が彼女の罪悪感を二度三度ぶすぶすと針で刺す。
 桔梗は石蕗に案内されて、葵の眠る部屋にやって来た。彼女だけ先に入り、使用人を務める石蕗は粥を取りに部屋前で別れた。
 いびきと聞き紛う息遣いに呻めきが混ざる。彼は固く目を瞑り、襖を小突く音にも開く音にも気付かないようである。
「薬師様」
 目が、かっと開いた。汗に濡れた額が哀れである。彼はおそるおそる桔梗のほうへ頭を転がす。そして罅割れた色の悪い唇を開いたが、何の音も出しはしない。熱っぽい眼が濡れて揺蕩う。
「俺は……」
 身動きを取ろうとしたらしい。その美貌が痛ましく歪む。
「夢……では、」
「はい?」
 村娘たちの憧れの的が、目を開いて寝言を発している。
「夢では……ないのです、か」
「夢です」
 瞠目している葵の言を、彼女は素気無く両断した。
「夢でも……幸せです」
 比較的動かしても痛みのない様子の右腕を桔梗のほうへと寄越した。彼女がそれを受け取る前に、襖が小突かれた。
「はい」
 寝呆けている部屋の主に代わり、桔梗は返事をした。音もなく襖が開き、何かの補佐官見習いとかいっていた青少年が盆を運んできた。
「では、お願いいたします」
 葵が妙な視線を使用人にくれたのを、桔梗はたまたま横目で捉えていた。若者独特の面皰づらに瑞々しさのある石蕗が恭しく辞していった。
「頼まれて……いらっしゃったのですか」
「そうです」
 長く濃い睫毛が伏せられる。幽艶な感じがある。
「ご迷惑を、おかけしました」
「きちんと食事は召し上がることです。治るものも治りません。わたしの手間も増えますし」
 縫針を毛穴にぷすぷす刺すような物言いだった。葵の痛みと憂いに満ち満ちた顔容かんばせに、彼女も自身の指にその針を突き刺さしたみたいである。
「食べられますか。吐くほうが、食うより疲れるとも聞いたことがありますが」
「食べられます」
 桔梗は粥の椀を取った。匙を握る。
「え」
「何か?」
「自分で……」
「疲れるでしょう。どうぞ寝たままで。横を向いていてください。噎せると事ですから」
 椀を持った感じからして、粥はそう熱くなかった。体温が上がると傷に障るのだろう。少しずつ掬い、彼の口元に運んでいく。やがて椀が空になった。
「食欲は出てきましたか」
 それは人嫌いな医者が生業として無辜むこの病人を診るような突き放した響きを持っている。
「い、いいえ……これで、満足です」
「そうですか。けれど、身体が強く拒否していなければ、面倒でも召し上がることです」
「ご迷惑を、おかけしました」
 葵の言葉に応えるでもなく、桔梗は盆を持って廊下へ出た。するとすぐ横には村夫子かぶれどころか、本当に国に仕えていた面皰にきびづらの若者が侍っている。部屋から出てきた彼女をみて、彼は頭を下げた。
「お手を煩わせました」
「いいえ」
 そして見送りを断って、玄関に至ったとき、大きく温かな手に引き留められてしまった。
「もうお帰りかぃ?」
 振り向かずともそれが椿の山茶さんざであることは分かっていた。
「そうです」
「男たぁ、命の危機が迫ると情けないもんだ。女を求めるのさ。意思に関係なくねぇ。で、今、葵ノ君も命の危機が迫ってる。それに若いときた。あーしの言いたいことが、分かるね?」
「いいえ、まったく。分かりません」
 桔梗は顔を背けた。
「葵ノ君の身体を慰めてくれって言ってんだよ」
「何故……」
「何故?そら、ここには野郎しかいねぇんだ。目覚めちまったらどうする?気色の悪い。お嬢さんお気に入りのあの農民はどうだ?そんな別嬪を捕まえて何の気も起こさないなら、男色家なんじゃないのかね?葵ノ君には気の毒だが、いっちょここへ……」
 桔梗は肩に置かれた手を叩き落とした。椿の山茶の瞳に剣呑な炎がかぎろい消えた。
「アサガオさんが男色家かどうかなんてわたしも知りません。けれどたとえ男色家であったとしても、だから誰でも男の人を押し付けておけばいいとは、わたしは思いません。椿の山茶様は、女なれば誰であっても美味しくいただくというお考えのようですが、わたしは違います」
 椿の山茶は叩き落とされた手で顎を撫でている。
「なるほど。女はそうかもな。でも男なら、なんでもいいのさ。なんでも食う。高尚なものだと思っちゃっちゃっちゃっちゃぁいけないねぇ。あーし等は野獣なんでさぁ」
