18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年

熱帯魚の鱗を剥がす 16

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―妊娠してるんだぞ!あんまり責めないでやってくれよ。もし何があったら、おまえ、責任とれるのか?



 まなじりを伝う冷たさに目が覚める。自然光による穏やかな朝だった。よく眠れた実感に、無意識な落涙が不釣り合いだ。
 アルバイトには慣れてきた。職場にいるカップルを目にするたび催す奇妙なざわつきも、あまりにも擦られて色褪せておさまってきている。
 濡れた目元に反して気分は冴えていた。舌の上でふと思い出したコーヒーが飲みたい。耳の奥でピアノの音色を乞うている。
 リビングに出ると甥がダイニングテーブルセットに座していた。
「おはよう、叔母さん。朝飯作ったから一緒に食べて」
 ホットサンドと小さなサラダ、そしてコーヒーがテーブルに置かれていた。京美みやびは叔母を待っていたらしい。
「おはよう……京美くんが、作ったの?」
 同じことを繰り返してしまい、彼女は身構える。朋夜ともよが抱くこの甥の印象ならば、同じことを言わせるな、そう言っただろう、と返すところだろう。
「……うん」
 綺麗に焼かれた玉子焼きとベーコンがトーストサンドの断面から見えた。傍にはミニトマトを切ったのと千切りのキャベツが盛られ、マヨネーズがちょろちょろカーブを描く。
「じゃあ、いただきます」
 不可解で千変万化な彼の態度、行動にこの叔母は怯えがある。それは脅迫者とその対象の関係に似ている。愛想笑いを浮かべて甥の対面に座った。彼は項垂れて自信の無さそうな目をくれたが、叔母が腰を下ろすと頭を上げた。
「今日は、少し帰り、遅くなるかも。迎えに行くの……」
「帰りが遅いなら、無理しなくて大丈夫よ。いい大人なんだし、1人で……」
「ダメ。まだあの変な手紙届いてる」
 甥は雑な手付きで合掌すると、すぐに朝飯を食いはじめた。朋夜は目の前にある小洒落た皿も気付かない様子でテーブルの質感をぼんやりと眺めていた。
「あの、イトイガワとかいうのに送られてくる……みたいなのはやめて」
「う、うん。おうち反対方向だし、カノジョもいるし、あんな年下の子に、悪いもの」
 そしてまた後悔した。迎えに行くと言って利かない相手は糸魚川いといがわ瞳希とうきよりも年少者だ。京美の睥睨へいげいが彼女に反省を促している。
「年下だからって油断しないでよ。思春期過ぎれば男なんてみんなヤバいんだから」
 声音からいって、彼は拗ねている。
「うん……」
「俺は平気だから、別に」
 まだ一口しか齧っていないが、ホットサンドが重く感じられる。
 朝食を済ませると、京美は大学に行く支度をした。朋夜は彼が出るのを部屋で待つ。通学前に叔母がばたばたやっていたのでは、神経質で気難しい甥は落ち着かないのであろう。忖度した。
「叔母さん」
 開け放たれたままの朋夜の自室に京美が爪先を踏み入れた。覗き込んでいる。
「あ、京美くん。どうしたの?」
 洗濯物に不備があったかと思われた。しかし彼はすでに着替え、通学用カバンを肩に掛けていた。他に何の用があるのか、見当もつかずにいる。
 正面に立った叔母を京美はよく濡れた昏い眼で観ている。
「何か、足りないものがあった?」
 ふと、釘付けになっていた視線が泳いだ。薄い目蓋が伏せられる。
「行って……きます」
「うん。行ってらっしゃい。気を付けてね」
 今日の甥は機嫌が好い。自然と朋夜の表情もまるで夫にしていたように表情が緩んだ。すると、キッと甥の美貌が一瞬歪んだ。肩を掴まれ、朋夜は半歩引っ張られる。甥の鼻が迫った。やがてぼやける。唇がぶつかる。すぐに状況を把握することができなかった。
「行ってくる」
 柔らかな接触は数秒もなかった。手慰みにブラシを雑に通しただけの髪を優しく撫でられ、冷えた温もりは耳にも掠る。朋夜はどうしていいのか分からず項垂れた。叔母にする所作ではなかった。恋人がいる感じはない。亡夫の話からいってこの甥は母親の影も知らない。身近な異性に対して距離感が分からなくなっているに違いない。弟の神流かんな同様に。幾度か考えたことだ。そして彼女の結論は思考放棄みたいに、事情も知らず接し方を誤った己を認めて締め括る。
