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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年
熱帯魚の鱗を剥がす 38
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◇
それは心地の良い夢のはずだった。柔らかな布地に頬をつけ、安堵していた。朋夜には何かしら強く信奉する宗教はない。しかし、天国や楽園というものはここにあると知れた。
どこもかしこもシルクのようななめらかさで、艶があるような気がした。ところが泡立った生クリームでできた部屋のなにいりような気もする。彼女はそこにいた。そしてもう一人いる。厚みのあるフード付きスウェットを着ている―というのは朋夜の錯覚かもしれなかった。
朋夜は、その者を知っていると認識していた。誰かも分かっていた。年下の男だ。だが思い込みかも知れない。すべて断定的ではない。曖昧で、朦朧としていて、不確かで、整然とはしていなかった。
朋夜は肩を抱き寄せられ、"彼"の鼓動を聴くが如く、その身体に頭を預けていた。しかし服の柔らかさに包まれる。
子守唄に似た歌を聴いたつもりで、その歌詞も曲調もまったく不明瞭だ。
一切が確かでなく、模糊としている。それがよかった。
天国はここだ。ここにしかない。だが夢に閉じ籠ることはできないのである。
はっと、朋夜の目蓋が上がる。自室の天井が広がっている。周りに人はいない。目が覚めた世界はあらゆるものが輪郭を持ち、冷たく、乾燥してみえた。
「朋夜」
着替えのとき以外、開け放っておくのが常になっていた部屋の出入り口から京美が姿を覗かせる。彼は衣擦れで叔母の起床を知ったらしい。
「起きたの?」
「あ……おはよう。ごめんなさい。うるさかった……?」
京美は首を振る。
「さっき起きたところ。朋夜は?悪い夢でもみた?」
「みてないよ」
義甥の手にはマグが握られていた。彼は時々、起床後にホットミルクを飲む。
「朋夜」
「大丈夫よ。心配させちゃってごめんね」
彼は叔母を見つめていたが、やがてクロゼットの前にかかる紺色のワンピースに目をやった。長袖のブラウスのような形状に、下部は緩やかなギャザーが入っている。脛の半ばに届く丈で、エレガントな印象を与えた。
「変……かな」
「朋夜らしいと思う。清楚だ」
甥の視線が戻ってくる。今日は糸魚川瞳汰から、喫茶店のピアノコンサートに招かれている。
「俺の香水、使いなよ。変な虫がついたら困るから」
「つかないよ」
「つくよ。朋夜は綺麗だから。……かわいいし」
京美は少しの間、叔母の目を見ていたが、急に顔ごと逸らしてしまった。朋夜も朋夜で狼狽えてしまう。意識的でないにせよ、義甥を誑かしてしまった。世間からみて、賢く良い叔母とはいえないだろう。
「あ、ありがとう……」
しかし言葉を言葉どおり受け取れないのは、彼女の卑屈な気性だけでなく、この甥から投げかけられた冷嘲冷罵も関係しているのかも知れない。掌の返しように戸惑っている。若い男の手っ取り早い性欲の解消法のためにのみ、煽てられている線を捨てきれない。それもまた、甥に吐かれる嫌味や皮肉や穿鑿された日々によるものであろうことは否めない。
「今、持ってくる」
京美は隣室へ消えたが、またすぐに戻ってきた。ライターを思わせる。香水瓶を手にしている。
「おやぢ……―叔父貴からもらったんだ。朋夜も、俺と同じ匂いになって……?」
有無を言わせない。彼は叔母を抱き締め、それに紛れて香水を振った。メロンを彷彿とさせる甘さに胡椒めいた辛い刺激を帯びた匂いが漂った。
「俺の朋夜」
香水だけではなく、さらに自身の匂いをつけるつもりようだ。京美は叔母を腕の中に閉じ込める。
「好き……朋夜………好き」
若い女との接触が、若い男の肉体を熱くさせてしまう。
「京美くん……」
抱擁は怪しくなっていく。彼は香水瓶を落とし、叔母の背中を撫で回す。そして彼女の肌を嗅ぐ。香水も届かない女の地肌に鼻先を寄せている。
「だめ……っ」
拒否は容れられない。
「変な虫がつくから……」
彼は上擦った声を漏らし叔母の首筋を吸う。
「だめ………っ!見えるところは、いや……っ」
「見えないところなら、いい?」
京美の強行に慣れ、この状態になった甥の扱い方を不本意ながらに心得てきた。妥協するしかないのである。譲歩した提案を受け容れれば、彼もある程度のところは引く。
朋夜ははっきりと肯定もできず、曖昧に頷いた。
「朋夜……」
甥の唇が鎖骨を挟む。ヒメツルソバみたいな鬱血痕が咲く。
「朋夜……好き。大好き。好き……」
叔母の寝間着のボタンを外し、胸元にまで花を散らす。
「京美くん……」
下着から溢れる乳房を吸う甥は、このまま情交へ移ってしまいそうだった。避妊、どうにかして口淫の案を容れられたとして、朋夜はこれから予定がある。
「京美くん……だめよ。今日は、本当にだめ……」
「しない………絶対、しない……朋夜がいやらしくなっちゃうから……」
ところがこの義甥は、言動と行動が一致していなかった。叔母を押し倒すと、寝間着の裾を捲り上げる。
