18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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花狩り移紅し 一人称視点/差別的表現/猟奇的な描写/和風モノ

【花狩り移紅し】青桜の項 青饅ルート/男性側一人称/18禁展開無し/造語、独自宗教観あり

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青桜の項

 花ヶ住かがすみ村はもう終わりかもしれない。上様がお気に召していらせられる桜並木のために人身御供を立てていた。このことは都を怒らせ、上様のご尊名、ご名誉すらもこぼしかねなかった。
 わたくしは長年仕えたやしきの主人、紅梅千花あかうめちか様と村長が打首になるのを遠巻きに見ていた花ヶ住村の人々も桜供物さくもつの在り方に対して思うところがあったのか、怒張声どっちょうごえや罵詈雑言が飛ぶ。私は見ていられなかった。紅梅千花様と村長は、確かに責任者である。ゆえに矛先を受ける立場にある。しかし悪罵や誹りを受けるほど、彼等は私利私欲のみに走っただろうか?利己的であっただろうか。後ろめたさが皆無と言えただろうか。彼等の最期を見届けるのも仕えた身の務めと思った。だが耐えられない。この愚かさに。
 私は生まれの部落へ帰ろうとした。けれども視線を感じて立ち止まる。暗い顔をした娘は、八重とかいった。時折り屋敷で見掛けた。白梅千花しろうめちか様には珍しい女の客人だ。あの方は兄の紅梅千花様との血脈けちみゃくがどこかで混ざるのを忌避して、村の女と関わってはならなかった。けれど彼女の弟が間に入ることによって、彼女だけは白梅千花様と親交があったようだけれど、当の白梅千花様は、紅梅千花様に命ぜられ、気のれた女を連れて逃げたのだ。そして八重とかいう娘の弟も、紅梅千花様の後継者として都へ引かれていってしまった。つまり彼女は今、ひとりだった。ひとり……
 私には零花生まれの友人がいる。彼はこのひとを好いていた。この女を庇うために上様に義烈なご注進を申し上げ奉り、帰ってくることはなかった。私は止めた。けれど彼は聞きかなかった。穢人ヱびとが声をかけることは大罪だ。たとえ謀叛の報せであろうと。彼は処されたのだろう。蟲の知らせというものがある。彼の家の周りには見事な白い紗椿があって、まだ瑞々しく開いていたそれがひとつ頭から落ちたとき、私は彼が処されたと思った。こうして彼の注進を耳に入れて、ここまでお見えになっておきながら、彼は帰ってこない。
 私は悔しく思った。花ヶ住生まれの男と零花生まれの女との間に生まれた兄妹の子。近親相姦児。それが私だ。祖父母の代から行き場がなく、親の代から呪われている忌みの私にも親しくしてくれた人なのだ。零花に生まれながら、零花でも蔑まれ疎まれてきた私に優しくしてくれた人なのだ。楽土楽界天とは彼のことだ。
 彼女は私の生い立ちも、彼の終始も知らないのだろう。結果、この村の桜供物さくもつは廃止され、花狩り桜も根絶されるというのに。私は彼女を見ていられなかった。そして部落に帰ると、彼の処断を告げた椿を拾った。彼女が何も知らず、のうのうと暮らしていくのが赦せなかった。
 斃死が宿命付けられていた私を拾ったのは、櫻雲よううんというここよりさらにひなびた場所に住む老爺だった。私を隠密として仕込み、屋敷に遣った。隠密になるためには身を大きくしてはならないために私は壺中こちゅうで暮らさなければならなかったが、屋根のあるところに住め、飯が出るのだから悪くない待遇だった。それを金子きんす銀子ぎんすのためではなくやってのけたのだからあの人はすごい。
