18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年

熱帯魚の鱗を剥がす 15

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 アルバイト先で朋夜ともよは驚きに目を見開いた。不織布の黒マスクの上で下瞼をふっくら膨らませて笑っている青年がいる。彼女を見た途端に小首を傾げて優雅に手を振った。すでに職場の者たちへの挨拶が済んでから、彼は傍へやってきた。
「いやだな、忘れてしまわれましたか」
 糸魚川いといがわ瞳希とうきはまったく自身の言ったことなど心にも思っていなそうな朗らかさである。
「い、いいえ………あ………」
 それから朋夜は、以前この施設でアルバイトの勧誘を受けたことを思い出した。そしてその相手がこの青年であることも。だがアルバイトの求人サイトを閲覧していたとき、確かに場所はここではあったけれど、彼の言っているものとは考えも及ばなかった。否、彼の勧誘さえ忘れていたかも知れない。
「では偶然ということで」
 柔和な笑みはいたずらっぽく、彼女を見透かしているようだった。
「でも嬉しいな。これからよろしくお願いしますね、綾鳥あやとりさん」
 黒い不織布のマスクに化学繊維らしき光沢と質感のある黒の半袖シャツ、ダークグレーに黒いスポーツブランドロゴのプリントされたスウェットパンツ。スニーカーも黒を基調としている。東南アジアを思わせる甘たるい香の匂いはなかった。ただ代わりに洗濯用洗剤なのか柔軟剤なのか分からない好い匂いがした。
 瞳希には恋人がいた。彼と同い年の女で、髪型も服装も化粧も垢抜けてはいるが派手過ぎず、華やかだが下品過ぎない。にこにことした丸顔が可憐である。瞳希の腕に腕を絡めているのが仲睦まじい。人当たりもよいようで朋夜を案内したのは彼女だった。朋夜はしかし、この若い娘の姿を見た時から妙な暗雲を胸に飼いはじめた。理性ではこの者にそのような印象を抱く理由はない。分析が難しかった。陰険な態度を取られたわけではない。清潔感がないわけでもない。それを朋夜は、この娘が清爽端麗な恋人と腕を組んだときにようやく言語化することができた。過去のこととして封じ込めた事柄を突つかれるのだ。また開け放ってしまう鍵になり得た。頭の中のボールペンでぐりぐりと塗り潰した顔といわず雰囲気は、もしかしたら彼女のようなものであったかも知れない。とはいえ、同一人物ではないのである。朋夜は甥にするみたいに、否、甥との生活でむしろ鍛えられてすらいる心にもない虚無の笑みを貼り付けていた。
―「マユっていうんです。可愛いでしょう?ぼくのカノジョなんです」
 恋人を紹介する瞳希の笑みを真似るみたいに朋夜は朗らかに莞爾かんじとしていた。瞳希の恋人・マユのほうでも明朗快活な自己紹介があった。その様は小動物を思わせる。朋夜もまた苦手意識を抱えながら、彼女に可憐さを見出していた。異様なショックがあった。そのことにまた朋夜自身、驚いている。
「意外でしたか?」
 自己紹介が終わり、一旦集合していたのが解散になった。また各々作業に戻っていく。朋夜の指導は瞳希に預けられた際に彼が横から顔を覗き込んで訊ねる。幾分、自慢じみた調子が滲み出ていないでもなかった。たとえばもしこの青年の恋人というのが、朋夜の固く閉ざし、ガムテープでぐるぐる巻きにし、鎖を張り巡らせて、記憶の湾に沈めた小箱の鍵になり得る人物像でなかったなら、微笑ましく思えたのだろう。
「糸魚川さんは素敵な人ですから、意外どころか納得ですよ」
 愛想笑いを浮かべて答える。嘘ではないつもりだ。だが朋夜は自分で言って自分で聞き、白々しさを払拭できなかった。
「甥っ子も、早く恋人見つけてくれるといいんですけれど」
 誤魔化すように付け加えたが、口にしてから余計なことを喋ったと悔いる。甥の話などしても仕方がない。
「人それぞれでいいんじゃないですか。恋人パートナーがいることが幸せとは限りませんから」
 朋夜のばつの悪そうな表情に瞳希は敏く気付いたらしかった。謙遜するような口振りである。