「京美くん……!今日は……っ」
「挿れない……朋夜のおっぱい、舐めたい」
下着の裾も捲られて、撓わな胸が上下に揺れた。劣情に赫々爛々とした甥の眼差しが降る。
「恥ずかしい……」
朋夜は胸の先端を隠す。
「すごく綺麗」
虚ろな眼と、すでに恍惚に翳る美貌。生唾を呑んだ様が、その喉笛の小さな浮沈で朋夜にも分かった。目の前の者は甥ではない。捕食者である。牡野獣だ。豊満な胸の膨らみに喰らいつく。さながらゾンビ映画のワンシーンだ。
「あ……っ」
舌先は容赦なく、そこにある実粒を転がして吸った。甥は乳飲み児と化した。しかし彼は厳しい体勢を維持してまでも、叔母の胸を咥えながら己の股間に触れた。はたからみたら滑稽な構図であったろう。朋夜からしても悍ましい光景だったに違いない。だが京美の麗かな風采がそうはみせない。乳を吸い、胸を揉みしだき、手淫に耽ろうとも、何かの見せもののようである。
「京美くん……」
甥は己の欲情に沿っていた。今までこのように乳頭を吸われたことはあるが、それはあくまでも、交尾相手の牝に気に入られるための求愛行動であった。だが彼は今、この女体の胎児であったと主張せんばかりであった。この女を母親だと錯覚している。そして自分は嬰児だと信じて疑っていないようだ。この有様に朋夜も中てられてしまった。庇護欲を擽られている。自暴自棄と被虐心と母性本能、羞恥心と官能が混ぜ合わさっている。
「んっ、んっ……」
「ぁ……っあ……」
幼児退行した甥の頭に添えた指が、意図せず黒絹を梳いていた。
「ぅうう……っ」
女体を知った男とは思えない胸への手付きは朋夜におかしな情動を植えつける。彼は本当に甥なのか。夫の甥であろうか。夫の息子だと反射的に勘違いしてしまうことはたびたびあった。しかし……彼は夫と自身の子ではなかろうか。知らず知らずのうちに、この息子を産んでいたのではあるまいか……それか、いつの間にか時空を超えていた。
息子は必死に乳を吸った。母乳が分泌されてしまいそうだ。
淫欲が満ちていくような多幸感が湧き上がる。
「んっ……ともよ………」
一瞬、彼は口を離した。吸われた乳頭は唾液にまみれ、色付き、膨れて、天を衝く。もどかしく、舌や唇が芯を掠める。
「う……、ふぅう………」
深く広がっていく、肉体のみでは説明しきれない快楽に、息子の下で身悶えた。彼も彼で、自身の感じやすいところを扱き戦慄いていた。母親の身動ぎに気付く素振りもない。上からも下からも濡れた音を出し、心身の喜悦に浸っている。
やがて息子は母親の腹の上に精を放った。
「朋夜」
彼はまだ指の間から溢れ出そうな乳房が恋しいらしい。
「朋夜……朋夜………好き」
「京美くん……」
京美を捉える朋夜の目は欲熱に潤む。口蜜に照り輝く柔らかな円い脂肪の頂が卑猥な様相を呈した。しかし彼女は無自覚だった。射精した直後だというのに義甥の眼には新たな活力を漲らせている。飴玉を留めたみたいな首の隆起が上下する。
燃えるように注がれる甥のその目付きを知っている。
「し、しない……よ……?」
声が嗄れていた。
「うん……しない……けど、」
彼は頷くが、その舌足らずに喋る様は危険信号であった。この後、彼は甘え、媚び、あざとく、年上の女を手玉にとる。
「朋夜のこと気持ち良くする」
「だ、大丈夫よ……?平気だから……っ」
朋夜は起き上がって胸を隠した。
「朋夜、えっちな目してるから……ダメだよ」
「してない」
「してる。とろんってなってる。おっぱい、気持ち良かったの?」
勃起した胸の実粒が下着に小さな陰を落としている。甥の熱い視線が集まっている。
「なってないから……」
「なってるよ。ごめんね。1回イッておかないと、ツラいよね」
「違うわ。大丈夫よ……大丈夫……放っておけば、治まるから」
だが、それで納得する甥ではない。彼は寝間着の上から胸の小さな蕾を捉えた。
「あ、……ん……っ」
先程の接触と違う。彼は嬰児からヒトのオスへの変わっていた。自分をヒトのメスに受け入れさせるための技巧を凝らした指遣だ。
「なんで……」
「イかなきゃ、ずっとそのままじゃん」
虚ろな瞳に淫らな輝きが揺蕩っている。それは京美もであった。
「困るよ……っあ、!」
「下でイく?」
彼女は返事をしなかった。すると小さいところを摘む手は離れたけれど、京美は叔母の寝間着と下着を剥ぎ取ると、股に顔を埋めてしまった。
「恥ずかしいよ……」
「綺麗だけど。ほら」
彼は嘘ではないとばかりに大きく舌で舐め掬った。質感が珠肉に伝わる。
「ふぁああっ」
「かわいい。俺におっぱい吸われて、気持ち良くなってたんだ。よかった。濡れてて……嬉しいよ」
泉を散らされ、糸を引く様を朋夜は見てしまった。それだけでなく、甥は口淫しながら自慰をしているである。
「イ、イかないから……今日は、イきたくない………」
「イくイかないって、かわいいね、朋夜。朋夜のナカに入るたびに大胆になっていくのすごく……嬉しい」
くちくちくち……と甥は自涜する手を高めた。眉根が切なく寄っている。
「朋夜……」
