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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年
熱帯魚の鱗を剥がす 12
しおりを挟む見上げた途端に口に含んでいたものが小刻みに蠢いた。艶めいた呻き声を聞いた後、内側から鼻腔を掠める牡の匂いと青草を思わせる苦みに襲われて朋夜の眉根にしわが寄る。そして悲嘆に似た溜息がぎちぎちに埋められた唇から漏れ出る。白濁を伴って。
「飲んで」
朋夜は目を眇める。首を振る余裕はなかった。
「しないんでしょ。胃の中に俺の出させて」
脅しめいている。観念してこの叔母は喉を上下させた。内部で粘りつく。遅れて甥の味が遡ってやってくる。
「なんか、ちょっと巧くなってない……?」
彼の腰を両手で突き離す。顔ごと逸らすと唇が蜜糸を紡ぎ、呆気なく途切れる。
「やっぱり男連れ込んでる?」
望みどおりの射精を与えたというのに義甥は不機嫌そうであった。朋夜は顔を向けようともしなかった。先程も初対面の男に対する口淫を施した。あれこれと指導、否、要求をされたのだ。
「いつもみたいに嘘付けよ。何、黙ってんの?」
ぎこちない微苦笑が珍しくその冷淡げな美貌に浮かんでいるものの、引き攣って歪んでみえた。
彼は叔母の頭に手を置くと、首の骨でも折るみたいに自分に向かせる。瞳孔の奥、頭の中まで読み取らんばかりの眼差しに朋夜は触れた場所すべてを叩き払う。
「なんだよ、それ」
引き攣った微苦笑さえも消える。普段の愛想のない顔は、愛想がないだけでなく怒気を放っている。
「ごめ……ん、なさい」
「その謝罪の意味は?」
彼女は口を噤んだ。
「言えないの。これから俺と暮らすのに隠し事するの。叔母さんは」
鼻を鳴らされる。それは嘲笑だった。朋夜は身体を冷やし、顔を真っ青にしてすくと立ち上がった。
「……ちょっと、頭、冷やしてくる。だから、ほんのちょっとだけ待って。そしたら話すよ。ごめんね」
京美の様子はもう彼女には遮断されていた。蹣跚とリビングを出て、廊下を辿るが、肩を壁にぶつけてバウンドする。
「叔母さん……!」
耳鳴りの奥に甥の呼び声を聞くけれども彼女は一瞬だけそれを認識してすぐに忘れてしまった。習慣に従い無意識は呆然とした肉体の主人に靴を履かせた。チェーンロックも鍵も外して彼女は自宅マンションを出た。
外はもう夜の兆しを見せている。それでもまだ視界は利いていた。川の流れを見下ろす。向こうに架かる橋のそう大きくはない駅前通りには車が行き交う。和風なコンセプトのもと朱塗りの欄干に金の擬宝珠を模した飾りが妙に浮いた橋に彼女は所在なく訪れていた。住宅地を分断するようなこの河川は全国的にも有名だった。家々に背くかたちで設けられた遊歩道はレンガ敷きで水の都を思わせなくもなかった。昨日今日と雨は降らなかったため水位は高くなく、鳥が屯する。
潺に混じりハミングが聞こえ、ふと足を止めるとその橋だった。藤見橋というらしいのが嵌められた銘板に刻まれている。ハミングの聞こえる小さな休憩スペースには確かにパーゴラがあり、近くの家々の狭い裏庭にも藤らしき植物が植わっていた。さらにはこの河川を東に辿ると桜見橋というのも架かっている。また西側にも花見橋と名付けられたのがある。
朋夜は川の流れを眺めていた。何も考えていなかった。どう義甥と接するべきか、話すのがいいのか、話さないのが賢明か、まったく頭の隅にも引っ掛からず洗われてしまった。無心のまま水流を凝らす。ところがハミングは片方の耳を通ってそこでくるくると留まり、なかなか反対へ流れ出ていきもしない。微かに濁を帯びても音色を毀損しない不思議な声質である。歌詞を忘れたのかそれともそういう歌なのか、或いはパートの違いなのか、フレーズが聞き取れた途端にメロディに変わる。流行りの曲ではないかも知れない。
