18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年

熱帯魚の鱗を剥がす 42

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『珠世のびらびらは早朝の露みたいに照り輝かんばかりだった。ところが男の穢らしいナメクジの粘液がべっちょりと上塗りしてしまう。
「奥さん、こんなにスケベ汁をたらして、旦那が亡くなってからよほど欲求不満だったとみえる」
 男は、芋虫のような指が珠世のラビアを拭い、淫液が糸を引くさまを下卑た顔で眺めている』
 文庫本をぺらぺらと捲って、たまたま目についた箇所からそれが官能小説だと知れた途端、朋夜ともよは玄関ホールの脇に設けたゴミ箱へそれを捨てた。一瞬、義甥が注文したものかと思われた。しかし箱を確認してもそれが配送されたものと明かすラベルはなく、何よりもただ紙袋に入れられていただけなのである。
 欲求不満の未亡人を襲う淫楽地獄!雨月賞受賞!若手の鬼才・大井川鎧の送る人妻快楽堕ちシリーズ第二弾「喪服着物姿」。
 表紙のイラストは駅の切符売り場を背景に、見返るように駆ける喪服姿の女である。和装で翻った裾から膝下が見えている。絵柄は写実的で、塗りは油彩を思わせる。
 臆病の裏返しによって育まれた温厚柔和な気性の朋夜は、誰にも見せたことのない侮蔑を面に映してゴミ箱を少しの間見下ろしていたが、やがてリビングへ上がる。
 ソファーに誰かいる。それが分かった途端、氷上に立っているかのような心地がした。電気を点けるのが恐ろしい。指先も膝も震える。
「綾鳥さん」
 本当に誰かいたのだ。脳貧血を起こしかけて彼女は立ち眩む。尻から落ちたが痛みを感じている余裕はない。
 ソファーにいる人影が腰を上げた。近付いてきている。
「ぼくからの贈り物、見てもらえましたか?綾鳥さんをモデルにしたんですよ。結構な売れ行きらしいです。でも綾鳥さん。官能小説家は細々と長くは売れますけれど、一気には当てられないそうなんです。でもそうですよね。18歳以上の、主に男性がターゲットなんですから。それに若い子ってそんなにぼくの本読まないみたいで。だから綾鳥さんをこんないい家に住ませることはできませんから、ぼくはあなたをモデルにして一般文芸のほうにも営業をかけてみました。ぼくがあなたを食わせていきます。」
 どこからともなく漂う、香を焚き付けたらしき甘い匂いが朋夜の胃を叩く。恐怖のあまり、声が出ない。
 リビングの明かりが点いたとき、スイッチの跳ねる音が銃声か何かのように聞こえた。影が一瞬で洗われる。糸魚川いといがわ瞳希とうきが佇んでいる。
「ぼくが言うのも何ですが、鍵換えたほうがいいですよ。簡単に外せます。郵便も局留めで。上からポスト覗けますからね。引っ越すのも悪くないんじゃないですか。でもぼくに行先くらい教えてくださいね。まぁ、どこにいてもあなたを見つけるんですが……それにしても、綾鳥さんに浮気した過去があったなんてなぁ」
 糸魚川瞳希は尻餅をついたまま硬直している朋夜の膝を割って屈み込む。
「清楚な朋夜さんにも、そんな爛れた時期があったんですね。ぼくとマユとの関係を追及したのは、罪悪感のためですか」
 朋夜の視界は緑色を帯びて、モザイク処理されているみたいだった。明暗によって相手の動きが見えるばかりだった。糸魚川瞳希と理解はできたけれども、顔は見えない。ただ影が自分の身体と重なろうとしているのは分かる。
「でもぼくは、綾鳥さんが浮気する女で、嬉しいんですよ。ギャップ萌えというやつなんですかね。興奮しちゃいました」
 糸魚川瞳希の手が朋夜の腹を摩った。
「まさかその浮気相手が、亡くなった旦那さんだったり……?」
