18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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蜜花イけ贄 不定期更新/和風/蛇姦/ケモ耳男/男喘ぎ/その他未定につき地雷注意

蜜花イけ贄 11

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 桔梗の背にアサガオの腕が回る。
「桔梗ちゃん、赤ちゃんになっちゃったの?おでがお父ちゃん?」
 すべては悪夢だ。ここが居場所だ。少しの間、彼の腕の中にいた。
「これ返さないと。洗ったほうがいいかな?でもヘタに洗ってダメにしちゃったらヤだな」
「そのまま返して平気じゃない?あっちの人が洗ってくれると思うから」
 アサガオから葵の匂いがする。妙な気分になる。
「桔梗ちゃんは、へーき?」
「うん」
 彼女が頷くとアサガオは軽快に笑った。
「送るね、桔梗ちゃん。おでもこれ返しに行かなきゃだし。今日は畑も釣りもできないや。だから桔梗ちゃんといる」
 桔梗を抱擁しながら彼は横たわった。
「そうね。わたしも、アサガオさんと居る」
 柔らかな質感の布越しに鼓動を聞く。叔父と暮らしていた時に抱き締めた大猫を思い出させた。
「アサガオさん」
「なぁに」
 失神に似た眠りでは満たされなかった安らぎに目蓋が重くなる。柔らかく冷たさを帯びた布とその下の温もりが調和している。
「わたしの叔父さん、捕まってるんだ」
「どこに?」
「少し遠い街の外れ」
 目蓋が落ちる。他人の鼓動と肉感も体温が一際彼女に伝わった。
「そなんだ。何かしたん?」
「悪いことは、別にしてないの」
 盗み、暴行、火付け、殺人。村人の中での分かりやすい悪事は働いていない。しかし捕まった。
「悪いことしてないのに、捕まっちゃったん?」
「断れないことから逃げたんだ。わたしを庇ってね」
「叔父さんて、あの大きなお兄さんだっけ?」
 頬擦りをするみたいに首を振る。
「違う。それなりに背丈はあるけれど、あの人よりも小さいわ。見た目も痩せぎすで……」
 アサガオは首をもたげて自分の胸板で眠そうにしている桔梗を見た。彼女も上目がちにその大きな三白眼を覗き込む。
「アサガオさんにわたしのこと…………知ってほしくなったの」
「いっぱい、知る。桔梗ちゃんのコト、いっぱい知りたい」
 桔梗はアサガオの五指を握った。少しずつ滑り親指が抜けた。
「桔梗ちゃんはお風呂みたい。柔らかくて、あったかい。眠くなってきちゃった」
「寝ちゃおうか」
「これ返しに行かないと」
「じゃあ一緒に帰って、わたしの家に泊まって、明日帰る?」
 眠そうな瞳が互いに溶けそうだった。
「うん……」
 桔梗は隣に降りて、手を握ったまま眠った。


 目が覚めると橙色が射し込んでいる。隣で健やかな寝息をたてるアサガオを一瞥する。異様な安堵が湧き上がる。だが束の間のことだった。開け放しの戸から人影が半身を覗かせている。桔梗がアサガオに腕を伸ばした途端に戸の裏へと消えた。彼女はアサガオには触れず、そのまま外へ出た。彼には疑惑がかかっていると昨晩言われたばかりである。葵の手先かも知れない。
 外に出ると相手はまだそこにいた。黒い着流しに暗赤色の帯、金塗の算盤玉の首飾りを垂らしている。世間一般でいえは背の高い中肉の男だが、椿の山茶さんざを見知ると小柄で華奢だと錯覚する。
「アサガオに何かご用ですか」
 艶やかな黒い髪の下で冷ややかな眼差しの値踏みに遭う。長めの毛先に少し癖がある。
貴婦君きふくんは彼の妻かな」
 不機嫌そうな表情に反し、喋り方に険しさは感じられない。
「違います」
 侮りの滲む目が眇められた。
「ほうか、ほうか。では……女 同胞はらから?」
「いいえ。ただの友人です。そちらは……?どういった用件です」
 彼は小莫迦にするように首を捻った。
「隣の街から来た。人喰い野犬が出たそうでね。ここの村人の依頼で警邏けいらしていた」