「それなら村の女性にょしょうから集ってみたらいいのでは。薬師さまは艶福家でいらっしゃる。自らならば志願者も無くはないでしょう」
「はしたないものよな」
「好いた人と交わりたいという想いを、そうは思いません」
 真意なのか、好いた男の幻によがり狂った自身への言い訳なのか、彼女も分からなかった。最初はそういう心算こころづもりではなかったはずなのだ。それが段々と変わっていってしまった。清らかな友人からひとりの男に変わっていってしまった。安らぎだけではなく、そこに甘酸っぱさと、時折り生々しい疼きも抱くようになってしまった。
 彼女は椿の山茶を睨み、屋敷を後にした。
 帰宅すると、アサガオもすでに戻っていた。
「おかえりなさい、アサガオさん」
「ただいまぁ」
「ごめんなさい。向かいの薬屋の店主が病気をして、そのお世話を頼まれたものだから」
 アサガオは気のいい顔をして頷く。
「うんうん、だーりゃくんから聞いた。病気なんだ!あのお着物貸してくれた人だよね?そだ、おで、明日ウナギ獲ってくるよ!何のお返しもしてなかったし」
 無邪気に言っているが、ウナギの価値を桔梗も知らないわけではなかった。あてにはしていない。

 しかし翌日、朝早くから出掛けたアサガオは本当にウナギを獲ってきた。2匹いる。
「1匹持っていきなよ。もう1匹は、桔梗ちゃんとだーりゃくんと、みんなで食べよ!ウナギのね、よく獲れる川があるんだ!」
 嬉々として彼は語った。
「ダーシャ、持っていってくれるかな」
 椿の山茶はわざわざ玄関まで出てこないだろう。しかし桔梗は彼と顔を合わせたくなかった。
「はい」
「すまないね」
「いいえ、いいえ!」
 何故女主人が悄然と詫びるのか、ダリアは知るよしもない。彼女のすまなそうな様子に、かえってこの少年はたじろいでいるふうだった。
 彼はウナギを盥に入れて、薬屋の邸に運んでいった。
「朝早くから、疲れたでしょう」
 玄関の高敷台に腰を下ろすアサガオはへらへらしている。
「お弁当作ってた桔梗ちゃんも朝早かったんじゃないの」
「だって昨晩のものを詰めただけだし、そのあと働いていたわけでもないもの」
「へ、へ、へ。身体だけは丈夫なんよ」
「汚れているわ。先に湯浴みにする?」
 桔梗はアサガオの背中に顔を寄せた。朗らかの昼間を背負って持ってきたみたいな匂いがする。
「そうする!」
「出たらすぐ食べられるようにしておきますから」
 アサガオと入れ違いにダリアが戻ってきた。彼は、椿の山茶が桔梗を呼んでいることを告げた。この少年を遣いにやった意味はなかった。
「そうか。すまなかったな、ダリア。ありがとう。けれど、遅くなるかもしれない。アサガオさんが湯浴みを終えたら食べられるようにしておいてくれ。おまえも先に、アサガオさんと食べていなさい」
「はい」
 桔梗はいじらしい使用人の頭をぽんと優しく叩くと、薬屋の邸を訪ねる。また大怪我人に飯を食わせろという話だろう。まだあの者は食事を拒否しているらしい。
 しかし違った。椿の山茶と顔を合わせると、突然彼女は軽々と抱き上げられ、廊下の屋根裏に放られてしまった。
「何を……」
「そのまま葵ノ君の部屋を覗いてみなさいや」
 屋根裏は通路になっていた。四つ這いでなければ移動はしづらいが、しかし狭いというわけでもなかった。この邸は隠密を置いている。そして場合によっては暗殺の場としているのかもしれない。過去に、その処理らしき場面に立ち合っている。遠方からきた者がこの家を訪ね、そして……
 考えすぎである。桔梗はくだらなくなってしまった。あの遠方から来たらしい者は、知らぬうちに帰路に就いたのだ。
 彼女はうんざりしながら通路を辿り、下から明かりの漏れた場所を見つける。そこは天井板がわずかに外されてずれている。すると、ネコがひゃんひゃん鳴く声が聞こえた。だがよく耳を澄ますとそれは女の艶やかな声であった。ぎょっとして桔梗は隙間の奥を見詰めてしまった。
 紅い着物の華々しい女が、葵の下半身に跨っていた。乱れた長い髪の感じからして農民ではないようだった。いいや、身に付けているものから農民ではなかった。奢侈しゃし禁止令が敷かれているわけではないが、この村にそのような高価なものを持っている家はまず見ない。街から来た者であろうか。大怪我人の上で身体を揺すっている。
 もう逝きますワ!