 私はひとつ残されたこの身軽さを使って、彼女の住まう窓辺に彼の形見にもなれない椿を置いた。散りどきを知る花は美しいらしい。私はそうは思わない。けれど人の業。終わりが見えなければ価値に鈍する。
 本当に行き場を無くしていた頃、流浪の民になるしかないところに一報があった。零花部落の解放だった。上様の御触れであるけれど急だった。生粋きっすいの零花部落生まれならばまずは喜びがあるかも知れない。どう生きるのか戸惑いはその後のことだろう。けれど私の身には危険なことであった。私は亡き友が想いを寄せた女の家に急いだ。私も当然、解放された側の身であるから、花ヶ住村の無断の来訪も罪ではない。彼女は私を見るなり怯えていた。それも無理からぬこと。頬被りも口当てもなく、山着姿の私に会うのは初めてだろう。
「逃げませんか」
 花ヶ住村の、天下てんげの人々は認めてこなかったことでも、零花部落も人間ひとの集まり。怨み、嫉み、憎しみもあって然る。
 紅梅千花様はすべてを悟ったときに、私の身の上を心配していくらか銀子ぎんす銅子どうすを渡してくださった。見た目の麗しさによってこの村に来たという話だけれど聡明な御方だったから、こうなることも、もしかしたら予見していたのかも知れない。
 だからとりあえずこの地から逃げるだけの金はある。その後の生計はその後に考えればいい。
「私は青饅あおぬたです。屋敷にいた……」
 私は彼女に手を差し出し続ける。彼女は怯えてばかりで応えてはくれない。私が許されない血筋の人間だからか……
「ここにいても仕方がないのです。乗っ取りが起こるのは目に見えています。行きましょう。私が―……」
 私は自分で口にしておきながら、悲しくなってしまった。そのとき目蓋の裏に閃いたものが友人だったから。
「守ります」
 つまりこのひとを守らなければ、彼の本懐は遂げられない。顔面から落ちた白椿の姿が私を苦しくした。
「どうして、ですか」
 彼女は慄きながら訊ねた。そうだろう。そう思うだろう。
「貴方が恩人の、大切な人だからです」
「恩人……?」
 言ってしまってから、誤解を生む表現だと思った。彼女は私を屋敷の使用人だとしか知らない。紅梅千花様も私によくしてくださった人に違いはない。けれど生業なりわいによるしがらみだ。
「私は零花の生まれ。それだけです」
 彼女は目を見開いて、涙に濡らしました。これを私が言った意味。ここに本人が現れない意味。それ等が伝わったのでしょう。
「あの人は……」
「私は確答こたえを持っておりません」
 いくらか彼女は前のめりになった。淑やかな娘ではあるけれど、村の決まりを越えて零花部落の男と逢うような強かさを持っているのだから油断はできない。
「零花部落が解放されました。ここにいては、いずれは……」
 何の騒ぎか、近隣は慌ただしい。それが彼女を急かしたらしい。冷たい手が私に触れた。母の温もりの知らぬ私が、初めて触れたおなごの肌のように思った。女の業というのか、紅梅千花様と村の女が交合まぐわうとき、場合によっては私は素顔を晒し、隅に侍っていた。こうすることで女の身体はさらに胤を欲するのだそうだ。つまり、傍に他の男がいることで……だから女の肌は何度も目にしたことがある。だが触れたことはなかった。特に、このように冷たく、咲きたての花のような肌には……屋敷にあった漆の箱の滑らかさにも似ている。
 私は掌が溶けそうなのを感じたが、すぐに引き戻される。彼女を連れて逃げなければ、友の本懐は遂げられない。彼は何も村の解体や部落の解放、花狩り桜の根絶やしを念頭に散っていったのではない。彼女こそを救いたいがために散ったのだ。
 引き上げるけれど、女の軽さというものを知らない私は力任せだった。彼女は私の胸に吸い寄せられる。あまりの軽さ、柔らかさに私は本当に守りきれるのか不安を覚えずにいられなかった。何よりも香とは違う甘い匂いがする。
