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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年
熱帯魚の鱗を剥がす 41
しおりを挟む通話を切ると、レースカーテンの開く音がした。兄の朝氷が後ろに立っている。
「兄さん。ころころ言うことが変わっちゃって悪いんだけれど、やっぱり明日帰る」
兄は青い切子グラスを持っていた。
「それは別に構わないけれども、どうして?」
「病院までの行き来が大変だなって思って。それはどうにかなるしいいんだれど、兄さんのおうちのことするって言ったのに、その時間も取れなそうだから、やっぱりあっちの家にいたほうがいいかな、って」
甥の実父や、元交際相手のことについて兄には話していない。彼には、甥が入院したしたからという理由で、盆や年末の長期休暇に帰省するような説明をしている。
「別にボクの家のことは考えなくていいけれども……送迎くらいならするよ。タクシー呼ぼうか?それならボクも安心だから」
朋夜は首を振った。
「さすがにそれは、悪いよ」
「兄妹なんだから気にしないで」
「ううん。帰る。大変だから……やっぱり」
ぐい、と彼はグラスを呷った。
「朝と昼でもいいかな。朝から夜でもいいけれど。昼のほうがいい?病院の面会って時間あるものね」
「え?」
「うちにいなよ。たまには専業主婦を休んでもいいでしょう。病院にはボクが送っていくし、これでも勤務態度は真面目だからね。多少の遅刻は許されるよ」
兄の口元が吊り上がる。妹でなけるば、微笑に思えたかもしれない。
「誤解しないでね。わたしが好きでやってることだから……断ろと思えば断れるんだ。断らないだけで……」
朋夜には、冷ややかに見下ろされていることが分からなかった。
「ボクは兄として、君のシアワセヲネガウだけだよ」
兄は妹の肩を軽く叩くと、ダイニングテーブルに戻っていった。
兄の家に泊まる時、朋夜はリビングのソファーの座面を開き、そこで寝袋を使っている。遮光しきれていない朝日で目が覚めた。彼女は冷蔵庫を開けた。ビールとその添え物ばかりで食えそうなものがない。何でも卒なくこなす器用さはあるが、生活能力がない。
寝室から兄がやってくる。
「おはよう、朋夜。寝られなかった?」
猫っ毛を掻いて、麗しい美貌はどこへやら、眠そうにしょぼくれている。
「おはよう、兄さん。寝られたよ。兄さんって、朝はごはん、どうしているの?」
「出社前にコンビニに寄ってたんだ。ごめんねぇ、カップ麺ならあるから、それじゃあダメかい」
彼はその辺りに置いてあったプラスチックのコップから小銭を漁る。銀だの銅だの金色だのが見えた。おそらく紙幣に替えられる。
「買いに行くかい?とりあえずこれくらいあれば足りるかな?」
この時間帯といえばコンビニエンスストアしか開いていないだろう。節約が身に沁みた朋夜には、割高な値段に抵抗を覚えずにいられない。
「ううん。じゃあカップ麺食べる」
「ボクとしたことが……ごめんね。昨日買っておけばよかった」
「気にしないで!泊めてもらってるんだし」
朝飯を終え、朋夜は兄の車で義甥のいる病院に送られた。朝氷は途中のコンビニエンスストアで、妹にパンだの茶だの握飯だのを買い与えていったが、彼女は結局食わなかった。
「昼に迎えにくるよ。無理そうなら夜。でも連絡して。抜けられそうなところで抜けてこられるから、遠慮はしないこと」
「うん。ありがとう、兄さん。気を付けてね。いってらっしゃい」
兄の車が駐車場から出て行くまで見送った。病院はすでに開いていたが、まだ入院患者と面会できる時間ではない。しかし兄には言えなかった。車で送ってもらうことさえも出社前の彼には負担であろう。
朋夜は病院のほうへ振り返った。エントランスの前の人影が動く。
「今の男、誰」
寝間着は入院のために買ってきたため見慣れていなかった。京美がそこにいる。痩せ痩けて頬が煤けたようだった。目元も落ち窪んでいる。
「京美くん……病室にいなきゃ、ダメじゃない……」