水蜜桃にかぶりつているのかと見間違えるほど、彼は叔母の神秘の裂罅を美味そうに舐った。音もまた、礼儀作法もなく桃を丸齧りに貪り食っているようである。
「あ、あ、あ……ッ、は……んぅ……」
寝間着を突き破ってしまいそうなほどに、上半身にも隠し持った巨桃の小さな屹立も硬く張り詰める。
甥の片手はクピドを摩擦し、もう片方の手は叔母の手を握り締めた。器用に顔面だけで桃を食う。舌と唇で割り開き、複雑に入り組む果肉を転がす。
「あ……っ、ぁあ……」
マスターベーションによって高らかな欲情の吐息が、生々しく照り輝く朋夜の剥身を掠める。
腰を捩ると、京美は口で叔母の中に入ってしまった。
「あっ!イく……っ、あぁんっ!イくぅ……っああ……!」
甥の口腔に潜むぬらぬらした平肉塊の質感が隘路と軋轢を生んだとき、彼女は激しく身を引き攣らせた。腰が浮かぶ。入ってきたものが抜ける感触にも良くなった。様々な男に出入りされて燻された薔薇の収縮を、惜しみなく義甥に見せてしまう。粘着質な音が激しくなり、牡の身体が叔母へ圧しかかる。再度捲られた腹の上に白濁の粘液が飛んだ。白く冷たげな手が真っ赤な腫物の先端を摩るたび、彼も持っている李が白果汁を噴き上げるのだった。絶頂の余韻で蠢く腹が汚されていく。
「かわいかった……」
義甥も射精後の倦怠感に襲われたらしく、朋夜の上に身を任せた。胸板に押されて叔母の大きな乳房が撓む。
「重くない……?」
彼女は答えない。
「朋夜の硬いのが当たってる」
神経質で偏屈で気難しく意固地な甥は情事の後にだけ微笑を見せる。男は射精をすると本能的に冷淡になると朋夜はどこかで知っていた。相談され、聞いたこともある。しかし迷信であったのかも知れない。この身を犯した牡たちは、射精の後に最も柔らかな貌をする。怪しい咳を軽くしながらも、機嫌が良さそうだった。
朋夜は温容な甥から顔を背けた。
「朋夜……好き……」
「シャワー、浴びてくるから……」
むしろこの場合、女のほうが冷え切っていた。しかし義理の甥から肉体関係を求められ、結ばされてしまった。叔母の立場として戸惑っているのだった。突き放しては自責することしかできずにいる。
「もうちょっとだけ……」
「だめ」
甘えていた甥の顔付きが一瞬で変わった。爛れた関係にそのまま呑まれていられない。哀れな少年の面影をみてしまうと朋夜は弱かった。しかし義理の甥と叔母なのだ。
「好き………好き、好き、好き!朋夜、やっぱりムリだ。したい」
男の肩越しにみたクロゼットの天袋の把手に掛かったワンピースが虚しい。
腰が痛むというほどではなかったが、力が入らなかった。甥はエントランスまで付き添うといってきかなかった。
彼は端末を操作しながらマンション前の車道に朋夜を案内する。吹いてきた風にワンピースの裾が靡くと、京美は風の盾になった。縺れ合っているうちに移ってしまったらしき香水が薫る。汗の匂いも混じっていた。
「タクシーが来るから」
「平気よ……」
「もう呼んじゃったし、支払いも俺持ちだから」
「でも……」
亡夫の遺産で食い繋いでいる身である。その息子に等しい京美に、経済的に寄りかかってしまうのが心苦しい。
「この前スマホ替えたでしょ。本体売ったときのお金あるから。俺が無理させたんだし」
彼女等のことを知らない者たちは、その光景を仲睦まじいカップルのように思ったかもしれない。そして人目を憚らない仲の良さに苛立ち、反感を覚えたかもしれない。
京美は叔母の肩を抱き寄せていた。
「俺の匂いがする。目も……平気。よかった。すごく、かわいい」
彼はジーンズの尻ポケットから小振りな蹄鉄を模したペンダントを取り出した。
「これ、付けていって」
「無くしたら困るわ」
「いいよ、別に。朋夜は俺の……変なムシがつかないように、ね……」
シルバーのホースシューネックレスは勝手に付けられてしまった。紺色の布地に輝かしい白銀が映える。
「……かわいい」
恍惚とした昏い双眸をして、彼は叔母の爪先から脳天までを眺め独り言ちる。
「あ、あの……おうちのこと、よろしくね……?」
朋夜はあまり褒められたことがない。あったのかもしれないが、彼女自身の意識に引っ掛からなかったのだろう。相手は甥である。だというのに一人の恋愛対象の男に言われたみたいに、頬が熱くなってしまった。
「うん。朋夜も気を付けて。何かあったら連絡すること」
それからまもなくタクシーがやってきた。
糸魚川瞳汰の務める喫茶店までは車で10分もかからなかった。すでにピアノコンサートは始まっている。建物の外から演奏が聞こえていた。ドアのガラス部分は普段と違って黒い布で覆われ、中に入ると、店内もまた暗幕で外光を遮っていた。ピアノブースにだけ強くダウンライトが落ち、他は真っ暗というわけではないけれど、光量が絞られて雰囲気を作っている。演奏者は瞳汰ではなかった。このカフェの店員に制服はないはずだが、白いシャツとデニムのパンツが制服同然になっているようでピアノコンサートといいながら演奏者は客よりも気安い身形である。
1曲終わり、拍手が起こる。また1曲終わり、演奏者が代わった。糸魚川瞳汰が緊張の面持ちで登場する。