 嫌味なほど煌びやかな柄入りの派手すぎる長襦袢が目を惹く。堅い職務にあるとは思えない。しかし椿の山茶もまた堅い地位にいながらふざけた風采をしているのだから、たとえ彼が奉行府庁ぶぎょうふちょうの官でも違和感はあれど納得できなくはなかった。
「それで一軒一軒、廻っているというわけですか」
 アサガオに疑惑がかかっていると聞かされた彼女の声音には刺々しさがあった。
「そういうことだ。無事そうで結構。何か気になることがあれば聞かせて欲しいが、何かあるかい」
「いいえ、何も」
「ほうか。人喰い野犬については何か聞いていたか?そういうのが最近出没している……だとか、その程度でも」
 彼はまた反対に首を傾げた。
「今初めて聞きました。あちらの村から来たもので。けれど、人喰い野犬も何も、野犬は肉を食うものでしょう。飢えて困れば人も襲うはずです。山が不作だったのですか」
 相手の男は小さく唸った。
「野犬の姿を見た者はいない。ただ噛み跡からそう判断されただけだ。食われた者に反抗の形跡もなかった……とすると、これを貴婦君はどう考える?」
「飼犬に襲われた……ですか?迷い犬を探していらっしゃる?」
 彼は嘲笑を隠さない。
「人に化ているとは考えられないか」
「……なるほど。ちなみにそれがどのような人物なのか、見当はついているんですか」
 見透かすような眼差しが降る。
「それが分からない。だから一見一軒廻っているわけだ」
「お疲れ様でございます」
 桔梗は頭を下げて踵を返す。
「何か気が付いたことがあれば、どんな些細なことでもいい。教えてくれると助かる」
「申し上げられることは特にありません」
 彼女はまた一揖してアサガオの元に戻った。彼を揺り起こす。すると、白いヘビがどこからともなく現れ、2人の傍を這って玄関に向かっていく。桔梗が長細く白い生き物に気付いて頃には鱗を纏った縄みたいなのの後姿しか捉えられなかった。しかし彼女の意識を引くにはそれで十分だっただろう。開け放しの玄関の戸、すでに土間には獣がいた。灰色の成猫を何倍にもしたような大きさで、り出た胸はもっさりと丸みを帯びて特に毛並みが目立つ。猫と違うのはその口吻の長さと耳の鋭さ、そして目の大きさである。犬だ。それは犬に似ていた。尾は大根がそのまま獣になったような形をしている。これは耳と並んで、桔梗にとってかなり見覚えがあった。常に全裸でいる夫の尻にも似たものが生えている。
 まだ寝ているアサガオを野犬みたいなのの視界から隠す。凶々しい雰囲気の獣は固そうな毛に覆われた太い尾を振る。大きな野犬か、オオカミだ。野犬にしては毛並みも肉付きも良い。とすると飼犬だったのではあるまいか。それだけではない。包帯が巻かれている。人の手が加わらなければそうは巻けまい。きつく巻かれたそれが毛の深さを強調する。
 アサガオだけは守らねばならない。桔梗はオオカミとも大型犬ともいえないものを睨む。ヒグマの恐ろしさは噂で聞いていた。遭遇したときの対処まであった。しかしオオカミのものは聞いたことがない。狩猟によって絶滅したとすら聞いている。とするとやはり野良犬であろうか。桔梗は叔父と暮らしていた街でちんほどの大きさの犬しか見たことがなかった。
 オオカミが音もなく駆ける。ここで食い殺されるのだ。一気に全身が冷え、そして汗ばんだ。獣が跳ぶ。桔梗の目の前に人の気配が割り込んだ。どちらが掴んだものかは判じられない。桔梗が襲われる軌道から外れ、黒装束と狗が取っ組み合い、床を転がった。彼女はすぐに何が起きているのか把握できない。ただ人獣の取っ組み合いから苦無クナイが投げられ、二、三 回転すると止まった。桔梗はそれを掴み、オオカミに振りかぶる。獣が気を取られた瞬間に、黒装束が腹を蹴る。オオカミとも大型犬ともいえないものは哀れな狆の如き声を上げて横たわる。
 黒装束は懐から小瓶を出した。獣に中身を投げる。水とはわずかに違う形状をしていた。何より黄ばみが見えた。上質な毛並みに水滴は散らない。粘こくべったりと液体が被さっている。黒装束はさらに摺付木を擦った。鼻腔を突く匂いが一瞬起こる。オオカミは小火にも至らない炎を認めると慌てた様子で逃げ出した。追うことも忘れた。桔梗は膝を震わせて崩れ落ちる。
「ありがとうございます……」