 女は天井を仰いで、一際激しく動いた。
「あ……ぁあっ……」
 死にそうな喘ぎに艶やかな呻めきが混ざっている。
 もう逝きます!逝きます!アア―!
「う………あ、あ………」
 絶頂を迎える女肉の引き締めに悦んでいるのか、将又はたまた、血流が良くなって傷が痛んでいるのか、彼は掠れた叫びを漏らす。しかし仰け反って震えている女を突き上げているのは葵である。苦痛のみではないようだった。
 桔梗は眉を顰めた。膝立ちをするゆとりはある空間だったため、彼女は上手いこと方向転換して玄関へと戻った。椿の山茶が待っている。
「どうだったい?」
「悪趣味なものを……」
 非難を込めると、椿の山茶は嬉々として笑っている。そして屋根裏の姫君を降ろそうと腕を掲げた。
「結構です。飛び降りますから」
 椿の山茶は挑戦的に口の端を吊り上げたか。桔梗は宣言どおりに飛び降りた。
「危のうございます」
 死角にいた使用人の石蕗がぴしゃりと言った。そのといい、言い方といい、少し葵に似ている。葵というのは平生へいぜい、気性も内容も穏やかで優しい男ではあるが、いくらか言動に嫌味たらしいところがある。
「怪我したらあーしが看護してやるさ」
「桔梗様。先程はうなぎを贈ってくださって、ありがとうございます。明日の夕餉に焼いて葵の旦那様にお出しします」
「ああ……いいえ。アサガオさんが以前着る物を借りたことについて、大変恩を感じているようでしたから」
 アサガオの名が出た途端に、椿の山茶は邸の奥に隠れてしまった。
「葵の旦那様に会っていかれますか」
 石蕗はもう一人の主を顧ることもない。
「取り込み中でしょう」
 まさかこの使用人が気付かないということはあるまい。
「桔梗様がいらしたと言えば、すぐにでも……」
「それは悪いわ。大きな怪我なのだし。また改めて」
 帰ろうと履き物へ爪先を伸ばそうとした瞬間、力強く腕を引かれ、桔梗は暖簾のかかる玄関を入ってすぐ左の廊下へ攫われた。壁に張り付けられ、両端に腕が突き立った。眼前には石蕗の若さゆえ肌荒れした顔がある。面皰すらも青い生気を感じさせるほど、なかなか麗かな顔立ちをしている。いいやむしろ、頬に薄紅を秘めた面皰づらが、泰然としている彼には外観的な美点のようになっている。
「どうし―」
 口を開くと冷たい掌に塞がれる。玄関を隔てた向こう岸の廊下から、女の声がした。暖簾の下から赤い着物が見えた。
 ではまたお邪魔します。
 わざとらしい強い抑揚は、地方訛りを隠しているようだ。誰も見送りはしない。
「お待ちください」
 石蕗は耳元で囁くと、桔梗から離れて玄関へと出ていった。
『本日は遠路遥々ありがとうございました。突然お呼びだてをして申し訳ありません』
『うっふっふ。なんえぇ、なんえぇ、構いませんのよぉ。椿様んのお呼び出しですものぉ』
 赤い着物の、農民では無い女は溌剌としている。喋り方に媚びはあるが、きびきびと張りのある声は心地良い。
『助かりました』
『お次ぃは石蕗さんのお世話をしてもいいんですぇ。うっふっふ』
 そして彼女の出てきた廊下から、先程桔梗のいる廊下へと消えていった椿の山茶が現れる。玄関で二手に分かれておきながら、邸内は繋がっている。
『睡蓮!終わったかぃや。ありがてんね』
『あぁらぁ、椿様ん』
 すでに女は椿の山茶の厚みのある胸板に飛び込む。
『今度はあーしが、うんと可愛がってやっからよ』
『ああん、腰が抜けてしまいますわぁ』
 それから椿の山茶は桔梗のほうへ来たかと思うと、玄関へ引っ張り出した。赤い着物の女は驚いた顔をする。