「そうですね……」
 弟も甥も、血の繋がりもなければ家族でもない、まったくのあかの他人に迫ればいいのだ。それも迷惑をかけない範囲で。何故、姉を、叔母を狙うのであろうか。後腐れもなく、一時の肉欲を捨て去れるからに違いない。彼等にとって姉、叔母は、尊重するべきものではなかった。捌け口であり、肉体の業のためのダストボックスであった。
 朋夜は目を伏せた。
「緊張していますか」
 瞳希は涙堂るいどうを膨らませている。声音が柔らかくなった。
「え……?」
「新しい職場ですから。顔見知りのぼくも居ることですし、あまり堅くならないでくださいね」
 彼は爽やかに言って、暗い倉庫へと案内した。
「マスクどうぞ。埃っぽいですから。ぼくなんかアレルギーで、すぐ鼻痒くなっちゃうんですよ」
 彼は倉庫に入ってすぐのラックから新しいマスクを取り出した。白い不織布のよくあるマスクだ。朋夜は渡されるままに着けた。くすくすと笑われる。
「大きかったですね。小さいの無いんですけど。かわいいな」
 伸びてきた指がマスクの端に触れ、紐をなぞる。毛先を撥ねて撫でていくようだった。眇められて柔和になっただけではない目元に妖異なものが陽炎う。本能的で直感的な防御反応によって朋夜は身を竦めた。何を言われ、何をされたわけではなくともただひたすら、肉体に充てがわれた性によってプログラムされた不信感を催した。同時に理性が後ろめたさをも生む。
 朋夜は後退った。それから咄嗟に外敵認定された相手をかえって怒らせてはいまいかとまたもや冷静な思考を経由せずにおもねるような態度に直る。
「あっはは。すみません」
 肉体は成熟しているが、甥とほぼ歳の変わらない青年だ。朋夜は自身の挙動を大いに反省するはめになった。
「い、いいえ……こちらこそ……」
 接触のあった髪を無造作に整えながら彼女は返す。
「今日は、ここの倉庫の備品整理をしようと思います。軍手があるのでそれをお貸ししますね」
 先ほどのいやらしい、妙にみだらな、ふしだらでみだりがましい眼光は消え失せ、また清く爽やかな雰囲気が戻る。
「はい」
「重いものはぼくがやりますから、無理をなさらないでください。気軽に声をかけてくださると助かります」
 ふわ、ふわ、と澄んだ響きが埃っぽく黴臭い空間を彩る。
「ありがとうございます」
 麗かに微笑して彼は仕事内容の説明をはじめた。





 なかなかの肉体労働だった。すでに背中で筋肉痛が起きている。他の職務にあたっていた者たちは先に帰り、残っていたアルバイトは朋夜と瞳希だけだった。職場に早く帰るよう促される。
「すみませんね、仕事、長引いちゃって。外暗いですし、途中まで送りますよ」
 家が近いこともあり、瞳希の荷物は少なかった。黒地に白抜きのウエストポーチである。彼はこれで黒づくめになってしまっている。蛍光板の装備もない彼こそ夜間に出歩くのは危ないくらいだった。
「大丈夫ですよ。糸魚川さん、おうち近いのに悪いです」
 何よりも恋人がいるどころか同じ職場である。いくら大きな甥のいる既婚者が相手といえど、年代としてそう離れていない。否、共に20代である。瞳希は善意としても果たして恋人がどう思うであろうか。朋夜は自らの経験からいって―苦々しい過去の体験からいって、諾とすることができなかった。
「でも……」
「もしかしぼくのカノジョに……マユに遠慮しています?大丈夫ですよ。ぼく等はお互いの意思を尊重していますから。ぼくが決めた覚悟ことはぼくが決めた責任ことって……」
 返事を決めかねていた。スマートフォンの振動を鞄越しに感じ取る。テキストメッセージかと思われたが、バイブレーションは継続する。2回震えるところを3回目がやってきていた。
「ごめんなさい、電話が来たので……今日はありがとうございました」
 彼女は電話にかこつけてそそくさと挨拶を済ませると外に出た。スマートフォンを取り出すと、光る画面には甥の名が表示されていた。
「もしもし、京美みやびくん?どうしたの?」
 心臓がばくばくと激しく収縮する。苦しみがある。
『……今、どこ』
