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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年
熱帯魚の鱗を剥がす 43
しおりを挟む京美は叔母のことに関して敏かった。だが敏くなくとも、彼女の顔の腫れや痣や傷を見れば覚る。
「何かあったの」
あまりにも頬が疼くため、結局湿布を貼り、顔面には白く目立つ。切れた唇も腫れて、口角には生傷が瘡蓋を作りつつある。片方の目元はサツマイモの皮みたいに紫色に染まっていた。
「階段から落ちちゃって。ぼうっとしていたのかも」
気を抜けば、また義甥から鋭い指摘が入りそうである。ぼうっとしているからだ、と言われる前に、彼女は取り繕う。
「間抜けで、困っちゃうね」
京美は何も言わずにおそるおそる叔母の頬へ手を伸ばす。
「階段から落ちて、こんな傷なる?」
「でも、なっちゃったし」
「階段って、どこの?」
嘘は明かされてしまうものだ。朋夜はすぐに思いつかなかった。
「どこに住んでるの、今」
「兄さんのアパートよ。兄さんのアパート、階段だから……」
毛羽立ったような睫毛が伏せられる。
「俺が甥だから、言えない?」
「何を……?」
彼は首を振った。叔母に背を向け、掛布団を抱き締めて寝転んでしまった。
「帰っていいよ。毎日こんなところ通って、朋夜も疲れたんじゃない。さっさと帰って、横になりたいでしょ」
「具合、悪いの?」
「朋夜もちゃんと休んだほうがいいし。着替え、ありがとう」
戸惑った。朋夜はどうしていいの分からなくてなってしまう。京美は振り向かない。帰っていいものか否か。虚勢を張っているだけで、実のところ体調が優れないのかもしれない。それならば早々に立ち去って、彼を寛がせたほうがいいだろう。
「じゃあ、本当に帰るよ。具合が悪いなら、ちゃんとナースコールしてね。また明日、着替え持ってくるから。必要なものがあったら送っておいて」
この傷だらけの顔に嫌気が差したのかもしれない。以前の彼は外見に口を出した。その髪型はやめてほしい、染髪についてもおそらく経済的な面で勿体無いと言われたことがある。脚を出すな、肌を出すな云々、かんぬん。一度止んだけれども、離れて暮らしてみて気付いたに違いない。恋愛感情と肉欲の差異を味わったことだろう。人の心が離れていく多少の寂しさと、それを上回る叔母としての安堵がある。
傷だらけの顔面について口に出さないだけ、彼も慮っているのだろう。
何事も上手くいかない気がした。蹌踉とした足取りで病室を出る。そこは隅の部屋で、南側に一面ガラス張りの壁がある。そこから街を見下ろそうとしたが、周りの建物が高く、展望できるような風景はそこにはない。
偶々、今日に限って、京美の機嫌が悪かったのか。昨晩蹴り付けられた腹が痛み、彼女はフィクス窓伝いに座り込んでしまった。幸い、人の気配はない。
日が沈んでいく空を見て、義甥の不機嫌の理由に思い当たった。面会の始まる時間から来なかったからだ。来るのに遅れてしまった。しかし昨晩から朝にかけて、糸魚川瞳希に犯されていた。鼻血だの吐物だのを片付け、風呂に入っていたら、この時間になってしまった。腹が痛いのは蹴られただけの理由ではない。暗くなっていく思考を切り替えて、夕飯のことを考えた。鳶坂遼架が訪問するとかいう話ではなかったか。とても人に食わせるものを作る気分ではなかった。顔も一目で只事でないと分かる。鳶坂とかはそもそも住む世界が違うため、いずれは関わりも自然の成り行きとして消えるであろう。だが露骨に関係を断ち切るような素振りを目の当たりにするのは、落ち込んでしまうかもしれない。
落胆されるのが彼女は怖かった。弟の母といい、義甥といい、散々、溜息を吐かせてきた。彼等彼女等は血の繋がりはないとはいえまだ身内である。しかし優雅で高貴な鳶坂から見限られてしまうのは何か大きな意味合いがありそうである。
