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叢雲に消ゆ ロボットヘテ恋/独自世界観/暴力・流血描写/未定につき地雷注意
叢雲に消ゆ 8
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◇
レーゲン・ランドロックトは熱を測るみたいに額に手を当てていた。
「無理にとは言わないけれど。ただ、そうなると今後の手続きがちょっと面倒臭くなるわけ」
18年間背負ってきたランドロックト姓を捨てろと言われて、彼は快諾できなかった。霹靂神統治ノ地は結婚後、夫婦別姓にすることもできるが、夫婦同姓にした場合、片方は姓が書類ごと変わる。名を捨てることになる。そのため、レーゲン・ランドロックト少年に突き付けられた問題は別段珍しいことではないようにアサギリには思われた。ただ、あまりにも突然であった。そして彼に選択の余地がほぼないのであった。
「いや、分かった。捨てよう。レーゲン・フジオカ……今日から俺は、レーゲン・フジオカを名乗ることにする」
「そう。じゃあ書類にサインして」
「どっちの名前でだ」
「まだ正式に決定してないからランドロックトのほうで」
彼にボールペンを持たせるのは躊躇われた。アサギリは渋い面をしてそれを見ていた。
「動けるようになったの?」
「そろそろ出歩いてもいいそうだ」
「服を買いに行きましょう。それから、髪、どうする?」
「俺は金は持ってないぞ。それに髪をどうするとは?」
ペンを走らせ終えて彼は顔を上げた。
「お金の心配はしなくていいよ。わたしが買うから。経費でね。髪、切る?」
初対面時、霹靂神統治ノ地の基準で20代半ばだと思われていたレーゲン少年は己の髪を一房摘んだ。
「切ったほうがいいのか」
「切ったほうが色々と……ここの土地では暮らしやすいかも」
「それなら切るか」
こちらの問題は特に迷うこともなかった。
「本当にいいの?」
「確かに、ここの男はみんな髪が短かったな。もし嫌だったならまた伸ばせばいい」
「寄付しようか。長いし、綺麗だし」
金色の双眸が訳の分かっていなそうに彼女を見た。
「寄付?髪をか?」
「そう。髪に困っている人にウィッグ作ってあげるの。ウィッグの文化ってあるかな?本物の髪があるように見せる被り物なんだけれど……」
「なるほど。じゃあ、それに寄付しよう」
少し名残り惜しいのか、彼は髪に手櫛を入れた。青みを帯びだ艶のあるよい毛並みをしている。
「触ってみてもいい?」
「ああ」
レーゲンは自分の毛束を鷲掴みにしてアサギリに差し出した。
「いい髪質だね」
「食料が優先されていたからな」
彼はぽつりと言った。アサギリはすぐに意味が呑み込めずにいた。つまりは軍人であるために食うに困らず髪にも栄養が行き渡ったということを言いたいのであろう。
金眼がぱちくりと飼主に甘えた猫みたいにアサギリの反応を待っている。
「そう。じゃあ明日行くから、そのつもりで。髪に別れを言うことね」
「……髪と話すのか?この国では」
「…………話さないのならいいの。じゃあね。明日の昼頃また迎えに来ます。ごはんも外で食べさせるから」
意識的か無意識か、レーゲンは本当に人懐こい猫みたいな反応をした。爛々とした目は興味と関心に満ちている。
「ごはん……」
「もう好きなのを好きなだけ食べなさい。どうせ経費だから」
彼女は雑に剥ぎ取ったため破れかけている外出申請書に要件を記し医局を出ていった。
寄宿舎に戻る前に、派手なリゾートシャツを一枚着た老人と出会した。華美な柄の半袖から伸びる腕は特に老いを感じさせる。基地ジャンパーは持っていない。アサギリは異様な人物を見たとばかりだ。どういうわけか、繁華街の郊外から伸びる曲がりくねった長い道を通り抜けこの広大な敷地に迷い込んだのかも知れない。アサギリは適当に近付いた。するとおそらくセンターのパイロット監視システムが接触者としてこの謎の老人を認識するであろう。そこから警備部なり基地職員が徘徊中の翁を外に出すことが予測される。
