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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年

熱帯魚の鱗を剥がす 29

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 糸魚川いといがわ瞳汰とうたとの帰り道の途中のほんのはずみで、朋夜ともよは腹の中に埋まったリップスティックの存在を思い出した。激痛というほどではないが、鈍い痛みが雷撃みたいに腹を逆行していった。
「いっ……」
 前屈みになる彼女を、瞳汰の腕が抱き留めた。胸元に回ったために、当たってしまう。
「あ、ごめん」
 ただ身体の接触のために謝ったのだろう。気拙さも他意もない、爽やかなものだった。
「だいじょぶ?」
「うん。ごめんね」
「女の子、お腹すごく痛くなることがあるって聞いたことあるから……言うっすよ」
「ありがとう。平気。ちょっとつまずいちゃった」
 瞳汰はきょとんとして朋夜の顔を覗き込んでいた。すでに自宅マンションのエントランスが見えている。
「意外とドジっ子なんだ!」
「あら、意外だった?」
「うん。しっかりしてるな~って思うっすからね」
「それは……歳上だからよ。わたしが」
 顔にふわ、と温風が当たっているような心地がする。瞳汰の顔が見られなくなった。
「そっすかね~?」
 朋夜は瞳汰とふざけながらも、目先にあるエントランスの自動ドアが開いたの認めた。見たことのある雰囲気の男が出てきたのだ。同じ服装ではなかったけれど、系統は同じである。飛髙ひだか琴美ことみだ。彼も朋夜に気付く。いやらしい笑みを携えてこちらへ歩いてきている。
 彼女の異変に、疎げな瞳汰も敏く気付いたらしい。
「知り合い?」
「夫のお兄さん」
 義兄に会ったにしては朋夜の態度は剣呑としている。
「じゃあオレ、もう帰ったほうがいいっすね。おつかれっした、朋夜さん」
 彼なりに気を利かせたつもりらしい。そのサンダルが向きを変えたとき、朋夜の義兄が口を開く。
「見ちゃ悪ぃところ見たかぃや?」
 絵に描いたような南国の旅行帰りか、それか南国の地元民みたいな風采の男がいくらか歩を速めた。
「紹介してくり。まっさか仁実ひとみのマンションに、仁実にゃ後ろめたい男連れ込みわきゃねんべ」
 麦わら帽子を取り、サングラスを取り、義兄は素顔を見せた。
「わたしの職場の友人の、双子の兄弟です」
「こんばんは。初めまして。糸魚川瞳汰っていいます!」
「京美も知ってんのけ?」
 義兄は朋夜に訊ねた。
「京美くんとも知り合いですよ!」
 瞳汰はにこにことして答えた。
「そうけ。へへ……それで、送り迎えしてんのけ。そのでかぱいを拝みながら?ズリネタ探しにけ?」
 義兄は朋夜の胸の膨らみへと手を伸ばした。その腕を横から打ち払った手がある。彼女は頭を真っ白くしたが、直後に何をされかけ、何を言われたか理解する。
「失礼なこと―」
「やめろよ!朋夜さんに失礼だろ!謝れよ!」
 踏み出す前に、朋夜の視界は塞がれてしまった。20代に差し掛かったばかりの彼には似合わない、ベージュともブラウンともいえないシャツによって義兄の姿が見えなくなった。
「朋夜さんに謝れ!」
「い、いいの、瞳汰くん。それより、ごめんね……義兄が変なことを……」
「よくないし、朋夜さんが謝ることじゃないよ!謝れよ、朋夜さんに……!」
 瞳汰は怒鳴った。その奥で溜息が聞こえる。
「瞳汰くん……琴美さん。わたしは身内ですからとにかく、今は、彼に対して失礼な態度をとったことを謝ってください」
 ぐっと彼女は拳を握り締めた。瞳汰を横に避け、朋夜も踏み出す。
「ただの冗談にそんなカリカリしなさんな。男同士で下ネタも言えなくてどうする」
 義兄の琴美は口笛を吹いた。
「朋夜さんの前で言うことじゃないし、朋夜さんの名前出すことじゃないし、いきなり勝手に触っていいわけないだろ!」
「おーおー、悪かったぜ、義妹いもうとよ。それからなんつったっけ。イトウくん。反省しますわい」
 瞳汰は渋々と納得の意を見せる。