「糸魚川瞳汰です。みなさん。今日は来てくださってありがとうございます。ぼくが1曲目に弾くのはジムノペディです。聴いてください」
彼の挙措はぎこちなく強張っていた。芥子色のロープエプロンはなく、暗黙的な制服と化している肘丈の白いプルオーバーシャツにライトブルーのジーンズパンツ姿で、貧相な印象を与えた。
ピアノの椅子に腰をかける小さな軋みと、位置を調整する物音がどこか非日常的だった。
長く細い指が鍵盤に置かれる。彼が息を吸うのが聞こえ、直後に演奏が始まる。音ははっきりと透き通り、足の裏から振動もあるというのに静かであった。悪筆の主と同じ腕から発されているとは思えない、繊細な音色が流れていく。波紋のような曲である。ピアノの音吐に気圧されているかの如く、瞳汰の細い躯体が揺れる。だが弾く力は衰えない。いつのまにか彼は曖昧な強弱を心得ている。
憂鬱、懊悩、閉塞感に寄り添うようなこの曲は、自身が彼にリクエストしたものだと、朋夜は暫く気付かなかった。
1曲目の最後の音が長く谺して消え入っていく。
静寂も演奏のうちらしい。沈黙を残してから瞳汰は身動きをとった。
「2曲目は、アメイジンググレースです。もうこの世にはいないんですケド、オレの友達が……生前ずっと、教えてくれていた曲です。難しいアレンジだけど、たくさん練習して、自分で歌詞も充ててみたので聴いてください」
彼は顔を上へ向けた。元の異国の歌詞の一節から始まる。仰け反った咽喉の急な曲線に生命力を感じる。
汗の光る 暑さの日
君は 屋根の 下で
大きかったランドセル
いつの間にか 小さく
耳鳴りのよ(う)に遺る歌
声と 思う 調べ
胸に 響く 旋律に
背中押され 弾く
最初は控えめに、小さな、だが輪郭のある音で、徐々に大きくなっていき、ひとつひとつ音を確かめるようなよくある讃美歌に近かった伴奏に、間延びしたようなアレンジが加わっていった。
雨が明け 架かる虹
やがて 空は 晴れる
これが夢だと 気付くのは
あなたが傍に (い)るから
朝になって 泣いている
悲し⌒みのない 涙
優しく⌒ありたい いつまでも
これが恋と知る
歌詞は4番で終わった。聴覚が刺激されたからなのかも知れない。朋夜は眼球の裏が引き絞られるように痺れていった。この場から逃げ出したくなってしまう。歌詞は字余りが起こり、脈絡のない歌詞の展開で、音に嵌めきっているとはいえず上手いとはいえなかった。しかし彼らしい表現力と語彙である。
弾き終わった彼は、そう長くはなかったが、退場する者にしては長く、ぽけ……と何もない譜面立ての奥をぼんやり凝らしていた。拍手はない。店内は寂然として、すべてが静止画のようであった。しじまの世界は貧血を起こしたときの感覚に似ていた。
ほんの一、二秒の出来事であったのかもしれないが、それよりも長く感じられた。鼓膜を破るような拍手が起こり、客たちは現実に戻ってきたような有様だった。
糸魚川瞳汰もびくりと肩を跳ねさせて我に帰ったようだ。はにかんで、ギャラリーに頭を下げ退場していく。それはただ、拍手の時機の窺えない集団心理であったのか……
ピアノの音色はまだ朋夜の耳に残る。胸の奥で膨れ上がる感覚は痛みではないくせに苦しい。口から吐きそうな言葉あり、行動を起こしそうな身体がある。出入りは自由であった。彼女は店を出てしまった。次の演奏者の音楽を壁越しに背中で聞き、近くの橋へふらふらと歩いていった。下を流れる川に滴り落ち、自然へ還っていくものがある。
「朋夜さん!」
咄嗟に化粧を気にして、彼女は目元を拭うのを躊躇うと完全にタイミングを失ってしまった。
「朋夜さん……泣いてるの?」
先程ピアノを弾いていた者とは思えない腑抜けた面がそこにあった。
「目にゴミが入っただけよ」
「なんだ、そか」
八重歯を晒し、情けなく笑っている。その薄い胸に飛び込んでみたら彼はどう反応するのだろうか。
「すごくよかった。うふふ、とっても」
彼女は涙を誤魔化して笑う。
「聴いてくれてたんすね!」
「招待状くれたじゃない」
「てっきり、普段のノリで来たら~ってやつかと思って」
彼は胸に両手を当ててへらへらしている。本当に演奏で場を呑んでいたピアニストであろうか。
「あのね、朋夜さん」
糸魚川瞳汰の纏う雰囲気が変わった。彼は朋夜の隣に来て、川の流れを見詰めている。
「うん?」
迂愚な少年みたいな横顔がふと一瞬、大人びる。朋夜は胸の内にざわつきを覚える。しかし彼女の杞憂であったようだ。彼はまた歳の割りに幼い、白痴めいた空気に戻った。
「あ、メロンみたいな匂いする」
鼻先を突き出して、無遠慮にすんすんと彼は香気を吸った。
「香水つけてるんすね。クールな、匂い」
上体を伏せるようにして嗅いでいた瞳汰は、おそるおそる朋夜を上目遣いで捉えた。
「女の人のってもっと甘い匂いすると思ってた」
「メンズ香水だって」
彼の眼差しが僅かに揺蕩う。
「男の、人の……?」
「うん」
今の世間の風潮でいえばファッション用品、それも香水や多少の装飾品ならば身体の性別に則する必要もないだろう。
「朋夜さん」
瞳汰は眉尻を下げた。
「招待してくれたし、素敵なピアノ聴かせてもらったし、また今度、お邪魔させてね」
