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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年
熱帯魚の鱗を剥がす 23
しおりを挟むインターホンが鳴り、朋夜が部屋から出ようとしたところをリビングからやってきた甥に押し留められる。
京美が玄関扉を開けた途端に不穏な叫びが聞こえ、朋夜は一度戻りかけたが廊下へ首を出した。
子供が玄関ホールで京美に殴りかかっている。しかし圧倒的な体格差によって、攻防戦になるまでもなかった。もはや児戯である。
「なんだ、こいつ」
京美は容易に児童の細い腕を捻り上げた。朋夜は暴れる子供に見覚えがある。彼女の頭の中で、だん、だん、だんと記憶の紙芝居がはじまる。この子供と、どこで会ったのか。
「君……」
そう古い最後ではなかった。糸魚川瞳汰の家で会っている。喫茶店にもいた。ピアノが弾ける小学生男子だ。
「小星くん、だっけ……?」
京美が部屋から出てきた叔母を見遣った。
「知り合い……?」
「放せよっ!」
隙を突いて男子児童は京美の拘束から逃げ出した。朋夜めがけて駆け出す。
「瞳汰兄のこと、殴っただろ!」
男児は朋夜の前に立つと、腕を振りかぶる。一瞬の躊躇いがあったが、彼は朋夜を叩く。頗る発育がいいわけではい、平凡な体型の子供の力である。大した痛みはなかった。
「おい!」
耳を劈く怒声で、マンションが揺れた気がした。普段の細い喋り方をしている者と同一人物とは思えなかった。
「人の叔母に何してんだ!」
腹から声を出せるらしい京美は、もう一度と吼えた。彼は下の階の天井を踏み抜かん勢いで跫音(あしおと)を響かせて叔母と小さな不審者を引き離した。
「ちょっ、京美く……」
肩の骨を壊すほど乱暴に男児を揺さぶる。
「自分が何したのか分かってるのか!」
「瞳汰兄を殴ったの、お前か!」
大きな男に怒鳴られても、子供は怯みもしなかった。朋夜は2人の間に入る。
「瞳汰?瞳汰くん?君、カフェにいた子だよね?」
床に膝をつけ、目線を合わせる。
「知り合い?」
彼女は頷いた。近付こうとする甥を男子児童から遠ざける。
「瞳汰くんが殴られたから、ここまで辿ってきたの?」
「どっちが、殴ったんだ?」
声変わり前らしい。その声は興奮状態と相俟って不安定で甲高かった。くりくりとした目が敵意に燃えている。
「わたしよ」
朋夜は毅然とした態度で答えた。
「嘘だ!お前、瞳希兄ちゃんと一緒にいたろ!瞳希兄ちゃんが瞳汰兄を殴ったやつと、一緒にいるはずない!」
しかし糸魚川瞳希は実際のところ、自分の兄が殴られたことをそう重大には捉えていなかった。
「こいつだな!」
子供は京美のほうを向いて振りかぶる。
「やめなさい。敵いっこない。ここまで、尾けてきたの?おうちの人は?」
朋夜の語調は叱りつけるように厳しかった。
「おうちの人なんていないやぃ」
若さからくるさらさらとした直毛の髪はどこか萎びている。峻厳な面立ちの野良猫の毛並みを思わせる。栄養状態があまり良くない感じがある。
「だってもう、小学校は終わってる時間でしょう。おうちの人の、電話番号は?」
「知るか」
「おうち、あのカフェの近く?瞳汰くんなら、住所知ってる?」
必死に敵意を晒し、睨みつけているつもりなのだろう。彼は上目遣いになっていることも気付かず朋夜を見つめる。
「おうちの人、心配するでしょう?」
「しない!」
少年は食い気味に答える。朋夜は彼の傷んだ顔を見ていた。造りは悪くない。しかし染みのような傷痕や痣がちらほらと見受けられる。
「君、いじめられてるの?」
彼は朋夜を押し退ける。逃げようとしたところを京美に捕まった。小学校高学年くらいであろうがまだ幼い手が慄いている。
「虐待じゃない」
京美が横から口を挟む。そのときの男子児童の形相といえば異様な気迫を帯びていた。
「え……そうなの?」
萎びたストレートヘアが横に揺れた。
「そんなわけないだろ!放せよっ!」