「茉莉大殿から拝領した葵ノ君の許嫁。照れ屋でな。嫁の務めを果たさんで」
 桔梗もまた驚いて、赤い着物の女の目を見詰めてしまっていた。
「あぁらぁ。こんなかぁいらしお嬢さんと、葵様が?うっふっふ。なんだか、草木萌ゆるが如くの感慨ですわぁねぇ」
 着物の鮮やかさに劣らない真っ赤な唇を彼女は袖で隠した。桔梗は否定の機を逃してしまう。
「葵ノ君はなかなかの技巧者ですぇえ。怖がらないでいいと思いますけれど」
 桔梗はふっと顔を赤くした。
「睡蓮。ウナギ持っていきやっせ」
 石蕗がゆるりと、桔梗は咄嗟に、椿の山茶を見遣った。
「あぁらぁ。いややぁん、椿様ん。わぁすを元気にして、どうなさるおつもりなん?」
 椿の山茶は盥ごとウナギを渡した。女が受け取った。爪も赤く塗られている。
「ご馳走様ねぇ」
 それから二言三言あってから、赤い着物の女は帰っていった。桔梗はアサガオの善意が無下にされてから心身共に微動だにせず佇立していた。
「椿の旦那様……何故」
「食いたかったけ、石蕗くん。今度街で食わしてやら。何が悲しうて賎民の釣ったもんなんぞ食わないけんのや」
 椿の山茶は踵を返した。
「桔梗様……」
 石蕗は気遣わしげである。却って桔梗は、板挟み状態の彼が哀れになってしまった。
「アサガオさんの、ただの気持ちだから……渡すまでのことで、渡したあとは、そちらのお好きなようにすればいいのだし……わたしがああだこうだ言うのは、間違っていますから」
「大変な失礼をいたしました」
「貴方は悪くありません。そう気を遣わないでください。椿の山茶様に、飽きるほど食べさせてもらってください。では……」
 彼女は住まいへと帰っていった。玄関を開けると談笑が聞こえた。
「おかえり、桔梗ちゃん!」
 アサガオとともにダリアもやってきた。
「先にいただいております」
「そうか。よかった」
 ダリアの髪を所在なく撫で梳いた。
 3人の団欒に彼女は幸せだった。久しく忘れていた歓びを味わう。そして寝る前になって突如として涙を数えるほどこぼして泣いた。特に理由は、桔梗の中にも思い当たるところはない。



 アサガオが桔梗の住まう屋敷に身を寄せて数日。彼女は欠かさず畑仕事にいくアサガオへ弁当を作り、見送った。その仲睦まじい様を目にして、若夫婦だと思わぬ者はいなかった。しかしすぐに異様な噂が立つのは、若い夫が出掛けると、それを見送っていた若妻に声をかけるこれまた若いが、こちらは背丈があり肩幅も広く強そうで華やかな男がいることだった。知らぬは若夫ばかりなり。
「精が出るねぇ。夫婦めおとごっこも、今日までかも分からんぞな」
 椿の山茶は欠伸をして、大きく開いた衿から晒す厚い胸板を掻いた。好色的でいやらしい。
「おはようございます、椿の山茶様」
 振り返りもせずに彼女は言った。
「ま~だ怒ってんのかい」
 アサガオを蔑ろにする椿の山茶を、桔梗のほうでも冷淡に扱った。
「薬師様のご容態はいかがです」
「お嬢さんは意外と性格が悪ぃんな。猫被り娘もあーしゃ嫌いじゃないがね。葵ノ君は相変わらずさ。食事まんまも大して食いたがらん。シモの話でいえば、あれはやらんほうがいいな。血流良くなって傷開いて出血して、悪化したらしいわ」
 それは愉快そうに、人の災難を語っている。桔梗は非難の眼差しをくれた。
「あーしと喋らんで済ますためなら、葵ノ君の心配までしてくれるたぁね」
 彼女の爪先は住まいの玄関のほうを向いている。
