18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年

熱帯魚の鱗を剥がす 33

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 朋夜ともよは追い詰められ、今にも川へ飛び込みそうな人間みたいに欄干に背中を張りつけ、後ろ手に縋りついた。
「不用心だな、朋ちゃん。オレがストーカーだったらヤバかったよ?」
 元交際相手が立っている。スタイルがよく、彩りのないファッションを好むのは相変わらずだった。
 朋夜は彼にどう接していいのか分からなかった。
「朋ちゃん」
 彼女は俯いて逃げ出した。何故、元交際相手がいるのか。
「おわ」
 まともに前方も見ていなかった。歩行者と衝突したらしいが、しかし聞いたことのある声どころか、つい今しがた別れた人物である。骨張った硬い感触に包まれる。
「ゴメン、朋夜さん。一人にしちゃって」
 糸魚川いといがわ瞳汰とうたが戻ってきたのだった。彼は敢えてそうしているのか、気付いていないのか、朋夜の奥にいるものを見ようとしない。
「へ、平気よ……」
「お店の中、いたら?暑いし。レモンティー、サービスさせて。小星くんに献杯ってコトで……ね」
 彼は情けない、頼りない笑みを浮かべて両手を合わせた。おねがい、というわけである。
「もしかして迷惑だった?」
「ううん。ありがとう。助かった」
 瞳汰はまったくタイミングが悪かっただけなのか、それとも分かってやったのか。朋夜は親しげに肩に触れられ、彼女も店に入るまでは元交際相手の登場にばかり気を取られていたが、やがてその身体の華奢さ、弾かれるような抱擁の堅さ、打ち薫った洗濯用洗剤、その他様々が急激に彼女に押し寄せる。胸が引き締められる。顔が熱くなってしまった。手指が汗ばむ。
 朋夜はスタッフルームに案内された。
「あの人、最近お店には来てなかったのに」
 彼は川沿いの遊歩道に面した小窓を向いていた。曇りガラスで、麗かな日差しが微かな虹の光芒を作る。
「大丈夫?」
 黙っている朋夜に瞳汰は顎を引き、あざとく上目遣いをする。
「うん」
「ならよかった」
 にこりと笑う姿を見ると、息が苦しくなる。かわいいと思ってしまった。温かく感じてしまう。しかし見惚れている場合ではなかった。
「でも大丈夫なの?瞳汰くん、お仕事中じゃ……」
「午後休だから……上がったところ」
 ホールでピアノが鳴っている。それが元交際相手との思い出を引き起こす曲だと知ったとき、仕組まれたようなタイミングを彼女は嘲った。
「この曲……」
「マイハート―……」
 瞳汰の口にした曲名に頷いた。
「好きなの?」
「好きっていうか、映画のほうを……さっきの人と観たの。元カレだから……」
「そうなんだ。オレは映画のほうは知らないんす。観てみようかな。どう?」
 それから瞳汰一度外の様子を見るのに出て行ったが戻ってきて、近くに元交際相手の姿がないことを告げた。
「一緒に帰って、へーき?」
 彼は甘えるような媚びた態度をとった。上目遣いがあざとい。弟と違い美男子というわけでも特別可憐でもないところに却ってこそばゆい愛嬌がある。
「一緒に帰ってくれるの?」
「えっ、うん。朋夜さんがいいって言うなら一緒に帰りたいっす」
 地震が起こる前の軋みみたいだった。プレートとプレートが迫り上がってくるみたいに、彼女は喉から何かが込み上げてきそうになる。それでいて頭の中ではレーザーライトが縦横無尽に往来しているみたいだった。
「ありがとう」
 帰り道で、朋夜はあの男について語った。共通の知り合いに紹介されたこと、彼が浮気をしていたこと、その浮気相手が妊娠したこと、その父親が彼であったこと……そして破局し、元交際相手の両親には息子のほうが浮気をされていた話になっていたこと、新婦に結婚式の招待をされていたこと。
「しんみりした話じゃないのよ。わたしが別れてあげたんだからっ!幸せになりなさいよねって……」
