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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年
熱帯魚の鱗を剥がす 40
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「俺の朋夜なので……皮膚片のひと欠片も渡したくないんですよ」
しかし朋夜の意識は、世に出してはならない関係を義甥自ら匂わせにかかったことに向く。
「あ、あの、違くて……」
「朋夜を送り届けてくれたことには感謝しています。でも俺の朋夜なので、下着は勘弁してください」
京美(みやび)は外面がいいのか、天条奏音に愛想笑いを浮かべている。朋夜の見たことのない表情であった。
天条奏音もこれまた見たことのない、愉悦に満ち満ちた笑みを浮かべていた。
「て、天条さん……あの……」
「異常だわ。とても、異常よ……うっふっふ。お邪魔虫は帰るわよ、ジョー。いいかしら?ジョー。あなたの望みは叶わないの。よく見ておきなさい。あなたの好きな人の異常な関係を……」
天条奏音は結局、目的の品物を入手することはできなかったけれども満足であった。
「トモヨサン……」
如衛龍から、京美は叔母を隠してしまった。
「朋夜がお世話になりました」
へらへらと、まるで中身が誰かと入れ替わったような態度の京美は天条奏音へ頭を下げる。この女もそれなりに聡い。
「それじゃあ、またね?綾鳥さん」
天条奏音は連れの青年の腕を引こうとする。しかし彼は引っ張られながらもわずかに踏み留まって朋夜を見ていた。
「トモヨサン」
「ありがとうね。色々、気を遣ってくれて……」
如衛龍はそれから京美に目を配る。それがいけなかったのだろう。だがいけなかったと知るのは直後ではなかった。2人が帰ってからのことだ。
「あの人と何かあったの?」
玄関ドアを閉めると、我慢していたのか、彼は噎せたように咳を繰り返した。口元に腕を当てながら喋る。朋夜をたじろがせる咳だ。
「何も、ないよ……?」
無意識に義甥へ触れようとしてしまったが、彼は嫌がった。
「でもあの人……なんか、朋夜のこと、見てた」
「偶々じゃない?」
「違う……何か言おうとしてた。朋夜、本当に、あの喫茶店に行ったんだよな……?」
朋夜はびっくりしてしまった。その点について怪しまれ、疑われるとは思っていなかった。
「そ、そうだけど……」
「天条さんと、妙な関係なのか?だとしたらあの男は……?朋夜……」
彼は困り果てた顔をする。連続した咳によって、青褪めたような白さに赤みが差す。温まった身体がさらに咳嗽を誘ったらしい。彼はまた口元に袖を当てて肩口を震わせる。
「京美くん……」
その様子が尋常でない。喉からこぷ、と音が漏れているが嘔吐はなかった。京美はやがて屈んでしまった。朋夜は彼の背中を撫で摩る。
「いい……!俺に、構うな!」
久々に、義甥の声の荒げたのを聞いた気がした。突き放されてしまったが、しかし彼女に呆然としている暇はなかった。その袖口に真っ赤な滲みがついているのを見たのだ。
「京美くん、それ―……」
掌にも赤いものがついて手相を浮かしている。京美は目を見開いて、己の両手を凝らし、表情の乏しい彼の美貌には驚愕を映していた。
朋夜はほんの一秒、二秒はぼうっとしていたが、やがてスマートフォンを置いた場所へと駆けた。叔母が意図を京美も察したらしい。それはダイニングテーブルの上の連絡手段に対するビーチフラッグと化していた。勝者は朋夜である。その指がパスコードを解き、迷わず番号を押す。
「いやだ、朋夜……!いやだ!」
このとり澄まして、懐きすぎて甘えきった子供気分の猫の鳴き声みたいな音吐しかださない甥が喚いた。初めて聞いた種類の声かも知れない。彼は叔母に取り縋った。しかし朋夜も構わない。感情としては冷徹であった。
「いやだ、いやだ………朋夜、いやだ……っ」
地獄から助けを求める亡者という画題にありそうな構図であった。
救急車が来るまでの間、鬱ぎこんでしまった幼い少年を朋夜は宥めなければならなかった。微温湯で濡らしたタオルで汚れた手を拭くのにも、彼は太々しく腐れて、素直に掌を渡さなかった。
「ごめんね、京美くん」
哀れな幼少期に戻ってしまった甥を抱き締めてみれば、彼は拒絶もせずにむしろ叔母を受け容れた。
「怖い」
「大丈夫よ。大丈夫だから」
しがみつきながら男児になってしまった京美は咳をする。
「朋夜」
長い腕が首の両脇へと伸びた。そして後頭部へ回る。
「怖いこと、ないから」
黒髪が左右に揺れて朋夜の頬や耳を掠る。
「変なやつ、いる……変なやつが、いるから………朋夜」
「変なやつ……?」
朋夜は心臓を叩かれたような気分がした。
「エントランスで、いつも、俺のこと、見てて……」
「若い人?男?女?」
「おっさん……朋夜のこと、訊いてくる。朋夜のこと、1人にできないから……」
彼はうっうと咽ぶ。朋夜は背中を摩る。