まさか外を出歩いているとは思わなかった。朋夜は呆然として、声に抑揚ない。
「今の人は?朋夜のカレシ?」
義甥は叔母の兄の存在は知っている。しかし会ったことはないらしい。叔父経由でも会っていないか、或いは、兄の姿が見えなかったか……
「兄さんだけれど、それより、こんなところにいたら身体を冷やしちゃうでしょう?」
すでに病院は開いていて、人目はあるというのに京美は叔母にしがみつく。
「今日は来てくれるのかな……って思って……」
「行くって昨日言ったじゃない。ここで待ってて、京美くんに何かあったら元も子もないでしょう?」
「だって、不安で……」
朋夜は自身が叱りつけるような口調であったことを認めた。京美は目を側めて、悲哀を帯びる。彼の境遇を思い起こさずにいられない。
「大丈夫よ、京美くん。大丈夫だから。今の時代は電話もできるのだし」
「うん……」
悄然としてしまった甥に、学ばない、詰めの甘い叔母は萎びて草臥れたようになっている黒髪を梳いた。否、彼女はある種の覚悟を持っていたのかもしれない。それかもしくは、日頃の愚鈍さのとおり何も考えていないのか。
「朋夜の手、あったかい」
京美は頭にある叔母の手を髪から剥がしてしまった。そして頬を擦り寄せた。彼女の手指はあたたかくはなかった。万年冷え性ですらある。しかし京美の手と接触したとき、氷水を掻き混ぜたみたいな心地になった。
「京美くん。もう戻らないと。身体も冷えてるよ。まだ面会時間じゃないからわたしは入れないけれど、京美くんは戻らなきゃ」
「まだ一緒がいい」
彼はまだ叔母の掌に頬を寄せている。
「だめ。戻りなさい。ちゃんと時間になったら行くから。早く。ね?いい子だから。病室でまた会おう?」
好きにさせていた手で、今度は自ら甥の頬を撫でる。肌が少し荒れている感じがした。
「ごはんはちゃんと、食べてるんだよね?」
「うん。早く朋夜の作ったごはん食べたい」
「じゃあ、やっぱり身体冷やしちゃいけないわ。時間までもう少しだから」
朋夜は腕時計を見た。渋々と京美は頷き、待合室までは一緒だったが、エレベーター前で別れた。
最近移設されたばかりの病院はまだ新しく、喫茶店の入った南側エントランス脇ロビーの一部はガラス張りで適度に光が射し込んでいる。しかし暑くはなく、院内はひんやりとしていた。
チョコレートケーキじみたイスに座り、義甥のことについて彼女は思案に耽る。
やはり兄に頼るべきでない。甥の傍にいなければならない。昨晩の饗膳が砂や鉛と化したみたいだった。痩せ具合も気になる。彼女の直感では、あの有様は病によるものではなく環境の変化によるものに思えた。
そもそも何のために兄の家に身を寄せたのか、彼女は忘れてしまった。思い出すのは、義甥が入院したからという理由のみだった。そこを掘り下げようとしなかった。
決心が固まる。明日には兄の家を出る。甥の望むだけ傍に寄り添うべきだ。それが亡夫の望みでもある。
面会時間になって、彼女は義甥の病室に向かった。彼はベッドではなくソファーに座っていた。叔母の姿をみると、隣の座面を叩く。
「待っててね。脱いだものは?」
京美は眠そうに目を擦った。朋夜は苦笑しながら着替えを出し、ベッドに散乱した衣類を畳む。前まではあらゆるものをきっちりと畳まれて出されていたことを思い出す。弁当の箱ですら下洗いしてあった。それがどこか、彼の孤独感を匂わせて哀しく思っていたのが久しい。
「朋夜……」
眠そうにしていた甥は重い腰を上げ、ベッド周りを整えている朋夜の背中に張り付いた。
「京美くん」
「いい子にしててね。そうしたらすぐ帰れるから。寝られなかったの?」
背中越しに首肯があった。
「枕が合わない?タオルにしようか」
今度は首を振っている。
「寂しい」
朋夜は黙ってしまった。京美はビニール袋の人形みたいに叔母にしがみついている。
「今なら寝られそう?」
「寝ない」
「寝ておかないと、入院、長引いちゃうよ。ね。傍にいるから。今はちゃんと休んでおかないと」
喋り方で彼の眠気は分かってしまった。振り向いて、骨張った身体をベッドのほうへ押せば、特に抵抗も示さず寝転んだ。