 話していて、途中で彼女は自己開示に羞恥を覚えた。若い男の子の聞きたい話ではないだろう。朋夜はおどけて、この話を終わらせようとする。どうせ、興味を抱かれる話題でもないのだ。
「それでなんで、あの人、朋夜さんのこと探してるんすかね」
「分かんない。懐かしくなったのかな、急に。お嫁さんに悪いよね……」
 朋夜は目を眇めた。遠い視線はどこを見ているのか。
「上手くいってないんすかね」
「そうかも。子供も一番可愛い時期でしょうに、何やってるんだかね」
 元交際相手の両親は堅い仕事に就いている。孫を厳しく育てていることだろう。
「お父さんお母さんが、つきっきりで四六時中、朝から晩まで子供のコト看てろとは、言わないケドさ……」
 小星花祈という歳の離れた友人を亡くしたばかりの瞳汰には思うところがあったのだろう。
「あれでおうちでは、いいパパやってるのかも知れないし、さ……」
 朋夜からみて糸魚川瞳汰という青年は鈍臭くみえて、ある分野に於いて感じ入りやすいのだろう。時期が時期なだけに尚、そうなのかも知れない。親に愛されない子供が目の届く範囲にいることが、それを推測してしまうことが、気に入らないのだろう。
「だといいケド……」
 彼は俯いている。
瞳希とーきが心配でさ。ああいう父親になるんじゃないかって思っちゃって……オレやっぱりバカだしモテないから、交際それ結婚これは違うコトだとは思うんだケド、やっぱり分かんないし……とーきって………あ、…………―ゴメン。なんか……」

『もっとあるだろ、明るい曲。パッヘルベルのカノンとか............―あ、ああ、なんか、ゴメン』

 彼が口を噤んだ。何故、と朋夜はその仕草を疑問に思った途端に、彼がそういう態度をとった出来事に思い当たる。
「気拙くならないでよ」
 彼女はおどけた。その腕をぽんと叩いた。瞳汰は不安げに双子の弟が乱暴した女を窺う。
「弟くんは、まだ若いでしょう。遊びたくなるよ。それでたくさん経験して、そのうち落ち着くんじゃない?わたしなんか、ちゃんと遊ばなかったから、上手くやれなくて、浮気するような人とくっついちゃって」
「お゜、それはオレにも効くっすよ……」
「でも塞翁が馬じゃない?その後に素敵な人に会って結婚して、家族ができて、この街に住んで、瞳汰くんみたいな人と友達になれて。あの人のおかげ、みたいで癪に触るけど、後悔はないわ」
 瞳汰は奇妙なものを発見したネコみたいに目を丸くした。それから笑いはじめる。
「オレその考え、めっちゃ好きっす」
 それでいてその横顔は峻厳に張り詰める。朋夜はその差を垣間見ると、喉がつかえる感じがあった。指先が疼く感じがするのだ。
「小星くんの短い人生も、そうだったらいいな……最期だけで、小星くんの人生全部決めつけちゃうの、ツラくてさ。オレのエゴなのも分かってるんすケド」
 彼は口角だけ吊り上げた。その真っ直ぐにどこかを凝らす目は笑っていない。
「これは、ただの勘で、わたしの偏見かもしれないけれど……小星くんとハンバーグ作った日、買い物とか、料理してるときとか、この子は誰か一人にでも、愛されたことある子だって思った。それでそれを受け止められてる子だって。上手く説明できないし……それが小星くんにとってどういうものかは分からないんだけど」
 彼は吃逆するような唐突さで泣き出した。


 瞳汰はマンションまで朋夜についてきた。彼は目元を赤くして、目も赤い。泣き止んだかと思うとふたたび涙を溜めている。
 元交際相手に捨てられたとき、朋夜も泣いて泣き止んでは些細なことでまた泣いた。
 浮気で身籠った子を堕胎してほしい、とは言えなかった。何故言えなかったのか。子供に罪はないのだと、まだ人としての形にもなっていないものに対して畏怖があったのか。産む側の性としての感情移入が起こったのか。堕胎ということの観念そのものに対して拒否感があったのか。
 答えは分かっている。完全な被害者でありたかった。悪者になりたかった。酷い女だと思われたくなかった。