やがて歌がやむ。滾々とした川の音と、少し先を行き来する車の音だけが耳に残る。パーゴラのある小さな公園から人影が出てくるのが伸びた生垣に透けてみえた。サンドベージュの長い丈のコットンシャツにそれより少し明るいくらいの同系色のチノパンツを履いている。サイズが大きいのか黒の運動靴の上で撓んでいる。重苦しい印象に野暮ったく、痩せた体型を貧相に見せる服装の人物が現れる。朋夜にも見覚えがある。距離があるが顔立ちと名前、印象が合致する。数えるほどしか顔を合わせたことはなかったが相手も朋夜に気付いた。近くに通行人はいないけれど周りを気にすることもなく人懐こく腕を振る。飼主が大好きな犬の尾の代わりなのかも知れないほどだ。
朋夜の踵が浮いた。彼女は自分の後方からまた別の人物に呼ばれかけていたことにも気付かない。野暮ったい相手は駆け寄ってきた。朋夜は圧されてとこに留まる。
「朋夜さん!朋夜さんだっ!」
この野暮ったい人物は糸魚川瞳汰である。そう大きくはない口を裂けるほど開いて笑うのが嫌味のない下品さでむしろ好印象ですらある。外開きに生えた八重歯が見えた。彼の双子の弟には無かったように思う。或いは目立たなかった。
「こんにちは」
「こんちわ!この辺住んでるん?」
「ううん。北のほう」
朋夜は前にもこのような会話をしたことを思い出しながら北西を指す。
「あ、そっか。お散歩?」
「うん、ちょっと」
そこで彼女の脳裏にやっと甥のことが過った。
「朋夜さん、チョコ食べたんすか?」
京美とは違い、この者の場合は詮索や疑いではなく単純に思ったことを口にしただけなのだろう。
「うん」
「いいな。オレもチョコ好きっすよ~。朋夜さんもすか?」
彼女は空返事みたいに肯定した。しかし今日を以って嫌いになりそうだ。牡の象徴とともに口に含み、牡特有の味とともに飲み下した。微かな苦みとポピュラーなあの甘みを感じるたびに屈辱を覚えることになるのだろう。
「糸魚川くんは、お歌の練習?」
話題を逸らす。そのことに瞳汰は引っ掛かることもなさそうだった。
「そうそう。ライブやるんすよ」
「ライブ?スタジオとかで?」
「ああ~、違うっす、違うっす!駅前とかで」
瞳汰は剽軽に、そして呑気に笑っている。
「朋夜さんは歌、好きっすか?」
「聴くのは好きだよ。歌うのは、どうだろ」
質問をしておきながら彼は返答を聞いているのか否か分からなかった。しかし楽しそうにしている。
「朋夜さん」
「うん?」
「あっちの橋、行ったことある?」
駅前通りの橋よりさらに奥を指して彼は訊ねる。
「うん」
「あの橋の1コ向こうの橋の根元のすぐ近くにね、ピアノバーあるんす。そこでバイトしてるから、もし軽食でもってときは来てくださいっす。好きな曲あったら弾いちゃうっすよ」
「糸魚川くん、ピアノ弾けるの?」
「弾けるっすよ。あんまり上手くないっすから、ほとんど歌う側なんすけどね!練習しときますよ!いつ朋夜さんが来てもすぐ弾けるように」
彼はへらへら笑っていた。欄干を掴む手を朋夜はふと見てしまう。あまり厚みのない骨張った手をしている。指も節くれだって細く長い。それが彼の纏うあどけない空気感とはあまり合わなかった。肌自体は荒れても老けてもいないけれども、その形やバランスが年相応というよりはもう少し上の世代を思わせた。
「何の曲がいいすか?なんでもいいすよ。楽譜探すんで。自分で聴いて楽譜にとること、採譜っていうんすけど、それもできるから、ほんと、なんでもいいすよ」
そう突然言われてもテレビでよく流れる最近の曲しか出てこなかった。糸魚川の醜怪ではないけれど冴えない顔を見つめる。彼はにゃはにゃはと笑っている。
―景気付けに聴こうか、音楽。
ふと肌の接触のない夫婦の営みの時間が思い起こされた。テーブルを隔てグラスを片手に夜の静寂と空の代わりに光り輝く地上を眺めたときに染み渡る曲がひとつ浮かぶ。しかし雰囲気を覚えていても曲調がすぐには出てこなかった。
「……ジムノペディ、とか」
―なんだか暗い曲だな、わはは!