少年が腕を引き戻そうとするたびに京美の腕もはしゃいでいるみたいにぶらぶら揺れるのが滑稽だ。
「虐待なら、きちんとどこかに相談しないと……」
「認めないだろ、多分」
朋夜は京美を見上げる。彼も意外そうに叔母を見下ろした。男子児童は相変わらず暴れていた。
「カフェに送り届ければいい?」
虐待の相談については、この児童に強いるものではなかった。彼女は話題を逸らすことにして、少年の掴まれた腕を京美から預かった。
「いやだ」
「じゃあ、瞳汰くんのおうちに行こう。お姉ちゃん、ちゃんと謝るから……」
語気とは裏腹に、彼女の子供の手首を使う力は強かった。
「いやだ!」
「じゃあ、瞳汰くんに迎えに来てもらう?瞳汰くんに、全部お話ししてもいいの?」
男児は唇をもにもにと食んで首を振る。
「じゃあ、瞳汰くんのところ行こう」
彼は渋々頷いた。
「叔母さん」
軽々と甥が肩に触れた。真新しい掌の感覚だった。
「この子を送り届けるだけだから」
「俺も行く」
「でも、」
「糸魚川の家なんでしょ。謝るのは叔母さんじゃない」
朋夜は少しの間、甥の双眸を見済ます。彼は本当に、勢いに任せてまた糸魚川を殴りはしないか。いいや、彼は反省したはずだ。懲りているのではあるまいか。否、蔑む叔母が注意をしたところで響くことはないであろう。
とはいえ、叔父に対する感謝はあるはずだ。そこに泥を塗るような真似は、もうしないはずだ。
「……分かった」
朋夜は甥と忽如として現れた子供を連れて糸魚川宅へ向かったが、糸魚川瞳汰はアルバイトに出ていると、家にいた弟が告げた。彼は相変わらず涙袋を膨らませて目を細め。朋夜を見て、京美を見て、少年を見る。
「花祈くんと知り合いだったんですね」
糸魚川瞳希は朋夜に微笑を浮かべた。すると後ろにいた京美が叔母の肩を引き、自分が前に出ようとする。それを制した。瞳希は微苦笑とも愛想笑いともいえない表情で京美を迎える。
「この子がうちまで来たんです。だからその……この前、お騒がせした件で」
「兄に繋げばいいですか?とりあえず上がってください」
外はかんかん照りである。湿度があまり高くないために息苦しさはないが、陽射しが満遍なく皮膚を刺す。
「日射病になってしまいます。花祈くんだって、朝ごはん食べてないでしょう。兄に電話しますから、その間に済ましたほうが」
同胞を殴った奴のいる一行を、瞳希は屈託なく中へ通す。少年に適当な飯を用意し、朋夜と京美には菓子皿を出す。電話をすると言ってリビングから出て行ったが、すぐに戻ってきた。
「すみません、綾鳥さん。ぼくのスマホ、バッテリーがもう3%しかなくて。お借りしてもいいですか。それか綾鳥さんが電話します?ただ……」
瞳希は鮭フレークでぎこちなく、居づらそうに米を食う子供に目配せしてから朋夜に直る。この男児の前では話せないらしい。
「ごめん、京美くん。あの子をよろしく」
京美にじとりと睨まれたのが分かったが、朋夜はスマホを持って廊下へと出る。
「電話番号、これです」
警戒を悟られないように近付くが、糸魚川瞳希は以前と変わらない態度だった。バッテリー3%というのは本当のようで、画面右上のバッテリーのゲージは赤くなっている。
「さっきまで充電してたんですけどね。ズボラなところが見えて恥ずかしいです」
まるで狂ったように、否、女体と劣情に猛り狂っていたのが嘘のようである。今は爽やかに清らかに、肉欲などまったく発生しないかのような面構えである。あれは幻覚だったのかも知れない。
朋夜は心許ないスマートフォンを見ながら番号を打つ。
「どうぞ」
端末を渡した。瞳希はそれを受け取って耳に当てる。朋夜の警戒が解かれたときだった。彼の空いた腕が彼女を抱き寄せる。咄嗟にその顔を見上げた。瞳希は無意識に行動したとばかりに抱き寄せた女を一瞥もしない。
「あ、瞳汰。今忙しい?」
彼の兄はアルバイト中ながら通話に応じたらしい。
「今、綾鳥さんが来てるんだけど、花祈くんも一緒で……うん、綾鳥さんの家にお邪魔したみたい。どうする?うちで預かればいい?」
兄と話すとき、瞳希は淡々としていた。そして女の腰に巻き付いているその腕は上昇し、彼女の髪を梳きはじめる。