ぼんやりとしながら、彼女は虚ろな所作でハンドバッグに手を入れた。三毛猫柄の封筒を摘み出す。糸魚川瞳希に見つかり、捨てられかけたところを死守して捩じ込んだため大きく拉げている。便箋は一度握り潰したようだ。歪みきって波間とも蜘蛛の巣ともいえない皺を刻んいる。悪筆なりに丁寧に書こうとしたらしい跡がある。文章は途中であった。ピアノコンサートに来たことの礼と、告白したことに対する謝罪であった。しかし恋慕は本当であり、共に帰っているうちに恋心を抱きはじめていたと、悪文で書かれている。読むのは三度目だ。読み返しているのである。彼は今何をしているのであろうか。紙面から顔を上げ、下界の建物で迫り上がっているような空を見つめる。
「瞳汰くん……」
昨晩で縮み上がった心臓がふやけていく感じだった。頑張っていかなければ、と彼女の中にどこからともなく、誰のものでもない声が差し込む。
彼女は手紙を封筒に戻し、バッグにしまうと立ち上がった。まだ腹の内面も外面も鈍く痛む。しかし些事だ。
通り抜ける京美の病室が気にならないではなかったが、彼の様子からして放っておくべきだと判断した。エレベーターに乗っているうちに、またもや鈍い腹痛を覚えて洒落たエントランスのベンチで休んだ。ついでに兄に連絡をして鳶坂に伝言を頼んだ。何を作るかもまったく考えていなかった。そして今から考える気も、作る気も起きない。帰りに弁当を買っていくのがいい。
―急にあんなコトを言ってすいませんでした。でも、好きなキモチはホントです。もしどこかでまた会えたとしても、ぼくからはちかずきません。だからコワがらないでください。お元気―
インターホンが鳴った。反応しなくても勝手に入ってくるのを知っていたが、ガツっ、と音がしてチェーンロックが開扉が阻んだ。軋みがうるさいことは否めなかったが、朋夜が出向く筋合いもなかった。
チェーンの悲鳴がやむと、今度は玄関扉が頻りにノックされた。
徐々に気が狂ってくる実感が湧いてくる。このリビングなどこかには盗聴器が仕込まれている。彼女は高機能携帯電話を手に、声を潜め、リビングの中心に屈んで囁くようにして警察へ通報した。
無邪気な青年の爛漫な笑顔が白く輝いて消えていく様が脳裏を過った。恨むだろうか、彼は。それは逆恨みかもしれないけれど、家族が警察沙汰になるというのは感じやすいあの者にとって、大きなダメージになり得るだろう。告白を謝る手紙を、本人は届けるつもりはなかったのだろうが、読んでしまった今となっては自身の傷みたいに痛みはじめる。
好きなキモチはホントです。
思えば初恋なのかもしれない。幼き日から煌めいた兄にも、美貌のアイドルにも、華やかな先輩にも、強引さも強さを勘違いして惹かれたつもりの元交際相手にも覚えなかった、心地良い疼痛こそが、慕情であったのかもしれない。同時に、今は亡き夫に対して抱いたものも併せ持っている。だがすでに遅く、しかし適切な時機というものもない。
今後は、自分に都合のいいたった一文を秘めて生きてゆくのだろう。彼の弟を警察に通報したことで数時間後、或いは数十分後にはすべて覆り、撤回されてしまうのだとしても。
◇
京美の退院が決まった。だが、ある程度の治療をしただけで、根治したわけではない。吐血したことに対してのみの治療である。退院の日程は決まったというのに、言い争いをした帰りとあって、朋夜の表情は暗かった。
顔面の暴力の痕について、嘘と隠し事ばかりの人間に人生について語られたくないというようなことを義甥に言われてしまっては彼女も弱い。
傷付いたのを誤魔化して、一人へらへらと笑って歩く女は不審者に思えないこともなかった。
弟の母と一緒に過ごすことになってから、泣くことは多々あったが、声を出して泣くことは赦されなかった。父に気を遣ったのもあれば、幼い弟の前で矜持があったこともある。いつしか無音で泣いていた。落涙し、枕に沁み入る音を聞いたこともある。
彼女はへらへら笑うことを覚え、それは偏屈な義甥との生活で大いに活躍した。
下手くそに莞爾としながらも後悔していた。生い先短い甥と諍ったことについて。彼の人生には、反社会的に行かない限り、口を出さないことにしようと決める頃だ。短い人生であろうとも、できるだけ幸せにする。優しい亡夫は怒るだろうか。