「寝るの、もったいない」
「傍にいるから大丈夫よ」
睡魔に取り憑かれている眼を屡瞬かせ、甥は朋夜を見上げる。
「朋夜」
「おやすみなさい」
布団を掛けると彼は目蓋を閉じた。
「朋夜」
しかし口は閉じない。
「どうしたの」
「来てくれて、ありがとう」
もにゃもにゃと唇が動く。何気ない彼の労りだったのだろう。しかしその一言が叔母の胸を打つ。激しい憐憫が眦を炙る。
「いいのよ、ありがとうなんて。家族なんだから」
「でも来てくれたから……」
彼はまだ起きているのか、すでに寝てしまったのか分からない穏やかさである。
「朋夜」
「うん?」
「もし俺がこのまま死んじゃっても、泣かないでね。朋夜が悲しいの、一番ツラいから」
今のこの甥は、虫の息というわけでもなかった。
「たまに考えるんだ。このまま寝て、目が覚めなかったら……って。朋夜、俺が死んでも、悲しく思わないでね。好きなことやれたから。朋夜と会えて幸せだった」
眠さに満ちた語気が強迫観念を連れてくる。
「眠いと弱気になっちゃうものね」
「弱気じゃないよ。いつもそう思……」
言葉は寝息へ切り替わった。頭が転がり、傾いて落ち着く。朋夜はソファーへ腰掛け、その寝姿を眺めていた。
午後に回診があるそうだが、それまではいられそうになかった。しかし甥の様子を見てしまうと離れるのが哀れに思えて胸が苦しくなる。毎日が、彼の幼い頃の心の傷を刺激してしまうらしい。両親に置いていかれたことを思い出すのだろう。
朋夜は兄にメッセージを打った。昼に帰る約束だったが迎えは不要である。夕方に電車で帰るから家事はできないがその点に関してすまないというような旨を送った。そして間もなく、家のことは気にするな、用心して帰るようにと兄の返信がくる。
安らかな息遣いを聞きながら、彼女も時折りうつらうつらとした。所在なく時間が過ぎていく。
余程疲れていたとみえ、京美は面会時間が終わる頃になってもまだ寝ていた。回診のときに一度起きたがまた寝てしまった。しかし神経質な彼はおそらく夜に眠りはしないのだろう。書置を残して病室を出る。
外はすでに暗くなっていた。季節の変わり目を感じはじめる。それにしても一段と冷えて感じられた。わずかにきゅっと身体を縮め、駅へ向かおうと踏み出す。
「綾鳥さん」
背後からであったが、真後ろではなかった。振り返ると、ある程度距離を取って鳶坂遼架が佇んでいた。壁に凭れかかっていたらしい。
「あ……」
朋夜は無防備であった。顔は覚えているが名前も言葉もすぐに出てこない。
「こんばんは。お兄様に、綾鳥さんを送迎するようにと……」
まるで執事のような物腰である。
「え……あの、いつからですか?結構長い間、お待たせしてしまったのでは……」
「病院の面会時間をお調べしてから参りましたので、そう長くは……」
それでも、朋夜が面会時間いっぱい居るとは限らなかったわけである。
「すみません、兄が……無理を言ったみたいで……今後はこういうことのないように、よく言い含めておきますから……」
彼女は驚きと戸惑いと申し訳なさに声が掠れ、抑揚を失っていた。
「いいえ。お兄様から話を伺って、私が迎えに行きたいと申し出たのです」
待たせてしまったのは事実である。ここで断るのも尚更に悪い。
「お忙しいのに、本当にすみません。今日だけ、お言葉に甘えさせてください」
鳶坂遼架は角張った眼鏡によって強調された厳然とした秀麗なかんばせを和らげる。
「はい。喜んで」
鳶坂遼架の車へと案内される。白い車が暗くなっている外に浮いて見えた。彼はやはり執事みたいに後部座席のドアを開け、朋夜を促す。車内の匂いに生活感がない。兄の元部下という男は不思議な人物だった。
「昨晩は、とても楽しかったですよ」
彼の所作はすべてを静かにする、シートベルトの擦れる音も装着する音も、森の奥深くの湖に朝露が落ちたような趣だった。
「あ……よ、よかったです。その……」
圧に似た品の良さに気後れしてしまう。この男の前で野暮な態度をとることが、自分だけでなく彼の品位まで損ねてしまいそうなプレッシャーを覚えた。