「―分かった。じゃあそうしてもらう。ああ、いいや、ぼくが行くよ。暑いし」
通話が切られる。微笑みかけられ、朋夜は瞳希を突き離す。
「あの……」
「花祈くんはぼくがピアノカフェに送ります」
スマートフォンが返される。彼は余所見をした。リビングから京美が半身を覗かせている。
「どうなったの」
「ぼくが預かります」
「俺が行く。元々こうなったのは俺のせいだろ」
互いを睥睨しているようにしか見えない、野生的な見詰め合いの間は朋夜を焦らせる。やがて糸魚川瞳希は鼻を鳴らすように微笑する。
「そうですか?ではお任せします。あそこのチキンオムライスおすすめですよ」
彼はそう言って、京美の半身を出す玄関側からではなく、キッチン寄りの出入り口を通ってリビングへ戻る。一定の距離を保って連動しているみたいに京美が突っ立っている叔母の傍へと来た。
「大丈夫?」
「え……?う、うん」
大した意味はない、ただの声掛けであろう。しかし朋夜は何を心配されたのか、いくらか過剰な反応を示した。この家で、糸魚川瞳希に、一体何をされたというのか。
「叔母さんは、先帰る?」
加えられた一言に彼女は安堵する。甥はこれからの都合のことを言っていたのだ。
「大丈夫よ。一緒に行く」
京美の昏い眸子を捉える。彼は瞠目した。そして逸らされる。
「叔母さん」
「うん、戻ろう」
甥は言いたいことがあったのかも知れない。だが朋夜は遮ってしまった。そしてリビングへ促す。動こうとしない京美を見て取ると、先に動いた。リビングでは居心地の悪そうに子供が飯を食っている。緊張しているような、警戒しているような有様で、そこには羞恥も感じられた。瞳希は台所に立ち、握飯を掌の狭間に転がしている。
「花祈くん。瞳汰のところには、この方たちと一緒に行ってくださいね」
瞳希は握飯をラップで包んでいる。子供は黙って頷いた。その空気感からいって、彼は双子の兄には懐いているようだが、あまり似ない双子の弟のほうには苦手意識を抱いているようだ。
「夜ご飯にしてください」
瞳希は小さな保冷バッグを子供が飯を食うテーブルの上に置く。親戚の子供なのかも知れない。男子児童はばつが悪そうに、保冷バッグを寄せる。
3人は糸魚川瞳汰の勤め先に向かった。ピアノの音が靴底を隔てて足の裏からも聞こえる。老年層や膝に不自由のある人たちには優しくない急なアプローチ階段を上り、ドアを開けることで裏側についた鈴束を鳴らす。
「いらっしゃいませっ」
少し癖のある接客は、目的にした人物から発せられたものだ。この店の制服じみた洗いざらしの白いシャツの上にマスタードイエローのロープタイプのエプロンを垂らし、銀の盆を抱いている。相変わらず野暮ったい面構えだが、にこにこと愛想が良い。
「朋夜さん!と、甥っ子さんと、小星くん。瞳希は?」
店は空いていた。彼は3人を店外へ押し戻してから訊ねた。男児はその頃には朋夜と京美から離れて瞳汰の腰巾着みたいになっている。
「成り行きで……」
「そうなんすね!えへへ、来てくれて嬉しっす」
朋夜は後ろに立つ甥を気にした。彼が飛び出て、またもやこの無邪気で冴えない青年に殴りかかりはしないかと警戒を解けない。
「おい」
京美が低い声を出す。朋夜は驚きのあまり、心臓を口から吐いてしまいそうになる。
「うん?」
一度は自分を殴った男相手に、糸魚川瞳汰は無防備だ。愛嬌豊かに首を傾げる様は少しあざといくらいである。反対に、親ネコに庇護された子ネコみたいになっていた男子児童が牙を剥く。踏み出た京美を威嚇した。
「どうしたんだよ、小星くん」
糸魚川瞳汰は男児を制する。京美は子供には目もくれず、真っ直ぐに相手を見据える。
「この前は殴って、悪かった」
朋夜はその瞬間、息を呑む。京美が頭を下げている。
「うん、いいよ。平気!赦すよ」
瞳汰はへにゃりと笑った。京美の頭が躊躇いがちに持ち上げられる。
「……ありがとう、瞳汰くん」
朋夜は譫言みたいに、叔母として礼を言った。甥は19歳だ。未成年ではあるけれど、世間的にはほぼ大人と変わらない。彼女に過保護で過干渉な自覚はあった。