「そう。怖かったね。用心するから、平気よ」
義甥は再度、首を振る。
「俺が朋夜の傍にいなきゃいけないんだ……」
「ありがとう、京美くん。でも大丈夫だから、京美くんは自分の身体のこと、考えなきゃ」
彼は痰を絡ませたような咳を続け、叔母の首筋を汚してしまった。
「俺がいなくなったら、朋夜、俺のこと、忘れちゃう!」
「忘れないよ。だって帰るところ、ここにしかないもの」
京美はまたもやぶるぶると首を横に振る。
「朋夜のこと、1人にできない。ねぇ、朋夜……もし他にカレシいるなら、お願いだから、そこに泊まれよ……危ない、怖い……朋夜、俺が死んだら、朋夜のこと自由にする……!幽霊に、ならない……でも、それまでは、俺から、」
彼は変わらず咳をした。救急隊員がやってくる。
「離れないよ」
朋夜が答えると、義甥はゆったりと身を預けた。
◇
義甥は入院することになってしまった。彼は嫌がったが、高度な治療が必要な病状であるのだから仕方がない。普段からこの甥に甘い叔母は説得に苦心した。
朋夜は今、車に揺られている。京美はこの叔母に新しい恋人がいると信じきり、その家へ逃げるように口酸っぱく言った。亡夫の実兄が来ているらしい。
「遅れてすみませんでした。朋夜さんにも申し訳ない」
後部座席のドアが開いた。運転席には朋夜の兄が座っていた。彼女の隣に乗り込んだのは、その親友だ。背の高い、スーツ姿に針金然とした眼鏡の男で、黒い髪を後ろに撫で付けている。人形めいた縹緻の彼は鳶坂遼架だ。
「いいえ。お邪魔してしまったのは、わたしのほうですから」
朋夜は恭しく頭を軽く下げた。強面な美青年の表情が綻ぶ。
「お邪魔などとはとんでもない。織上さんにはお世話になっていますが、たまには3人というのも新鮮です」
彼は朋夜の兄・朝氷の元部下であるが、今では一城の主の身分にある。所作、物腰、発話それぞれに淑やかさが宿る。
「鳶坂くん、割烹料理でもいいかい?もうフレンチの口かい?」
運転席で黙っていた兄が喋った。玲瓏な声は車内に麗しく響く。
「自分は、どちらでも……ご都合の良いようになさってください」
「助かる。お腹減っちゃってねぇ。ボクというやつは、フレンチのコース料理じゃ、お腹がいっぱいならなくってね」
麗しの若社長を待っている間、この兄は料亭を調べていたらしい。光っていたスマートフォンの画面が消された。
「予約してたの?兄さん。ごめんなさい……急に来てしまって……」
「気にしないでよ、朋夜。暫くぶりなのだし、誕生日もクリスマスも何もしてやれなかったろう。たまには美味しいものを食べさせたくってね。違うな。美味しいものを食べている妹の姿を、ボクが観たいのさ。付き合っておくれね」
兄の朝氷に連絡を入れたとき、彼は久々に再会する妹をディナーに誘った。しかし朋夜としては義甥が入院している身である。躊躇いがあった。けれども、だからこそ養生するようにと説得されてしまったのだった。
「私もちょうど、ナスの天ぷらが食べたかったところですから」
この兄妹の間に流れた微妙な空気感を、若社長は感じ取ったらしい。
「いいね」
フィンガースナップが車内に小気味良く弾けた。
「店はお決まりですか。予約は済まされたので?私が今から予約を入れましょうか」
「もう予約は済んでるよ。君がフレンチじゃなきゃヤダっていったらどうしようかと思っていたくらい」
「私はそんなこと言いません」
若いのであろうが、役職がそうならざるを得ないのか、推定される年齢の割りに落ち着いた雰囲気の鳶坂遼架は少し拗ねたふうである。
車は料亭へと進み、日本庭園の中にぽつりとある庵めいた個室へと案内される。明らかな高級感に朋夜は緊張してしまった。ひとり病室で過ごさなければならない義甥を、思い出さずにいられない。
「朋夜。ボクを頼ってくれてありがとうね」
妹の心情を知ってか知らずか、座敷に上がるとき、まるで空耳が降ってきたように兄は耳元で囁いた。
朋夜の兄もまた、美しい若社長と遜色ない佳麗な男であった。ただ、いくら遊び人じみた軟派な感じが否めない。
先に靴を脱いでいた鳶坂遼架が、卓の脇に立って朋夜へ上座を勧める。彼女は素直にそれに応じることができなかった。
「ほらほら、いいよ。気にしないで」
朝氷が妹の凝り固まった左右の肩へ手を置いて、上座へと座らせる。
座に着いて間もなく、鳶坂遼架は入電のため外へと出ていってしまった。兄と2人きりになる。若社長がいたときは朗らかに莞爾としていたけれど、朋夜にはしかつめらしい眼差しをくれた。
「朋夜。ボクのところに戻ってくるかい」
実家という実家が、彼にも朋夜にもないのである。今は神流が暮らしているところが実家ではあるけれど、母やこの兄と暮らしていた頃とは様変わりしている。懐かしい家族団欒は二度と戻らないのである。だが時折、この兄は、現在彼が暮らしているアパートをまるで彼女の実家であるかのように語るところある。
「え……?どうしたの、兄さん」
「色々ボクも後悔しているんだよ。良かれと思って……空回りばかりだな」