―仁実さんが明るいので、別に暗くないですよ。
「ジムノペディ、ジムノペディ……―あれか。おっけっす。練習しとくっすね」
彼が簡単に鼻歌で再現する。曲名しか覚えていなかったところに中身が一気に再構築されていく。この弾き手とは真反対な調子の曲であることに気付いてしまった。
「練習しとくっすね!いつでも聴かせられるように」
へにゃへにゃと情けなく、しかし満面の笑みを咲かせて糸魚川は無邪気だった。瑞々しい活力が逃げ切れない後ろめたさに気付かせる。甥と話し合わなければならない。
「じゃあ期待させてもらおうかな?糸魚川くん。ありがとうね。わたしもやること思い出したよ。そろそろ帰らなきゃ」
「そっすか。ンじゃあ期待して待っていてくださいっすよ!オレに任せなさいっ。気を付けて~」
今度は肩ごとではなく肘を軸に手を振った。相変わらずそこには頼りなさげな十分咲きの笑みがある。
「じゃあね」
彼に背を向け数歩行った。空は青みを帯びて暗さを増してきている。
「あ、朋夜さん!」
呼び止められて振り向く。糸魚川は欄干に手を掛けたままそこから動いていなかった。
「お店の名前ね、ピアノラウンジ・ビアンカズマグっす!」
朋夜は手を上に掲げてひらひらと靡かせ、それを返事とした。
住宅地へ出ると、香を焚きつけた甘い匂いがした。
「綾鳥さん」
不意に声をかけられて朋夜は肩を弾ませる。一瞬、糸魚川瞳汰が追いかけてきたものと思ったが、それと同時に彼でないという直感が打ち消した。
「こんにちは」
先程話した人物の双子の弟がそこに佇んでいる。黒い七分丈のサルエルパンツに赤いベルトを垂らし、上は白のシャツと黒いジャージである。目元を眇め柔和な表情でいるけれども杏を思わせるオレンジ色の唇は弧を描くのみである。
「こんにちは……」
「奇遇ですね。お散歩ですか?お買い物?」
「散歩です。さっきお兄さんに会いましたよ」
「そうなんです。使ってる駅一緒ですから。会わないように来たんですよ。でもこういう出会いもあるんですね。遠回りしてよかった」
彼の目元はまた清らかに細まる。
「兄は送ってくれなかったんですか」
「ああ、いいえ。わたしがこのまま用事があると言ったので……」
「そうですか。でも俺もこっちの方面なので、途中までご一緒していいですか?」
朋夜は控えめに頷いた。京美は部屋に籠っているだろう。
「この前はすみませんでした」
糸魚川瞳汰の双子の弟、瞳希は兄同様にこにこしていたが、ひょっと不思議そうな顔をした。何の話だか通じていないらしい。
「甥が……失礼なことを言ったでしょう」
説明して彼は合点がいったらしい。小さく「ああ」と呟いた。
「気にしていませんよ。こちらこそすみませんでした。ぼくが何か拙いことをしてしまったみたいで。綾鳥さんのほうこそ大丈夫でしたか」
彼女はこくこくと浅く幾度か頷いた。
「それならよかった。仲が良いんですね。姉弟みたいでした」
叔母と義甥で悍ましい交わりがあることも知らずに瞳希は下瞼を膨らませて微笑んでいる。
「弟はまた別にいるんです」
「じゃあ本当にお姉さんなんですね。どんな弟さんなんですか」
上から覗き込まれている。細められた目と目が合い、朋夜は咄嗟に顔を逸らした。
「高校生です……真面目な子ですよ。毎年学級委員とかやっているようなタイプの」
「綾鳥さんもそうなんですか?綾鳥さんも学級委員とかやっていそうですが」
「わたしはそうでもないです」
「綾鳥さんが学級委員だったならぼく、わざと困らせちゃいますね。"そこの男子!"って注意されて怒られたいですもん」
おどける瞳希に彼女は苦笑を作る。
「なんですか、それ」
「ふふふ。男のロマンの話です」
兄とは違い、この弟は微風の如く爽やかに笑んだ。そして実際に風が吹きつける。少し冷えていた。そよぐ髪を押さえる。隣とも半歩後ろともいえない位置にいた瞳希が前へ出た。彼は自ら風避けになった。
「季節の変わり目ですね。身体には気を付けてください」
「すみません」
「いいえ。こうして四季が移ろいゆくの、ぼくは結構好きです」
いつの間にか辺りは暗くなり、明かりの点いた外灯の下で目元を眇める瞳希の顔が逆光する。
「綾鳥さん」
見下ろす目がしかつめらしいものになる。特徴的で柔和なイメージを持たせる下瞼の膨らみが失せる。そうすると兄の面影が際立った。