「ちゃんと謝ってくれたもん。オレも別に大怪我したわけじゃないしさ。だから、もういいんだ。小星くんも、このことは忘れよう。オレは全然、気にしてないから」
痩せぎすの貧相な青年は腰についている子供のくしゃくしゃの髪を撫でようとして、直前で止めた。しかし結局撫で回す。彼は飲食店で、しかも仕事中である。
「じゃあ、早めに上がらせてもらうね、小星くん。朋夜さんたちは?お店、寄っていくっすか?」
朋夜の首が頷くなり横に振れるなりするそのときに、店から出てくる人影があった。鈴束が鈍く余韻を残す。
「ともちゃん……?」
妙な沈黙が起こった。店から出てきた男は間の抜けた顔をした。まともにその面立ちを見た朋夜は眼球を落としそうなほど目を瞠いた。
「本当に……、本当にこの街にいたんだ……」
男は戦慄きながら朋夜に躙り寄る。
「なに?」
京美が近付いてくる男との間に割り入った。
「何の用?」
男は京美に見てから、その奥にいる朋夜を目に入れようとする。
「文くん……」
瞳汰はちらちらと朋夜と先程まで店の客だった男を見比べる。
「探してた人って、朋夜さんのこと?」
ぎょるんと男の首が回った。異様な顔色で、罅割れた唇は血色が悪い。
「知り合いだったんだ?」
「うん……」
瞳汰は朋夜の様子を気にしながら、控えめに肯んじる。
「なんだ、こんな近くに……ともちゃん!」
男は朋夜に行こうとする。しかしそこには京美が立っていた。
「この人、誰?」
甥が顧眄する。朋夜は呆然として、彼の話を聞いていなかった。
「オレだよ、オレ……覚えてないのかよ、ともちゃん」
狐色じみた明るい茶髪に、横は刈り上げてある。色の白い、ひょろりとした男である。記憶の中の風貌とは多少の違いはあれど、その顔立ちは変わっていない。
「大丈夫よ、京美くん」
またこの甥が人見知りのあまり誤って、初対面の人間に殴りかかりはしないかと、朋夜は京美を後ろに引っ込める。
「ともちゃん、オレだよ、文だよ」
「うん……でも、どうして……」
「どうして?神流くんに訊いたんだよ。神流くんに……」
ぎらぎらとした眼から、彼女は危うげなものを読み取った。この男の登場は一挙にその場の空気を変えてしまった。
「神流ちゃんが……」
彼の発言をそのまま受け止められなかったのは、弟はこの男を嫌っているからだ。
「信じてくれてないんだね?」
表情に出ていたのかも知れない。朋夜はその場に義甥と知り合いがいることも忘れ、まるで世界にこの男と2人きりだけのような錯覚に陥って後退る。その背を支えられて、他の者たちがいることを思い出した。
「神流くんから聞いたよ、結婚して、すぐに旦那さん、亡くなったんだってね。だから線香を上げにいきたいって言ったら、教えてくれたんだ」
元交際相手の引き攣った笑みは、別れを切り出したときによく似ている。
「どういう関係なの」
唖然としている朋夜に代わり、京美が口を開いた。彼女の元交際相手は不思議そうに京美を見る。
「新しいカレシ……?随分と、若くない?」
その問いには、ちくちくと刺したい響きが含まれているように思われる。それは彼に昔裏切られたことによる被害妄想であろうか。
「そうだよ、いいだろ。アンタには関係ない」
義甥なりにこの場を簡潔に終わらせたかったのだろう。話がこんがらがったとしても、この甥にとって義理の叔母の元交際相手などは二度と会うような人間ではない。しかし元交際相手であれど、この若者を誤解してほしくはなかった。自分が昔切り捨てた、おかしな女と付き合っているなどとは。
「違います。甥です。義理の……」
「質問に答えろ。朋夜のなんだ?」
踏み出ようとする甥を抑えるが、結局は気圧された。
「元カレだよ……朋夜の甥っ子なんだ?よろしく。鷹任―……」
「元カレ?朋夜の元カレがどうして俺の叔父貴に線香をあげるの。元カレってことは別れたんだよな。やめてくれよ。叔父貴の妻にかかわらないでくれ」
京美の手が力強く義理の叔母の肩を寄せる。
「ああ……えっと、お店の前だから……裏行くか、ここで解散してもらえると、助かりますです……」
