18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年

熱帯魚の鱗を剥がす 44

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「想い続けるのですか」
 鳶坂とびさか遼架はるかの言葉は鋭い。
「そうします。冷めるまで」
 朋夜ともよの目がすとんと落ちた。
「おれはもっと、朋夜さんを知りたいです。他に好きな人がいるのだとしても」
 若社長の放つ雰囲気が鋭いものに変わる。面接されているかのような感じだった。
「まずは甥御さんに挨拶をさせてください。それから考えてください。おれとのことを」
「鳶坂さんほどの人が、どうして……わたしなんですか。夫を亡くしても、別れたつもりはありませんし、なのに好きな人がいると言っているような女です。それに甥のことを、今19ですけれど、放っておけません。生活の中で、どうしても甥が最優先になります。家事ができない日だって多分ありますから」
 自嘲的な笑みが朋夜の口元に浮かんだ。
「先に、家庭的な女性を求めているだなんて、言うべきではありませんでした。ただ理由もなく、朋夜さんに惹かれたんです……なんて、これが面接だったら、おれはおれを落としますよ」
「わたしの身にはもったいないお話ですが、新しい恋人というものを容れる余裕がありません。甥が20歳を迎えて、それからひとつ分、とりあえずの余裕ができたとき、ご縁がありましたら」
 鳶坂は固まっていた。
「分かりました」
 亡夫のことも甥のことも、おそらく朋夜は今の今まで忘れていた。目の前の男と比べてしまえば大いに遜色のある、うだつが上がらない、野暮ったく貧相な青年のことばかり考えていた。
「このことは兄には、黙っておきますから」
「黙っておかなくてもいいんですよ。世間に公言してくださっても……偽りも企みもないことですから」
「いいえ。黙っておきます。鳶坂さんの方で言っておきたいというのなら、止めたりはしませんが」
「では、それは成り行きにお任せします」
 鳶坂遼架が帰っていく。明日からはもう来ないと、彼は自嘲的であったが、嫌味には聞こえなかった。冷静な衝動が、身を任せてみたらどうなのかと、賭事を勧める。だがやはり彼女には意気地がなかった。現実味のない、ここでいえば選択肢としてあり得ないがゆえに悪戯な選択肢として挙がった選択なのである。彼女は廊下に出て鳶坂の後姿がエレベーターに吸い込まれていくのを見つめていた。振り返った彼が頭を下げ、ドアが閉まる。
 結婚生活が先に来て、そののちに後夫ごふを愛せるかも知れなかった。愛せないかも知れないけれど。だが今よりも未来が明確になるような気はしていたのだ。だが甥がいる。まだ、心に住み着いている人間がいる。
 朋夜はすぐ真横に自宅があるというのにその場でうずくまってしまった。悩みが爆発したわけではない。ただ説明のできない疲労に襲われてしまった。


 甥が退院したというのに、朋夜に喜びはない。ただ表面上、喜ぶのだ。病巣はまだ彼の肉体に眠っている。
 帰宅して早々、玄関で彼は家の中を見回した。移動中も口を開かず、どこか不機嫌であった。
「朋夜」
「うん……?」
「昨日には帰ってきてたの?」
「う、うん……」
 京美みやびは敏い。
「それまでは、朋夜のお兄さんの家?」
「うん……」
 彼女は平気で嘘を吐く。京美は叔母を向いた。真正面に捉える。
「俺が帰ってきたの、嬉しくない?」
「どうして?」
「そんな気がしただけ」
 まだ荷物を解きもせず、靴も脱いでいなかった。だが京美は女を求める。
「京美くん……!」
 彼は叔母を抱き締め、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
「入院中、出せなくて、溜まってて、ずっと、我慢してた……挿れない。挿れないから……」
 小さな頭が彼女の肩に乗る。そして片腕で抱き寄せながら、もう片方の手が自慰をはじめようとしている。
「京美くん……さすがに、玄関じゃダメだよ……中入って……」