 軽い抱擁がてら背中を弱く叩かれる。励ますような力加減だった。京美は玄関へと身を翻す。ふわりとよく知った匂いが広がる。玄関の開閉の音が聞こえた。錠の掛かる音も響く。それが合図か、朋夜も身支度を整えた。鍵を掛けられて間もないドアを開き、彼女の足は喫茶店に向かう。
 白を基調とした店に入る前からピアノの音色が聞こえていた。一曲終わり、また別の曲がはじまる。アレンジはあまり効いてい、原曲をピアノにしたような演奏である。とはいえ朋夜はその原曲がどういうものかは知らない。堅さの残るぎこちない弾き手を見ると、糸魚川いといがわ瞳汰とうたである。エプロンを外し、洗いざらしで若干皺の浮かぶ襟無し半袖シャツにライトブルーのジーンズパンツの出で立ちだ。長く細い節くれだった指は美しさよりも泥臭く貧相な感じがあったが、純白のピアノとのギャップに滑稽なおもむきがある。鍵盤を捉えるたびに華奢な躯体くたいが揺れ、音波や空調に靡いているみたいだった。来店を告げる鈴束を聞き分けた野暮ったいピアニストは閉じていた目を開けた。視線がぶつかる。会釈代わりに彼はくしゃりと笑った。別の店員が席へと案内する。ブラインドの半分降りた窓辺の席だ。テラコッタの鉢にピンク色の花が植わっている。
 朋夜はクッキーを頼んだ。待っている間、堅い演奏を聴きながら店内を見回す。地域の行事を報せるポスターや、他店のイベント、当店でのライブ活動記録などがボードに貼り付けてある。それから窓の外に目を留める。道を歩く親子らしき3人組が見えた。身形からいって若そうな夫婦らしい2人の男女と小学校に上がるかどうかといった頃合いの子供である。
『まだお互い若いんだしさ、オレにこだわる必要も、ないよな?』
 昔別れた相手とその妻となった女の間に無事子供が産まれていたならば、今そこを歩いている子供くらいには育っているだろう。無事産まれたのか否か、それを知る立場にはなかった。
 視界から消えるまで眺めていた。凝視していた。ところが視覚に意識が集中していたわけでもない。
「いらっしゃいませ、朋夜さん!来てくれたんすねぇ!」
 糸魚川瞳汰によって数種のクッキーとアイスティーが運ばれてきた。白い小皿に淡いベージュのレースペーパーが敷かれ、その上にクッキーが並べられている。芳ばしいバターの香りがした。アイスティーなどは金魚鉢にステムがついたような大きさだ。
「うん。また来ちゃった」
「へへへ。いつでも来てくださいっす。ごゆっくり!」
 彼はへらへらと嬉しそうに笑ってテーブルから去っていった。
 朋夜はエプロンのロープの雑に縛られた背中が離れていくのを見送ってから手を拭いてクッキーを齧る。アイスボックスクッキーはココアと抹茶の2種類ある。この店で作っているらしく、形は手作りの風情が残る歪さで、素朴な味がした。それから刻まれた茶葉が練り込まれたのと、ドライフルーツが混ざっているのが2枚ずつ、それから溶かした飴を流し込んだのは1枚だ。
 さく、さくと食感がピアノの旋律に溶けていく。有名な曲の緩やかに煌びやかに繊細にアレンジされたのが店内に流れる。ピアノの傍にはマスタードイエローのエプロンを下げた瞳汰が譜捲りの役割を務めている。
 さく、さく、と現実的な非現実に浸る。図書館や公園とはまた違うのどかな時間だった。最後の一枚を食べ終え、金を払って店を出る。鈴の音がして、ピアノの演奏が曇った。外の空気に包まれる。
「朋夜さぁん!」
 少し行けば、店の裏口から来たらしき瞳汰が曲がり角に飛び出してくる。もし朋夜が自転車だったなら、彼は轢かれていたかも知れない。
「お疲れ様。美味しかったよ、クッキー」
 瞳汰はエプロンを外して腕に掛けていた。
「また来てね!へっへっ」
「うん」
瞳希とーきとバイト一緒になったんしょ?しっかりしてるヤツだけど、よろしくっすね!お兄ちゃんのオレが言うのも変すかね?」
 きゃはきゃはと笑って彼は言った。今日は晴れている。日の光を浴びてさらに眩しい。
「ううん。よろしくされるのはわたしのほう」
「オレよりはしっかりしてるケド、意外とドジっすから。そこが、カワイイんだって、昔女子たちが言ってた!」