 私は立ち眩みがして、重苦しい息が出た。
「裏口があります」
 彼女のほうが私の腕を掴み、これではどちらがどちらを連れて逃げようとしているのか傍目はためからは分からないだろう。少し離れたところから私たちは元来た道を振り返った。村の正面には紅梅千花様と村長を処断したときのような人集ひとだかりができていた。昼間だというのに松明を持ち、田畑ではないのに鋤鍬鎌鉈を手にした見知った顔触れ。乱奪りがはじまるのかもしれない。この小さな村で戦が起きる。それは清算か、ただの暴力であるのか、真っ当な駆け引きであるのか。
 彼女は立ち止まって、村の有様を見ていた。
「行きましょう」
 私は先を促す。
「わたしだけ、逃げてしまっても……」
「貴方が逃げるのは、貴方のためではありません。ご自分のためだと思うな」
 私はまだ立ち止まる彼女の手を引いた。女の軽さ、柔らかさ。力加減がまだ分からない。
 途中で花狩り川の近くを通った。桜の樹々は少しずつ伐採されている。枝を折った者は殺さねばならないという言い伝えも、また実行しなければならない決まりも、上様の御諚ごじょうとあらば風の前の塵に等しい。何故なら、もう桜は要らないのだ。腐らして枯らしてしまっても構わないし、その方が伐り倒すのも楽であろう。
 私はこのひとに、すべてを話さなかった。野暮な気がした。或いは却って友の面に泥を塗りたくるような気さえした。
「これから……どうするんですか」
「まずは住む場所を……探しましょう」
 私は彼女と流離さすらった。野宿の日もあれば、宿に泊まることもあった。私一人なら外でよかったけれど、女には堪えるだろう。私は彼女をひとり置いて外で寝泊まりしていた。このままどこか、彼女の落ち着く場所を探して、そこに置いたら、私はどこかで花狩り桜よろしく散ることにしよう。誰も何も知らない場所に彼女を置いて。友の願いはそれで叶うだろう。生き続ける彼女はこの先違う男と契るのかも知れないが、私の友に報いるためにできることはそれで限界だ。そう考えていた。しかし宿の前の道を通る人買いを目にした途端に考えを改めた。女衒ぜげんであろう。年端としはもいかない幼い娘が2人、連れていかれる。これもあきない。人の生きていくすべ。同情の目を浴びながら通り過ぎていく。
 花ヶ住村も金に困ったときは零花部落の娘を見繕い、ほんの少しの間は村の女として扱って人買いに売り渡すことがあった。両脚のない片輪の娘と白痴の娘は特に高く売れたそうな。あの中に何人、紅梅千花様の胤がいたか。
 女一人では生きてゆかれない。
 私は泣き喚く女児の声が通り過ぎるのを聞いていた。幸い、あの娘は縹緻きりょうが良い。品もある。淑やかだ。このひとに男を宛てがうまで、私は人生の清算もできないというわけだ。生まれ堕ちてくるべきでなかった命でも、生まれ堕ちれば業もしがらみも生まれ出づる。それに苦しむことになる。悲嘆することになる。生まれたときに為すべきことを引き摺ってきてしまった。為すべきを忘れて。私は成り行きに抗わず斃死すればよかったのだ。
 宿の脇の軒下にうずくまっていると、あの娘が宿から出てきた。私を見つける。逃げ出そうとしていたのか。それならそれでも構わない。思い直して村へ帰ろうとしたのでも。
「青饅さん」
 娘は私の姿を見つけ、諦めでもしたのか傍へやって来る。
「お夕餉の時間ですって……」
「お一人分しか頼んでおりません」
「今追加で作ってもらっています」
 私は何かが気に入らなかった。立ち上がって、急にこの娘を威嚇したくなった。
「何故怒るのです。いただきましょう」
 村を出てから、いいや、もっと前から彼女の顔付きは研いだようになってしまった。針のようになってしまった。温容は薄れ、あらゆるものがそそけ立っているように思う。
 私は顔に苛立ちが表れていたのか、怒っていた肩を鎮めた。