 よく見ると黒ではなく濃紺青を纏った人物が振り返って膝をついた。尻をついた桔梗よりも姿勢を低くしようとしているが、それが窮屈そうだった。彼女は座り直した。片方の瞳の色が赤い。その眼の嵌ったほうは睫毛も眉も白かった。鬼と人との間にできた児はそうなると聞いたことがある。桔梗はその目を見ていた。相手が目を伏せ、口覆を下ろした。
「お怪我は」
「ありません。ありがとうございました…………本当に。あなたは、」
 訊ねようとして、ふと昨晩起こった情報が膨張して甦った。
「葵様の隠密ですか」
 彼は肯定も否定もしない。顔を伏せている。肩が戦慄いている。暗い布地が部分的に色を変えている。ただでさえ濃色味がさらに色を深くし、質感をも変えていた。
「怪我しているのはあなたではありませんか」
 桔梗は跳び上がった。
「お酒を買ってきます。じっとしていてください」
 手巾を取り出して肩に当てた。まだ慇懃な姿勢を保つ隠密の手を彼自身の肩に持っていく。
「構わないでくださいまし」
「構います。待っていなさい。どこかに行ったら言いつけますよ」
 外に出て行った途端に行く手を阻まれた。酸っぱい桜桃おうとうを思わせる色味の角帯かくおびが目に入る。
「どうした?何かあったのかい」
「犬が出ました。飼犬かも知れません。包帯がしてありました。それより、怪我人がいて」
「それはそれは……やつがれが診てしんぜよう」
 彼女は首を振った。隠密のあまりにも特徴的な身形と風貌を他の者に晒すのは憚られる。
「いいえ、わたし一人で結構です。それよりも、大きな犬が野放しでいるほうが問題です。わたしはお酒を買いに行きますので」
 桔梗は後退って戸を閉める。
「これを使うといい。まだ口を付けていないから。そこに置いておいてくれたらまた取りにくる」
 彼は角帯の下に捩じ込んだ縄を解き、腰に下げていた酒瓶をくれた。仕事中に酒を飲むのであろうか。思わず眉を顰めてしまった。
「では……」
 彼女は懐に手を伸ばした。その手を止められる。
「助かる人間がいるのなら、それが何よりのお代金さ」
 警裁奉行府庁勤めは職務中に小金であっても受け取れないと聞いたことがある。
「ありがとうございました」
「お大事に」
 彼女は頭を下げて家に戻る。隠密は手巾を真っ赤に染めて待っていた。
「滲みるかも知れません」
 暗い色の装束を脱がし、現れた傷口に酒瓶を傾ける。呻き声が漏れた。その小さな音でアサガオの目が覚めた。
「ほぇ……桔梗ちゃん……?」
 目を擦り、彼は辺りを見回して友人と妙な身形の怪我人に気付く。
「ほへ、どゆこと………」
 寝呆け眼はまた眠りに戻りそうだ。
「アサガオさん。この村に大きな狗が迷い込んで来ているみたいなの。少し大変になるかも知れないけれど、暫くの間、わたしの住んでいるところに来ない?」
 アサガオよりも先に赤い瞳が反応した。彼女の手は裁縫箱を借りて自分の着物や襦袢を引き裂く。
「う、うん。でも、桔梗ちゃんは平気なん?」
 彼は大怪我を見るか衣服を裁ち切る桔梗を見るかで忙しなく目を泳がせた。
「わたしは平気。危ないし……ただアサガオさんの畑から少し遠くなっちゃうから」
「へーき、へーき!」
 桔梗は止めようとする手を払い除け、傷に折り畳んだ布を当てると別の布切れできつく縛る。
「そう。じゃあ、そろそろ行こう。暗くなるし」
「うん」
 アサガオはまだよく分かっていなそうだったが身体を起こして負傷者の傍にやってくる。
「そのお兄さんは?」
「お馬のお兄さんの知り合いだって」
「そうなんだ」
 彼は赤い瞳を不躾に眺めた。葵の隠密は隠密には向かなそうな程度にアサガオよりも背丈があるが、その奇異の眼差しに怯えを見せる。
「おでも莢蒾ガマズミ好き!山査子さんざしかな?」
 酔いが覚めていないのか、アサガオは訳の分からないことを言った。
「おでアサガオ。お馬のお兄さん、えっと……」
「葵さん」
 無邪気な目に応え補足する。
「そ、葵お兄さんの、ちょっとだけ知り合い。これも昨日貸してもらったん」
 おそらくこの隠密は説明せずとも事情を知っているであろう。だがアサガオは何も知らない。
鳶尾いちはつと……申します」
 まだこの隠密は自分よりも貧相げな男を怖がっている。