義甥が病没したら、どう生きるべきか……彼は自ら死を選んでいるのではあるまいか。ではそれは何故なのかといえば、叔母の負担になりたくないのではないか。いいや、あの甥は叔母を疎んでいたではないか。しかし……
彼女は電車に揺られて考えるも、答えは出てこない。
気付けば自宅マンションのエントランスに辿り着いている。照明が目に染みた。
義甥は夫と同様にして死ぬのである。笑って送り出せるであろうか。口煩いことを言わずにいられるだろうか。後悔せずにいられるだろうか。
こつこつと靴音も気にせず、彼女はエントランスを切っていく。
「朋夜さん」
響きやすい材質の空間にきゃらきゃらした声が谺する。朋夜は天井から注ぐ光芒のひとつに眼球を射抜かれたみたいな心地がした。ロビーラウンジのソファーに囲まれながら、糸魚川瞳汰が目元を真っ赤にしてよろよろと佇んでいる。ある程度の距離を置いて、それ以上は見えない壁があるみたいだった。
「ごめん……」
それを言うのがやっとだったらしい。彼は膝に手をついて、泣き出してしまった。
「ごめん……瞳希が………ごめん。謝って赦されるわけないケド……」
彼は涙ぐんだ目を二の腕に擦りつける。
「なんか色々、オレの父さん母さんが言ってくるかも知れないケド、赦しちゃダメだ。とーきはヤバいって、今まで何度も言ったのに聞いてくれなかったんだ。ごめん、朋夜さん……謝るコトしかできないケド……これで、最期にするから……もう二度と、オレもここには来ないから。怖がらないでね。心配しないで、だいじょーぶ。今までありがとう。楽しかったっす」
彼は咽せながら頭を下げた。顔中が茹で蛸茹で海老の如くである。
「瞳汰くん。上がっていく?」
充血した眼が朋夜を捉える。
「そういうつもりじゃ、ないっすから……ただ謝りたかった、だけっすから……」
朋夜は泣いている青年へと躙り寄る。彼女は自身のうちにある残酷な欲望を否定できなくなってしまった。自身の持つ加害性に思い当たったのだ。瞳汰は顔面に痣だの瘡蓋だのをつけた女を怖がった。後退っている。まるで化け物と対峙しているかのような有様だ。
「瞳汰くん」
「とーきがあんなだから……オレに近付くの、良くないっす。謝りに来ただけっすから……弟を赦してほしいとか、そんなんじゃなくて……」
「瞳汰くんは、優しいね」
糸魚川瞳希がこの兄を何と言っていたのか、彼は知っているのだろうか。
「優しくなんか、ないっすよ。今も、ホントは、自分のコトしか考えてなくて……」
朋夜は一人掛けの赤いソファーを促した。瞳汰は狼狽えながら腰を下ろす。
「オレ、もう会えなくなるの怖くなって、そればっか。ちゃんとこの前のコト、謝るつもりだったのに、こんなふうになって……」
「ごめんね」
しどろもどろな瞳汰を、彼女は眺めていた。そしてすっと、謝った。彼は濡れた目をさらに潤ませる。
「いいんす。言ったのはオレっすから、朋夜さんが謝ることじゃなくて……」
糸魚川瞳汰は朋夜からみても美青年ではなかった。見目は麗しくない。かといって醜悪でもない。美男子の部類に入る双子の弟とは微かな差異が重なって方向性すらも違ってきてしまったような面構えである。だが彼の目から滴り落ちていく涙の美しさ!スノーフレークから朝露が落ちていく風情だった。朋夜は龍を見たことがない。だが龍の鱗とはこれではあるまいかという輝きの一枚が落ちていくのだ。
「人妻だからさ」
朋夜の声音は乾いているが、しかし甥や弟にするような媚び諂ったものでも、糸魚川瞳希にするような厳しいものでも、過去に元交際相手にしていた猫を被ったものでもない。兄に対するものに近かった。これが彼女の喋り方だった。見えない壁があったはずだが、それを感じられない。
瞳汰が頷く。はらりと桜の花弁みたいなのが落ちていく。しかし消えていくのである。
「でも、ありがとう。嬉しかったよ。会えなくなるなんて、思わなくていいのに」
彼は首を振った。