「いずれまた、一緒にお食事でも」
「ええ、はい。いずれ、また……」
社交辞令をそのまま復唱する。内容としてはまるで虚無だが、沈黙にはこれが一番便利であった。
兄の自宅マンションへと到着する。鳶坂遼架は部屋まで彼女を送った。インターホンを鳴らすと家主はすぐに玄関を開ける。
「おかえり、朋夜。それと、鳶坂くん。妹をありがとうね。急にすまなかった」
「いいえ。私もちょうど、手が空いていたところですから」
兄・朝氷とその元部下は二言三言交わしてから解散した。改めて礼を言った時の鳶坂遼架の穏やかな眼差しが何故か深く朋夜の意識に入り込む。
「さ、夕食にしよう。って言ってもお弁当だけれども」
兄と共に中へ入ると、ダイニングテーブルには弁当屋で買ってきたらしき夕飯が並べられていた。
「ごめんなさい、兄さん。急に、あんな連絡を入れてしまって」
「別に構わないよ」
「鳶坂さんにも悪かったなって……」
兄は微笑を湛えているのみだ。彼は電子レンジに弁当を入れていく。主食と主菜とで箱が分かれている。
「ほっとぽっと亭のからあげ弁当だよ、朋夜。好きだっただろう?」
「覚えててくれたんだ」
「覚えているよ。当たり前だろう」
元の家庭は壊れてしまった。二度と帰ることのない日々だ。しかし兄は穏やかにそこにいる。
「甥っ子くんの具合はどうだい」
「慣れない環境で緊張していたみたい」
「そう。不安もあるだろうからね」
朋夜はどう切り出そうか迷ってしまった。躊躇しているうちに電子レンジが鳴いた。昔から変わらない弁当が目の前に置かれる。衣の付き具合も、揚げ加減も漬物も、添え物も変わらない。変わったのは食っている側の暮らしか味覚か。
甥が揚げ物を好まないために、からあげ自体、食べる機会が減っていた。
昔食べた弁当は庶民的な価格だが、優しい兄といることも相俟って幸せになれてしまう。それが今は恐ろしかった。各々行く道があるはずだ。分かっていながら留まっていたくなってしまう。しかし取り巻くものは、すでに後戻りできないことを証している。
「兄さん」
「うん?」
「やっぱりあっちに戻ろうかと思って。そのほうが色々と勝手がいいし……急なんだけれど、自分で帰るから……」
兄とはまだ一緒にいたい。ここに居るうちは懐かしく心地良い、思い出に浸っていられる。ただ大人びてしまった理屈がそれを赦さない。
「そう……」
「ごめんね。家事やるとか、言い出したのわたしのほうなのに……」
「いいよ、そんなことは気にしなくていいことだ。むしろ、せっかく来るのだから、朋夜にはだらけていてほしかったくらいだよ」
兄は弁当の前で合掌したままでいる。
「そんな……わたしは、専業主婦なんだし……」
「専業主婦だって大変さ。休みが無いじゃないか。まったく………うふふ……なんでもない」
この兄は父親を恨んでいる。父親は会社が波に乗った途端、専業主婦の妻をあっさりと捨て新しい女の元へ行ってしまった。父についていくように勧めたのは兄である。間もなくして実母は病没した。
自身が紹介した結婚で、妹が会社員を辞め、専業主婦になることをこの兄ももしかすると苦慮していたのかもしれない。
兄は父親を悪し様に言いたかったのだろう。だが留めた。父親は専業主婦の母親を蔑んでいたのがふと朋夜の中にも思い出される。それでも父親は娘には優しかった。ゆえに彼女も複雑な心境であるのだ。
「ごはん食べよう。ボクはお腹が減ったよ」
兄は妹を自宅に送るといってきかなかった。散々振り回してしまった負い目から彼女も断れない。
エントランスに入ると、2泊空けただけだというのに、長らく帰ってきていないような新しいが嗅ぎ慣れたホームの匂いがする。自宅玄関に踏み入ったときも普段は慣れて消え失せていた匂いがほんのりと薫る。靴箱の上に置かれた瀕死の消臭剤が微かな芳香を滲ませている。
「朋夜」
無遠慮に辺りを見回していた兄が話しかける。彼は今日、会社に遅れて出勤する。
「何?」
兄の麗らかな顔を見上げる。彼も妹を見下ろした。ほぼ同じタイミングである。
「鳶坂くんが来るから、甘えなさい」
「えっ」
さも当然のような口振りだ。兄は不敵に笑う。