 怒っているらしき低い声だった。
「あ、あの、今、アルバイト先で……」
 甥からの電話である。怒っているかも知れないのはある程度察せられた。しかし、いざその声音を聞くと焦る。
『それは知ってる。で、どこにいるの?』
 わざわざ端末にメッセージを送ることもないと思い、彼女は書置きをしていった。そこに場所は記してある。甥も皆目見当がつかないということはないだろう。とすれば、この電話はただ家を留守にした不義理不誠実無能な叔母を咎めたいに違いない。
「だから―」
「南エントランスですよ。並木通りの」
 通行人のまったく違う言葉がマイクに入った。どういう声量で話しているのだろう。朋夜は振り返って奇人を捉えた。だがそれは奇しい通行人ではなかった。糸魚川瞳希が朗らかに微笑んで朋夜を見下ろしている。彼に気を取られている間に通話は切れていた。
「あ……えっと………」
「お迎えが来るんですね」
「ち、ちが……」
「あ、あちらにいらっしゃいますね。こっちですよ~」
 とんと朋夜の肩にさりげなく手を置き、もう片方の手を掲げて、まるで待ち合わせでもしているみたいに大きく振って独り言ちる。朋夜は俯いてしまったために、瞳希の視線の先に何があるのか分からない。
「朋夜」
 電話で聞いた調子とは打って変わって、その声は優しかった。朋夜はおそるおそる顔を上げる。しかしその姿に焦点を合わせる間もなく、横から伸びてきた手に肩を抱かれた。すでに置かれていた別の体温が離れる。
「気安く朋夜に触るな」
「こんばんは」
 瞳希は険のある態度も気にしない。相変わらず眼輪筋を膨らませて瑞々しい。
「京美くん……どうして……」
 甥の不躾な対応も今は彼女の耳に入らなかった。
「迎えにきた。変なヤツも多いし」
 意味ありげに昏い眸子ぼうしが滑り、傍に佇む黒づくめの青年で留まった。
「だ、大丈夫よ。すぐそこなんだし……」
 だが京美は聞いているのかいないのか、黒装束、喪服コーディネートと陰口を叩かれそうな身形の青年を睨み続けている。抱擁に近い腕を柔らかく拒むのも赦されない。解ききりそうなところでもう一度始めから絡まる。
「不安であればぼくが送ります。大切な……新人さんですからね」
 瞳希はまったく、その新人の甥が何を不安視し、敵対視し、警戒しているのか分かっていない様子である。否、分かっていての言動だったのかも知れない。
「新人?」
 そこでようやく甥は叔母を一瞥した。
「アルバイト先で、一緒なの。わたしの先輩ってこと。だから、変な態度とるのは……」
 みるみる甥の美しい眉間に皺が寄っていく。
「大丈夫な職場なのか」
「同じ職場に恋人カノジョいるし、こんな年上女おばさん、興味もないよ。平気……」
 卑屈になったつもりも、卑下したつもりも、自虐のつもりもなかった。
―やっぱりほら……男は若いほうを選ぶんだよ。本能なんだから、仕方ないだろ?
 朋夜の視線が泳ぐ。またふいに、ここのところ考えもせず、忘れた気になっていた過去が甦る。
「分かるもんか。浮気野郎の二股野郎なんてザラにいて、年齢で女見てるワケじゃない」
 甥は興奮気味だった。纏わりつく腕に力が籠り、熱を発して蒸れる。
「確かに綾鳥あやとりさんは素敵ですからね」
 瞳希のほうでも、この場を簡単にやり過ごすつもりがないらしい。或いは状況が見えていない。
「帰ろう、朋夜。あんたは俺が迎えに行く」
 すっとぼけた相手に京美は呆れたようだ。ひょいと叔母の手を取る。
「じゃあ、京美くんがいらっしゃらないご様子のときはぼくが綾鳥さんを送りますね」
 どこか好戦的な響きがあったのだろう。京美の静かな激怒を朋夜は察知してしまった。掴みかかりそうな甥の身体を押し返す。
「帰ろう、京美くん。お、お疲れ様でした、糸魚川さん」
「お疲れ様でございました。また明日。京美さんも」
 朋夜には麗かで清く爽やかな態度に映る。ところが京美にはそうではないようだ。同年代かまたは同性にしか分からない非言語的な意思疎通があるのだろうか。甥はまたもや踏み出さんばかりである。叔母はやはりそれを制した。
「ではまた!」