「朋夜っさん。ははは!とりあえず、京美によろしくな!」
 義兄はひらひらと手を振って、近くを通りかかったタクシーを呼び止める。朋夜はそれを不愉快げに見ていたが、横から腕を取られて意識を逸らした。
「行こ」
 表情豊かな瞳汰も、時には読めない顔をする。野箆坊のっぺらぼうに糸魚川瞳汰の目や鼻や口や眉をつけたみたいだった。怒っている様子はない。悲しんでいるわけでもなさそうだ。虚無というには、そこに普段の愛嬌を馳せずにいられない。
「瞳汰くん……」
「ありがと、怒ってくれて。嬉しかったよ、オレ」
「瞳汰くんも……ありがとう」
 彼は疲れたのか、活気なく口元を綻ばせる。
「京美くんのお父さんなの、あの人」
「え……でも、そっか。そうっすよね。そういうコトっすよね」
「小さな京美くんを残して、出て行ったんだって。わたしが甥と暮らしているのはそういう理由。通学のためとかじゃない」
 瞳汰は俯いてしまった。
「ごめんね、こんな話。何か飲む物買わせて。何がいい?」
 エントランスの自動販売機で、朋夜は彼にジュースを買って渡した。そこで別れる。瞳汰の後姿がエントランスのガラス張りの反射に紛れるまで見送っていた。しかし暢気に、悠長にしていたわけではない。飛髙ひだか琴美が来たということは、京美を訪れたに違いない。この時間帯はすでに家にいる。
 朋夜は急いで自宅へ帰った。エプロン姿の京美がキッチンからやってくる。
「おかえり」
 相手の出方をみる。しかし彼に変わったところはなかった。
「ただいま。ごめんね、ちょっと遅くなっちゃって。誰か来たりしなかった?」
「誰かって……?神流かんなおぢさんとか?」
 京美は玄関ホールに立ち、リビングに戻ろうとしない。まだ朋夜は靴も脱いでいなかった。
「た、宅配便とか……」
「何か頼んだの」
「う、うん……時間指定ができなくてさ……」
「そう。来てない」
 義兄はこの部屋までは来ていないのか。エントランスまで来て帰ったのか……
 京美は叔母が靴を脱ぐまで待っていた。
「どうしたの?」
「お帰りのキスしてない」
 そして言い終わる前に、京美は眉根を寄せる。
「誰かとキスした?」
「するわけないでしょう……?」
 がっちりと肩を掴まれ、義甥の美貌が迫る。
「口紅とれてる……」
「荒れちゃって……拭いたの」
 眉間に深く刻まれた皺はまだ消えていなかった。
「俺、こんなところにキスマークなんか付けてないんだけど。俺のはこっち」
 猛獣でも取り憑いたのか、甥は朋夜の首に噛み付いた。
「ん……っ」
 彼は叔母の帰宅後に寝ぐずりに等しい尋問をする。今日も例に漏れなかった。
「誰としたの」
「ちが……」
 そして思い出すのだ。腹にまだ留まっているものを。
「あ……京美くん………、わたし……」
 根負けしてされるがままになっていた習慣が悪かった。ここで抵抗を示したことによって、京美の疑念はより深まるのである。とはいえ糸魚川いといがわ瞳希とうきにキスマークをつけられ、それを京美に知られた時から、彼女は贄となる定めだった。
 頑迷を極めたい接吻と、苦しいまでの抱擁、あざとく哀切を滲ませ甘えた詰問、これらで済むものと思っていた。幼少期の親に捨てられたトラウマに打ち拉がれているものだと。
「ナカに何入ってるの?」
 両腕を纏めて壁に押さえつけられ、朋夜はショーツの中に甥の手を迎えていた。すでに彼の指はリップスティックの尻を捉えている。
「誰がしたの?叔母さんが自分で?」
「そ、そうよ……」
「どうして?寂しかったの?」
 義甥の吐息や舌や花唇が耳を苛む。壁に縫い止められた両腕のために立っていられるようなものだった。否、突き出した臀部が甥の腰に引っ掛かっている。だが膝は震えて力が入らない。
「そうよ。だからもう……放して」
「じゃあ、観せて。叔母さんが自分でイくところ、観たい」
「いけない、そんなの………だめ」
「だめなの?恥ずかしい?」
 壁に押さえつけられていた両腕がやっと解放された。しかし京美の手は叔母の胸に回る。実質的な解放を意味してはいなかった。
「こんなんでイけたの?」
 朋夜は首を横に振る。
「イけなかったんだ。じゃあ俺がイかせてあげる」