「朋夜さん……」
鍵盤を巧緻に押していた手が粗放に彼女の袖を摘んだ。
「オレ、朋夜さんのコト、好きだ!」
それは咆哮に似て、近隣に反響していた。
それは心地の良い夢のはずだった。柔らかな布地に頬をつけ、安堵していた。朋夜には何かしら強く信奉する宗教はない。しかし、天国や楽園というものはここにあると知れた。
どこもかしこもシルクのようななめらかさで、艶があるような気がした。ところが泡立った生クリームでできた部屋のなにいりような気もする。彼女はそこにいた。そしてもう一人いる。厚みのあるフード付きスウェットを着ている―というのは朋夜の錯覚かもしれなかった。
朋夜は、その者を知っていると認識していた。誰かも分かっていた。年下の男だ。だが思い込みかも知れない。すべて断定的ではない。曖昧で、朦朧としていて、不確かで、整然とはしていなかった。
朋夜は肩を抱き寄せられ、"彼"の鼓動を聴くが如く、その身体に頭を預けていた。しかし服の柔らかさに包まれる。
子守唄に似た歌を聴いたつもりで、その歌詞も曲調もまったく不明瞭だ。
一切が確かでなく、模糊としている。それがよかった。
天国はここだ。ここにしかない。だが夢に閉じ籠ることはできないのである。
はっと、朋夜の目蓋が上がる。自室の天井が広がっている。周りに人はいない。目が覚めた世界はあらゆるものが輪郭を持ち、冷たく、乾燥してみえた。
「朋夜」
着替えのとき以外、開け放っておくのが常になっていた部屋の出入り口から京美が姿を覗かせる。彼は衣擦れで叔母の起床を知ったらしい。
「起きたの?」
「あ……おはよう。ごめんなさい。うるさかった……?」
京美は首を振る。
「さっき起きたところ。朋夜は?悪い夢でもみた?」
「みてないよ」
義甥の手にはマグが握られていた。彼は時々、起床後にホットミルクを飲む。
「朋夜」
「大丈夫よ。心配させちゃってごめんね」
彼は叔母を見つめていたが、やがてクロゼットの前にかかる紺色のワンピースに目をやった。長袖のブラウスのような形状に、下部は緩やかなギャザーが入っている。脛の半ばに届く丈で、エレガントな印象を与えた。
「変……かな」
「朋夜らしいと思う。清楚だ」
甥の視線が戻ってくる。今日は糸魚川瞳汰から、喫茶店のピアノコンサートに招かれている。
「俺の香水、使いなよ。変な虫がついたら困るから」
「つかないよ」
「つくよ。朋夜は綺麗だから。……かわいいし」
京美は少しの間、叔母の目を見ていたが、急に顔ごと逸らしてしまった。朋夜も朋夜で狼狽えてしまう。意識的でないにせよ、義甥を誑かしてしまった。世間からみて、賢く良い叔母とはいえないだろう。
「あ、ありがとう……」
しかし言葉を言葉どおり受け取れないのは、彼女の卑屈な気性だけでなく、この甥から投げかけられた冷嘲冷罵も関係しているのかも知れない。掌の返しように戸惑っている。若い男の手っ取り早い性欲の解消法のためにのみ、煽てられている線を捨てきれない。それもまた、甥に吐かれる嫌味や皮肉や穿鑿された日々によるものであろうことは否めない。
「今、持ってくる」
京美は隣室へ消えたが、またすぐに戻ってきた。ライターを思わせる。香水瓶を手にしている。
「おやぢ……―叔父貴からもらったんだ。朋夜も、俺と同じ匂いになって……?」
有無を言わせない。彼は叔母を抱き締め、それに紛れて香水を振った。メロンを彷彿とさせる甘さに胡椒めいた辛い刺激を帯びた匂いが漂った。
「俺の朋夜」
香水だけではなく、さらに自身の匂いをつけるつもりようだ。京美は叔母を腕の中に閉じ込める。
「好き……朋夜………好き」
若い女との接触が、若い男の肉体を熱くさせてしまう。
「京美くん……」
抱擁は怪しくなっていく。彼は香水瓶を落とし、叔母の背中を撫で回す。そして彼女の肌を嗅ぐ。香水も届かない女の地肌に鼻先を寄せている。
「だめ……っ」
拒否は容れられない。
「変な虫がつくから……」
彼は上擦った声を漏らし叔母の首筋を吸う。
「だめ………っ!見えるところは、いや……っ」
「見えないところなら、いい?」
京美の強行に慣れ、この状態になった甥の扱い方を不本意ながらに心得てきた。妥協するしかないのである。譲歩した提案を受け容れれば、彼もある程度のところは引く。
朋夜ははっきりと肯定もできず、曖昧に頷いた。
「朋夜……」
甥の唇が鎖骨を挟む。ヒメツルソバみたいな鬱血痕が咲く。
「朋夜……好き。大好き。好き……」
叔母の寝間着のボタンを外し、胸元にまで花を散らす。
「京美くん……」
下着から溢れる乳房を吸う甥は、このまま情交へ移ってしまいそうだった。避妊、どうにかして口淫の案を容れられたとして、朋夜はこれから予定がある。
「京美くん……だめよ。今日は、本当にだめ……」
「しない………絶対、しない……朋夜がいやらしくなっちゃうから……」
ところがこの義甥は、言動と行動が一致していなかった。叔母を押し倒すと、寝間着の裾を捲り上げる。
「京美くん……!今日は……っ」
「挿れない……朋夜のおっぱい、舐めたい」
下着の裾も捲られて、撓わな胸が上下に揺れた。劣情に赫々爛々とした甥の眼差しが降る。