 瞳希は人懐こく手を振っている。彼の似ていない双子の兄の面影がそこにある。京美は朋夜がアルバイト先の年下の先輩を気にする間も与えない。叔母の腕を引いて帰路に就く。カルチャーセンター南口の前の並木道は図書館もあれば、ホームセンター本店もあり、何しろ大型駅に繋がっていた。繁華街ほどではないにしろ人通りがある。糸魚川瞳希やこの甥が送り迎えを気にするほど物騒で閑散とした道は自ら遠回りを選ばない限りはない。高架下を抜けて自宅マンションに向かうときさえ、そう危うげな道はなかった。
 それなりのかまびすしさの中で京美は無言だ。妙に白々しく胡散臭い外灯が目に眩しい。腕を引かれながら行き交う人々を避け、歩幅に容赦のない目の前の背中を追った。遅れれば転ぶか、不愉快を見せつけられるか、どのどちらもである。
「ごめんね、京美くん」
 何度も無価値だ、無意味だと切り捨てられてきた詫びを述べる。京美が黙ったまま首を向けた。そこでやっと彼は腕を引くのをやめて、歩道はそう空いているわけでもないというのに叔母を隣に添えた。まだ手は放されない。
「なんであんたが謝るの」
「だ、って……」
「俺が怒ってるみたいに見えた?別に怒ってないけど」
 怒っていないと先に返されては朋夜も次の言葉が見つからなくなった。
「あそこで……働く、から」
 繋がれたままの手に汗が滲む。甥は気付いているのであろうか。気圧けおされる前に彼女は怯えながらも譲れない意思を口にする。
 なんで?金に困ってるの?叔父貴の財産半分もらってるクセに?無駄遣いばっかりしてるからなんじゃないの。
 小夜風とも夕風ともいえないそよ風が生温いくせ冷汗に心地良い。
「うん。だから、迎えにいく」
「迎え、いいよ……わたし、大人だし、京美くんも、大学あって、疲れてるでしょ……?」
「別に疲れないけど。座って授業受けてるんだし。むしろ散歩になっていいんじゃない?もしかして迷惑?」
 迷惑かと問われ、己にも問い質してみる。迷惑というほど迷惑ではないのは彼女の中で本音であった。だが困惑はある。
「京美くんは、いいの、それで」
「うん」
「ごはん、遅くなっちゃうよ」
「これからは叔母さんと食べる。俺が作っておくから、帰ったら一緒に食べよう」
 朋夜は真っ直ぐ前を見ることしかできなかった。すぐ横、隣を向くことができない。誰と共に居るのか分からない。混乱している。
「じゃ、じゃあ、わたしが作って置いておくよ。よ、よかったら食べてね……気に入らなかったら、明日わたしが食べるから……」
「バイト、毎日あるの」
「週3」
「じゃあその日は俺が作る」
 繋いでいただけの手が、今度は腕ごと組まれた。
「み、やびく……」
「混んでるから」
 肩がぶつかる。
「ご、め……」
 しかし京美は気にした様子もない。朋夜はいつの間にか緩められた歩幅をさらに緩めた。ゆっくりと彼の半歩後ろに移ろうとする。
「疲れた?」
「え?」
 白々しい、嘘臭い外灯のきらめきが昏かった双眸に揺らめいている。彼は前を行こうとしない。並列を保とうとしている。
「疲れてないよ」
 じとじとと甥に見たり逸らされたりする。やがて長い睫毛を伏せた。普段あまり使わなかった部分の筋肉痛と、それから彼に暴かれた身体の軋みは確かにある。しかしこの甥に話すことでも、否、誰に話せることでもない。「奏音かのんさんならもっと器用にやれた」と語った彼に、仕事を辞め専業主婦になり、アルバイトを始めた途端疲労を訴える無能な叔母はどう見えるのか。朋夜は口を噤む。
「朋夜」
 甥の歩みが遅くなる。体当たりみたいに肩をぶつける。邪魔なのかと朋夜はわずかに横にずれた。
「叔母さんは叔母さんだけど、周りからおばさんと思われるの嫌だから、ごめん。外ではこう呼ばせて」
 視界の横で艶やかな髪が下に沈むのが分かった。彼は俯いている。語気も細くなっていた。
「う、うん」
 中年女性と思われても朋夜は特に気にしなかった。ただただ甥に名前で呼ばれるたびに驚くのである。彼から侮られ、蔑まれるだけのことをしてきてしまった。それを再度確認させられる。やめてくれと言う資格もない。そこまで考えて、単純にこの気難しく若い甥が、中年女性と連れ立っていることが恥ずかしいのだと気付く。