「怪我が痛むみたい」
「帰れるん?」
「血の匂いがするのは危険でございます。わたくしのことは置いていってくださいまし……」
「いいえ。一緒に帰ります」
 強い口調で言うと隠密は頷いて頭巾を外した。髪が落ちる。左右で白髪と黒髪が二分されている。やはり目を引いた。アサガオはやはり遠慮もなく彼の頭髪を眺める。
「鳶尾くん、いっぱい雪降るところから来たん?」
 彼は返事をしなかった。処置された肩に手を当てて立ち上がる。
「ちょっと待ってて!おで荷物まとめるから」
 アサガオは背負子に農具の入っているらしき箱を括り付ける。桔梗はその間に戸締まりをしていた。戸が乱暴に叩かれる。桔梗は先程の出来事からびくりと震えた。
「お開けしてもよろしいですか」
 鳶尾いちはつと名乗った隠密が訊ねた。家主が頷いて戸を開ける。
「遅かねぇかい」
 椿の山茶さんざが面倒臭そうに立っている。そして尾けていた対象に姿を晒しているしのびを見た途端に大きな溜息を吐いた。
「こら腹切りもんだぃな」
 長い髪を掻く仕草の大仰ぶりに桔梗は事の重大さを見てしまう。
「帰るで、お嬢さん。おれぁ誰より美味げなんでね。うっつらうっつらしてたら食われちまぁよ」
「オオカミが出ました」
「ほぉ、オオカミが。絶滅したって聞いたが、そら嘘ってことかぃや」
 ふざけた口調で威圧するような目は葵の隠密を捉えている。
「では、狗かも知れません。彼がわたしを庇って負傷しました。傷口を見ていただければ分かります」
 完全に忍を向いた椿の山茶には侮りが透けて見えた。
忌児いみごも役に立ったってこった」
「そういうことは、面と向かって言うものではないでしょう」
「裏で言や、おれが悪者になっちまう」
 彼はあっけらかんとしている。
「ま、そちらさんの処分は葵ノ君が復帰したら決まるだろうよ。腹切りが怖ぇなら抜け忍にでもなるこったな。じゃあほれ、帰るで」
「復帰?あの方、何かあったのですか」
「恋い慕う女を目の前で奪われて傷心中ってわけでさぁ」
 椿の山茶がびかりと隠密を睨む。痛みと出血によって睨まれた彼は青褪めた顔に弱々しい表情を浮かべていた。
「そうでしたか」
 冷たく乾いた態度に椿の山茶は気を好くした。準備を整えたアサガオがやってくる。
「この村は危ないので、彼はわたしの住んでいる屋敷に案内します」
「この村は危ない、なるほど。この村に住む彼が危ない、なるほど。で、この村の他の連中のことはいいのけ」
「わたしの知り合いは彼だけで、それはわたしの考えるところではありません」
 その返答に椿の山茶は満足したらしい。
「素晴らしい。ヘタな正義感出されちゃ困るんでね」
 彼は互いの袖に両手を突っ込んでひとり踵を返した。のしのしと先に行ってしまう。桔梗は後から来る負傷者を気にした。

 村に着く少し前で鳶尾は膝をついた。先頭を歩いていた椿の山茶は厄介そうに振り返る。
人狼ひとおおかみに噛まれたもんは人狼と化すたぁ、まぁよくある話よな。だから迫害を知る人狼も一思いにエサを仕留めて生きちゃ帰さねぇなんて謂れてるわけだが」
 大男は呑気に語って片手で頭を抱える。
「そなんだ」
 アサガオは素直に話を聞いているが、桔梗が読み取ったのはただの蘊蓄ではなかった。つまりはこの隠密が生きていることへの非難である。
「人狼とは伝染うつり病なのですか」
 桔梗の中に一瞬の不安が過った。咬み傷にも血にも触れている。
「いんや。生まれだわな」
「それなら噛まれたからといって何なのです」
「人の思い込みたぁ恐ろしい。迫り来る恐ろしさってのは動き物じゃぁなかったりしてな―って言ってやったほうが安心かぃ。伝染り病だったらどうする。実際あーしゃ、これくらい距離取ってる」
 その表情は暗さによってよく見えなかったが、嫌味に嗤っているのは分かった。
「ほよよよよ」
 アサガオは間の抜けた声を上げて痛みを訴えた。桔梗は椿の山茶から目を離す。アサガオは自刎を図った隠密の刃物を素手で握り込んだらしい。
「アサガオさん!」
 ぬるついた彼の手を取る。
「痛いケド、へーき……鳶尾くんは、へーき?」
 桔梗は手を震わせる鳶尾を見遣って、それから椿の山茶を睥睨へいげいする。