 朋夜は唖然としていた。成人女性の平均身長とそう変わらない背丈に、膂力りょりょくは並か平均を下回るかもしれない。体格からいって力強さは窺えなかった。そういう女が、背丈も体格も並にある男に抵抗するのは危険であった。性差を凌駕するようなことは起きない。しかし彼女は膝蓋腱反射を肘で起こしたみたいに、糸魚川瞳希の頬を張ってしまった。乾いた音が物騒な自宅の廊下に不穏な響きを残す。朋夜は報復に遭い、鼻や頬の骨を折られ、前歯は抜け落ちて口腔を血まみれにし、パンダの如く目元を青痣に染め、顔面が腫れ上がって原型を留めないほど殴られる―


―未来も否めなかった。
 だが糸魚川瞳希は笑っているだけである。
「あっはっはっ、綾鳥さん。ぼくにはいいですよ。ぼくも命の危険を感じれば、綾鳥さんを拘束しておける力も、落ち着きもありますから。でも、他の男が相手だったらだめですよ、こんなことしちゃ。殺されます。でも、清楚で控えめで綺麗でお姫様みたいなのにしっかり浮気してる綾鳥さんが、こういうときに威勢がいいの、興奮しちゃうな」
 朋夜は己の荒々しい息遣いで、恐ろしい侵入者の言葉が所々聞き取れなかった。否、最初から聞いていない。冷汗と脂汗が吹き出し、視界は色を失って明滅しているようだった。
「特に、あの元カレさん。あの人、多分正気じゃないです。間違っても今みたいに殴ったりなんかしちゃダメですよ。話通じませんでしたし。元カレですよね?カレシって言ってましたけど、いまカレじゃないですよね?」
 糸魚川瞳希の身体は徐々に朋夜の身体と平行になろうとする。重なる陰影が濃くなって、表情が塗り潰されていく。
「そんなんじゃ………」
 絞り出そうとした声は尋常ではない呼気に消え入る。糸魚川瞳希の朗らかな目が、おや、と見開いた。女の平手打ちなど無かったも同然らしい様子だ。彼は朋夜の口元に掌を当てた。侵入者が家主の身体にしかかり、口を塞いでいる、よくある光景だ。
「ぼくは別に綾鳥さんを殺そうだとか、強請ゆすろうだとか、そんな考えはありません。だって綾鳥さんはぼくと再婚するんですから、いつか養う相手からお金をせしめてもね。お金に余裕ない男なんて綾鳥さんも本当は嫌でしょう?ぼくが嫌なんですけど。実際困ってませんし」
 糸魚川瞳希の形の良い唇が迫る。
「だから怖がらなくていいんです」
 小指ひとつ、縦に収まるか否かというくらいに接近したとき、インターホンが鳴った。
「出ます?ぼくは隠れたほうがいいですか」
 怯懦きょうだな小心者の朋夜は激しい緊張状態にあった。そこに立て続けに緊張を煽るような甲高い音を聞いたのだ。とうとう肝を潰しきり、意識を手放してしまった。



 彼女が目を覚ましたのはベッドの上で、彼女自身は長いこと気を失っていたような気がしたようだが、ほんの数分間のことだった。
 何が起きたのかを把握する間もなく、傍らの気配にぎくりと脈をとばす。
「お加減はどうですか」
 心臓の張るような胸の痛みで、朋夜はすぐに応答できなかった。しかしベッドの脇にはべっている人物が糸魚川瞳希でないことを判別できると、安堵から深く溜息を吐いた。
「微熱があると、先程……」
 鳶坂とびさか遼架はるかが大股を開き、両膝をついて、今にも切腹しそうな雰囲気でそこに佇む。気品だけでなく威厳までも兼ね備えているらしい。
「大丈夫です。それより……」
 冴えてきた頭が、兄の言葉を思い出す。
「遅れ馳せながら、お邪魔しています」
 彼は頭を下げた。
「い、いえ……その……すみません。せっかく来てくださったのに、この有様で……」
 朋夜は身を起こした。ブラウスの第二ボタンまで外れている。彼女は襟を握った。
「苦しそうだったので、その……申し訳ない」
「いいんです。それよりも何か……コーヒーは、この時間だと困りますか」
 すでに夜といえる時間である。彼女はベッドから降りた。
「お気遣いなく……まだ、横になっていらしたほうが、」
「平気です。ご心配おかけしました。とんだご迷惑も……」
 鳶坂をリビングへと促した。ダイニングテーブルの上にはファンシー雑貨みたいな封筒が置いてある。朋夜はそれを慌てて隠した。どうせ怪文書であろう。鳶坂遼架も慌てて視線を妙な封筒から千切った。
「お夕飯はどうなさいますか」
 客人にはコーヒーではなく茶を淹れた。共に出した菓子は確かに美味く商品としての寿命も長いけれど、この者の前に出すには安っぽく、気恥ずかしさは否めない。