「余計なことをなさるな」
 彼女は眉を顰めたのみで言い返すことはしなかった。あとは知らぬとばかりに宿へ戻り、私は苛立ちが募って中には戻らなかった。私は暗闇でよい。私は路傍の石ころでよい。彼女が私を認めているのが憎い。そう生きてきた。
「戻ってきなさい!」
 私の真上の階にある窓が開き、隣の家にその声が跳ね返る。あの娘の声だった。私は腹が無性に腹が立った。理由はない。私は二つ返事で動く奴隷ではないのだ。私は……
 私は宿の中へ戻った。彼女は飯を食っていた。傍にもうひとつ膳があり、雑炊が置かれている。彼女は何も言わなかった。凛として座り、飯を食い続ける。私を見ることもない。
「余計なことを、なさるな……」
「あの人のご友人だというから、私はあの人に恥じたくないだけです」
 彼女は私に目もくれなかった。友のことを出されては弱い。私は膳の前に腰を下ろした。腹は空いていない。けれど雑炊を一口、口に入れた途端、目頭が熱くなった。冷えた雑炊だというのに。
 様々なことが思い起こされた。零花部落と花ヶ住村しか知らない私が、まったく知らない土地で、よく知らないおなごと共にいる。不安だ。これからどうなるのだろう。私は何をしたら。生まれ堕ちてしまった咎をすすげるのだろう?


「あまり一人にしないでください」
 彼女は外へ行こうとする私を引き留めた。布団の中で、あとは寝るだけ。明かりもない部屋で、寝衣は白く浮かんで見えた。
 私は開けてしまった襖を閉め、彼女から離れた部屋の隅にうずくまる。屋敷の屋根裏に潜んでいた仕事が恋しく思う。
「これから、どうするのですか」
「早くお休みになってくださいまし」
「何故、一人分しか、食事も布団も取らないのです。お金なら……」
「私に構うな」
 彼女はそれきり口を開かず、小さな衣擦れをさせて横になった。
 私こそ訊きたい。けれど誰が答えられる。この娘を預けられる良家の息子。だが良家の息子が禁じられた村の生まれのこの娘を娶ろうはずもない。使用人以下の扱いをされ、女衒に渡されるのが目に見えている。これからどうするのか、私にも分からない。ただ相手は女。ずっと流離っていられるわけもない。友の好いた女を仕合わせな道に行かせるのがあまりにも難しく、私には重い。
 私は不安に押し潰される。失くしていたと思っていた。
 ひたひたと微かな跫音あしおとがして、気が付くと目の前には彼女が立っていた。私は自分の感覚が容易く鈍っていくのを感じていた。
 彼女の羽織っていた寝衣の上着が私の目を覆ってしまう。
「私に、」
「寒いと弱気になるものです」
 彼女は布団へ戻っていった。
「弱気になど、なっておりません」
 言葉を発したとき、私は喉が熱く、締め上げられているような感じがあった。一度は引いた目頭の熱はふたたび現れたが最後、今度は眼玉を覆い尽くす。
「……そう」
 私は傍で観ているだけの人間。これからもそうで、そう在るべきなのだ。友に報いたい。けれどこの選択は間違っていたのか……
 


 夜を重ね、辿り着いた都は言葉遣いもわずかに違っていた。ここならば、と私は思った。残った銀子ぎんすでさっそく長屋のひとつを借りた。出ていく私を彼女は引き留める。ここに来る途中の宿では勝手に飯を用意したり、共に部屋で過ごすということは無くなっていたから彼女のこの行動にたじろいだ。慣れはしない。女の肌というのは恐ろしく柔らかい。
「八重さま……」
 私は初めて彼女の名を口にした気がした。
「ここに住むの?」
「ここが一番かと思われます」
「じゃあ、仕事を探して、色々と買い揃えなきゃね」
 私は返事に困った。私は貴方をここに落ち着かせたら、早く散ってしまいたいのだ。そう言えるはずもない。知らぬ土地に女は一人で生きてゆかれない。私が次に為すことは、彼女に良人を宛てがうことだ。散りにいくのは、友に報いたその後だ。彼は私を人間にしたのだ。野良狗ほどの力も知恵も活気もない私を、彼が人間にしたのだ。