「……朋夜」
「何?」
 悄然とした甥を向けば、ただ呼んだだけのようである。彼は首を振った。手を握る力が強くなる。指先の狭間に起こる甘たるい微熱を朋夜は不気味に思った。手が震えるのを堪える。血行不良にありがちな痺れに似ていた。甥が怖い。温もりがおぞましい。突き詰めてしまえば忌まわしさに、この庇護下にある未成年を突き飛ばして逃げてしまいそうだった。懐かないネコみたいな青年を傷付けてしまいそうだ。おそらくそこに嘆かわしい悦びがあるような気がする。
 甥は無言だった。やがて彼女も気味の悪さから解放される。次に訪れるのは、開きかかった開けずにいた過去の出来事だった。糸魚川を見上げて、口元を両手で隠して身を縮め笑う若い女。
 駅前はなんだか生臭かった。駅構内から漏れる光りもどこか嘘臭い。ぼうっとしていても雑踏に紛れ、器用に人混みを避けていく。ロータリーに入ると細かく分けられた赤信号で止まっている。そして我に帰ると、自宅マンションにいた。
「叔母さん、おかえりなさい」
 共に帰ってきた相手がそう言った。
「う、うん……ただいま」




 肉体労働後の一杯で、今までにはあまり感じられなかったほろほろとした酔いが回る。夜景を望み、ほとんど開かれてしまった過去の抽斗ひきだしを漁る。
 糸魚川の腕に縋り、照れながらも敬礼を模したポーズをとる若い女は可愛かった。
―だって放っておけなかったんだ。リサはおまえみたいにしっかりしてないし、ちょっと頭弱くて……朋夜なら、もっといい男見つかるよ。
―どうするの?もうお義母さんとお義父さんに挨拶しちゃったし……
―それはオレから言っとくよ。オレの責任なんだしさ。
―困……るよ、困るよ、ふみくん………
―困るのはオレだよ!リサは妊娠してんだ。諦めてくれ。


 婚約者だった男の母から悪罵の手紙が来たことも芋づる式に思い出された。朋夜は、元婚約者がありのまま事実を彼の両親に伝えるものと思っていた。愚直に。彼の言う彼自身の責任というのはそういうものだと思っていた。しかし違った。彼の言う彼自身の責任というのは、破局を打ち明けることまでだったようだ。そしてその理由をどう説明するのか、そこに彼の言う彼自身の責任は伴わなかった。
 綾鳥朋夜という女は二股していたという。義父母となるはずだった家から来た手紙にはそのような新事実が記されていた。そして綾鳥朋夜本人は、まったくその新事実に覚えがなかった。一体誰と二股していたのだろう。幽霊であろうか。亡者であろうか。幻覚であろうか。
―思ったより、ショゲてたみたい。
 脳裏で能天気に笑っている野暮ったい青年に喋りかける。マスタードイエローのロープエプロンを掛けて、カウンターの奥でへらへらしている。朋夜もつられてへらついた。
 結局は別の男と結婚した。元婚約者の言うように、元婚約者よりも優しく、逞しい男を夫にした。そこに後悔はない。予期しないことといえばそうだった。忙しない選択の連続だったようにも思う。穏やかな幸せももちろんあった。それでいて、暗い部屋で2人で映画を観たことが急に優しさとなって眼前に現れてしまった。苦々しくなって仕方がなかった過去の人との出来事が、突然甘やかになってしまった。否定して無くしてしまいたかったものが味付けを変え、彩りを変え、甦る。

 グラスを傾ける。空だった。酒瓶に手を伸ばしたところで、リビングに明かりが点いた。
「疲れてるでしょ。もうやめといたら」
 振り向くと寝間着の義甥がリビングの入口に立っていた。
「うん。そうする。今日、迎えに来てくれてありがとうね」
 少しの動作で筋肉痛に響くが、それよりも怪我を負ったみたいに疼くのは、アルバイトでできたものではなく、彼に暴かれたときに生じたものだ。
「おやすみ、とも……叔母さん」
「うん」
 彼女は挨拶をまた返すことも忘れて、身体を引き摺るように自室に戻った。
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