 若くして病巣に蝕まれながら、ある種壮健なこの甥は何をどう聞き間違えたのか、さらに劣情を催したらしいのが蒸される熱で伝わった。
「京美くん……」
「挿れたい……朋夜の中にいっぱい出したい……」
「しない」
「しない……しない………」
 彼は自分に言い聞かせ、叔母の首を吸う。耳朶を甘く噛み、身体を女体で摩る。
「朋夜とセックスしたい」
「しないって、さっき言った」
「朋夜とセックスしない………」
 虚ろな声音である。自慰をしようとしていた手は結局脚の間を触れただけですぐに戻ってきた。彼は自身ではなく叔母の胸を揉む。
「ちょ……っ、京美くん…………なんで、……」
「朋夜のおっぱい、吸いたい。入院、我慢したから、お願い……」
 昏い目が朋夜より低い位置を取り、輝かしく彼女を見上げた。年上の女のたぶらかし方を彼は心得てしまっていた。
「京美くん……だめ。お部屋に戻りなさい。お部屋に戻ってから……」
「朋夜……」
 彼は叔母を玄関ホールに押し倒す。後頭部と腰に掌が添えられ、床に叩きつけられるような痛みはなく、それはリクライニングシートを倒すのに似ていた。
「京美くん……我慢して……こんなの…………」
「誰かとここに住んでた?その人が好き?抱かれたの、バレちゃうから?」
 甥の肩を押せば、あっさりと彼は身を引いた。だが下半身はまだ彼女の上に乗っている。
 平然と嘘を吐くくせ、彼女は分かりやすい。
「知らない香水の匂いがする。お兄さんの家に行ったんじゃなくて、お兄さんが来てくれたの?それとも、本当に……」
 眼に揺曳する嫉妬の炎は怒りよりも欲情の色に似ている。
「ちが、くて……」
「甥と叔母だから?でも俺もうすぐ死ぬから、バレないよ。朋夜と、したい。生きてたってずっと朋夜とできないなら、卑怯でいいから、俺、死ぬ前に朋夜としたい」
 感情と理性と倫理はいつでも仲良くしないものである。折れかけた。しかし彼女は臆病なくせに意固地で、プライドが高いのだ。
「叶えられないことよ」
 京美は明らかに傷付いた顔をした。彼は表情が豊かになった。そうなると、朋夜も罪悪感を生々しく覚える。彼は今まで感情表現が乏しかったのではなく、出さなかっただけなのだと知らしめられる。
 彼は叔母を置いて自室に閉じこもってしまった。
 朋夜は起き上がりもせず、旋回するシーリングファンを意味もなく見詰めていた。甥とのセックスを拒絶することは正しかったのか。甥と叔母という関係ではなく、他者として情に任せてみるべきなのか。亡夫のいう甥の面倒に、彼の性欲発散も含まれていたのか……
 朋夜は暫く仰向けのまま考えていたが、洗濯物があることを思い出すと、病院から持ち帰ってきた荷物たちを解いた。
 洗濯機に衣類を放り込みながら、また思案に耽る。もう会えないという青年に縋りついてみたら、どうなっていたのだろう。考えもしなかった相手からの求婚に応じていたらどうなっていたのだろう。そして孤独な義甥はどうなってしまうのか。

『もう恋はしないんです。だから結婚もしない』
 昔誰かにそう言ったのを覚えている。
『じゃあ、恋愛のない結婚なんかしてみないかい。人生を、くれよ。オレも、できる限りは渡すから』

 夫は生きる道標みちしるべであった。元交際相手を忘れられたのは夫のおかげである。あのときから叔母であった。他の恋愛は諦めると誓ったのである。
 洗濯機を回し、キッチンにいると京美がやってきた。まだ悄気しょげている。しかし叔母のところへやってきて、後ろから抱きついた。
「ごめん、朋夜」
「うん?」
「荷物全部やらせちゃった」
「いいのよ。病み上がりなんだから、休んでおかないと。何か食べる?ホットケーキがいい?お好み焼きもあるけれど」
 彼は頷く。
「赦して、朋夜。俺のこと、嫌いにならないで。好きにならなくても、いいから……」
「何言ってるの。家族でしょう。すぐ作るから、座っていて」



 ピアノの旋律が薄らと聞こえる。それが恋しい相手の演奏ではなく、うとうとする前につけた動画の音声だとは、滑らかな音の運びで知るのだ。彼は若いのである。会いたいと言えば、勘違いさせるかもしれない。好きだと言えば重荷になる。また優しい彼の気持ちが冷めるのは怖い。