「私は薬草と推拿すいなの心得がありますから、それで店でもやります」
 良人が見つかるまで、私はこの娘を養わねばならないだろう。逃げ出すときに守ると言った。それが彼女を連れ出す約束だった。それまではまだ散れない。友に報いたい。今、私が生きる理由はそれしない。
 そうして暮らしているうちに、やがて彼女もどこからか仕事を見つけてきて、長屋で文を書いたり、算盤を弾いたり、書に朱筆を入れたりしては日銭を稼ぐようになった。
「そんな暮らしでは、身体を壊します」
 或る日、彼女は私に布団を買ってきた。私が部屋の隅で座って寝るのが気に入らないらしい。
「私の生まれをご存知ないのですね」
 零花部落の生まれだとは察しはつくだろう。けれど事実は零花生まれよりも酷いのだ。それを知らないから布団を並べて寝ようなどと、椀を並べて飯を食おうなどと言えるのだ。このひとを辱めてはならない。この人は生まれこそ恵まれなかったが、鶴のような男が愛したおなごなのだ。
「生まれなんて、もう過去のことではありませんか」
 彼女の言っていることはどう捉えても間違いはない。部落は解放されたのだ。そして逃げ出してきて、ここはまったく別の土地で、そこで暮らそうとしているのだ。
「私を知らないからそうおっしゃれる」
「知りたいと言えば、知らせてくれるのですか」
 彼女は人が変わってしまったように思う。こんなに気の強い娘であったろうか。淑やかなのには違いはないが、可憐さは失われた。そうだろう。可憐ではやっていけない。他の者ならば、彼女をそのままここに連れてくることができたのだろうか。
「私を知ろうとなさるな。私に構わないでくださいまし。いいのです、私は座って寝るのが常でした」
「お屋敷でもですか」
「私がそうしたいのです!」
 私はそうしてきた。私の身の上を知る者は私を哀れむ。同時に私の穢らわしい身の上話は相手を汚涜する。そして私はそのことに直面できない。私が私を認めることを拒んでいる。
「青饅さん。それでもわたしは、あなたに対して、ここに連れてきてもらったご恩があるのです。ご恩があれば報いたいと思うもの。そうでしょう」
「貴方が私に感じる恩などありません。何ひとつ無いのです。私に構うな!私に構うな!私に構わないでいただきたい!」
 私は恐ろしくなった。涙が溢れ出て止まらなくなってしまう。感情など捨てたはずだ。あるだけ虚しくなるだけだ。
「独りになったわたしを救っておいてですか。孤独なわたしを救っておいて、私に構うな?」
 彼女が私に触れた。彼女の冷たい手は震えていて、私は女の柔らかさに慄いた。
「わたしのやり方が気に入らなかったのなら、それはわたしの落ち度です。けれどわたしも憐れなおんな。他にやり口が見つかりません」
 彼女の柔らかな手が私の手を拾い、女の胸の膨らみへと押し当てた。恐ろしかった。私の手は水銀中毒のように震えが治まらなかった。彼女の手も震えていた。
「私に構うな……!私に構うな、私に………」
 女の身体が恐ろしいのだ。何故禁忌と知りながら契るのか。何故、夫ではない紅梅様と契れたのか。理解のできない恐ろしい生き物。私は震えて、立っていられなくなった。
「青饅さん。孤独なわたしには、もうあなたしかいないのです。構わないことなどできるはずもない」
 私は壺中で育ち背が低い。いいや、隠密を目指さずとも、幼い日の思い出の中が暗闇と桶の中だったことを思うと背は伸びなかったのだろう。この娘とそう背丈が変わらないのは対峙したときからよく分かっていた。けれどあまりにも、今の彼女は大きく見えた。尻をついて泣き喚く私を、水のように恐ろしいほどの柔らかさで包み込むのだ。私は怖かった。身の預け方を知らない。私の肩は怒り、肘は強張るのだ。