 彼は叔母の耳の裏をすんすん嗅いで、べろりと舐め上げた。
「京美く……」
 甥の手は服とブラジャーの上から胸を揉む。
「朋夜」
 髪に鼻先を埋め、頸を吸い、獣に似た息吹が乾かしていく。
「京美くん……放して…………お腹、減ったでしょ……?」
「朋夜が食べたい」
 彼は叔母の臀部に腰を打ち付けた。硬いものが当てられている。
「分かる?」
 甥の手が服とキャミソールを捲り、素肌を撫でる。肌理細かくなめらかな質感で遊び、ブラジャーの上から大きな膨らみを揉む。
「これ、あの水色のやつだ。クリーム色のレースアップのやつ……こんなえろいの、着けていくなよ」
 彼はブラジャーの地合だけで言い当てた。リボンを解かれる。
「ごめ……」
「なんで謝るの、叔母さん。えっちな下着、職場の人に見てほしくなっちゃったの?」
 甥に壁へ押しつけられ、朋夜は無防備に背中を晒した。ブラジャーのホックが外される。それが目的だったはずだが、京美は叔母の背中を吸う。
「綺麗だ」
「い、いや……」
 息が肌を掠め、朋夜の身体がひくりと跳ねる。
「綺麗だよ、叔母さん。すごく綺麗だ」
 背筋をべろりと舐め上げ、彼は叔母の腰を掴んだ。性急な動きだった。臀部へと強く、我慢しているものを当てる。
「だめ、京美くん………それだけは………」
「―ッしないよ、叔母さん……」
 痛苦に耐えているらしい、呻き声だった。満たされない欲求を、京美は叔母を噛むことで誤魔化した。
「くすぐった……い………」
「朋夜」
 噛み跡をつけたところを舌先で慈しみ、吸って、また舐める。
「あ………あ、京美くん………もう………」
「もう、何?もう、してほしい?」
「放し、て……お腹、空いちゃったし………」
「俺を食べて」
 空腹は嘘ではない。しかし今すぐ何か食べたいというほどの食欲までは催していなかった。京美はそれを察しているのか、はたまた抑圧しているのか。
 彼の指がブラジャーの浮いた胸へと伸びた。解き放たれた豊満な乳房が下から大きな掌に支えられる。その優しさは、妙な錯覚で朋夜を惑わす。
「ぅん……」
「まだ触ってないけど、胸揉まれるの、好き?」
「ち、が……」
「お腹空いててよかった。叔母さん、やっぱり胸の割りに腰細いから……心配だった」
 豊かな胸を支えていただけの手が、先端を刺激した。
「ぁ……っうんッ」
「固くなってる。寒い?」
 その理由を彼は本当に分かっていないのか、彼はさらに叔母の身体に密着する。接したところが蒸れていく。
「みや、びく……ん……ぁあ!」
 きゅ、と搾られると甘い痺れが広がった。頭の中まで響く。
「気持ちいい?」
 規則的なリズムで軽く捏ねられ、朋夜の腰が揺れる。脳髄を蕩けさセルだけでなく、下腹部にまで快楽の波紋が伝播していく。肉体的な反射によって、リップスティックを締めつけた。彼女は身悶える。
「あ……は、んん……」
「すごいね。イけなくてつらかった?」
 糸魚川瞳希の淫らな悪事を身体が思い出してしまった。埋み火が煌々と燃えはじめる。
「イくところみせて」
「だ………め、あ……!やぁんっ」
 徐々に義甥の指遣いは牝を弄ぶ巧みさで勢いづいていく。それはもしかすると牝という括りではなく、大恩ある叔父の妻ひとりの肉体を悦ばせるためのものだったのかもしれない。
「朋夜…………好きだよ」
 刹那げに呼ぶ京美の声は、意識と感覚をフルーツジャムみたいに蕩かされた叔母には届かない。
「あ、んあ、ああんっ」
 胸だけの刺激で彼女は背筋を反らす。ショーツによって脱出を許されないリップスティックを激しく引き絞る。それがもどかしい悦楽の兆しを呼び覚ます。
「そんな俺のこと、すりすりしないで」
 身悶える彼女の尻が甥の滾った膨張を摩擦する。
「朋夜……ぁ、く………」
 京美は長い睫毛を伏せた。
「だめ、もう……っ、おっぱい、だめぇ、!」
 彼女は叫んだ。直後に身を引き攣らせた。
「朋夜……!」
 京美も叔母の尻に腰を入れ、震える彼女を強く抱き締める。異様で廃れた多幸感が朋夜に押し寄せた。
「みや………び、くん………」
 甥の名を呼ぶと、悪寒に似た興奮が大波となって肉体を襲う。
「朋夜……」