兄は何かに深く悩んでいるらしかった。端整な面構えが翳り、不穏な色気を帯びはじめた。
「兄さん、何か……あったの?会社のこと?」
「違うよ、君のこと。飛髙さんとの結婚を薦めてしまったことだ。病気のことは聞いていたけれど、あの進行の早さはボクも知らなかった。甥の面倒を看なければならなくなっていたことも……君をこんな若くして、寡にしてしまった。すまなく思う」
「兄さん……それは、勘違いで……」
兄がこのようなことを言い始めたのは、落胆と消沈をみせたからであろう。彼女はそう決めてかかった。甥の喀血と入院に疲労していた。それを、信用しきれなくなっている実父よりも父のようだったこの兄に、甘え、晒してしまった。このことが過保護な兄を刺激してようだ。
「朋夜……飛髙家に巻き込んだボクがいうのは残酷なことだけれど、弁護士を立てて、君は君の人生を生きなきゃならないよ。弁護士費用ならボクが……」
「え、……兄さん」
「鳶坂くんはどうだろう?二度目はない。彼ならば、ボクも傍で、」
しかし妹のことで必死になってしまう兄は口を噤まなければならなくなった。鳶坂遼架が戻ってきたのだ。朝氷の表情は、これから出てくるであろう天ぷらの如くからりとしていた。
「失礼しました」
洗練された所作に、現代ではそう実感のない貴族社会というものを覚える。鳶坂遼架はこの時代のこの国に生まれ育ったのか疑わしく、いやでも刷り込まれていく俗っぽさがなかった。そして嫌味がないのである。
「今ね、朋夜に……鳶坂くんのことをどう思うか、訊いてみたところなんだ」
腰を下ろそうとした鳶坂遼架は眼鏡の両端を手で押さえ、外方を向いてしまった。
「な、ななな何を……」
朋夜も肝を潰す。咄嗟に兄を睨んでしまった。
「まぁまぁ、座ってよ」
織上朝氷という男は策士家的な面があることを、この妹は忘れていた。意地をされたり喧嘩をしたりということはなかったけれど、それは年齢差や異性ということもあったのかもしれない。
「そういえばさ、鳶坂くん、お嫁さん探ししてるって話、してたよね?」
角張ったレンズの奥の秀麗な眉と目が怪訝そうである。
「しましたが……」
「朋夜って、結構、君の好みだと思うな」
「兄さん!」
朋夜は兄のほうへ身体を傾けた。
「は、はぁ……ですが、面と向かってこういうお話は、失礼なのでは」
俯きがちな若社長の目が泳ぐ。
「そう?一応聞いておきたいと思っていたのだけれどもね。朋夜だって、今をときめくイケメン若社長が結婚相手に求めるものが何なのか気にならない?」
流されやすく気の弱い朋夜のような人物が、この場に於いて他者にフォーカスされるべき話を跳ね除けることはできなかった。躊躇いがちに、どっちつかずに頷いた。
「朋夜もこう言っているし、ボクも知りたいな」
彼女は不安げに兄を見ていることしかできなかった。インタビュイーは気が進まないようである。
「兄さん。やっぱり、悪いんじゃ―」
「お答えします」
若社長は首を竦め、眼鏡の両端を押して掛け直す。
「家庭的な女性が望ましいです。私が仕事で家を空けることが多いので。専業で家事をしてくださる方が……」
「容姿は?」
インビュアーは柔和ながらも意地の悪そうな笑みを浮かべた。だが、鳶坂が動揺するのとほぼ同じ頃合いで料理が届く。
次々運ばれてくる飯はどれも美味かった。大した好き嫌いのない朋夜にとって苦ではなかったし、見た目も華やかで店の雰囲気に遜色のない品質であった。鳶坂遼架も、食事の挙措からも品性を窺わせ、ここが格式の高い料亭であることに箔をつける。実はこの国には貴族制があって、彼はその貴族であるといわれたほうが納得できるくらいだった。生まれから違うことを気付かせてしまう。
「どうしたの、朋夜」
聡明とも狡猾ともいえない兄は、昔から妹の機微に敏い。
「食事している姿が、綺麗だな……と思って」
朋夜に他意はなかった。食事中の仕草について、悪いほうでなければ気に留めたことがない。だがそれを聞いた兄は月下美人であった。
「―だって、鳶坂くん。聞いてた?」
すると鳶坂遼架は顔を真っ赤にして眼鏡の左右のヒンジを拇と中指で押した。
「真っ当ないただき方だと思いますがっ……!」
「冷やかしたつもりはなくて……その。ああ、ごめんなさい」
「い、いいえ……怒ったわけではなく……」
兄が穏やかに笑っている。朋夜の不安が募る。兄にとって、妹の飛髙家との婚姻は、仁実の病没と共に終わったものなのかもしれない。
鳶坂遼架を高層ビルみたいなタワーマンションの自宅まで送り、兄と2人きりになるまで、彼女は懶い感じがした。
「すごいね。あの歳でこのビルも、彼のものなんだから」
朋夜が義甥と暮らすタワーマンションよりもいかつい、ベランダも見当たらないような黒いダイヤモンドめいた摩天楼である。
「兄さん」
朋夜は運転席へ近付くために前のめりになった。しかしシートベルトが接近を阻む。
「どうしたの?」
「さっきの料亭での話だけど、わたし、仁実さんと結婚したこと、後悔してないから……」
兄はすぐに返事をしなかった。無音だった車内に静かなジャズがかかる。