「街のほうで、人狼討伐隊が編成されたらしいぜ」
「……そうですか」
「何もないといいがね」
「そうですね」
 桔梗は家の中へと入ってしまった。それから少しして、彼女は縫い物をしているときに、背後から気配を感じて振り返った。ダリアが爛れて濡れた傷を見せて立っている。異様な佇まいだった。
「ダーシャ……どうした?」
 彼は一点を凝らし、それも意味のある一点ではなく、虚空を見詰め、火傷のあるほうの目から、一筋涙を滴らせた。
「ダーシャ……?どうしたんだ。ダーシャ……」
 桔梗はすぐさま立ち上がって、彼の肩を揺さぶる。
「アサガオさま……アサガオさまが……」
「アサガオさん?アサガオさんが、どうした?」
 ところがダリアは何かに憑かれたようであった。
「ダーシャ!」
 どこから現れたか、哀れな少年の脚を辿り、胴を辿り、首で巡って、白い蛇が首を伸ばし、桔梗と同じ目線をとった。
「アサガオさんに何かしたのですか」
 彼女の口調は厳しくなる。白蛇に返事はなかった。焦れる。彼女はすでに走り出していた。橙色に染まる空の下を駆け、アサガオの畑に辿り着く。横腹が痛んだ。足も痛む。しかし畑に目的の人物がいないと分かると、桔梗はまた走り出した。アサガオの名を呼ぶ。日が暮れて、やっと彼女は、遠くで赫赫かくかくと燃えている場所があることに気付くのであった。彼女はまた走った。つまずき、転び、足袋を汚した。やがて鼻緒が千切れ、膝を打つだけでなく、前面から地面に叩きつけられた。桔梗は横たわる履物を気味悪そうに眺めた。アサガオの身に、何か起こっている。
 足袋のまま、彼女はひた走る。街が燃え、黒煙が空を覆っている。きな臭さが風に乗って、桔梗の鼻をくすぐった。
 阿鼻叫喚が聞こえる。目を覆いたくなるほどの眩しさだった。アサガオの名を叫ぶ。そして火炎に照らし出される人々の影を縫い、避難から逆流して焼き尽くされていく街並みに入った。アサガオの名を呼ぶ。すると後頭部に衝撃が走った。桔梗は立っていられなくなって、視界が急降下する。さらには霞がかかった。
「アサガオさん……アサガオさん…………」
 眼球が上へ上へと引っ張られる。目蓋が重い。譫言をこぼしながら、彼女は引き摺られていく。
 人狼の番いを捕まえたぞ!
 人狼の番いを捕まえたぞ!
 人狼の番いをやっつけろ!
 喊の声が聞こえた。怨嗟に満ちた怒号と轟音が地を揺らす。
 今すぐ旦那の後を追わせてやるからな!
 人狼の番いめ!後生人の身に生まれることを赦さんぞ!
 狗畜生の分際で、人間を騙しおって!
 このやまいぬ風情が!
 彼女はやがて意識を失った。この状況では、そのほうが幸せであったのかもしれない。しかし、あまりにも身に覚えのない話だ。彼女はそれが誰に向けて放たれた熱罵であるのか、皆目見当もつかなかった。
 人狼は捕まったのか。人狼は2人組であると誰かが言っていた。人狼の番いというのも捕まったらしい。アサガオの疑惑も解けるであろう。椿の山茶は、あの疎まれた隠者は……
 焦げ臭さに混じる血腥さを、桔梗は意識を失いながら嗅いでいた。
 女の襟首を掴んで引き摺る街民の前を、阻む人影があった。黒い着流しに暗赤色の帯、金塗の算盤玉の首飾りを垂らしているが、どれも朱に染まっている。艶やかな黒髪も煌々とした焔に照らされて緋い。
「その娘の始末は、我等討伐隊に任せてもらいたい」
―……
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