「ダメっすよ。とーきは異常者なんす。それでオレには、同じ血がそっくりそのまま流れてるんす。似てなくても、朋夜さんがオレにとーきを見ちゃったら、ツラいっすもん……元気でね。朋夜さんにピアノ聴いてもらったコト、オレ、絶対忘れないっすから」
うん、と頷くのが怖かった。そうは思わない。しかし自分ひとりの身ではなかった。感情に従ってはならないときがある。それが今だ。
「わたしも思い出しちゃうんだろうな。君のピアノ弾いてる姿とか、歌声」
そして情け無い泣き顔だの、頼りない笑顔だのも。
瞳汰は赤い目を泳がせて俯く。
「でも、瞳汰くんの人生は長くて、人懐っこいからさ、色々なことがきっとこれからあるよ。忘れて大丈夫。わたしが覚えておくし、あのときがリアルタイムで愉しかったからさ」
朋夜は手を差し伸べる。瞳汰はおずおずと握手に応えた。
「喫茶店は、出禁かな?わたし」
「ううん。オレ、辞めるんだ、あそこ」
動揺は、過敏に作られている手指に気取られてしまっただろうか。
「それは……」
「このコトとは全然カンケーなくて。次のピアノコンサート終わったら辞めるって、もう話がついてたんす」
「そ、そう……」
骨張ってごつごつとしているが薄くて華奢な手を放したくなかった。だが人妻であり、人の叔母である。彼の弟を警察に通報した女である。
「さよなら、朋夜さん」
朋夜は目をぎらぎらと見開いて、声も出さず、唇を歪めては波打たせ、頷いた。
鍵盤の上を踊っていた長い指が、彼女の手を放す。そして帰っていった。朋夜は呆然と座っていた。去っていく背中を惜しむべきである。だが呼び止めてしまいそうだった。感情に反した返答しかできないのである。彼は若い。気を持たせることがいかに残酷か。彼を雁字搦めにしてはいけない。それでも希望を持ち、期待してしまう業というものを人はみな持っているはずである。彼女もまた例外ではない。
エントランスの自動ドアが閉まった。朋夜もエレベーターへ乗り込む。ドアが閉まる。途端に、背筋が溶けたみたいに彼女は手摺りに縋りついて項垂れ、さめざめと泣いた。声を殺して泣く癖は抜けない。それでも喉を絞められたみたいにせぐり上げ、嗚咽が漏れ出た。会えなくなるのが苦しい。会いたいと言えば、彼は会えると答えるかもしれなかった。だがその選択をとらなかった。彼女は自身の覚悟の無さに打ち拉がれる。
エレベーターを降りるときに彼女は無意識に目元を拭った。もう自宅である。化粧が崩れることを厭わなかった。だが最悪のタイミングなのである。ここ最近通うようになってきた鳶坂遼架が凛として玄関前に立っている。彼の訪問を一切合切忘れていた。顔面の傷について、兄に報告するなと念を押した結果、ほぼ毎日の訪問を引き換えに提示してきたのである。盗聴器を見つけ回収したのも彼で、鍵交換を半ば強行したのも彼である。兄への報告は朋夜にとって弱みであった。兄は優しいが、行き過ぎて時折り支配的に感じることがある。それが或いは人を看るということなのかもしれなかった。ところが愚鈍なこの女は兄に学ばない。叔母として甥に対する接し方は支配者よりも下僕の仕草である。弟に対しても然り。それが歪んで爛れ、乱れ狂った関係を生み出したのかも今となっては分からない。
芍薬みたいに立っている鳶坂は、酷い有様の朋夜を見つけた。ちょうど彼女も鳶坂の姿を見て怯んでいたのと同じ時機である。
「朋夜さん……」
鳶坂が寄ってこようとした軌道から朋夜は逸れて玄関扉に座れていった。
「すみません、お待たせして。今開けますから……」
「何かあったんですか!」
「いいえ。何も……今日は店屋物でもいいですか。買い物に行ってなくって……」
彼女の当初の目論見から外れ、庶民的で鳶坂のような男には貧相極まりない手料理を食わせてみたが、寄り付かなくなるということはなかった。
「では私が手配いたします……それはそれとして……」
「どうぞ、中にお入りください」
鳶坂の言葉を阻むように鍵が開いた。扉を開けて、中へと促す。
「お邪魔します」
彼は頭を下げながら玄関へ踏み入ったが、後ろにいる朋夜から目を離さない。
「やはり、何か……」
「何かあったといえば、甥の退院が決まりました」