「私はいやらしい人間なのです。おやめください。赦してください。怖いのです、怖いのです、嫌だ……」
 私は彼女を突き飛ばした。彼女は後ろへよろめいて、尻餅をつく。私は自分の金切り声が耳にこびりついたまま、気付くと長屋を飛び出していた。
 私は町からも出て、少し歩くと小さいながらも深く掘られた川を見つけた。短い橋が架かり、見下ろしてみると水嵩は低いのが月明かりに照らされて見えた。私は恩人の大切な女に酷いことをしてしまった。死ななくてはならないだろう。彼女は一人で生きてゆかれるだろう。私の案じることではないだろう。私が布団を並べていいはずない。共に膳を並べて飯を食っていいはずがない。私は不見児みえずごなのだ。だのに何故、彼女は私を抱き締めたのだ。
 数えるほどの桜の花弁が川を下っていく。季節が移ろうのだ。友の家の椿もそろそろ花を落とし切った頃だろう。
 私は激しく浮沈する胸が落ち着くの待って、まだ長屋に戻った。燈は消されて、彼女は寝ている。その横に新しい布団が敷いてあるのをみると、私はまた胸が苦しくなるのだった。
「おかえりなさい」
 彼女は起きて、静かに私の姿を見つける。私は腹が立って、彼女に背を向けてしまった。
「外で眠るのはやめて。中が泥だらけになるでしょう」
 私は土間へと降りる板敷に腰を掛けた。
「どうしたらあなたは、安らげるのでしょう。安らげる日は、来るのでしょう」
 夜に冷まされた、彼女の甘い匂いがする。若い女は甘い匂いがするものなのだと、前に紅梅千花様が話していた。あの御方は背丈があって、病弱であるようだったけれど膂力りょりょくは私よりあったように思う。どうやって女の柔らかく軽い身体を扱っていたのだろう。
「私が安らぐ必要はないのです」
「何故ですか」
「人がひとり安らぎを得るには並大抵の努力が要るでしょう。私は人には成りきれなかった。安らぎを得るにはつらく厳しい道を往くでしょう。その覚悟はないのです」
 私は草鞋の裏で土間を擦った。その音に紛れて、彼女の接近に気付かずにいた。水みたいな柔らかさが背中を覆って、私はまた恐ろしくなる。
「何のお戯れですか」
「人が怖いのね」
「人が怖いのではありません。女が怖いのです」
 首根っこを噛まれた猫みたいに私は動けなかった。また彼女を突き飛ばしてしまうかもしれない。女が怖い。柔らかすぎる。私はよく壊さずにここまで連れて来られたものだと感心した。
「そう。明日も早いから、わたしは先に寝ます。風病はたいへんですから、身体は冷やさないように」
 彼女の甘い匂いの残る上着が私の肩に掛けられた。軈て寝息が聞こえて、これが人の云う人並みの安らぎのように思えた。だとしたら呆気ない。私には恐ろしいものだ。


 大雨が降って本格的に季節が変わっていく感じがした。働いている按摩堂がそのために早く切り上げられて私は長屋へと戻った。彼女は主にこの部屋で日銭を稼いでいるから特に心配するところはなかった。
「おかえりなさい」
 書き物をしていた彼女は手を止めて、手拭いを用意したが、私はどうしていいのか分からなかった。彼女は泥を嫌がっていたが、私の足はすでに泥まみれなのだ。
「どうしました」
「いいえ、何も」
 彼女の無事が見えたのならいいのだ。私は寄る辺なく外へ出ようとした。
「またお仕事ですか」
「はい」
「大雨です。傘を持っていったら」
「お構いなく」
 私は空が晴れるまで帰れないだろう。それが常だが、一人でないのは居心地が悪かった。彼女の反応は居心地が悪い。帰りたくない。けれど帰らなければ、女は一人で生きてゆかれない。一刻も彼女に相応しい良人を早く探したいところだけれども、生憎、そういった相手は数が少なく、居たとしてもすでに妻がある。