 義甥は朋夜の身体を自分に向けさせると、濡れた唇にむしゃぶりついた。
「だめ………むり、いや………っ、!」
 迫る甥との間に割り入って拒む手は、むしろ彼に縋っていた。京美は叔母の口腔を貪りながら彼女のショーツの中をまさぐった。蜜煮にされたリップスティックは簡単に回収されてしまう。
「何……?これ?」
 リップスティックも朋夜の唇も粘こくさらさらとした液体にまみれていた。
「それ……は………」
「いいよ、叔母さん。夕食にしよう。先食べてて」
 そう言って京美は自室のほうに消えてしまった。





 習慣としての寝る前の酒を飲んでいると、テーブルがかん、と鳴った。気配もなく京美が傍にいる。音の正体はリップスティックだった。
「拭いておいた。高いんでしょ、それ」
「え……?」
 有名なブランドだ。
「化粧品のことはよく分からないけど、エヴチャンローレンスってハイブランドだし」
「あ……りがとう」
 ところがこの品が行くところは朋夜の部屋のゴミ箱である。
「飲み過ぎないでね」
「うん」
 京美がリビングを去っていく。彼の雰囲気も喋り方も静かだが、ふたたび静寂が訪れる。それが眠気を誘ったのか、目蓋が重くなる。グラスに残ったジュース割りを飲み干すと、彼女はベッドへ吸い寄せられた。




『愛してるんだ、朋夜。誰にも渡さない。朋夜は俺のだ……朋夜は俺のだ。朋夜は俺の』
 ふわりと柔軟剤のいい匂いがした。抱き寄せられて埋まる服の柔らかさに包まれ、胸が熱くなる。親愛にも近いけれど、親愛だけでは得られないまた別の安心感で泣きそうになった。
 その正体はおそらく男性だった。誰何すいかしようとすると意識は乳白色に染まる。猛烈な安堵が苦しかった。
 ふんふんふん、と鼻歌が聞こえる。首を傾け、頭を預けた。心地良い沼に沈められていくようだった。それでいて穏やかな波に浮かび揺蕩っているような。しかしそこには人の腕がある。揺籠みたいだった。守られている。この者のことが好きかもしれない。鼓動がそう告げている。緊張感を与えはしないくせに、心臓が張り裂けそうなのだ。
「好きだって言ったら、どうする?」
 卑怯な言い方をしてしまった。そういうつもりはなかった。しかし勝手に己の口はそう紡いだ。
「―も好き」
 彼も好意を寄せてくれていたらしい。少なくとも今は、この空間のなかではそうだった。そして涙する。これ以上の言葉は要らなかった。ほかに望みようもない。

『朋夜は俺の。朋夜は俺の。朋夜は俺の……朋夜はおれの。ともよ……ともよ、ともよはおれの。ともよ……ともよ、ともよ……』


 頬への刺激で朋夜は目を覚ました。
「おはよう、朋夜」
 甥の背中がまず見えた。そして顎にぶつかる違和感に気付く。起き上がると、金属の音がした。
「京美くん……どうして……」
 首に犬の付けるような革製の輪が巻いてある。鎖が長く伸び、部屋の外に続いている。
「昨日、変な手紙受け取ったんだけど」
 京美の声は、いつにも増して低かった。彼は自力で目覚めはするけれど、朝には弱く機嫌が悪い。
「手紙……?」
「朋夜宛のじゃないよ。いつもの、変態文書じゃなくて」
「それって……」
 朋夜は腕を引っ張られた。肩から千切らんばかりである。柔らかな素材でありながら、きつい手枷が嵌まる。自身の腕を取り戻す間もなかった。手枷は首輪と繋がった。
「なんで……」
「俺に隠し事してたんだ。俺に隠れてこそこそ会ってたの、誰だよ」
「え……?」
 京美の形相に朋夜は身震いする。
「誰にも渡さない……朋夜は俺のだ。朋夜は俺の………大学行ってくるから、いい子にしてて」
 この有様とは裏腹に、優しい手つきで彼は叔母の頭を撫でた。
「トイレには行けるから。ごはんと水は買っておいた。朋夜……逃げようだなんて思わないでね。朋夜……俺には朋夜しかいないんだ……………朋夜がその気なら、俺、死ぬから」
 手櫛を通し、毛先まで来ていた指に力がこもる。
「電車飛び込んで死ぬから。車輪とレールの間で身体轢き千切られて息もできないほど痛い思いして死ぬから。高層ビルから飛び降りで骨も顔もぐしゃぐしゃに潰して内臓ぶちまけて死ぬからね」