まだそこにいたらしき糸魚川瞳汰は動揺している。男女の諍いじみたやりとりを軽侮したように眺める男児を手置きみたいにして、その素直な顔は戸惑いを隠せるはずもなかった。しかし彼のこの一言は意外にも大きな効果があった。
「分かった。でもともちゃん、ちゃんと話し合いがしたくて……ここのお店に、連絡先を渡しておくよ。また会いたい」
「相手の方に悪いです」
颯爽と去りたかったであろう元交際相手は身を翻しかけたのを止めた。
「相手?」
朋夜は答えなかった。
「ああ……ああ…………」
元交際相手も苦しみ呻くような声を漏らし、しかし確信的なことは言わない。それよりも早くに糸魚川瞳汰が解散しろとばかりに両者の間に割り込んだ。すると馴れ馴れしい男はやはり馴れ馴れしく指を開閉させて去っていった。懐かしい癖が、じわりと朋夜の胸を打つ。甘い記憶なのだ。杜撰な精算にしろ、温い優しさにしろ、甘い記憶だったのだ。彼女は元交際相手の卑屈さ、卑怯さ、狭量ぶりに気付いてしまった己を恨む。またその甘さが毒気になっていることも分かってしまった。
「ごめんね、変なところ見られちゃったね」
朋夜はまず糸魚川瞳汰へ詫びた。それから京美を見る。
「大丈夫?あの人、また来るの……出禁にしてもらおうか」
迂愚なほど底抜けに明るい瞳汰が、今は顔を強張らせている。朋夜は首を横に振った。この店には関係のないことで、この店にとっては客である。
「元カレってどういうことだよ」
「そのままの意味。でも長いこと会ってなかったし、京美くんの心配するようなことはないよ」
「それはさっきの反応みてれば分かる。そうじゃなくて……」
「大丈夫」
朋夜は食い気味に答えた。それは八つ当たりめいた不快感を帯びている。
「ごめんね、長いこと歩かせて、立たせってぱなしで」
彼女は瞳汰を待っている子供を見遣る。男子児童は鼻先ごと逸らした。
「帰ろう、京美くん」
義甥は特に反抗もせず朋夜についてくる。元交際相手について深追いはせず、黙っている。自宅まで彼はほぼ喋らなかった。
◇
弟に連絡はしなかった。神流を責めるつもりはない。否、彼と話す気が起きないのだ。いずれにしろ元交際相手に生活圏は知れてしまっているのである。京美はこの件を引き合いに出しはしなかったが、前よりも叔母の動向を気にした。口にはしないがアルバイトに出掛けるのも嫌がっているようだ。
最初は糸魚川瞳希を嫌っているように思われた。恥ずかしい匿名の手紙といい、元交際相手の出現といい、叔母の外出に警戒している。朋夜自身も、一度は婚約までした元交際相手との邂逅に胸はざわめいたものだが、彼には可憐な妻と子がいるはずである。腹が満たされ、酒を飲み、深く眠った後に考えれば、特に心配するところはない。
糸魚川瞳汰は、朋夜がアルバイトを終えて出てきたときに、そこで待っていた。似ない双子の弟は恋人と二人の世界に旅行中らしい。手籠にされてからも、彼の態度は変わらない。
「来たよん、朋夜さん」
瞳汰とは共に帰る話が纏まっていた。用事があると言っていたとおり、少し小洒落た服装をしているが、カフェモカやロイヤルミルクティーを思わせる薄いブラウンともベージュともいえない色を基調としていて、組み合わせが悪く、体格に合わない形もまた彼を貧相に見せた。
「今日も歌いに?」
「そうそう。そうだ、この前はありがとうっす」
「なんだっけ?」
何かしたか、人違いであるまいかと考えていると瞳汰は照れたのか鼻の頭を掻く。
「小星くんのこと」
つまりは家に殴り込みにきた男児のことである。
「ううん。いいのよ、そんなこと。むしろ瞳汰くん、仕事中だったのに……」
「いやいや。小星くんは、オレの弟みたいなものだから。弟ってヘンだな。年下の師匠?オレよりずっと遅くにピアノはじめて、っていうか、オレがピアノ教えてたのにもう抜かれちゃったんだ」
彼のジェスチャーは大袈裟だった。朋夜は能天気で無邪気な話をうんうんと聞いていた。
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