 すでに夜である。甥はもう部屋に籠っている。寝ている時間かもしれなかった。
 ここのところぱたりと酒を飲むのをやむて、飲む習慣があったことも忘れていた。飲まなくても、安らぎを見つけてしまった。
 ピアノの旋律を止める。部屋の電気を消して、朋夜は自分の身体をまさぐった。
 貶めに貶めたとき、脳裏にふ……と現れて消えていく青年を探していた。もう会わないと言っていた人影が恋しい。



 足が惑う。買い出しに行く道の途中で、喫茶店への誘惑に呑まれかけている。けれど彼は辞めると言っていた。否、まだ居るかもしれない。それは希望でしかなかったけれど。
 行ってみて確かめるべきか。いいや、もう会わないと言っている相手の負担になる。
 買い物のために、あの喫茶店の近くを通っただけだ。そう言い聞かせる。何故言い聞かせる必要があったのだろう。実際、買い物に行こうとしていたのだ。
「朋ちゃん」
 元交際相手が、昔と変わらず白い服を着て電信柱の横に控えている。
「この前は、大丈夫だった?リサ子が放してくれなくてさ、なかなか……やっぱり束縛の強い女とは上手くいかないな。その点、朋ちゃんは……」
 朋夜はもう迷っていられなかった。この辺りで知っているといえば例の喫茶店しかない。彼女は走り出した。
「待ってよ、待ってったら、朋ちゃん。一人でいると危ないよ。またスタンガンでやられちゃうだろ?」
 並走するように元交際相手も朋夜を追った。彼女は走り走り、白い店へと入った。鈴の音が聞こえる。接客をしに来た店員が朋夜の前で立ち止まる。
「らっしゃいま……」
 マスタードイエローのエプロンがまず見えた。目を見開く。おそるおそる顔を上げると、相手も驚いた顔をしていた。糸魚川いといがわ瞳汰とうたは、まだこの店で働いていた。
「朋夜さん……」
「あの人に、追われてて……」
「じゃ、じゃあ奥の部屋に案内して、その人は手前の席に……」
 瞳汰はカウンターを振り返った。他の従業員も訳が分かっているらしい。頷いていた。
「迷惑かけて、ごめんなさい」
「ううん。駆け込んできてくれて、ありがとう」
 瞳汰は出入り口から見えない壁の脇のテーブルへ案内される。
「警察、呼ぶ?」
 朋夜は首を振った。この店にこれ以上、迷惑はかけられない。
「呼ぼ。帰り道、危ないし」
 彼は素っ気無く言って、カウンターへ戻っていく。それと同時に鈴の音が聞こえた。すると洗い晒しの白いシャツにライトカラーのデニムパンツの従業員が朋夜をスタッフルームへ案内した。
 それから少ししてから瞳汰がやってくる。彼は朋夜には近付かなかった。距離を空けて、まるで銃社会の如く両手を上げた。
「とりあえず警察呼んだから、来てくれるとは思うケド……気を付けて、ね」
 瞳汰の目は忙しなく泳ぐ。
「本当にごめんなさい……」
 彼は首を振る。
「いいって、いいって。状況が状況だし……むしろ、無事でよかったなって」
「ありがとう。でも、ここ辞めるって話……」
「うん。今月いっぱい」
 胸が苦しくなる。大きく息を吸い込んで、それから一気に吐いた。
「本当はね、ちゃんとこの前のコンサート、よかったよ、楽しかったよってちゃんと伝えたかったんだ。招待してくれてありがとうって。ごめんね、こんなことになっちゃって」
「朋夜さんが、謝ることじゃ、全然なくて……朋夜さんに謝られると、オレもツラくなっちゃうから。笑って、さよならしたいんだ。嫌な思い出ばっかり染みついちゃうの、多分人間の本能なんだろうケド、楽しい思い出は、忘れられなく自分がする。できれば……ムリじゃないなら」
 彼は眉を下げた。手入れが下手である。それが糸魚川瞳汰らしい。少し肌も荒れている。いつものことだったかもしれない。糸魚川瞳汰らしい。
 綾鳥仁実を捨てきれない。京美を捨てられない。抱きついて、吐気に似た言葉を浴びせて、よく喋る唇に吸いついてしまいたかった。だが彼女は自尊心があまりにも高い。先の計算ができてしまった。後悔し、自己嫌悪に陥ることを予見できてしまった。
「ムリじゃないよ。瞳汰くんと会えて、楽しかった。元気でね」
 瞳汰の睫毛が伏せられる。俯くように頷くのは、惚れた弱みのためか色気を帯びて彼女にはみえた。