「後悔をしていないのは、分かるよ。君を見ていたら。ただ、ボクが言いたいのは……未来の話だよ。一緒に暮らしているというのは、血も繋がらないし、夫の連れ子でもないわけだ。身体も弱いんだろう?朋夜……君は小さな頃から誰かの世話係だった。それがね、ボクは歯痒いんだ」
兄に会いに行くために、新たな母が神流とのドライブがてらそこまで車で送るという話が昔あった。しかし神流が学校の友人と遊ぶことになった途端、朋夜は電車を使わなくてはならなくなったことをふと思い出す。兄は妹が新たな母親と上手くいっていないことを見抜いていたし、また弟のシッター同然となっていたことを察していた。前々から苦言を呈されてはいたのである。
「あの家を出て欲しいからあの人を紹介したのだけれどもね……」
「兄さんには感謝しています。素敵な方でしたから。それに今の生活は幸せだから、心配しないで」
「朋夜。ボクを恨まないでおくれね。ボクにとって君はいつまでも小さなお姫様なんだ。口煩くもなってしまうんだ。余計なお世話も焼きたくなる。どうかボクを……恨まないでおくれ」
離れて暮らせども、兄は実父よりも父であった。朋夜は彼を前にすると子供に帰ってしまう。
「兄さん……恨んだりなんかしないよ。でもどうして。兄さん、戦国時代の人みたい。わたしは望んで、仁実さんのところにいるのに」
彼女は俯いてしまった。煌びやかな夜景が車窓の奥を流れていく。
「今は、若いからそう思うかもしれないよ。でもあの甥っ子くんは?甥っ子くんの看病に、一生を費やすつもりじゃぁないだろうね」
「……酷いよ、兄さん」
「責任を感じているんだよ。今更だね。甘い毒だった」
朋夜の眉根が狭まっていく。
「長生き、できないかもしれないんだ、京美くん」
兄は黙った。ジャズと車の走行音が聞こえるばかりである。
「何故」
「仁実さんと、同じ病気かもしれなくて。でも、治療はしたくないんだって。だから入院もしなかった」
「だとしたら、尚更だよ。ボクは残酷で冷徹な人間なのは分かっているけれども、もし見立てどおりでなかったら?だからつまり、甥っ子くんは長生きするけれど、健康状態に問題があったら?」
優しい兄の思いやりが怖くなってしまった。彼なりに妹を慮っている。それは朋夜にも理解できた。しかし……
「京美くんが20歳になったときに決める。もしかしたら、出て行けって言うかも知れないし、わたしも働きに出るから……」
運転手は口を開かなくなってしまった。経験からして、機嫌で口数を減らしたりするような気性ではない。だが朋夜は狼狽える。
「兄さん……怒った………?」
「怒ってないよ。そんなことじゃ怒らないさ。ただ、納得するのが難しくてね」
彼の語気は穏やかで、怒っていないのはどうやら本当のことらしい。しかし妹に安堵は訪れない。
「ごめんなさい」
「朋夜の謝ることじゃない。ボクの責任だ」
「そんなことない。兄さんはわたしのこと考えてくれてて、あとは、わたしの家庭の問題だから」
やがて車は大通りから脇道には入り、3軒ほど建物を越えたところの駐車場へと停まった。隣接したところに平たい10階建てほどの集合住宅がある。その4階の端の部屋が兄の自宅だ。先程別れたばかりの若社長のタワーマンションとは違い、外観も内装も生活感がある。
部屋はトイレと風呂場、寝室のある廊下を抜けたところにある二間ぶち抜きで、仕切り代わりに固そうなカーテンが壁の隅に束ねられていた。だが使われた形跡はない。壁は出入り口側がダークブラウンを基調とした木目で、他は白のビニールクロス、金具はゴールドに統一されて庶民感に乏しい。
「好きに寛ぐといいよ。小腹が空いたら、ちょっとしたお菓子ならあるし、食べるといいよ」
彼は苦笑いした。この兄は大酒飲みである。運転さえなければあの料亭で酒を注文していただろう。彼は酒肴の山をまとめた籐のバスケットを指した。ナッツ類が大量に置かれている。彼女の酒の飲み方は、この兄に教わったのだ。
「それともピザ頼む?」
「う、ううん。いい!平気!」
兄妹で似ているのか、とにかく彼等は下のきょうだいに物を食わせようとする。そのことに喜びを感じるのである。この過保護で過干渉で妹離れしがたい兄は、彼女が結婚するまで、新しい母親の元にいった妹が満足に食っていないとすら思っているらしいのだ。
「朋夜、お酒は?」
「お酒も、いいや。ちょっと電話、してくるね」
病院に置いてきた甥からメッセージが入っている。朋夜は兄の反応をみるのが怖くなった。ベランダへと出る。大通りに近い立地だというのに閑静だ。
電話を架けるとすぐに繋がった。
『朋夜……寂しい』
第一声が、夜風と相俟って、彼女を切なくする。
「ごめんね、京美くん。ごはんは食べられた?」
病院食は質素である。つい少し前に食べた豪勢な食事に罪悪感を覚えてしまう。
『うん……朋夜のごはんが、早く食べたい』
「じゃあわたしも、お料理、いっぱい練習しておくね」
『今、どこにいるの』
「兄さんのおうち」
京美が黙った。一呼吸、二呼吸置いてから口を開く。