 朋夜はキッチンに回り夕食の支度に取り掛かる。鳶坂遼架は育ちが良さそうである。食材も料理も一流に違いない。だが朋夜は家庭的で庶民が何も特別なことのない日に食うようなものしか作れない。彼もまた、産地にこだわりもなく買った素材で作る庶民臭い陳腐な家庭料理など食いたくもないだろう。彼女のなかでは無駄な質問してであった。外食で済ませると返ってくるのであろう。
「外食で済ませます」
 やはり予測のとおりであった。
「自炊はしないものですから。出来ないと言うべきですね。料理は、苦手で……」
 彼が微苦笑を浮かべる。生活感のある背景が似合わない。合うのは宮殿か、高級ホテルではあるまいか。
「鳶坂さんにも苦手なことってあるんですね」
「当然、あります。だから憧れるんです、手料理」
 炊飯器も調味料の並ぶ棚も、確かに鳶坂遼架の放つ貴族めいた優雅さとは縁が遠そうである。
「専業主婦希望の女の人、今は多いですからね……鳶坂さんなら、お料理上手な好い人がすぐ見つかりそうです」
 米を研ぎ終わり、ピーラーでニンジンの皮を剥きながら、ありきたりな返事をする。しかし実際すべてがすべて社交辞令ではなかった。鳶坂遼架は選ばれる側の人間ではなかろう。秀麗な外貌である。背丈もある。社会的地位もある。物腰も柔らかい。選ぶ側の人間だ。
「あの、もしよかったら……今度、朋夜さんの手料理をいただきたく思います……もちろん、お手間の埋め合わせはいたしますので……」
 彼女は困ってしまった。求められているのは高級レストランと同等のものなのではないか。家庭料理を料亭で出てくる程度のものと勘違いしてはいまいか。
「1人分作るのも2人分作るのもそう変わらないので、手間はないのですけれど……わたしもあまり、他人ひと様に出せるほどの料理は作れません」
「お兄様はそうはおっしゃられていませんでした。朋夜さんはお料理が上手だとか」
「それは兄の贔屓です。昔からわたしには甘いところがありますから、わたしのことに関しては真に受けちゃダメです」
 包丁がニンジンを割って俎板を叩く。静かになった鳶坂をカウンター越しに窺うと、彼は目を閉じていた。若社長だという。忙しいのだろう。朋夜はソファーからブランケットを持ってきて、上等なスーツに掛けようとした。
「すみません。眠っていたわけではないのです。俎板の音が心地良くて。昔を思い出しまして」
 結局、軽い毛布は別のイスに掛けられる。
「俎板に思い出が?」
「昔、母とワンルームのアパートで暮らしていたものですから。夕飯を作る音とか匂いが懐かしくて」
 アパートとはいえおそらくこの若社長が現在住んでいるマンションの類いであろう。ゆえに共感するところはない。夕食というのも高価格のものばかり扱っているスーパーマーケットで買った品でできているのだろう。そうに決まっている。彼に庶民らしい時代などなかったに違いない。
「簡単なものからはじめてみると、結構楽しいですよ」
 沈黙を避けるために切り出したが、彼女は失敗したと思った。何が朋夜にとって料理がそれなりに楽しかったかといえば、限られた費用でどれだけ味付けや調理法を変えて品数を作るか考えることだった。しかし鳶坂はどうやら一人暮らしらしく、金銭にも余裕がありそうなのである。
「簡単なものというと……?」
「野菜炒めとかどうですか。カットされたキャベツとかニンジンとかもやしの野菜ミックスなんかが売っていますから、ハムを切ったりして、塩胡椒で炒めると、それだけでもごはんがすすみますよ。豚肉や牛肉でもいいと思いますけれど」
「いいですね。フライパンはありますから。調味料は何を買えばいいんでしょう?」
 この話に内容はなかった。少なくとも朋夜にとって中身は無い。鳶坂遼架のような忙しげな立場にあり、おそらく裕福であろう者が実際に自炊に移行するとは思っていない。真に受けていない。ただ、この場に於いて必要なのは静寂を作らないことである。
「塩胡椒とお醤油と、めんつゆがあればある程度は」