「は、い……」
獣同様に発情期にある弟や、非常に機嫌が悪いときの京美が纏う不穏な空気と似たものを彼からも感じた。無意識に後退りかける。
「綾鳥さん、チョコレート好きなんですか」
今見せた剣呑な表情が嘘のように瞳希はふたたび目の下を膨らませる。外灯の見せた幻のようであった。
「え……?」
「チョコレートの匂いがしましたから。好きなのかと思って。ぼくも好きなんですよ。おすすめのお菓子とかあります?」
「有名どころは小さい頃よく食べましたけど、最近はあまり……」
朋夜は睫毛を伏せた。まったく事情を知らない者たちに会えど、逃げきれない現実を引き摺っている。亡夫の元交際相手の前で、彼女の連れてきた若い男に口淫され口淫したことと、それを甥に問い詰められていることと、この現状は地続きである。
「そうですよね。大人になると、なかなか食べませんもんね。課題やってるときに、ぼくはちょくちょくつまんでますが。糖分補給に」
瞳希の声が少しだけ曇り、遠くなる。京美のことを考えた。心配はしていないだろう。しかし帰れば嫌味が待っているに違いない。どう躱そうか、躱せるであろうか。叔母としての意地を張れるのか、自信がない。―奏音さんなら……
朋夜は一瞬二瞬ほど目を閉じて、また改めて目を開く。
「綾鳥さん?」
背が高い分、瞳希は前傾姿勢になって朋夜の俯いた表情を確かめる。
「あ、はい……ごめんなさい。ぼーっとしちゃって」
「いいえ。悩み事ですか?」
「ううん。悩み事っていうか、考え事っていうか……考えておかなきゃいけないことなのに全然考えてなんかなくて。ごめんなさい。失礼しました」
彼は気を悪くした様子はない。ただ特徴的な笑みを浮かべている。
「失礼だなんてそんな。ぼくといて気が抜けたということなら、嬉しいですよ。こちらこそすみません。忙しいときに声をかけてしまったみたいで」
甥とそう変わらない年頃の相手に気を遣わせてしまった。朋夜は首を振る。
「なんだかチョコレート食べたくなっちゃったな」
瞳希は結局、朋夜の自宅マンションのエントランスまでついてきた。彼女も用事がある設定を忘れ、いつの間にか家にいる甥のことで頭がいっぱいになっていた。途中から沈黙していた瞳希のことも意識から外れていた。
「ここまでですかね」
エレベーター前で声をかけられ、彼女はやっと我に帰った。
「あ……」
咄嗟に捉えた清爽な美青年は面白そうだった。
「煮詰まりましたか」
悪戯っぽさもそこに加わる。
「ご、ごめんなさい、わたしったら……」
「ふふふ、では」
瞳希は緩やかに手を振り、エレベーター前で別れた。
スマートフォンも鍵も持たずに出て行ったが、幸い玄関扉は施錠されていなかった。ドアを開けるとブラウンの革靴が目に入る。それが誰のものか知っていた。弟が来ている。三和土から徐ろにリビングに続く廊下を見上げた。足音が近付いてきている。
「姉さん」
ダークカラーの靴下と淡く柄の入ったスラックスが視界に割り入る。
「おかえり」
それから遅れてぶっきらぼうな声がかかる。京美も玄関ホールまでやってきた。
「ただ……いま」
朋夜はその場から動けなかった。肉欲に狂った弟と恐ろしい義甥が2人でいる。彼等から向けられているものは異質でも結局のところ被るものはほぼ変わらない。欲望か嫌がらせかである。2人は結託したのではあるまいか。
「どうしたの、姉さん。そんなところに立ちっぱなしで」
照明が弟のさらさらとした髪に輪を掛ける。白玉粉でできたような肌とよく濡れたガラス玉みたいな眼があまりにも可憐だ。
「神流ちゃん……来ていたのね」
「うん。姉さんに会いたくて」
桜色の唇が綻ぶ。京美の存在があるためか少し声が低い。姉と2人きりのときは上擦り舌足らずに喋っていた。
「なのに姉さん、携帯電話も持たずに出掛けたんでしょ?驚いちゃったよ。京美兄さんにいじめられてるのかと思っちゃった」
京美は否定も肯定もしなかった。ただ叔母をじとりと見ている。朋夜は彼の視線から逃げ、誰もいない場所ばかり凝らす。
「そんなことないよ……ね?京美くん」
同意を求めるが甥は口元を歪めてなかなか返答しない。顔そのまま正面を向き、目線だけを下げている。
「神流おぢさん」