『……誰の?』
「わたしの……」
『そっか。明日は、来れる?』
送迎は兄に頼れない。返事が遅れたのは、電車やバスの時刻表を思い出そうとしたからだった。
しかし朋夜の意識は、世に出してはならない関係を義甥自ら匂わせにかかったことに向く。
「あ、あの、違くて……」
「朋夜を送り届けてくれたことには感謝しています。でも俺の朋夜なので、下着は勘弁してください」
京美(みやび)は外面がいいのか、天条奏音に愛想笑いを浮かべている。朋夜の見たことのない表情であった。
天条奏音もこれまた見たことのない、愉悦に満ち満ちた笑みを浮かべていた。
「て、天条さん……あの……」
「異常だわ。とても、異常よ……うっふっふ。お邪魔虫は帰るわよ、ジョー。いいかしら?ジョー。あなたの望みは叶わないの。よく見ておきなさい。あなたの好きな人の異常な関係を……」
天条奏音は結局、目的の品物を入手することはできなかったけれども満足であった。
「トモヨサン……」
如衛龍から、京美は叔母を隠してしまった。
「朋夜がお世話になりました」
へらへらと、まるで中身が誰かと入れ替わったような態度の京美は天条奏音へ頭を下げる。この女もそれなりに聡い。
「それじゃあ、またね?綾鳥さん」
天条奏音は連れの青年の腕を引こうとする。しかし彼は引っ張られながらもわずかに踏み留まって朋夜を見ていた。
「トモヨサン」
「ありがとうね。色々、気を遣ってくれて……」
如衛龍はそれから京美に目を配る。それがいけなかったのだろう。だがいけなかったと知るのは直後ではなかった。2人が帰ってからのことだ。
「あの人と何かあったの?」
玄関ドアを閉めると、我慢していたのか、彼は噎せたように咳を繰り返した。口元に腕を当てながら喋る。朋夜をたじろがせる咳だ。
「何も、ないよ……?」
無意識に義甥へ触れようとしてしまったが、彼は嫌がった。
「でもあの人……なんか、朋夜のこと、見てた」
「偶々じゃない?」
「違う……何か言おうとしてた。朋夜、本当に、あの喫茶店に行ったんだよな……?」
朋夜はびっくりしてしまった。その点について怪しまれ、疑われるとは思っていなかった。
「そ、そうだけど……」
「天条さんと、妙な関係なのか?だとしたらあの男は……?朋夜……」
彼は困り果てた顔をする。連続した咳によって、青褪めたような白さに赤みが差す。温まった身体がさらに咳嗽を誘ったらしい。彼はまた口元に袖を当てて肩口を震わせる。
「京美くん……」
その様子が尋常でない。喉からこぷ、と音が漏れているが嘔吐はなかった。京美はやがて屈んでしまった。朋夜は彼の背中を撫で摩る。
「いい……!俺に、構うな!」
久々に、義甥の声の荒げたのを聞いた気がした。突き放されてしまったが、しかし彼女に呆然としている暇はなかった。その袖口に真っ赤な滲みがついているのを見たのだ。
「京美くん、それ―……」
掌にも赤いものがついて手相を浮かしている。京美は目を見開いて、己の両手を凝らし、表情の乏しい彼の美貌には驚愕を映していた。
朋夜はほんの一秒、二秒はぼうっとしていたが、やがてスマートフォンを置いた場所へと駆けた。叔母が意図を京美も察したらしい。それはダイニングテーブルの上の連絡手段に対するビーチフラッグと化していた。勝者は朋夜である。その指がパスコードを解き、迷わず番号を押す。
「いやだ、朋夜……!いやだ!」
このとり澄まして、懐きすぎて甘えきった子供気分の猫の鳴き声みたいな音吐しかださない甥が喚いた。初めて聞いた種類の声かも知れない。彼は叔母に取り縋った。しかし朋夜も構わない。感情としては冷徹であった。
「いやだ、いやだ………朋夜、いやだ……っ」
地獄から助けを求める亡者という画題にありそうな構図であった。
救急車が来るまでの間、鬱ぎこんでしまった幼い少年を朋夜は宥めなければならなかった。微温湯で濡らしたタオルで汚れた手を拭くのにも、彼は太々しく腐れて、素直に掌を渡さなかった。
「ごめんね、京美くん」
哀れな幼少期に戻ってしまった甥を抱き締めてみれば、彼は拒絶もせずにむしろ叔母を受け容れた。
「怖い」
「大丈夫よ。大丈夫だから」
しがみつきながら男児になってしまった京美は咳をする。
「朋夜」
長い腕が首の両脇へと伸びた。そして後頭部へ回る。
「怖いこと、ないから」
黒髪が左右に揺れて朋夜の頬や耳を掠る。
「変なやつ、いる……変なやつが、いるから………朋夜」
「変なやつ……?」
朋夜は心臓を叩かれたような気分がした。
「エントランスで、いつも、俺のこと、見てて……」
「若い人?男?女?」
「おっさん……朋夜のこと、訊いてくる。朋夜のこと、1人にできないから……」
彼はうっうと咽ぶ。朋夜は背中を摩る。
「そう。怖かったね。用心するから、平気よ」
義甥は再度、首を振る。
「俺が朋夜の傍にいなきゃいけないんだ……」
「ありがとう、京美くん。でも大丈夫だから、京美くんは自分の身体のこと、考えなきゃ」
彼は痰を絡ませたような咳を続け、叔母の首筋を汚してしまった。