「恥ずかしい……」
朋夜は胸の先端を隠す。
「すごく綺麗」
虚ろな眼と、すでに恍惚に翳る美貌。生唾を呑んだ様が、その喉笛の小さな浮沈で朋夜にも分かった。目の前の者は甥ではない。捕食者である。牡野獣だ。豊満な胸の膨らみに喰らいつく。さながらゾンビ映画のワンシーンだ。
「あ……っ」
舌先は容赦なく、そこにある実粒を転がして吸った。甥は乳飲み児と化した。しかし彼は厳しい体勢を維持してまでも、叔母の胸を咥えながら己の股間に触れた。はたからみたら滑稽な構図であったろう。朋夜からしても悍ましい光景だったに違いない。だが京美の麗かな風采がそうはみせない。乳を吸い、胸を揉みしだき、手淫に耽ろうとも、何かの見せもののようである。
「京美くん……」
甥は己の欲情に沿っていた。今までこのように乳頭を吸われたことはあるが、それはあくまでも、交尾相手の牝に気に入られるための求愛行動であった。だが彼は今、この女体の胎児であったと主張せんばかりであった。この女を母親だと錯覚している。そして自分は嬰児だと信じて疑っていないようだ。この有様に朋夜も中てられてしまった。庇護欲を擽られている。自暴自棄と被虐心と母性本能、羞恥心と官能が混ぜ合わさっている。
「んっ、んっ……」
「ぁ……っあ……」
幼児退行した甥の頭に添えた指が、意図せず黒絹を梳いていた。
「ぅうう……っ」
女体を知った男とは思えない胸への手付きは朋夜におかしな情動を植えつける。彼は本当に甥なのか。夫の甥であろうか。夫の息子だと反射的に勘違いしてしまうことはたびたびあった。しかし……彼は夫と自身の子ではなかろうか。知らず知らずのうちに、この息子を産んでいたのではあるまいか……それか、いつの間にか時空を超えていた。
息子は必死に乳を吸った。母乳が分泌されてしまいそうだ。
淫欲が満ちていくような多幸感が湧き上がる。
「んっ……ともよ………」
一瞬、彼は口を離した。吸われた乳頭は唾液にまみれ、色付き、膨れて、天を衝く。もどかしく、舌や唇が芯を掠める。
「う……、ふぅう………」
深く広がっていく、肉体のみでは説明しきれない快楽に、息子の下で身悶えた。彼も彼で、自身の感じやすいところを扱き戦慄いていた。母親の身動ぎに気付く素振りもない。上からも下からも濡れた音を出し、心身の喜悦に浸っている。
やがて息子は母親の腹の上に精を放った。
「朋夜」
彼はまだ指の間から溢れ出そうな乳房が恋しいらしい。
「朋夜……朋夜………好き」
「京美くん……」
京美を捉える朋夜の目は欲熱に潤む。口蜜に照り輝く柔らかな円い脂肪の頂が卑猥な様相を呈した。しかし彼女は無自覚だった。射精した直後だというのに義甥の眼には新たな活力を漲らせている。飴玉を留めたみたいな首の隆起が上下する。
燃えるように注がれる甥のその目付きを知っている。
「し、しない……よ……?」
声が嗄れていた。
「うん……しない……けど、」
彼は頷くが、その舌足らずに喋る様は危険信号であった。この後、彼は甘え、媚び、あざとく、年上の女を手玉にとる。
「朋夜のこと気持ち良くする」
「だ、大丈夫よ……?平気だから……っ」
朋夜は起き上がって胸を隠した。
「朋夜、えっちな目してるから……ダメだよ」
「してない」
「してる。とろんってなってる。おっぱい、気持ち良かったの?」
勃起した胸の実粒が下着に小さな陰を落としている。甥の熱い視線が集まっている。
「なってないから……」
「なってるよ。ごめんね。1回イッておかないと、ツラいよね」
「違うわ。大丈夫よ……大丈夫……放っておけば、治まるから」
だが、それで納得する甥ではない。彼は寝間着の上から胸の小さな蕾を捉えた。
「あ、……ん……っ」
先程の接触と違う。彼は嬰児からヒトのオスへの変わっていた。自分をヒトのメスに受け入れさせるための技巧を凝らした指遣だ。
「なんで……」
「イかなきゃ、ずっとそのままじゃん」
虚ろな瞳に淫らな輝きが揺蕩っている。それは京美もであった。
「困るよ……っあ、!」
「下でイく?」
彼女は返事をしなかった。すると小さいところを摘む手は離れたけれど、京美は叔母の寝間着と下着を剥ぎ取ると、股に顔を埋めてしまった。
「恥ずかしいよ……」
「綺麗だけど。ほら」
彼は嘘ではないとばかりに大きく舌で舐め掬った。質感が珠肉に伝わる。
「ふぁああっ」
「かわいい。俺におっぱい吸われて、気持ち良くなってたんだ。よかった。濡れてて……嬉しいよ」
泉を散らされ、糸を引く様を朋夜は見てしまった。それだけでなく、甥は口淫しながら自慰をしているである。
「イ、イかないから……今日は、イきたくない………」
「イくイかないって、かわいいね、朋夜。朋夜のナカに入るたびに大胆になっていくのすごく……嬉しい」
くちくちくち……と甥は自涜する手を高めた。眉根が切なく寄っている。
「朋夜……」
水蜜桃にかぶりつているのかと見間違えるほど、彼は叔母の神秘の裂罅を美味そうに舐った。音もまた、礼儀作法もなく桃を丸齧りに貪り食っているようである。
「あ、あ、あ……ッ、は……んぅ……」
寝間着を突き破ってしまいそうなほどに、上半身にも隠し持った巨桃の小さな屹立も硬く張り詰める。