彼は叔母に応えもせず神流へ話しかけた。さらさらとした髪が揺らめいて神流は京美を見上げた。細い首に埋まる飴玉が強調される。
「あんたの姉貴、俺の留守中に男連れ込んでるんだけど」
甥の口にしたことがすぐに理解できなかった。雷にでも打たれた心地がした。視界が明滅する。朋夜は頭から一気に体温が冷えていくのを感じた。実際、彼女の顔は青褪めている。長湯や深酒をしたときみたいに蝋人形の如く蒼白になっている。立ち眩み、後ろへよろめいた。背中が玄関扉を軋ませる。
「え?そうなの、姉さん」
神流は特に驚いたところもなかった。
「そ、んな……」
「チョコレートみたいな茶髪の外国人だった。結構かっこよかったよ」
顎が震えて歯がかちかちと鳴りはじめる。
「外国人?」
「日本語だったけど」
弟と甥の会話ももう聞こえない。
「じゃあ姉さん、京美兄さんが独り立ちしたら帰ってくる?」
これには京美のほうが呆気にとられた様子である。
「だって遊びじゃないの。姉さんは誰も好きになんかならないんだから」
口から生気が抜けていくようだ。随分と前に下した断定が刃を研いで現在に噛みついてくる。甥には聞かせたくない話だ。
「叔父貴のことも……?」
その哀れな甥の声は唸っているのかと思うほど低い。
「そうですよ、京美兄さん。姉さんは誰も好きになんかならないから仁実お義兄さんと結婚したんです。だってそうでしょう、こんな奴隷契約。女のことを子守り要員としか思っていなきゃ、できない要求です」
神流はきゃはきゃはと笑った。
「だって子持ち同然ですよ。妻の人生はどうするんですか。自分の子供が欲しくなったら?死ぬの分かってて、それなのに他人の子に身を費やさなきゃならないだなんて。キャリアまで捨てさせて、姉さんはまだ若いからとにかく、専業主婦になんてなったら逃げだす術を取り戻すのさえ難しいじゃあありませんか。あ、殴りますか、京美兄さん。いいですよ。事実を暴くことは時折人を傷付けますから」
しかしいつまでも唖然とはしていられない。表皮を刮げ取るような危ない空気に朋夜は覚まされた。
「ちょっと、神流ちゃん……!京美くん、わたしは……」
弟を回収しようと踏み出たとき、目の前で彼は殴られた。華奢な身体が頭を壁にぶつけ、床に叩きつけられる。
「叔父貴を悪く言うな……!」
「妻に対する抑圧に目を瞑れというわけですね」
赤い汚れがフローリングに落ちる。朋夜は神流の顔を捉えた。幻覚と紛うほどの美少年の顔半分は真っ赤に染まってる。そして当人は薄ら笑いを浮かべている。
「仁実さんとは確かに恋愛結婚じゃなかったけれど、仁実さんは素敵な人だって今でも思ってる。だから結婚したのは本当よ」
朋夜は神流の傍に屈んだ。溢れ出る鼻血を拭おうとすると横から伸びてきた手に止められる。京美だった。彼はすぐ真横にある自室に入ってティッシュ箱を持って帰ってくる。そして叔母の手伝おうとする腕を跳ね除け、雑な手付きで自分の殴った相手の鼻血を拭いた。
「京美くん……ごめんなさい」
甥は無言だった。神流は赤黒く染まった美貌を意地の悪い愉悦によって歪めている。
「神流ちゃん。事実か事実じゃないか、正しいか正しくないかなんてわたしはこだわってないから。神流ちゃんが言ったことは仁実さんもよく分かってて、わたしに何度も確認して決めたことなの。だから騙されたとか、搾取されてるとか、そういう話じゃないの」
弟は鼻血など大した毀損でもないような絶美の面構えで微笑している。
「姉さん、おめでたいな。僕もそんなこと分かってるよ。僕だって何度も確かめたじゃないか。そんなことじゃない。僕が腹立たしかったのは、京美兄さんはさっき姉さんを愚弄したんだ。嫉妬心ゆえにね。姉さんはまだ若い身体で、旦那さんももういないんだ。他の若い男の1人や2人、何百人何千人でも連れ込んだって僕は別に侮蔑に値しないよ。そんなのは僕にとって仕方のないこと。なのに弟である僕の前で辱めるだなんて。当てつけにね。だから分からせてあげたかったんだよ。自分が叔母に頭の上げられる立場になんかないってね」
あっはっは、と弟はただひたすら、人語を解する得体の知れない妖怪みたいだった。
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