「俺がいなくなったら、朋夜、俺のこと、忘れちゃう!」
「忘れないよ。だって帰るところ、ここにしかないもの」
京美はまたもやぶるぶると首を横に振る。
「朋夜のこと、1人にできない。ねぇ、朋夜……もし他にカレシいるなら、お願いだから、そこに泊まれよ……危ない、怖い……朋夜、俺が死んだら、朋夜のこと自由にする……!幽霊に、ならない……でも、それまでは、俺から、」
彼は変わらず咳をした。救急隊員がやってくる。
「離れないよ」
朋夜が答えると、義甥はゆったりと身を預けた。
◇
義甥は入院することになってしまった。彼は嫌がったが、高度な治療が必要な病状であるのだから仕方がない。普段からこの甥に甘い叔母は説得に苦心した。
朋夜は今、車に揺られている。京美はこの叔母に新しい恋人がいると信じきり、その家へ逃げるように口酸っぱく言った。亡夫の実兄が来ているらしい。
「遅れてすみませんでした。朋夜さんにも申し訳ない」
後部座席のドアが開いた。運転席には朋夜の兄が座っていた。彼女の隣に乗り込んだのは、その親友だ。背の高い、スーツ姿に針金然とした眼鏡の男で、黒い髪を後ろに撫で付けている。人形めいた縹緻の彼は鳶坂遼架だ。
「いいえ。お邪魔してしまったのは、わたしのほうですから」
朋夜は恭しく頭を軽く下げた。強面な美青年の表情が綻ぶ。
「お邪魔などとはとんでもない。織上さんにはお世話になっていますが、たまには3人というのも新鮮です」
彼は朋夜の兄・朝氷の元部下であるが、今では一城の主の身分にある。所作、物腰、発話それぞれに淑やかさが宿る。
「鳶坂くん、割烹料理でもいいかい?もうフレンチの口かい?」
運転席で黙っていた兄が喋った。玲瓏な声は車内に麗しく響く。
「自分は、どちらでも……ご都合の良いようになさってください」
「助かる。お腹減っちゃってねぇ。ボクというやつは、フレンチのコース料理じゃ、お腹がいっぱいならなくってね」
麗しの若社長を待っている間、この兄は料亭を調べていたらしい。光っていたスマートフォンの画面が消された。
「予約してたの?兄さん。ごめんなさい……急に来てしまって……」
「気にしないでよ、朋夜。暫くぶりなのだし、誕生日もクリスマスも何もしてやれなかったろう。たまには美味しいものを食べさせたくってね。違うな。美味しいものを食べている妹の姿を、ボクが観たいのさ。付き合っておくれね」
兄の朝氷に連絡を入れたとき、彼は久々に再会する妹をディナーに誘った。しかし朋夜としては義甥が入院している身である。躊躇いがあった。けれども、だからこそ養生するようにと説得されてしまったのだった。
「私もちょうど、ナスの天ぷらが食べたかったところですから」
この兄妹の間に流れた微妙な空気感を、若社長は感じ取ったらしい。
「いいね」
フィンガースナップが車内に小気味良く弾けた。
「店はお決まりですか。予約は済まされたので?私が今から予約を入れましょうか」
「もう予約は済んでるよ。君がフレンチじゃなきゃヤダっていったらどうしようかと思っていたくらい」
「私はそんなこと言いません」
若いのであろうが、役職がそうならざるを得ないのか、推定される年齢の割りに落ち着いた雰囲気の鳶坂遼架は少し拗ねたふうである。
車は料亭へと進み、日本庭園の中にぽつりとある庵めいた個室へと案内される。明らかな高級感に朋夜は緊張してしまった。ひとり病室で過ごさなければならない義甥を、思い出さずにいられない。
「朋夜。ボクを頼ってくれてありがとうね」
妹の心情を知ってか知らずか、座敷に上がるとき、まるで空耳が降ってきたように兄は耳元で囁いた。
朋夜の兄もまた、美しい若社長と遜色ない佳麗な男であった。ただ、いくら遊び人じみた軟派な感じが否めない。
先に靴を脱いでいた鳶坂遼架が、卓の脇に立って朋夜へ上座を勧める。彼女は素直にそれに応じることができなかった。
「ほらほら、いいよ。気にしないで」
朝氷が妹の凝り固まった左右の肩へ手を置いて、上座へと座らせる。
座に着いて間もなく、鳶坂遼架は入電のため外へと出ていってしまった。兄と2人きりになる。若社長がいたときは朗らかに莞爾としていたけれど、朋夜にはしかつめらしい眼差しをくれた。
「朋夜。ボクのところに戻ってくるかい」
実家という実家が、彼にも朋夜にもないのである。今は神流が暮らしているところが実家ではあるけれど、母やこの兄と暮らしていた頃とは様変わりしている。懐かしい家族団欒は二度と戻らないのである。だが時折、この兄は、現在彼が暮らしているアパートをまるで彼女の実家であるかのように語るところある。
「え……?どうしたの、兄さん」
「色々ボクも後悔しているんだよ。良かれと思って……空回りばかりだな」
兄は何かに深く悩んでいるらしかった。端整な面構えが翳り、不穏な色気を帯びはじめた。
「兄さん、何か……あったの?会社のこと?」
「違うよ、君のこと。飛髙さんとの結婚を薦めてしまったことだ。病気のことは聞いていたけれど、あの進行の早さはボクも知らなかった。甥の面倒を看なければならなくなっていたことも……君をこんな若くして、寡にしてしまった。すまなく思う」