「やめて!そんなこと言わないで……!」
「朋夜の目の前で首吊って死ぬから。ロープ吊って、そこのテーブル蹴って。舌も目玉も飛び出して垂れ流してるのに勃起してる死体見せてあげる。朋夜、逃げないでね。俺本気だよ。俺死ぬから。睡眠薬買ってあるから、それ全部お酒で流し込んで死ぬからね。朋夜が逃げるなら、俺は生きてても意味ないから」
 朋夜は手枷を嵌められた片手で京美の鳩尾みぞおちをぽか、と殴った。
「朋夜……いいよ。俺は親から愛されなかったんだ。叔父貴に見つかって生き永らえただけ。死んでてもおかしくなかったんだ。叔父貴も朋夜と出逢えたのはただのサービス。これ以上幸せを求めちゃいけないんだよ。朋夜。ここから逃げたら、俺は死ぬけど、それが朋夜のせいだと書き遺すつもりはないから、あとは自分のために生きるんだよ」
 彼は心窩しんかにある叔母の緩い拳を両手で握る。
「朋夜……俺はね、どっちでもいい。俺は俺の幸せを求めて朋夜を傷付けるべきか、朋夜の幸せを求めて自分は消えるべきか、それがもう同じくらいなんだ。死ぬのは怖くないんだよ、朋夜。怖いは怖いけど……仕方ないね」
 京美は他人事のように言って、叔母の頬を啄んだ。
「でも、俺の父親とかいう人のところに行くのだけは赦せない」
「行かない……よ………行かない……」
「嘘吐かなくていいよ。だって口紅貰ってた。俺の父親とかいうのと、デキてるんだろ?半同胞きょうだい作るって書いてあった。俺は!離れたくないけど、そういうことじゃない……」
 急に叫び、そしてその反動のように京美は涙をこぼす。朋夜は驚いてしまった。頬を伝い落ちる雫を掬い取る。
「朋夜……あんたがいなきゃ生きていけない」
「居るよ、わたしは。京美くんと……そのために結婚したんだもの。大丈夫よ、京美くん。京美くんのお父さんのところ、行かない」
 肩を震わせて啜り泣く少年の哀れさに朋夜は両腕を開いて抱き締めた。片手には枷がぶら下がっている。
「お父さんと、会ったんだ」
「会ったよ。京美くんと一緒に暮らしたいって言ってた」
「どうして、言って……くれなかったんだよ」
 義甥は余程他者の温もりに飢えていたとみえる。彼は忌み嫌って疎んでいる叔母を突き放しもせず、包み込まれていた。
「だって、京美くんを置いて行ったような人でしょう。でも、京美くんにとってはお父さんだから……迷ってしまって……」
「俺はここがいい……叔父貴と朋夜がいい……」
「じゃあ、ここにいよう。平気だから……大丈夫。心配させちゃったんだね。ここにいるよ」
「信じられないんだ。ごめん、朋夜……」
 彼は叔母に甘えられなくなってしまった。朋夜を離し、それから乱暴に目元を拭う。この孤児同然の少年の境遇を思えばそれも無理はないのかもしれない。親と離れて暮らすことが決まったときの弟の姿と重なった。この世のあらゆる摂理を捻じ曲げ、支配し、征服してでも、相手の思うようにどうにかしたくなる。そしてそれでいて無力な自身が恨めしくなる。そういうことはこれが初めてではない。
「分かったから。大学に行ってきなさい。慌てないで。車には気を付けて……あなたの命が何よりも大事だから」
 京美の赤く腫れた目元を撫でた。落ちてくる涙が熱い。
「うん……」
 通学の支度はすでにできていたらしい。京美は泣き止んで叔母の改めて抱擁すると家を出ていった。
 朋夜はその場に固まったように暫く動かなかったが、やがてベッドへ寝転がった。アルバイトはどうしようかと考え、糸魚川瞳希の顔が過り、辞めてしまっても構わないと直感が訴えていた。それから糸魚川瞳汰の姿に変貌した。朋夜は飛び起きて、顔が火照ったのを掌で吸熱して誤魔化した。彼が待っているかも知れない。それを放置しておくのは悪いことだが、しかし残酷な天秤はどうしても泣いていた義甥の味方をする。
 手足が体内から炙られている。彼女は自身がどういう有様なのかも忘れて、甘酸っぱい胸の疼痛に焦れた。否、夢の中の出来事である。それはつまり妄想と変わらず、他人である。同一ではない。理想化と、不本意な自己の働きがある。
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