「そち」
アサギリは迷い込んだ老人の脇を通り抜けようとした。独り言と決めてさらに歩を進める。
「そち」
「わたし……?」
振り返る。老人の首からブルーの紐が掛かっていた。カードがぶら下がっている。この基地の関係者であることを示している。老翁はアサギリのどこを見るでもなくただその姿を捉えた。
「国を失うた子を保護しとると聞いたが、どこぞ」
国を失ったと表現されると、該当するのは今アサギリが別れたばかりのレーゲン・ランドロックトということになる。彼女は来訪者玄関を指で差した。
「かたじけない」
「いいえ」
「国を失くすのは己が身の削れるような思いであろうな」
自ら首を掻き切ろうとしたレーゲンの姿が目蓋の裏に甦る。それからつい今目にした姿に上塗りされる。
「そうですね」
本心なのか適当に受け流した返事なのか、それはアサギリにも分からなかった。
「現実味が湧かなくて。戦争とか」
自分の白々しさに慌て、そう付け加えた。
「理解せずともよい。経ねば分からぬこともあろう」
「……経験しても、……………―いいえ」
この老人が何者でどこまで知っている者なのかアサギリは知らない。少なくともアサギリはこの老人に見覚えがなかった。そうなると、エンブリオやそのパイロット、さらには職務について口にしないほうが無難だ。
「ご用の方はあちらの建物です」
アサギリは話を切り上げた。もう行くぞ、と態度で示す。
「ほ、ほ、ほ。傷は舐め合って癒えることもあるものよ」
訳の分からない老人が差したほうに歩いていくのを認めてからアサギリもその場を後にした。翁の首にぶら下がっているカードにはチップが埋め込まれ、敷地内にいれば追跡ができ、監視モニターでも見張っている。故意か病か、おかしな真似をすればすぐさま拘束されるだろう。ここは善意と厚意と寛容で成り立っている市井ではない。
翌日にレーゲン・ランドロックトを迎えにいった。明日には書類手続きが終わりレーゲン・ランドロックトという名は消えてレーゲン・フジオカに改まる。改まるはずだった。結局のところレーゲン・フジオカには改まらなかったのだ。アサギリが彼に会いに行って真っ先に見せられたのはタブレット端末である。養子縁組の届出に彼女はぎょっとした。
「ランドロックトは残せると聞いた」
レーゲン少年を引き取りたがっているのはツキヨノ某氏45歳の女である。
「大丈夫なの?」
歳若く、見目も麗しく、身寄りのない異国の少年を囲いたい資産家の女の存在は、ホストクラブに足繁く通うアサギリにとって具体性のあるものだった。一体どのように彼の情報を得たのだろうか。
「どんな人?」
「昨日来たのは70過ぎくらいのご老人だった。そこに書かれているのはその人の内縁の妻だそうだが形式的なものらしい。実質的にはそのご老人の世話になるみたいだ」
リゾートシャツの老人に違いない。レーゲン少年を気に掛けていた。
「……そう」
「どうだ……?」
「え?」
「ミナカミ先生、いいだろうか?」
いくらか自信の無さそうな上目遣いが彼らしくない。いつもはもう少し横柄なところがある。
「いいんじゃない、好きにすれば。別にダメとは言わないけれど」
「ありがとう」
「いいえ。レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトくんね。よろしく」
溌剌とした猫の目がほんのりと伏せられて照れ笑いしている。嬉しかったのだろう。それが分かってしまった。大人びて見えるがまだ20歳にも満たない子供である。安らげる場所もないところで異文化が迫ってきているのだ。胸が絞られるような感じを微かに覚え、アサギリは顔を逸らした。
「無理に、この国に馴染まなくてもいいよ。髪も切りたくなかったら切らなくて」
「いいや、髪は切ろう。馴染めるよう努める。俺に好くしてくれた。この国で生きていけると思えた。恩は返す。未練がましくはしていられないさ」
彼女はレーゲンを窺うように見遣った。
「強いのね」
「男だからな」
「ランドロックトくんの気性かな。まぁ、程々に。柔軟にいきましょう」