 そのあとは、他の従業員が朋夜の様子をみていた。いくらか気拙げであったことは否めない。警察がやって来て、話をしてみるも、実害が無いためにどうにもできないというのが答えであった。だがそれも已むなし。いくら当人が恐怖し不安を覚えても一個人の感情でしかない。己の不快感ひとつで人を一人二人三人と通報し、牢屋に放るわけにはいかないのだ。
 実際、元交際相手は"偶々"行く先々に現れ、話しかけるのみである。怪文書を送りつけたり、暴行を働いたり、恐喝したわけではない。
 パトロールカーに乗せられて自宅マンションに送られる。彼女は車が発進するまで、想いを寄せた相手のいる小さな白い箱を眺めていた。それからぼんやりと、甥に元交際相手のことを話す機会か考えた。引っ越すか、同居人と行動するか。提示された対処法は難しい。
 自宅マンション前で降ろされ、彼女はその高さを見上げていた。生温い風が吹いた。ここは京美にとって離れ難い、父代わりの叔父と暮らした大切な場所であるはずだ。彼が20歳を迎えるまで耐えればよい。車内の思案は無駄であった。
 自宅まで帰ると、すでに京美も帰宅していた。玄関までやってきて、叔母に抱きつく。
「おかえり、朋夜」
 まるで幼い子供だった。世間の女は、このような、母親依存の傾向がある男を受け入れるであろうか。いいや、彼は病死するのが本望らしい。
「ただいま、京美くん」
 叔母としての在り方を誤り、彼をスポイルしたのならその責任を、世間の倫理も道徳も捨ててでも負うべきか。それが咎を持った叔母の筋なのであろうか。大きな子供を抱き締め返して沈思する。
「今日は出前でもいいかな。ごめんね。何も買ってなくて」
「ピザがいい。朋夜は、ヤだ?」
「ううん。じゃあピザにしよう」
 彼はけほけほ咳をしてデリバリーピザのチラシをリビングへ取りに行く。
 ほんの束の間のひとり。朋夜の表情が一瞬崩れた。だが瞳を泳がせて、持ち堪える。もう会わないと言われた後に会えた喜びと、二度目は無いのかもしれない苦しさがやってきたのだ。
 靴を脱いで、家へ上がる。京美はまだ咳をしている。
「あった。これだ」
 京美は叔母の腕を引いて、ソファーに自分が座ってからその股座に彼女を座らせる。
「恥ずかしいよ」
 後ろから抱き竦められながら2人でメニュー表をみる。
「パイナップル乗ってるやつがいい」
 身動ぐ叔母を気にした様子もない。彼女の肩や頭越しにチラシを突つく。
「朋夜は?」
「ツナコーン」
「ミックスピザにしよう。片方はシーフードの」
「うん」
 同意すれば、京美はそのままの体勢で注文に入った。朋夜は人懐こすぎる義甥から離れようとしたが、腕を掴まれて、さらに抱き寄せられてしまった。電話をかけて繋がるまで、彼は叔母の髪だの頬だのに唇を落とした。
 潤んだ目に見下ろされる。至近距離で真正面から視線が搗ち合い、朋夜は心臓が跳ねるような気恥ずかしさを覚えた。だが電話が繋がったことで、京美は叔母から水飴の如く甘たるく粘こい眼差しを引き千切った。注文するものを読み上げ、相槌をうっている。所在なく甥の顔を凝らした。彼が若くして病没を選ぶことが、ふと生々しく感じられた。この皮膚感も、体温も、声も、肉塊と化すのだ。それが惜しい。
「そんな見詰めないで」
 いつの間にやら通話は終わっていた。白く薄く冷たい手が目元に落ちてくる。
「俺のこと好きになってくれたの?」
「そんなんじゃ、ないよ」
 言えば喧嘩になるのであろう。ならば言わないことにした。短くも快い人生を駆けてほしいのである。それがろくな叔母になれなかった彼女なりの願いであった。
 この義甥に、交際しよう、叔母を辞め女になる、好きなだけ抱いてよいと言えば、彼の意思は揺らぐのだろうか。考えないこともなかった。
「好き。朋夜、好き」
 彼は無邪気に好意を囁き、接吻する。それが口元に迫って、朋夜は密着する身体に肘を割り入れる。
「キスは、」
「ピザ食べたらできなくなっちゃう」
 彼は首を伸ばして叔母の唇を塞いだ。触れてすぐに離れる。
「朋夜、前より綺麗になってるの、なんで?」
「し、知らない……そんなコトない……」