甥の片手はクピドを摩擦し、もう片方の手は叔母の手を握り締めた。器用に顔面だけで桃を食う。舌と唇で割り開き、複雑に入り組む果肉を転がす。
「あ……っ、ぁあ……」
マスターベーションによって高らかな欲情の吐息が、生々しく照り輝く朋夜の剥身を掠める。
腰を捩ると、京美は口で叔母の中に入ってしまった。
「あっ!イく……っ、あぁんっ!イくぅ……っああ……!」
甥の口腔に潜むぬらぬらした平肉塊の質感が隘路と軋轢を生んだとき、彼女は激しく身を引き攣らせた。腰が浮かぶ。入ってきたものが抜ける感触にも良くなった。様々な男に出入りされて燻された薔薇の収縮を、惜しみなく義甥に見せてしまう。粘着質な音が激しくなり、牡の身体が叔母へ圧しかかる。再度捲られた腹の上に白濁の粘液が飛んだ。白く冷たげな手が真っ赤な腫物の先端を摩るたび、彼も持っている李が白果汁を噴き上げるのだった。絶頂の余韻で蠢く腹が汚されていく。
「かわいかった……」
義甥も射精後の倦怠感に襲われたらしく、朋夜の上に身を任せた。胸板に押されて叔母の大きな乳房が撓む。
「重くない……?」
彼女は答えない。
「朋夜の硬いのが当たってる」
神経質で偏屈で気難しく意固地な甥は情事の後にだけ微笑を見せる。男は射精をすると本能的に冷淡になると朋夜はどこかで知っていた。相談され、聞いたこともある。しかし迷信であったのかも知れない。この身を犯した牡たちは、射精の後に最も柔らかな貌をする。怪しい咳を軽くしながらも、機嫌が良さそうだった。
朋夜は温容な甥から顔を背けた。
「朋夜……好き……」
「シャワー、浴びてくるから……」
むしろこの場合、女のほうが冷え切っていた。しかし義理の甥から肉体関係を求められ、結ばされてしまった。叔母の立場として戸惑っているのだった。突き放しては自責することしかできずにいる。
「もうちょっとだけ……」
「だめ」
甘えていた甥の顔付きが一瞬で変わった。爛れた関係にそのまま呑まれていられない。哀れな少年の面影をみてしまうと朋夜は弱かった。しかし義理の甥と叔母なのだ。
「好き………好き、好き、好き!朋夜、やっぱりムリだ。したい」
男の肩越しにみたクロゼットの天袋の把手に掛かったワンピースが虚しい。
腰が痛むというほどではなかったが、力が入らなかった。甥はエントランスまで付き添うといってきかなかった。
彼は端末を操作しながらマンション前の車道に朋夜を案内する。吹いてきた風にワンピースの裾が靡くと、京美は風の盾になった。縺れ合っているうちに移ってしまったらしき香水が薫る。汗の匂いも混じっていた。
「タクシーが来るから」
「平気よ……」
「もう呼んじゃったし、支払いも俺持ちだから」
「でも……」
亡夫の遺産で食い繋いでいる身である。その息子に等しい京美に、経済的に寄りかかってしまうのが心苦しい。
「この前スマホ替えたでしょ。本体売ったときのお金あるから。俺が無理させたんだし」
彼女等のことを知らない者たちは、その光景を仲睦まじいカップルのように思ったかもしれない。そして人目を憚らない仲の良さに苛立ち、反感を覚えたかもしれない。
京美は叔母の肩を抱き寄せていた。
「俺の匂いがする。目も……平気。よかった。すごく、かわいい」
彼はジーンズの尻ポケットから小振りな蹄鉄を模したペンダントを取り出した。
「これ、付けていって」
「無くしたら困るわ」
「いいよ、別に。朋夜は俺の……変なムシがつかないように、ね……」
シルバーのホースシューネックレスは勝手に付けられてしまった。紺色の布地に輝かしい白銀が映える。
「……かわいい」
恍惚とした昏い双眸をして、彼は叔母の爪先から脳天までを眺め独り言ちる。
「あ、あの……おうちのこと、よろしくね……?」
朋夜はあまり褒められたことがない。あったのかもしれないが、彼女自身の意識に引っ掛からなかったのだろう。相手は甥である。だというのに一人の恋愛対象の男に言われたみたいに、頬が熱くなってしまった。
「うん。朋夜も気を付けて。何かあったら連絡すること」
それからまもなくタクシーがやってきた。
糸魚川瞳汰の務める喫茶店までは車で10分もかからなかった。すでにピアノコンサートは始まっている。建物の外から演奏が聞こえていた。ドアのガラス部分は普段と違って黒い布で覆われ、中に入ると、店内もまた暗幕で外光を遮っていた。ピアノブースにだけ強くダウンライトが落ち、他は真っ暗というわけではないけれど、光量が絞られて雰囲気を作っている。演奏者は瞳汰ではなかった。このカフェの店員に制服はないはずだが、白いシャツとデニムのパンツが制服同然になっているようでピアノコンサートといいながら演奏者は客よりも気安い身形である。
1曲終わり、拍手が起こる。また1曲終わり、演奏者が代わった。糸魚川瞳汰が緊張の面持ちで登場する。
「糸魚川瞳汰です。みなさん。今日は来てくださってありがとうございます。ぼくが1曲目に弾くのはジムノペディです。聴いてください」
彼の挙措はぎこちなく強張っていた。芥子色のロープエプロンはなく、暗黙的な制服と化している肘丈の白いプルオーバーシャツにライトブルーのジーンズパンツ姿で、貧相な印象を与えた。