想定内の答えであるが、聞いていて妙に痛々しいのは先程の密やかな安堵を垣間見てしまったからだろう。
「さ、出掛けるから。支度なさい」
両手を打ち鳴らす。レーゲンといえばアサギリの来た時にはすでに起きていたが、支給品のハーフパンツに薄手の毛布を引っ掛けていた。髪は相変わらず艶やかで寝癖もなくすとんと真っ黒な清流を作っている。
支給品の基地内制服とジャンパーを身に纏う彼は生々しさがないゆえにあまり着画の参考にならなそうなモデルのようだった。野暮ったいと思っていた制服が垢抜けて見える。
「向こうで気に入ったのがあったら、それで帰ってきましょう」
用意の整ったレーゲンと医局を出て、寄宿舎の近くを通りかかったとき、前方からフブキ・マヤバシがやってくるのが見えた。まだ彼はこちらに気付いていないようである。隣には若い女性職員がいる。ふんわりとした印象の柔和な女で、制服のジャケットの下に桜色のロングスカートを穿いている。肩で切り揃えられ、赤みのある栗色の毛先が緩いウェーブを描き、焼菓子を彷彿とさせる。フブキ・マヤバシは俯くようにして彼女の話を聞いているらしかった。声は聞こえない。
「ちょっと、ランドロックトくん!」
特に理由もない、反射的な気拙さを覚えてアサギリはレーゲンを呼ぶ。止まる隙も与えなかった。止まらず歩き続けているようにさえ彼女には感じられた。もどかしさは彼女の背を突き飛ばし、彼女はレーゲンの腕を掴んだ。引き寄せかけたところで、視界の端の朧ろげなフブキ・マヤバシとその連れの女性職員が動く。雰囲気に違わない柔和で可憐な声で「おはようございます」と挨拶される。それに続くようにフブキ・マヤバシも挨拶した。
「お、お、おはよ……マヤバシくんと、えっと、―……」
アサギリが挨拶を返している間、レーゲンは腕を掴まれたままきょろきょろと三者を見回す。訳が分かっていなそうだった。フブキ・マヤバシがやっとレーゲンに視線をやって、アサギリは2人に紹介する。覚えたての言語でたどたどしく彼は自己紹介をする。それからアサギリに通訳を頼んだ。
"この前は騒動を起こしてすまなかった。この国で世話になることになったからよろしく頼む……と伝えてくれ"
今度はレーゲンからアサギリを引き寄せて耳打ちする。
「この前はお騒がせしてすみませんでした。しばらくの間、この基地に滞在すると思いますので、よろしくお願いします、と」
それから一言二言交わして、フブキ・マヤバシたちと別れた。レーゲンはぷらぷらと行先が定まらない故の蹌踉とした足取りでアサギリを気にしながら半歩前を歩く。彼女はただ真っ直ぐ前を見て、何となくレーゲンを追っていた。
「今の男に惚れているのか」
「え?」
「ミスター・マヤバシ、マヤバシ……さん」
「なんで?」
金色の目が一度、基地の外に広がる水平線に投げられる。そしてアサギリにやって来た。
「俺と話す時と声の感じが違った」
「分かるの?」
「戦場だと、そういうのは大切な手掛かりだからな」
特に得意げというふうでもなく、彼はまたアサギリから目を滑らせる。
「ふぅん。でも残念。惚れてるっていうのとは違うんだな」
「そうか。それならつまらないことを言った」
落胆するでも追及するでもないレーゲンを彼女は追い越した。
「色々とお世話になった人なんだ。もうダメだ、ムリだって思ったときに、寄り添ってくれた人でさ。惚れてる・惚れてないっていうと、ちょっとニュアンス変わってくるけれど、多少自分の考え曲げてでも、返したい恩があるっていうか」
聞いているのか否か不明なほど無反応のようでいて、金色の双眸はアサギリが話し終えるまで彼女を凝らしていた。
「あっち」
黙っている連れに彼女は途端に恥ずかしくなったのか、上擦り気味の声を出した。広大な駐車場とタクシー乗降場、バス停がある。アサギリはそこでそう大きくない青い色の車に乗った。彼女の乗る機体エンブリオ・アスマは暗赤色が使用されていたが、車はメタリックブルーであった。基地の上層部から贈られたものである。
「免許とか持ってる?」