「兄さん……それは、勘違いで……」
兄がこのようなことを言い始めたのは、落胆と消沈をみせたからであろう。彼女はそう決めてかかった。甥の喀血と入院に疲労していた。それを、信用しきれなくなっている実父よりも父のようだったこの兄に、甘え、晒してしまった。このことが過保護な兄を刺激してようだ。
「朋夜……飛髙家に巻き込んだボクがいうのは残酷なことだけれど、弁護士を立てて、君は君の人生を生きなきゃならないよ。弁護士費用ならボクが……」
「え、……兄さん」
「鳶坂くんはどうだろう?二度目はない。彼ならば、ボクも傍で、」
しかし妹のことで必死になってしまう兄は口を噤まなければならなくなった。鳶坂遼架が戻ってきたのだ。朝氷の表情は、これから出てくるであろう天ぷらの如くからりとしていた。
「失礼しました」
洗練された所作に、現代ではそう実感のない貴族社会というものを覚える。鳶坂遼架はこの時代のこの国に生まれ育ったのか疑わしく、いやでも刷り込まれていく俗っぽさがなかった。そして嫌味がないのである。
「今ね、朋夜に……鳶坂くんのことをどう思うか、訊いてみたところなんだ」
腰を下ろそうとした鳶坂遼架は眼鏡の両端を手で押さえ、外方を向いてしまった。
「な、ななな何を……」
朋夜も肝を潰す。咄嗟に兄を睨んでしまった。
「まぁまぁ、座ってよ」
織上朝氷という男は策士家的な面があることを、この妹は忘れていた。意地をされたり喧嘩をしたりということはなかったけれど、それは年齢差や異性ということもあったのかもしれない。
「そういえばさ、鳶坂くん、お嫁さん探ししてるって話、してたよね?」
角張ったレンズの奥の秀麗な眉と目が怪訝そうである。
「しましたが……」
「朋夜って、結構、君の好みだと思うな」
「兄さん!」
朋夜は兄のほうへ身体を傾けた。
「は、はぁ……ですが、面と向かってこういうお話は、失礼なのでは」
俯きがちな若社長の目が泳ぐ。
「そう?一応聞いておきたいと思っていたのだけれどもね。朋夜だって、今をときめくイケメン若社長が結婚相手に求めるものが何なのか気にならない?」
流されやすく気の弱い朋夜のような人物が、この場に於いて他者にフォーカスされるべき話を跳ね除けることはできなかった。躊躇いがちに、どっちつかずに頷いた。
「朋夜もこう言っているし、ボクも知りたいな」
彼女は不安げに兄を見ていることしかできなかった。インタビュイーは気が進まないようである。
「兄さん。やっぱり、悪いんじゃ―」
「お答えします」
若社長は首を竦め、眼鏡の両端を押して掛け直す。
「家庭的な女性が望ましいです。私が仕事で家を空けることが多いので。専業で家事をしてくださる方が……」
「容姿は?」
インビュアーは柔和ながらも意地の悪そうな笑みを浮かべた。だが、鳶坂が動揺するのとほぼ同じ頃合いで料理が届く。
次々運ばれてくる飯はどれも美味かった。大した好き嫌いのない朋夜にとって苦ではなかったし、見た目も華やかで店の雰囲気に遜色のない品質であった。鳶坂遼架も、食事の挙措からも品性を窺わせ、ここが格式の高い料亭であることに箔をつける。実はこの国には貴族制があって、彼はその貴族であるといわれたほうが納得できるくらいだった。生まれから違うことを気付かせてしまう。
「どうしたの、朋夜」
聡明とも狡猾ともいえない兄は、昔から妹の機微に敏い。
「食事している姿が、綺麗だな……と思って」
朋夜に他意はなかった。食事中の仕草について、悪いほうでなければ気に留めたことがない。だがそれを聞いた兄は月下美人であった。
「―だって、鳶坂くん。聞いてた?」
すると鳶坂遼架は顔を真っ赤にして眼鏡の左右のヒンジを拇と中指で押した。
「真っ当ないただき方だと思いますがっ……!」
「冷やかしたつもりはなくて……その。ああ、ごめんなさい」
「い、いいえ……怒ったわけではなく……」
兄が穏やかに笑っている。朋夜の不安が募る。兄にとって、妹の飛髙家との婚姻は、仁実の病没と共に終わったものなのかもしれない。
鳶坂遼架を高層ビルみたいなタワーマンションの自宅まで送り、兄と2人きりになるまで、彼女は懶い感じがした。
「すごいね。あの歳でこのビルも、彼のものなんだから」
朋夜が義甥と暮らすタワーマンションよりもいかつい、ベランダも見当たらないような黒いダイヤモンドめいた摩天楼である。
「兄さん」
朋夜は運転席へ近付くために前のめりになった。しかしシートベルトが接近を阻む。
「どうしたの?」
「さっきの料亭での話だけど、わたし、仁実さんと結婚したこと、後悔してないから……」
兄はすぐに返事をしなかった。無音だった車内に静かなジャズがかかる。
「後悔をしていないのは、分かるよ。君を見ていたら。ただ、ボクが言いたいのは……未来の話だよ。一緒に暮らしているというのは、血も繋がらないし、夫の連れ子でもないわけだ。身体も弱いんだろう?朋夜……君は小さな頃から誰かの世話係だった。それがね、ボクは歯痒いんだ」