 料理の話題が終わる。沈黙を恐れて喋りすぎるのもよくなかった。急に黙りはじめたかのような印象を与えてしまう。
「あの……」
 威風のある身形に反した、自信のなさそうな声だった。ニンジンを切り終わり、顔を上げる。
「はい……?」
「先程出ていった、若い人は……」
「少し前に辞めた、アルバイト先の子です」
 鳶坂遼架に納得した様子はない。朋夜にもそれは伝わっている。しかし他に言うことはない。彼は強姦魔でストーカーで侵入者であると、よく知りもしないがまったく知らないわけでもない相手に言えるべくもない。
「そう……ですか」
「何か言っていましたか」
「いいえ……」
 温くなってきているであろう茶を彼は一気に呷った。
「体調の悪い時に、どうもすみませんでした。そろそろおいとまします」
 鳶坂の妙にぎこちない所作は、糸魚川瞳希から何か言われたのだと口では否定していたが、肯定しているも同然だった。しかし朋夜も深く知りたいとは思わなかった。
「また明日、お邪魔してもよろしいですか」
「時間によっては居ないかもしれませんよ。それに、お忙しいのでは」
「明日の、この時間はいかがです」
 玄関脇のカレンダーを見遣る。
「大丈夫です。お夕飯は、召し上がっていきますか」
 一度食わせれば、期待は落胆と変わるだろう。早い方がよい。愛想もなく訊ねた。
「いいんですか、いただいても」
「期待に添えるものではありませんよ」
 フカヒレだのキャビアだのフォアグラだの、シャトーブリアンだの和牛だのは一般家庭の記念日でもない食卓には出てこない。
「そんなそんな。朋夜さんのお料理ですから、楽しみにしております。それはそれとして、あの、もし良ければ、こうしてお邪魔もさせていただいたわけですから、お兄様から事情は聞いていますし、送迎いたします。お時間も、都合がつきますから」
 兄の言っていたことがふとくびきとなった。
「色々とこちらも不規則ですから。お気持ちだけ……」
 鳶坂遼架はどういうつもりなのだろう。ただ兄の要求に従っているだけなのか。本当に善意なのか。はたまた……
「そうですか。では、明日はこの時間に」
「はい」
 貴族や王族と紛うほどの煌びやかな空気を纏った若社長は、民草の陋居ろうきょから出ていった。とはいえ仁実ひとみの遺したこの家も、随分立派なものであるはずだった。今頃肩に降りかかった埃でも払っている頃だろう。いいや、彼女の中に植え付けられた鳶坂遼架像はそのようなことはしない。仁君だ。否、しかし人には裏表があるものだ。
 少しの間そこに佇んでいた。我に帰る。そしてリビングに戻ろうとしたとき、玄関扉が開いた。宅配ならば一声あったはずだ。鳶坂遼架も、そのような不躾な真似をするだろうか。
「ただいま、綾鳥さん」
 糸魚川瞳希が帰ってきたのである。嫌悪に満ちた眼差しを送ってしまう。
「泊まるかと思ったんですが、帰したんですね。綾鳥さんって、お兄さんいるんだ。弟か妹がいると思ったんですけど」
「帰ってください」
 朋夜は小さく呟くような調子で言った。
「あんなかっこいい、帝王みたいな人となら、早く誘惑して、子種宿しておいたほうがいいですよ……ってぼくも思っちゃいました。困りますけどね。でもオスとして負けたなって」
 糸魚川瞳希は三和土を越え、靴を脱ぎ、かまちを跨ぐ。
「帰って」
「ぼく以外の種を宿されると困るな」
 朋夜は伸びてきた手を叩き落とす。
「帰ってください!」
「綾鳥さん。別にぼくは殴ったり蹴ったりはしませんよ。でも、綾鳥さんのその対応は不安です。危険なんです」
 抵抗は空しかった。容易く彼女の身体は床に転がり、それすらも糸魚川瞳希の具合で、叩きつけられたのではなかった。
「分からなきゃダメですよ、綾鳥さん。ボコボコにされちゃいます。分からないなら教えて差し上げますね」
 髪の毛が掴まれた。全身が粟立つ