シートベルトを締めながら後部座席のレーゲンをバックミラー越しに捉える。
「こういう車のは持っていない」
「そう。じゃあタクシーかバス使って。徒歩でもいいけれど、長いし、夜はシカとかイノシシ出るみたいだから」
運転して15分で目的地へと着いた。商業施設が並んでいる区画で、サザンアマテラス基地の制服は目を惹いた。否、理由は制服だけではなかったかも知れない。結い上げても腰に届くほど長い髪の男性は非常に少数派で、またその引き締まったスタイルも只者ではない空気を漂わせて目立つ。カラーコンタクトレンズほどの発色もなく自然に馴染むゴールドの瞳もまた物珍しい。首都に出ればさらなる人口に埋もれそこまでのことはなかったかも知れないが、片田舎の都市部の繁華街ではまだ視線を集めてしまっていた。レーゲンはもぞもぞとばつが悪そうだった。戦場に出ていた彼は人の気配や視線に敏いらしい。
「大丈夫?」
「ああ」
しかし眉間には皺が寄っていた。送られてきた視線すべてを睨み返そうとしているのか忙しなく左見右見する。
「落ち着かない?」
「いいや……目立つか、俺は」
「うーん、かっこいいからね、ランドロックトくん。スタイリッシュというか。美容室までもう少しだから、髪切ったら変わるよ、きっと……」
レーゲンは足元を見下ろしている。迷いをそこに見出してしまう。
「嫌だったら切らなくてもいいよ。でも、目立ったりはしちゃうよ、やっぱ。でもそれは敵意とかじゃなくて……」
「敵意じゃないのは分かっている。俺が慣れれば済む問題だ。切るさ」
彼は自身の垂れた毛先に手を入れた。しゃらしゃらと黒絹のカーテンのようである。アサギリのほうに断髪させる躊躇いが生まれている。美容院に予約は入れてあるが、直前でキャンセルするかも知れないことも告げている。後悔と比べればキャンセル代など安いものである。
「けじめだ。髪の根本から無くなるわけじゃないんだろう?また伸ばせばいい」
アサギリの戸惑いは相手にも伝わっていたらしい。悪戯っぽく笑ったのがどこかあどけなく、あまり彼らしくなかった。そうして美容院に辿り着き、レーゲン・ランドロックト改めレーゲン・ツキヨノ・ランドロックトは腰まで届くほど長かった黒髪を切った。ラウンジのアサギリと合流したとき、彼は霹靂神統治ノ地の若者にありがちなヘアスタイルに変わっていた。
「髪が柔らかい」
レーゲンはふっさりと空気を含んだようにセットされた自分の髪を揉んでいた。
「トリートメントしてもらったからね」
代金を支払い、店を出て、アパレルショップに入るまで彼は頻りに髪を揉んでいた。ガラスや鏡に映るたび不思議そうに立ち止まる。気に入らないのではないかと疑ってしまう。
「かっこいいよ、その髪型」
「そうか」
「ランドロックトくんの雰囲気とか顔立ちに合うようにしてくださいって頼んだんだから。短いの、慣れない?」
「頭が軽いな。首元も涼しい」
彼は頸に手を当てる。首が動くたび、シャンプーが薫った。
「不思議な感じだ。でも、ありがとうミナカミ先生。まだ礼を言えてなかった」
「髪切ったのは美容師さんでしょう」
「だがここに連れてきてくれたのはミナカミ先生だ」
すぐ傍を若い女2人組が通っていった。会話に夢中になっている。華やかなやりとりだった。何か言われたわけでも、それらしき事柄を聞き取ってしまったわけでもないが、ふと人目を気にしてしまった。
「"ミナカミ先生"ってなんか、教師と生徒みたい」
「嫌か?」
「ちょっと恥ずかしくなっただけ」
「慣れてくれ」
ガラスの反射した自身を気にするレーゲンの隣に映る自分をアサギリも気にした。身長は彼のほうが高い。
「でも、高校生と新人教師ならこんなもんか」
斜向かいの薄らとして透けた平面のレーゲンが遠い目をした気がして、アサギリは隣の本物を覗き込む。
「ランドロックトくんって18歳だよね。学校とかって……行けてたの?」
仄かな後ろめたさが過った。争いのない国の常識を彼に問うのはどこか気負ってしまうところがある。