 当時の交際相手から、両親が孫を欲していると話されるのが嫌だった。会うたび肉体を求められるのがおぞましかった。彼との関係、彼の抱く感情を疑った。
 当時の交際相手が後輩を孕ませたと知ったとき、そこにはもしかしたら、安堵もあったのかも知れない。
 朋夜は瞳汰を横目にみる。彼も赤い眼を向けた。
「元カレのこと話したの、瞳汰くんが初めてかも」
「……そうなん?」
 声は嗄れ、まだ泣いている最中のようでもある。
「弟はなんとなくは知ってるも思うけど、全部じゃないし」
「なんも上手いコト言えなくて、ゴメン……」
 彼は泣き面を誤魔化すこともできず、そのまま会話しているのが滑稽であった。
「ううん。話してよかった。それに庇ってくれたのに、フェアじゃないし」
「マジメさんだ」
「違うよ」
 エントランスの自動ドアが近付く。
「お礼に飲み物、奢らせてよ。何飲む?」
「いいの……?」
「だって守ってもらって、話聞いてもらって、送ってもらったんだもの。それくらいさせて。重くなかったら2本3本くらい持っていく?」
「えっ、いやいや、1本!1本くださいな」
 自動販売機の前に案内すると、彼は炭酸飲料のボタンを押した。
「いただきます」
「じゃあね、瞳汰くん。気を付けてね。ありがとう」
「朋夜さんのほうこそ、気を付けるっすよ!」
 瞳汰はペットボトルを脇に挟むと、朋夜の両手をひょいと握った。その社交辞令にしては迫真の表情と圧に、彼女はびっくりしてしまう。
「うん。またお店、行くね。わたしも気を付けるから、瞳汰くんも、ちゃんとごはん食べて、ちゃんと寝ること」
「朋夜さん、お母さんみたい」
 泣き腫らした目がへにゃと笑う。
「いいの!」
「うん。じゃあねっ!」
 彼女は瞳汰の姿がエントランスを越えても、見えなくなるまで見送っていた。胡麻より小さくなっても見ていた。
「ありゃ、京美みやびと同じくらいかぃ?」
 前方に立ったのは義兄である。朋夜は反射的に眉を顰めてしまった。相手は笑っている。
「今日はどういったご用件で……?」
「かわいい息子に会いにさ」
「京美くんには会わないでください」
「一体、どういう立場でそれを言うんだね?まったく血の繋がりもないおまえさんが?ええ?」
 それは朋夜を黙らせるには最も効果的な言葉である。彼女は眉間に皺を刻んで俯く。
「でもどうしても京美に会わせたくないって言うなら……ホテルに来てくれや。抱かせろ。そのでっかい乳を揉んでみたかったんだよな」
「最低です。わたしは貴方の弟の妻なのですよ」
「で、その弟は死んだ」
 飛髙ひだか琴美は小莫迦にしたように肩を竦めた。
「ですがわたしは仁実さんの妻です」
「京美とよろしくずっこんばっこんやってるんじゃないのか?そんなおっぱいのでっかい姉ちゃんといて、年頃の男がマスかかずにいられるかい。京美あれはオレに似て縹緻きりょうがいい。おまえさんも喜んで受け入れたんじゃないのけ」
 掴みかかりそうになる手を握り締めた。
「それともおやじに似てホモなのか?それなら引き取れねぇな。貞操ケツ狙われるのはごめんなんでね」
 嘲笑に耐える。亡夫とその甥が同性愛者であろうとなかろうと、この男に嗤われる謂れはない。
「本気でも冗談でも、京美くんやそのお父さんのことをそういうふうに言えてしまえる貴方に、わたしは安心して京美くんを会わせられません……!」
「旦那と可愛い甥っ子をホモ扱いされてご立腹なら、とんだ差別主義者だな、おまえさんは。そんな義妹いもうとを持って哀しいね。亡弟おとうとも哀しみまさぁ」
 何を言っても話は通じない。朋夜は黙ってしまった。
「ま、京美はモーホーじゃないだろ。おまえさんの裸を想像して励んでるだろうさ。羨ましいこったな。綾鳥さん。で?一発ヤらせろよ」
「ダメです」
 朋夜は険しい顔をして振り返る。義兄もそのほうを見た。先程別れたばかりの青年の双子の弟が莞爾かんじとしてそこに立っている。
「次から次へと男が出てくるね。若いカラダじゃ無理もないか」
「綾鳥さんと結婚を前提にお付き合いしています」
 糸魚川瞳希は勝手なことを言い出しはじめた。義兄が朋夜を胡散臭そうに見遣る。