「弟さん、モテてたんだ?」
「そうそう、そうなんすよ。オレなんか、バレンタインのチョコの受け渡し係だったんすよ?」
 唇を尖らせて拗ねたかと思うと、すぐに破顔する。きゃらきゃらと笑う様は檸檬光ゴーストに祝福されているみたいだった。
「あらあら」
「ま、義理チョコならいっぱいもらったんすケドね!ホワイトデー返しきれないからさ、瞳希はそれで高2くらいからバイトしてたんだ~」
「モテるのも大変なんだ?」
 まるきり朋夜の予定を考えない、少し強引な調子で瞳汰は店裏にある小さな橋まで手招きした。彼は欄干に背を凭せかける。
「この後は、バイトっすか?」
「うん、そう」
「運送?運送のバイトもしてんだ?」
 彼は不思議そうな顔をして首を捻る。
「違うよ。この後も、アルバイト。瞳汰くんの弟さんと同じシフト」
「ああ、なるほど。瞳希もそうだったから、やっぱりね」
 すぐ近くの喫茶店の裏口からエプロンの若者が出てきた。瞳汰は欄干から背を剥がす。
「じゃあ戻るっす!また来てっ!今度来た時クーポン使ってさ!」
 会計のときにクーポンをもらったのだった。
「うん。またね」
 瞳汰は駆け出したり立ち止まったり振り返ったり忙しない。大規模に腕を振るのが危なっかしかった。後ろ手にエプロンを結ぶ姿が店に入っていくのを見ると、朋夜は川の浅い流れを見下ろした。雨の日は水嵩が大きく増して濁流と化すが、晴天の日となると底が見える。水位が極端な川だった。そして全国的に有名な河川へ通じる。暫くして糸魚川瞳汰の味方みたいだった日差しが点綴てんていする水面から目を離す。そろそろ帰る頃だ。アルバイトまではまだ時間がある。


京美みや坊はオレと違ってモテてさ。あっはっは。家まで女の子が来たりしてさ。これ渡してくださいってよ。女の子って先に大人びちゃうからなぁ。京美はな、ああ見えてなかなか子供なんだよ。きっと毛も生えてないぜ、はっはっは。オレが毛が生えた頃になっても、まだとぅるっとぅるだったんだからな』
 2人で飲んだときの声音と会話内容は甦るけれど、暗いリビングに紛れた故人の表情が思い出せない。
『ま、そういうガキを、よろしく頼むよ。神流かんなくんとはタイプが随分と違うけど、弟だと思ってくれ』
 その時にからんと響くグラスの音をよく覚えている。

『その……なんだ。元カレくんのことは忘れて欲しい。記憶から消せって話じゃなくて……思い返して、あれはこれはって考えなさんな。その枠は、オレが収まったんだから』
 前の婚約者に手酷く破棄を乞われる様を、まだそのような話も浮かんでいなかった頃の亡夫に目撃されている。
『その枠に収まってみて、ひとつ分かったことがある。朋夜ちゃんはいい女だよ。なんつって、だから今更誰かにこの座を譲ろう、明け渡そうだなんて考えてないけどな』


「―考えてるんですよ」
 資料室の整理中に進路の話を聞いていた。日焼け防止に窓ガラスには厚紙が貼られ、暗幕が掛かっている。外はまだそれなりに明るいはずだが、自然光は役に立たないため明かりが必要だった。ところが一瞬にして視界が漆黒に塗り潰される。少し離れて作業をしていた糸魚川瞳希との会話が途切れた。
「大丈夫ですか?綾鳥さん」
「はい」
「ここのブレーカーの問題じゃないみたいですね。ちょっと待っていてください。事務所に行ってきます」
 互いに落ち着いていた。子供ではない。暗闇に怯えるような体験をしたこともない。朋夜は視界も利かないために手を止めて糸魚川瞳希の戻ってくるのを待っていた。
 背後でカラカラ…と乾いた、そう大きくはない、しかし暗闇と静寂によって強調された、何か回転するような物音がした。窓が開く。光が差し込んだと思った途端にすぐに閉められた。本能が暗所という点に於いて無意識に把握した緊迫感に、朋夜はこれまた無意識にマスクを下げる。
「誰……?」
 視界の利かない状態で研ぎ澄まされた本能は、それを危機だと認識した。また理性も、妙な入り方を訝しむ。それでいて心理は状況を考慮してしまう。
「糸魚川さん……?」
 返事はなかった。本来ならば小さな物音だったに違いない衣擦れが際立つ。暗闇の中でさらに濃く深い影がある気がした。ラックの奥からこちらを覗き込んでいるような。そして確かに、接近している!