「鳶坂さんが?どうして……?」
「心配なんだよ。ボクが頼んだのさ。送り迎えしてもらいなさい」
「いい!必要ないよ。断って。悪いよ。鳶坂さん、社長なんでしょう?わたしだって気を遣っちゃうよ」
妹は幼い頃みたいにその腕にしがみつくが、兄は朗らかに微笑するだけだった。話をはぐらかすときの彼の癖だ。
「兄さん!」
「朋夜」
背の高い兄が、妹の目線に合わせて屈む。温厚げな表情がしかつめらしく変わる。両肩に置かれた手が只事ではない感じだった。
「戻ってきなさい、朋夜。一緒に暮らそうとは言わないよ。部屋も新しく借りよう。君はまだ若い。大きな息子を育ててる場合じゃないよ」
「わたしこの生活、気に入っているの……」
朋夜は目を逸らした。厳しい顔付きだった兄の眉も甘くなる。
「甥っ子くんに絆されているの?」
「京美くんが成人するまで傍にいるって、仁実さんと約束したの。それまでは、今後のことなんて考えられないよ」
「それじゃいけないよ。自分の人生だよ。お為倒しでもいい。ボクは妹に自分の人生を生きて欲しい。飛髙さんは亡くなったのに、君はまだ若くて、次の人生にいけないだなんて、なんだか奴隷みたいだ……」
この兄は優しい。妹想いで、聡明で、大体のことはこの兄が正しかった。だが勝手である。独裁的で支配的だ。
「別に今後の人生に、わたしは恋愛とか結婚とか要らない……仕事の口も探すし……兄さんの心配することじゃ……」
長い睫毛の下の澄んだ眸子が忽如として妹から逃げた。
「甥っ子くんとは、随分仲が良いんだね」
「え?」
「病院に送った帰り、ふと君をみたんだよ。抱き合っていた相手が甥っ子くんじゃないのかい。あれは入院の心細さがそうさせたというの?」
叱りつけるよりも、落胆に似た響きが朋夜を揺るがす。
「甥っ子くんは、飛髙さん側の親戚に任せるべきだよ。こんなことが、表沙汰になる前に。あんなことは良くない。大体、甥っ子くんに恋人ができたときにどうするの。あんな真似をしておいて、顔を合わせられるのかい。朋夜。考え直しておくれ。考え直すんだ」
小さな子供を諭すような態度であった。彼の長い腕がすでに成人の妹を幼い妹にするかのごとく柔らかく絡め取った。
「ごめんなさい、兄さん」
謝るほかなかった。それは改めるという意味合いだったのか、改められないという意味合いだったのか、朋夜自身にも分からなかった。
「鳶坂くんに、君のことをよく頼んでおいた。鳶坂くんも君のことを憎からず思っているはずだよ」
「鳶坂さんは兄さんの知り合いなんだもの。そう言うのは当たり前じゃない」
薄く冷たい掌が妹の後頭部に添わる。朋夜の声も冷めていた。
「それは、君が実際関わってみて、知ればいいさ」
「鳶坂さんに、来なくていいって伝えておいて。わたしは平気だから……」
返事はない。
「兄さん」
「ボクが断っても鳶坂くんは来るよ。じゃあね、朋夜。戸締りはちゃんとして。チェーンロックもしっかり締めて」
兄が帰っていく。鳶坂遼架とどうにかなってほしいらしい。しかしあの元部下で若社長だという男は家柄の良さを窺わせる。そして相応の教育を施されたことだろう。その貴族めいた立ち居振る舞いは一個人の選択が一族に波及するような厳格さを思い起こさずにいられない。いくら会社の上司の妹といえど、まず一般家庭の女など歯牙にも掛けないだろう。
朋夜は本当に鳶坂遼架とどうにかなる妄想を広げてしまったが我に帰った。荷解きをして、洗濯機を回さなければならない。兄の自宅と病院の往復を想定していたために荷物のほとんどは京美の着替えである。
必要なものを纏めて、彼女はリビングのほうには行かずにすぐ自宅を出た。今から出れば、面会時間のはじまる頃に着く。バスに乗って少し離れた駅からまた電車に乗る。帰りは夜になるだろう。
道中、兄の言葉が離れなかった。そう近いとはいえない道程が短く感じられるほど、親族の言葉は深く刺さっている。実父よりも父親だった兄の言葉は絶対的に映るのだ。
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