「痛いでしょう?これでも加減しているんです。頭のおかしいやつは、このまま殴ったりするんです。男はこの加害欲求に耐えて堪えきれず、女性はそれに怯えていかなければならない……ぼく等の祖先たちは、もしかするとどこかでどちらかがどちらかを手籠めにして、今が在るのかもしれませんね。悍ましいですよ、レイプだなんて。ぼくは綾鳥さんにぼくの子種を注いで、ぼくの子を宿して欲しいですけれど、多分漠然としていて、本能なんでしょうね。本当に中で出したものが命になって人の形になるだなんて想像なんかできないんですよ。産まないでくださいね。可哀想だから。兄を見れば分かるでしょう。ああいう片輪は産まれたらかわいそうなんです。親を恨まない、弟を羨まない、そういう片輪には厄介なものを忘れて産まれたのが幸いですが」
 瞳希は朋夜をリビングまで引き摺り、ダイニングテーブルへ押し付けた。湯呑みが転がるが中身は入っていなかった。円を描くように転がり続け、床に叩きつけられた。砕け散る音が彼女の心理にも作用する。
「瞳汰くんは、……」
 言いかけたが途切れてしまった。迂愚なところは認められた。だが彼が障害者という観念が出てくるほど障害者だと、彼女には思えなかった。しかし障害者であろうとなかろうと、糸魚川瞳汰という人物しか知らない。
「ああ、そういえば、ここに置いておいた手紙読みました?二卵性とはいえ双子ですからね。やっぱり好みって似るんですかね。綾鳥さんが、あんな片輪を好くはずないのに」
「瞳汰くんから、なの……?」
 頭を上げることは許されない。髪を短く持たれてテーブルに押し付けられている。
「そうです。まさか綾鳥さんに告白していたなんて。迷惑ですよね。すみません。ああいうモテない男って、近場にいる女性なら手当たり次第に好きになって、自分のことも分からずに省みもしないで変な勘違いをする。自分が告白することが、いかに相手の女性の尊厳を傷付けるのか考えもしないんです。そう思うと、綾鳥さんって可哀想だな」
 鷲掴まれた髪が自由になる。しかし頭皮に痛みが残る。
「ぼくが立派な優れたオスになります。日がな一日、看病に付き添っていたんでしょう?だから帰ってこなかったんですよね。毎日毎日、京美くんに抱かれていた身体はそろそろ疼くんじゃないですか」
 朋夜は糸魚川瞳希を突き飛ばした。
「来ないで……!帰ってよ」
 彼は冷ややかに家主を見据えた。袖を捲り、裾を捲る。
「ぼく以外にその態度はやめてくださいね。本当に。殺されますから。分かりませんか。分かりませんね。体験してみて身体で分かるしかないですもんね。死ぬ前に」
 華奢に見えた男の長い指の関節が、拳を作って小気味良く鳴った。
「女性は弱いですから、媚びて、頭のおかしい男に取り入るしかないんです。それが生存戦略です。女性は女性に生まれて可哀想だ」
 不穏ながらもまだ柔和であった糸魚川瞳希の纏う空気が急に変わった。朋夜は後退る。気付けば片手で口元を掴まれている。
「女性は自分より大体弱い。男はそれが分かっています。けれど分からない、頭のおかしいのもうようよいます。木陰の岩の下のムカデやダンゴムシみたいに。反対に、分かっていて狙う奴等もいます。シスコンのお兄さんもあの帝王みたいな人も、きっと綾鳥さんの周りの男性はまともなのでしょうが」
 微笑を絶やさなかった糸魚川瞳希の表情に穏やかさはもうなかった。冷たい掌に当たった息が冷えたまま返ってくる。
「死なせはしないので怖がらなくていいです。でもまたお見舞いに行くし、あの人も明日来るんでしょう?じゃあ、その時の言い訳でも考えていてください」
 彼女の身体は、直後、ゴム鞠が如く床に跳ねた。ひたひたと跫音をたてて離れた分の距離を埋めていく。カブトムシの幼虫みたいに丸まった女体の上で、風を切る音がした。
 現状を理解するだけの容量が足りていなかった。思考はまったく違う方向に割かれ、逃げもせず、叫びもしない。
 兄を頼り続けるべきだった。しかし再度頼るのは憚られる。兄の世話にのることもできない。再婚をするつもりはなかった。この家で、甥と2人で暮らしていくのなら、耐えねばならない。甥の若い灯火が吹き消されるまで。
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