「誰……ですか?」
 誰何すいかの声は震え、ほとんど掠れていた。心臓の鼓動もまたこの静寂にひとつ音を加えていたかも知れなかった。
 気配が迫ってきている。黴臭さも静寂も遠くのものになる。視界は利かない。肌は気温にかかわらず冷えを訴えている。聴覚だけが異様に鋭くなった。
 それは二の腕に触れた。朋夜は後退る。頑丈な銀のラックは体当たりをされたならばある程度横揺れしなければならなかった。
「ぁ……っ」
 声が出ない。息が詰まる。喉もつかえた。二の腕に触れた妙にごわついたものが肩に上っていく。相手は手袋を嵌めていた。胸の痛くなるほど心臓が収縮する。獣じみた息遣いが瞳孔を開き切っても利かない視界の中で、真前にあることを伝えている。
 ところが相手も迂闊であった。停電と侵入が計画的であったなら。視覚は確かに頼りにならない。聴覚も緊張のあまりいくらか鋭過ぎている。だが嗅覚はどうだっただろう。この状況に合わない、柔らかな花の香りがする。そこには香水や洗剤では纏えない匂いも紛れている。分析までは頭が回らなかった。危険信号があらゆる活動を制限する。肩を掴む手が、後ろを向くよう促したときも、朋夜は抵抗より服従を選んだ。否、選択の余地はなかった。彼女の意思は働かず、すべての行動は本能と無意識に委ねられてしまった。
 不審者に後姿を晒す。背中を押され、朋夜はラックに上半身を合わせた。尻を突き出す体勢になるが、羞恥を覚える余裕はない。
 体温が近付く。身体は寒い。しかし耳を包んだ湿しとりのある温かさに下半身の力が抜ける。
「っ……!」
 崩れかけた身体を真後ろの不審人物に支えられる。フローラルな柔軟剤の香りが強くなる。しかし今のこの状況で、生活の一部に溶け込んだ匂いは朋夜に何の手蔓も与えなかった。
 殺されるかも知れない。朋夜は身体を弄られながら息を潜めた。甥のことが頭を占める。彼は哀れな孤児だ。身寄りがなくなってしまう。
 乳房を揉み、股を開く腕は首を絞めるどころか脅すような素振りで触れさえもしなかったが、いつ気が変わるかも分からなかった。指だけでなく熱く固いものが体内に捩じ込まれるのも彼女はむ無しと受け入れた。四肢は錆び付いた機械仕掛けみたいだった。氷点下の中に晒されている。口の中は砂漠と化した。好き勝手する男性と確信して差し支えない侵入者の腕なしではもう立てずにいた。抽送のたびに結合部から生々しい水音がする。出入りが激しくなる。生命の危機に瀕した牝の肉体は、朋夜の尊厳を踏み躙る。彼女の魂などは彼女の肉体にとって些末なことである。意思を封じ、種を遺そうと牡を急かす。
 悲鳴、悲嘆、落胆、或いは喜悦、どれでもなかったかも知れないが、それらは機能しない喉で留まった。腹の特に怒涛を感じる。相変わらず物を把握するだけの明るさのない世界で目の前は真っ白だった。侵入者が抜け出ていく。逆流の感触さえ朋夜を責め苛む。腿を伝う。支えを無くし、彼女は資料室の剥き出しのアスファルトに身投げの如く崩れ落ちた。寝転がったまま歯ががちがちと鳴った。悴む。しかしまだ生きている。脳裏には甥が張り付いたままだ。生きている。殺されていない。甥を独りにできない。ざらついた床の質感を爪で掻く。気配が遠退く。窓の開閉が聞こえた。そこでやっと涙が溢れる。嗚咽が漏れそうになるのを堪えた。まだ恐ろしい捕食者が近くにいるかも知れない。

『いいんじゃない?死んだら終わるってのもある種救いなんだろうけど、生きてればどうにかなるって期待しちゃってるうちは、絶望っていうよりそれもう希望ってやつなんでしょうし。いずれにせよ酷だけど』

 夫の照れ笑いが聞こえる。昔の恋人に捨てられた話をしたときのことだ。冗談めかして、希死念慮を仄めかしたのを覚えている。
 横臥したまま乱雑に脱がされた衣類を掻き集めて身に纏う。皺まみれになっているに違いないシャツを引っ張って伸ばす。