角張った眼鏡の奥の切れ長の目が揺蕩う。甥の退院。それはつまり、鳶坂の来訪が終わることを意味する。元上司で親友でありながら姑のように小突いてくる朝氷から解放されるであろう。朋夜は兄を家族の情として好いているけれど、父親よりも保護者であった彼を畏れていた。鳶坂遼架から結婚を前提とした交際を求められたとき、兄の恐ろしさを殊に感じられた。何か弱味を握られているに違いない。兄に泣かされたことはないけれど、確かに嗜虐的なところがあった。鳶坂遼架も何か人に言えないことがあって、それを兄に知られ、暴露を恐れるあまり、望まないことを口にしている。
鳶坂が夕食の配達を注文する。帰宅したら化粧を落としたいところだが、生憎来客がいる。彼女は化粧を洗い落とすどころか直すために、ダイニングテーブルセットに着いて待っている鳶坂をひとりにした。
洗面所の鏡に映る自身を見て、その酷さに驚いた。治りかけているパンダめいた痣にマスカラやアイライナーが黒ずんで汚れている。ファンデーションを塗った頬も荒れが透けて粉を拭いている。化粧を直すつもりで来たが、結局は洗い落としてしまった。綺麗に直せそうにない。
「席を外してしまってすみません」
鳶坂は所在なさそうに、ダイニングテーブルを前にぼうっとしていた。
「とんでもない。お邪魔しているのはこちらですから」
朋夜は茶を淹れると彼の対面の席に腰を下ろした。
「甥御さんの具合が、好くなったんですね」
「はい。とりあえずのところは。ご心配をお掛けしまして……兄も過保護ですから。お恥ずかしい話ですけれど」
指先が冷えていくのを湯呑で温めた。鳶坂遼架という極上の男が目の前にいながら、朋夜の身体を冷ますのは違う人物なのである。
「朋夜さん……以前、お話したとおり……」
彼女は上の空だった。悔やんでいる、というには選択を誤った気はしていないのだ。惜しんでいる。どうにもならないことに対して。正しさを選び、そこに過ちを覚えていないことにも。ただ感情が渦を巻いている。今の彼女の中身は坩堝だ。合致しない。
「朋夜さん」
「あっ……はい。すみません。ぼうっとしちゃって」
「いいえ、いいえ。お忙しいところに押し掛けているのは私ですから」
音もなく彼は茶を飲んだ。最初は厭うていた沈黙にいつの間にか甘えている。
やがて店屋物が届いた。会話もなく飯を食らい、この日は鳶坂の奢りであった。食後にルイボスティーを淹れて来客に飲ませる。鳶坂は畏まった様子で、何か話したげであったが、朋夜はそれと気付かず、目の前にいない人物のことばかり考えていた。その者とはもう会えない。あとは都合の良いように幻が育っていくだけなのである。やがて本物から乖離しようとも。
「朋夜さん」
彼女は呼びかけに応じない。しかし悪意を持ってそうしているのではない。湯呑を両手で握り、虚空を凝らしているところは悪意か否かという観念も介在していないようだ。
「朋夜さん」
彼は咳払いした。妙な色香がある。
「ああ、はい……ごめんなさい」
朋夜は現実へと引き戻される。
「私が朋夜さんに惚れていることは以前も申し上げましたね」
「は………はい」
「朋夜さんと生きていきたいのです」
その外貌といい社内的立ち位置といい物腰といい、艶福家ではあるのだろう。だが決め方が軽い。会ったばかりの人間と数日間少し話しただけで、何が分かるというのだろう。
「はい……あの、以前も申し上げましたとおりの答えです。兄に何か言われているのであれば、わたしからよく言っておきますから……」
鳶坂は眼鏡の両端を片手で押す。
「織上さんからは、何も……私は私の意思で、朋夜さんと交際したいと思っているのです」
「わたしは今も夫を愛―……」
なんという自己欺瞞!朋夜は嫌悪に襲われた。
「わたしには、他に好きな人がおります。叶わないけれど……叶えるつもりもなくて。ただ、好きな気持ちは守っていこうと思っているのです」
ここは懺悔室ではない。鳶坂が、このようなことを打ち明けていい相手なのか否か、それも分からない。
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