 二晩は雨が降った。私は民家の軒先で雨を凌ぎ、晴れると川で泥を濯いだ。雨風の凌げる場所を見つける勘はまだ鈍ってはいなかった。仕事場では濡れた私に着る物を貸してくれた。ここでは本当に、私のことを知る者はいない。けれど何事もなく暮らすにはもう遅い。私の往く道はもう決めている。あとは彼女に良人を見つけ、それまで食い扶持を稼ぐだけの命なのだ。友の恩に報いて、石ころになりたい。
 私が家に帰ると、彼女は書き物をする手を止めて、ふいと顔を逸らした。
「おかえりなさい」
 私は返事することができず、無言のまままた長屋を出て、その軒下に蹲っていた。真横の戸が開いて、彼女も出掛けるところらしかった。
「そんなに家に帰りたくないのなら、わたしが出て行きます。わたしが出て行きますから、あなたはおうちにいたら」
 彼女の声はいつになく刺々しかった。私は何が彼女をそうさせたのか分からなかった。
「お待ちください。お待ちください。何を言って……」
 私は彼女を追うけれど、彼女は私に構いはしなかった。
「八重さま」
「あなたが選んだ土地で、あなたが見繕った長屋です。わたしが出ていくのが筋でしょう。お世話になりました」
 私が触れようとした手は弾かれて、女の柔らかさのなかには硬い芯があることを知る。
「八重さん。お待ちください、お待ちください」
 私は彼女の腕を鷲掴み、長屋のほうへ引き戻した。
「わたしが居るからあなたが安らげないのでしょう。過去を断ち切れないのでしょう。生まれは嘆いても変えられません。けれどこれからどう生きるかを変える機を、あなたはわたしに与えておいて、あなたはしがみついたままではありませんか。それはわたしがいるからです。あなたを知るわたしがいるからです」
「貴方は私のことを知りません。貴方は私のことなど、露ひとつも知らないのです」
 彼女を逃がすことはできない。彼女を仕合わせにする男に引き渡すまで、私は彼女を逃すことはできない。
「だから出て行くのです。あなたの内懐うちぶところを見ようとは思いません。けれどそれがある限り、わたしたちは上手くいかないのです」
「上手くいかなくていいのです。上手くいく必要はないのです。私のことも知らなくていいのです。友に報いるために、貴方には仕合わせになってもらいたい。それだけです。それだけが本心なのです。そのためにここまでやってきました」
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「女は一人で生きてゆかれない。それは今の世のことわり。そうでございましょう?貴方に立派な殿方を見つける。私が友のためにできるのはそれだけなのです。私の生きている価値はそれにのみ尽きるのです!」
 彼女は私を突き飛ばした。
「立派な殿方……?何を言っているのですか。わたしは………わたしは、今まで、わたしは………あなたと夫婦めおと者のつもりでいたのですよ。わたしは………」
 私は彼女の目が潤んでいくのを見た。殴られたような感覚が、実際は殴られていないのに、そんな衝撃があった。
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 私は泣き喚いた。恐ろしくなった。恐ろしいことを言われているから、私も恐ろしい身の上を語って聞かせた。私は泣き叫んで、怖くなった。何故父と母は兄妹の身で契ったか、理解したら私は気が狂ってしまう。
「私は散るしかないんだ。私は終わるしかないんだ!私は生まれ変わったら、石ころになりたい……」
「あなたがわたしを仕合わせにしてください。あなたの手で、あの人に報いてください。でなければきっと、わたしの中のあの人も、笑ってはくれないから」
 私の背中を摩り、私を抱き締める手は柔らかいのに逞しかった。
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