ピアノの椅子に腰をかける小さな軋みと、位置を調整する物音がどこか非日常的だった。
長く細い指が鍵盤に置かれる。彼が息を吸うのが聞こえ、直後に演奏が始まる。音ははっきりと透き通り、足の裏から振動もあるというのに静かであった。悪筆の主と同じ腕から発されているとは思えない、繊細な音色が流れていく。波紋のような曲である。ピアノの音吐に気圧されているかの如く、瞳汰の細い躯体が揺れる。だが弾く力は衰えない。いつのまにか彼は曖昧な強弱を心得ている。
憂鬱、懊悩、閉塞感に寄り添うようなこの曲は、自身が彼にリクエストしたものだと、朋夜は暫く気付かなかった。
1曲目の最後の音が長く谺して消え入っていく。
静寂も演奏のうちらしい。沈黙を残してから瞳汰は身動きをとった。
「2曲目は、アメイジンググレースです。もうこの世にはいないんですケド、オレの友達が……生前ずっと、教えてくれていた曲です。難しいアレンジだけど、たくさん練習して、自分で歌詞も充ててみたので聴いてください」
彼は顔を上へ向けた。元の異国の歌詞の一節から始まる。仰け反った咽喉の急な曲線に生命力を感じる。
汗の光る 暑さの日
君は 屋根の 下で
大きかったランドセル
いつの間にか 小さく
耳鳴りのよ(う)に遺る歌
声と 思う 調べ
胸に 響く 旋律に
背中押され 弾く
最初は控えめに、小さな、だが輪郭のある音で、徐々に大きくなっていき、ひとつひとつ音を確かめるようなよくある讃美歌に近かった伴奏に、間延びしたようなアレンジが加わっていった。
雨が明け 架かる虹
やがて 空は 晴れる
これが夢だと 気付くのは
あなたが傍に (い)るから
朝になって 泣いている
悲し⌒みのない 涙
優しく⌒ありたい いつまでも
これが恋と知る
歌詞は4番で終わった。聴覚が刺激されたからなのかも知れない。朋夜は眼球の裏が引き絞られるように痺れていった。この場から逃げ出したくなってしまう。歌詞は字余りが起こり、脈絡のない歌詞の展開で、音に嵌めきっているとはいえず上手いとはいえなかった。しかし彼らしい表現力と語彙である。
弾き終わった彼は、そう長くはなかったが、退場する者にしては長く、ぽけ……と何もない譜面立ての奥をぼんやり凝らしていた。拍手はない。店内は寂然として、すべてが静止画のようであった。しじまの世界は貧血を起こしたときの感覚に似ていた。
ほんの一、二秒の出来事であったのかもしれないが、それよりも長く感じられた。鼓膜を破るような拍手が起こり、客たちは現実に戻ってきたような有様だった。
糸魚川瞳汰もびくりと肩を跳ねさせて我に帰ったようだ。はにかんで、ギャラリーに頭を下げ退場していく。それはただ、拍手の時機の窺えない集団心理であったのか……
ピアノの音色はまだ朋夜の耳に残る。胸の奥で膨れ上がる感覚は痛みではないくせに苦しい。口から吐きそうな言葉あり、行動を起こしそうな身体がある。出入りは自由であった。彼女は店を出てしまった。次の演奏者の音楽を壁越しに背中で聞き、近くの橋へふらふらと歩いていった。下を流れる川に滴り落ち、自然へ還っていくものがある。
「朋夜さん!」
咄嗟に化粧を気にして、彼女は目元を拭うのを躊躇うと完全にタイミングを失ってしまった。
「朋夜さん……泣いてるの?」
先程ピアノを弾いていた者とは思えない腑抜けた面がそこにあった。
「目にゴミが入っただけよ」
「なんだ、そか」
八重歯を晒し、情けなく笑っている。その薄い胸に飛び込んでみたら彼はどう反応するのだろうか。
「すごくよかった。うふふ、とっても」
彼女は涙を誤魔化して笑う。
「聴いてくれてたんすね!」
「招待状くれたじゃない」
「てっきり、普段のノリで来たら~ってやつかと思って」
彼は胸に両手を当ててへらへらしている。本当に演奏で場を呑んでいたピアニストであろうか。
「あのね、朋夜さん」
糸魚川瞳汰の纏う雰囲気が変わった。彼は朋夜の隣に来て、川の流れを見詰めている。
「うん?」
迂愚な少年みたいな横顔がふと一瞬、大人びる。朋夜は胸の内にざわつきを覚える。しかし彼女の杞憂であったようだ。彼はまた歳の割りに幼い、白痴めいた空気に戻った。
「あ、メロンみたいな匂いする」
鼻先を突き出して、無遠慮にすんすんと彼は香気を吸った。
「香水つけてるんすね。クールな、匂い」
上体を伏せるようにして嗅いでいた瞳汰は、おそるおそる朋夜を上目遣いで捉えた。
「女の人のってもっと甘い匂いすると思ってた」
「メンズ香水だって」
彼の眼差しが僅かに揺蕩う。
「男の、人の……?」
「うん」
今の世間の風潮でいえばファッション用品、それも香水や多少の装飾品ならば身体の性別に則する必要もないだろう。
「朋夜さん」
瞳汰は眉尻を下げた。
「招待してくれたし、素敵なピアノ聴かせてもらったし、また今度、お邪魔させてね」
「朋夜さん……」
鍵盤を巧緻に押していた手が粗放に彼女の袖を摘んだ。
「オレ、朋夜さんのコト、好きだ!」
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