 やがて資料室の扉が開いた。物音に怯えきって朋夜は起きた。ラックに背を凭せかける。マスクを戻し、口元を覆った。軽快な音と共に明かりが点く。ようやく彼女は様々なことを思い出した。
「お待たせしました、綾鳥さん…………綾鳥さん?」
 糸魚川瞳希だった。彼に見られる前に立ち上がろうとした。しかし腰が抜けて立ち上がれなくなっている。足音が近付いてきている。その正体を分かっているというのに朋夜は萎縮する。
 ラックの陰から糸魚川瞳希の姿が現れた。見知った顔に半ば安堵するけれど、すぐに緊張を解くことはできなかった。
「大丈夫ですか、綾鳥さん」
 傍に駆け寄ってくる男に朋夜は心臓の破裂しそうな思いをする。ひざまずいた男から躯体を逸らそうとする。
「だ、大丈夫……」
 愛想笑いを浮かべようとして、しかし頬の硬さに、彼女の貌は引きつけを起こしたみたいだった。
「何があったんですか?大きなネズミが出た……とか?」
 彼は室内を見回した。確かにネズミや不快害虫が出そうな雰囲気である。
「違います。大丈夫です。ごめんなさい。びっくりちゃって」
 先に立ち上がった瞳希に手を差し伸べられる。朋夜はそれに深い意味があるような眼差しを向けてしまった。警戒心も緊張感も、まだ自身で御せるほど落ち着けていない。男の肌が怖い。触れたら焼き尽くされそうである。
「重いですから」
 媚びおもねるような表情は、防衛とばからに自然と出た。瞳希の手を借りずに立ち上がる。直後に、年下の優しい上司に八つ当たりめいた恐怖を覚える己に罪悪感が湧く。ところがなんとか立ち上がれても、膝は上手く力が入らない。歩き出そうとしたときに、彼女は前にのめった。すばやく気付いた瞳希に支えられる。ふわりと漂った匂いを先程暗黒の中での惨劇で嗅いだばかりだった。
「貧血ですか?」
「あ……い、いいえ……」
 身体中を鎖で幾重にも巻き付けられているような窮窟さに襲われる。苦しい。しかし取り戻しつつある平静が、男の腕を撥ねつけることもしない。
「びっくりしましたもんね、停電。ぼくもちょっと冷やっ冷やでした。お化け屋敷とか、苦手なタイプで。寝る時もオレンジのライト点けてるんですよ」
 朋夜は黙った。瞳希は黒の不織布マスクの上の目を眇めて呑気である。
「早退しますか?」
「大丈夫です……」
「怪我しても困りますから、ぼくは早退をおすすめします。ちゃんと食べてよく休んで、また明後日ですか?また明後日、しっかり働きましょう?」
 小首を傾げる様があざとい。朋夜は躊躇いがちに頷いた。甥が迎えに来るはずだ。それを考えると吐気のほかに頭痛もする。
「……すみません」
「謝らないでください。女性は結構、そういうことあるって聞きましたから」
 朗らかな笑みを返される。柔和な笑み、優しい声音。甥とそう変わらないこの青年を恐れる自分に彼女は嫌悪を催してしまった。
「ぼくの家で、少し休んでいきますか」
「だ、大丈夫ですよ」
「顔色悪いですから。ここに休めるようなところなんて……まぁ、ありますけど、気が休まらないんじゃないですか」
「大丈夫です、本当に……」
 善意によって肩に回された手が、シャツを隔てているというのに火傷するほど熱く感じられた。嫌な汗が背中でさらに冷えていっている。光を取り戻しても目の前はどこか緑を帯び、古ぼけた白熱灯に問題はないくせ明滅しているような錯覚に陥っている。瞳希に支えられながらも朋夜の足取りは蹣跚まんさんとしていた。資料室から出るまではどうにか自力で歩いていたが、廊下に出た途端、少しずつ、隣の青年に凭れ、やがて彼の歩みについていけなくなった。膝が床に吸い寄せられていく。
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