「前は可愛かったのに、なんか綺麗になった。艶っぽい」
 甥の手はまたもや叔母を引き寄せて唇を吸う。
「好き」
「京美くん……」
「朋夜は幸せになってね。俺も幸せだったから。好き放題生きて、結果が病死これなら、仕方ないよ。幸せに生きてって言われるの、多分重いだろうけど」
 共に叔父から言われていることだ。それを彼が言うのは、泣きたくなってしまう。
「京美くんも、幸せになるの」
「もう十分幸せなんだよ。怖くないんだ。朋夜遺すのが怖いだけ。ごめんな。独りにしちゃうの、ごめん。でも幸せだから。朋夜は朋夜の後悔があるかもしれないけど、俺を思い遣っての後悔はしないでほしい」
 思えば、大切なものが次々と去っていく。母にしろ、兄にしろ、父にしろ、夫、想い人、この義甥。甘えれば、もしかすると取り戻すことのできる人もいる。だが彼女はやはり矜持の手放せない、見た目とは裏腹な頑固な気性なのである。それでいて諍いを恐れ、落胆を恐れ、拒絶を恐れ、離反を恐れている。
「難しいよ、そんなの。考えちゃうよ」
「じゃあ、思い出して。忘れないで。忘れられそうなら、忘れていいけど」
 彼はひょいと叔母を抱き上げ、フローリングに座ってしまった。膝に彼女を乗せ、揺籠みたいに揺れている。
「俺のカスみたいになるはずだった人生、叔父貴と朋夜のおかげで盛り返せた。こんな幸せ、なかなかないよ。人生で摂取できる幸福量って決められてるんじゃないかなって思うくらい。だとしたら致死量に達した。でも、わるくない」
 彼は咳をした。
「ゴミクズみたいな二親だったけど、やっと感謝できるよ。でもその矛先はあの二親じゃなくて」
 空咳によって、少し声が変わる。
「でもまだ生きられるから。朋夜には生殺しだよね。今まで酷いこと、たくさん言ってごめんね。朋夜のこと好きってバレたくなかったんだ。下心、隠したかっただけなんだ。本当は思ってないから。それだけが心残り。声出なくなる前に……」
「声、出なくなるの?」
 どこでもないどこかへ遠く投げていた眸子が眇められた。
「うん……多分」
「多分?」
「俺の親父って人から、手紙が来るんだ。返信は、してない。黙ってて、ごめん。ごめん、朋夜。親父のところ行けって言われたら、怖かったんだ……でももうすぐで、多分俺、死ぬから、お願い、お願い……放さないで。朋夜といたい」
 彼は泣きそうな顔をして叔母を見下ろした。まったく反対である。まったく反対のことを、この甥は危懼きくしていた。それが哀れである。
「言わないよ。京美くんを、父親のところには行かせない。平気よ。大丈夫」
 守る、と一言かけてやるべきだった。だが怯弱で小胆な彼女にはその言葉が重かった。易々と口にできなかった。
「朋夜……」
 彼は目に涙を溜めながら立て続けに咳をする。
「もう言い残すこと、ない。振り返るのはもうやめる。20歳、迎えられるか分からないけど、あとは朋夜と、ちゃんと生きる」
 さめざめと京美は泣き出した。いくらか艶を欠いた黒髪に、朋夜の手櫛が入っていく。頭突きの如く頬を寄せられ、しっかりと抱き締めた。ピザが届くまでそうしていた。





「ごめんなさい」
 朋夜は呟いた。どこかの誰かというには視界に入る範囲の人々の生活煌めく夜景が涙で霞む。洋酒を割って飲んでいた。世間の意味するところとは異なる夫婦の営みであるが、そこに夫の姿はない。
 義甥を見殺しにすることを夫に詫びた。夫を捨てて、義甥の女になるのがいいのか問うてみたところで返事はないのである。
 あの大きな子供に会わせてくれてありがとう。わたしと出会ってくれてありがとう。
 朋夜は最期の別れみたいに内心で語りかけた。すでに最期の別れを済ませている相手に。
 亡夫は本意ではないのかもしれない。だとしたら、こうして夫との時間を作るのは冒涜のようでさえある。
「朋夜。風邪ひくよ。寝よう」
 後ろからやってきた大きな子供は叔母の肩に、彼でも大きいジップアップを羽織らせた。
「うん。そうね。ありがとう」
 だが甥のほうが彼女にしがみついて、寝る準備に入らせようとしなかった。
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