「違います!」
 朋夜は叫んだ。
「京美の友達か?」
「違います。綾鳥さんのカレシです。綾鳥さんの旦那さんのお兄さんなんですか」
 横槍を入れてきた若い男を琴美は訝しんでいる。
「で?」
「綾鳥さんにぞっこんなんです。他の人に喰われるのは、ちょっとコーフンしますけど……愛しているので……、そういうのはちょっと」
 先程の下劣な態度はどこへやら、仁実の兄は冷ややかな目で義妹へ向ける。
「捨てられる未来が見えるね。若情夫ツバメは渡り鳥。移ろぐもんだ。熟れ牡丹などは捨てられるってワケだぁね」
 呆れた物言いは揶揄なのか、本気にしているのか……
「違います!この人は……」
 瞳希は気に入らなそうに眉を動かすと、朋夜を引き寄せてその唇を塞いだ。
「ゃ………っ!」
 突き撥ねるのも止められ、さらに瞳希は唇を押し付ける。彼の肩口を押してもびくともしなかった。
「あらら。お兄さんがもっと脂ぎったきったないおっさんならね……」
 瞳希は口は離したが、朋夜のことは放さなかった。
「違います……彼は、」
 瞳希はまたもや朋夜に口付け、否定を阻む。
「ん……ぅ」
「愛しているんですよ。結婚も考えているんです。京美くんも年は近いですが、ぼくの息子として愛します。朋夜さんの大切な甥っ子なら、ぼくの息子も同然ですから」
「男なら分かるか、お兄さん。なるたけ沢山の女を抱いて、種を遺したい男の業が?弟のよめなら、兄が抱いちまっても大差ない。弟が死んでるなら尚更な。そのデカいおっぱいを拝みたいのはオレも同じなわけよ」
「ぼくも同席していいですか」
 琴美は片眉を上げる。
「正気か、お兄さん」
「好きな女の人が他の男の人にめちゃくちゃにされてるの、興奮しますから。綺麗な未亡人が、レイプされてるの」
 瞳希は平然と言った。朋夜は彼の腕の中でエスニックな薫香を呆然も鼻に入れていることしかできなかった。指は異国情緒豊かなチュニックめいたプルオーバーシャツに縋りつく。
「嫌ですか」 
「当たり前でしょ!なんなのよ……」
「いいぜ、綾鳥さん。一発ヤらせてくれたら京美に会いには来ない。約束してやるよ。京美が会いてぇって言うなら別だけどな」
 朋夜は義理の兄を睨む。彼は高を括ったような面構えであった。
「血の繋がらない結局は他人に、どこまで保護者面できる?息子でも弟でも、実の甥でもない。そんな相手に自分を犠牲にする必要はないってコトさ。弟もバカだねぇ~。結婚なんて奴隷契約を信じちまって!奴隷契約なんかこのご時世にできるわきゃないだろうに。今は男が貯金箱で、結婚するだけ損だってのに。でも、そこまで息子に会わせないっていうだから、奴隷契約はまだまだ有効なのかね。鳥籠の中の綾鳥さんよ」
 演説をするみたいに琴美は腕を広げた。
「……分かりました」
 朋夜は声を絞り出す。
「ですが、京美くんには近付かないでください。会いに来ないで」
「いいけど、それはヤることヤってから誓おうか」
 瞳希が改めて肩に触れようとした。彼女はそれを払い落とす。誰の顔も見ない。
「京美くんに連絡しますから、少し待ってください」
「おまえのお父さんに股開いてきますって?」
 彼女は返事もせずに端末を取り出す。テキストメッセージで済ませた。そして琴美と瞳希に連れられて帰ってきたばかりのマンションのエントランスから出る。
 俯いたまま、気分は屠殺場に運ばれる家畜である。否、奴等は死に行く。二度と生きては帰れず、またそのために生まれたのである。そしてその間、食うに困らず病や寒暑から守られていたはずだ。それが幸か不幸かは分からない。朋夜は足元ばかりを見ていた。このままホテルに行けば、生きては帰って来られるだろう。しかし大きな汚点を抱くことになる。それを京美に隠し、亡夫に後ろめたく思いながら生きていくことになる。
 仁実と約束した。甥を守ると誓い、そして何不自由ない生活を得た。
 琴美がタクシーを呼びに道路へと出る。
「はったりじゃなくて本気ですよ。綾鳥さんを愛してるって」