「ここで話すことではありませんでした」
 彼は首を捻る。
「そうけ。過ぎた節介で悪かったんな」
 隠密の震え続ける手に触れる。冷たかった。肌の質感からいってもまだ若いのかも知れない。
「大丈夫です。わたしを庇ってくれたんですから、そう簡単に斬り捨てたりはしません」
「あーしの務めはお嬢さんを無事に帰すこと。そのためなら他のもんは斬り捨てもするで。出来ることなら斬りてぇところだが、生憎、佩刀はいとう申請してねぇんでね」
 それでいて彼はこの時期にオオカミに噛まれた、つまり人狼に噛まれた可能性のある人物から桔梗を引き離そうともしなかった。ただ先を行ってしまう。すでに村の明かりが見えつつあった。
「置いていってくださいまし……」
 鳶尾が村に入る直前でまたもや膝をついた。肩を押さえながら凍えている。
「も、歩けないん?」
 アサガオが訊ねた。椿の山茶はその声で振り返るが歩みを止めることもしなかった。
「い、いいえ………皆様を危険に晒せません…………」
 桔梗は離れていけどもまだまだ大きな背中を見つめていた。
「椿の山茶様は、試したいだけです。だってそんな危険なことなら、わたしを無事に帰す役目だって言っているのに離れるわけありませんから」
 アサガオはぽかんと口を開けているが、鳶尾には意味が通じたらしかった。肩に当てた真っ白な手が戦慄いている。
「早く治療をしたほうがいいです。行きましょう。歩けませんか」
 彼は身を縮めて振動し黙っている。
「申し訳…………ございません」
 その声音は泣いていた。桔梗が気付くのと同時に、隠密はその鍛えられた脚力で村とは反対の方向へ逃げ出した。鳶尾くん!と叫んで追おうとするアサガオの腕を掴んだ。
「あ、あ、桔梗ちゃん!追っかけないと!怪我してるし……」
 追いつける速さではなかった。竣敏ぶりを求められ職種なだけにすでに夜に消えていた。桔梗は嘆息し、アサガオに向き直る。
「お互い迷ったって仕方ないから……それにアサガオさんも、早く手当てしよう?この手じゃ、畑仕事できないよ」
 掴んだ腕が傷のあるほうか否かも分からなかった。
「でも……」
「アサガオさんがあの人追っちゃって、アサガオさんが帰って来なかったら、わたし多分後悔する」
 彼の腕をさらに強く掴んだ。
「うん、分かった……」
 まだ納得できていない様子だったが渋々と頷いた。
 先に行った椿の山茶は桔梗の住まいにいた。玄関の框で寛いでいる。ダリアが客人と主人の間で狼狽えている。
「あの怪我人は」
「どこかに行きました」
「鬼と人の子だ。人の情なんぞは通じねぇさ。案外、人狼ひとおおかみと化物同士、仲良く暮らしていけるかも分からねぇね」
 彼は煙管きせるを咥えている。
「彼が逃げ出したのはそういう扱い方をなさるからではありませんか。他の人間を危険に晒したくないと思ったから逃げたんだと思います。それを人情と言わずなんと言うつもりですか」
 桔梗はぼそぼそと喋った。相手は叔父の同僚であり、一個人的には目上の人間だ。
「ほぉ」
「大体わたし、鬼なんて見たことありません」
「そら、おさんは危険も苦労もねぇ境遇ところに生まれたからでさぁね。そちらのあんちゃんは、指がかじかんだり霜焼けたりしたこともあるでしょうが。手なんて怪我しちまって、明日の食い扶持も分からねぇ土百姓が1日2日と休めっかぃ。傷から細菌つちが入って腐り落ちちまっても、悲嘆こえを上げる場所もねぇやな」
 彼は深呼吸するように煙を吐いた。
「見たことねぇもんは信じねぇ、よろしいな。ただもう少し、手前の立場も考えてみるこった」
「そうですね。わたしはわたしの立場に甘えていました。けれど、鳶尾いちはつ殿に対する山茶様のお考えにはついていけません」
 椿の山茶は軽佻な表情に陰険な笑み加えた。煙管を構え、腰を上げる。
「傷を焼いて固めるこったな。それがおっかなきゃお役所に申し出やっせ。保障が出るで。他の奴等にゃ内緒な。官人あーしの取り分が減るんでね」
 アサガオとすれ違うときに大男は背を丸めた。
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