兄に会いに行くために、新たな母が神流とのドライブがてらそこまで車で送るという話が昔あった。しかし神流が学校の友人と遊ぶことになった途端、朋夜は電車を使わなくてはならなくなったことをふと思い出す。兄は妹が新たな母親と上手くいっていないことを見抜いていたし、また弟のシッター同然となっていたことを察していた。前々から苦言を呈されてはいたのである。
「あの家を出て欲しいからあの人を紹介したのだけれどもね……」
「兄さんには感謝しています。素敵な方でしたから。それに今の生活は幸せだから、心配しないで」
「朋夜。ボクを恨まないでおくれね。ボクにとって君はいつまでも小さなお姫様なんだ。口煩くもなってしまうんだ。余計なお世話も焼きたくなる。どうかボクを……恨まないでおくれ」
離れて暮らせども、兄は実父よりも父であった。朋夜は彼を前にすると子供に帰ってしまう。
「兄さん……恨んだりなんかしないよ。でもどうして。兄さん、戦国時代の人みたい。わたしは望んで、仁実さんのところにいるのに」
彼女は俯いてしまった。煌びやかな夜景が車窓の奥を流れていく。
「今は、若いからそう思うかもしれないよ。でもあの甥っ子くんは?甥っ子くんの看病に、一生を費やすつもりじゃぁないだろうね」
「……酷いよ、兄さん」
「責任を感じているんだよ。今更だね。甘い毒だった」
朋夜の眉根が狭まっていく。
「長生き、できないかもしれないんだ、京美くん」
兄は黙った。ジャズと車の走行音が聞こえるばかりである。
「何故」
「仁実さんと、同じ病気かもしれなくて。でも、治療はしたくないんだって。だから入院もしなかった」
「だとしたら、尚更だよ。ボクは残酷で冷徹な人間なのは分かっているけれども、もし見立てどおりでなかったら?だからつまり、甥っ子くんは長生きするけれど、健康状態に問題があったら?」
優しい兄の思いやりが怖くなってしまった。彼なりに妹を慮っている。それは朋夜にも理解できた。しかし……
「京美くんが20歳になったときに決める。もしかしたら、出て行けって言うかも知れないし、わたしも働きに出るから……」
運転手は口を開かなくなってしまった。経験からして、機嫌で口数を減らしたりするような気性ではない。だが朋夜は狼狽える。
「兄さん……怒った………?」
「怒ってないよ。そんなことじゃ怒らないさ。ただ、納得するのが難しくてね」
彼の語気は穏やかで、怒っていないのはどうやら本当のことらしい。しかし妹に安堵は訪れない。
「ごめんなさい」
「朋夜の謝ることじゃない。ボクの責任だ」
「そんなことない。兄さんはわたしのこと考えてくれてて、あとは、わたしの家庭の問題だから」
やがて車は大通りから脇道には入り、3軒ほど建物を越えたところの駐車場へと停まった。隣接したところに平たい10階建てほどの集合住宅がある。その4階の端の部屋が兄の自宅だ。先程別れたばかりの若社長のタワーマンションとは違い、外観も内装も生活感がある。
部屋はトイレと風呂場、寝室のある廊下を抜けたところにある二間ぶち抜きで、仕切り代わりに固そうなカーテンが壁の隅に束ねられていた。だが使われた形跡はない。壁は出入り口側がダークブラウンを基調とした木目で、他は白のビニールクロス、金具はゴールドに統一されて庶民感に乏しい。
「好きに寛ぐといいよ。小腹が空いたら、ちょっとしたお菓子ならあるし、食べるといいよ」
彼は苦笑いした。この兄は大酒飲みである。運転さえなければあの料亭で酒を注文していただろう。彼は酒肴の山をまとめた籐のバスケットを指した。ナッツ類が大量に置かれている。彼女の酒の飲み方は、この兄に教わったのだ。
「それともピザ頼む?」
「う、ううん。いい!平気!」
兄妹で似ているのか、とにかく彼等は下のきょうだいに物を食わせようとする。そのことに喜びを感じるのである。この過保護で過干渉で妹離れしがたい兄は、彼女が結婚するまで、新しい母親の元にいった妹が満足に食っていないとすら思っているらしいのだ。
「朋夜、お酒は?」
「お酒も、いいや。ちょっと電話、してくるね」
病院に置いてきた甥からメッセージが入っている。朋夜は兄の反応をみるのが怖くなった。ベランダへと出る。大通りに近い立地だというのに閑静だ。
電話を架けるとすぐに繋がった。
『朋夜……寂しい』
第一声が、夜風と相俟って、彼女を切なくする。
「ごめんね、京美くん。ごはんは食べられた?」
病院食は質素である。つい少し前に食べた豪勢な食事に罪悪感を覚えてしまう。
『うん……朋夜のごはんが、早く食べたい』
「じゃあわたしも、お料理、いっぱい練習しておくね」
『今、どこにいるの』
「兄さんのおうち」
京美が黙った。一呼吸、二呼吸置いてから口を開く。
『……誰の?』
「わたしの……」
『そっか。明日は、来れる?』
送迎は兄に頼れない。返事が遅れたのは、電車やバスの時刻表を思い出そうとしたからだった。
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