 彼女は返事もしない。足元を見ていた。あらゆるものが粗く嘘寒く色が無い。空気はやすりみたいに全身を削る。風に温度はなく、空は曇っている。
「あのお父さんは、どんなふうに綾鳥さんを抱くのかな」
「狂ってる……」
「悲劇的で綺麗だな」
 まったく話にならなかった。
「親子の好みは似るんですね。兄弟も」
 朋夜は重苦しく瞬き、その裏では必死にこの愚行を正当化していた。そうしていなければ逃げ出したかった。家畜が屠殺場に運ばれている途中に逃げ出したら、困る人間がいる。肉食が食卓から無くなったら。それと同じだ。京美をこの父親に会わせたくなかった。人格の破綻して、息子を侮蔑するこの親に会わせられない。あの憐れな孤児に、穢らしいものをこれ以上見せたくない。
 タクシーが止まった。竦む足を踏み出す。冪々べきべきとした薄灰色の雲が流れているのか留まっているのか分からなかった。生温い風が吹いても皮膚と同化して逆撫でされたみたいな不快感がある。南国風の街路樹がそよぎ、屠られに行く家畜に手を振っている。
「とぉき」
 横にいる糸魚川瞳希を呼ぶ者がある。朋夜はその微かな濁りの混じる声を知っていた。しかし何故、戻ってきたのか。
「とーき、何してんの?」
 糸魚川瞳汰が不安げに双子の弟を見ていた。
「どうして……」
 呼ばれた本人よりも先に朋夜が口を開く。譫言のようだった。
「あそこの移動パン屋さん……りんごデニッシュ美味しかったなって……」
 瞳汰が指差す方向を見遣ると、朋夜の住まうタワーマンションの脇道に移動販売車が停まって店を広げていた。
「小星くんも好きだったの思い出したから……やっぱ買って帰ろって思って……引き返して来たんだケド……」
 彼は朋夜を捉えたまま、呆然としながら喋った。何か異様な雰囲気を感じ取ったらしい。その愛嬌はなりを潜め、その顔は強張っている。
 双子の弟の返答を待たなかった。糸魚川瞳汰は朋夜の腕を取って、その場から連れ出してしまう。エントランには入らなかった。移動パン屋の前を通り過ぎ、タワーマンション裏の小規模な公園で止まった。公園といっても、遊具があるわけではない。ウッドデッキを思わせる舗装がされ、街路樹の植込みに座面が設けられ、夜間のために照明器具が土に挿してある。
「朋夜さん……」
 立ち止まった瞳汰に抱き付いてしまった。
「行かなきゃ、いけなかったのよ。一緒に行かなきゃいけなかったの」
 しかし今からその踵は返されるのか。否、彼女は声を震わせて瞳汰の薄い胸板に縋るばかりであった。
「……ゴメン」
 素直に謝る瞳汰に、朋夜は首を振った。赦さないという意味なのか。
 朋夜は自分が赦せなかった。何もかも生半可である。覚悟が足りない。薄志弱行である。
「ゴメン……さっきの、半分嘘で半分本当。りんごデニッシュのコト気になったトコは本当。でもそれだけじゃない。ストーカーさんのコトも気になってた。ちゃんと部屋まで送ればよかったなって……思って」
 頼りない手が、カマキリの卵みたいに胸に張り付いた女の肩に触れるか触れないかのところに翳され、浮遊し、やがて壊れ物を扱うみたいに添えられた。
「1日に2回も助けないでよ」
「ゴメン……やっぱ、マズかった?」
 情けなく震えている。朋夜は徐ろに顔を上げた。そのときに見た瞳汰の戚容!
 朋夜の中に、抑えようのない情動が駆け巡る。これでは糸魚川瞳希のことを悪し様に言えはしない。
 彼女は踵を浮かし爪先で立ち上がると、その身長差を埋めた。柔らかな感触を唇に当てる。恥ずべきことであった。白昼に、公共の場で、未亡人が年下の男の唇を奪っている。
「あ……」
 秒針の動きで事足りる時間だった。瞳汰は何が起きたか分かっていないふうだった。
「ご……めんなさい」
 彼は固まって眉を下げ、哀切をその目元に浮かべていた。
「う……ううん。あ……えっと、今度こそ部屋まで送る」
 不器用である。互いに誤魔化すすべを持ち合わせていなかった。
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