「ハイスクールの1年までは通ってた。戦況が変わってからは軍隊一辺倒だったがな。軍事訓練を専攻していたんだ。学費が安くなるから。だから生活はほとんど変わらないといえば変わらなかった」
「そう……」
「徴兵されるから明日クラスメイトに別れを告げるものだと思っていたら、その前日の夜に校舎が吹き飛ばされててな。奴等は無事だったみたいだけど、結局別れは言えなかったな」
彼は微苦笑する。
「もう戻る学校もなかったからそのまま軍に志願した」
ぽんぽんと自身の短くなった髪を叩きながら彼はまた歩き出す。
「こっちでいいのか」
「うん。あそこの角を曲がるの」
いくらか彼の所作に挙動不審なものが混じるのは戦地にいたためであろうか。ここ100年近く戦争のない霹靂神統治ノ地では想像がつかない。アサギリもまたエンブリオ無しに戦地へ赴いたことはなく、また赴任先も前線ではない。あくまで民間人の保護や救援である。ここは戦場ではないと言っても彼の身に染みついた習慣はすぐには拭い去れないだろう。
アパレルショップに着いた。サザンアマテラス基地の制服が異様だ。アサギリは適当に見繕うよう店員に声を掛ける。
「欲しいものがあったら言って。買えそうなものなら買うから」
尻込みしているレーゲンを試着室に預け、彼女はその近くのソファーに腰掛ける。
見たところ少し奇抜な意匠の衣料が多かった。試着室が開くたびに、ホストクラブ風だったり、ストーリーダンサー風の服を身に纏ったレーゲンが現れる。
「どう?」
「分からない」
彼は首を振った。アサギリもまた、今流行りの若い男の服装が分からなかった。イセノサキにせよフブキ・マヤバシにせよ制服姿しか見ていない。マージャリナに至っては裸である。
店員に相談して、結局この店では歴史的名画のプリントされたフード付きのスウェットシャツを2着とジーンズパンツを購入した。制服から着替え、また別の店に渡り歩く。アサギリのよく使っているブランドのやたらとふわふわともこついたルームウェアのセット数着と、衣料量販店で普段から着回せるようなものを何着か買い漁った。紙袋が増えていったが、そのほとんどはレーゲンの手にぶら下がっている。車道側に回るのもさりげない。イセノサキもそうである。エンブリオに乗る際は暴力に成り得る武力を持つ強者としての自覚を叩き込まれるが、降りた途端に弱者として扱われる。妙な心地になってしまう。機体に復帰不可能のエラーメッセージが出た際はパイロットもろとも海に沈め、またそのようにプログラムされている言われている立場である。非常事態の際は銃の所持が許され職員や非パイロットを守るよう命じられている立場である。それが基地を出た途端、たちまち守られる側となる。パイロットとしての自身と一個人的な自分。そこが上手く彼女の中で合致しない。
小道から頭を出す車が停まる。隣のレーゲンも立ち止まり、紙袋をぶら下げた腕が遮断機の如くアサギリの前に出された。
「どうした?」
それでいて彼は連れのぼうっとした様子に気付いている。
「別に。ごはん何食べたい?好きなものは?」
「肉」
「何の肉?羊とかだとあんまりお店ないかも」
車が曲がっていくと新品の布に包まれた遮断機が上がる。
「この地では何の肉が主流なんだ」
「牛か豚か、鶏か……」
「じゃあ牛か豚」
「ステーキと飯店風バーベキューどっちがいい?」
「飯店風バーベキューってなんだ」
彼は首を傾げた。人工的な薔薇が髪から薫る。
「お肉を直火焼きにするやつ」
「丸焼きか?」
「薄切りになってるよ」
「じゃあそれがいい」
ちょうどその専門店の看板が見えた。レーゲンを案内する。夜間に混雑する焼肉店だが昼間は空いていた。すぐに席へと通される。掘り炬燵のような個室だった。レーゲンは店内を見回していた。霹靂神統治ノ地とは別の地の風情をテーマにしている。
「高いんじゃないのか」
メニュー表を広げてはいるが、彼は見てもいない。
「大丈夫。稼ぎいいから、これでも」
アサギリは反対にメニュー表を眺めていた。
「……そうか。働いて必ず返す」
「ふぅん。あてにはしてないけれど、程々に」
レーゲンの今までの言動からして女が金を出すのが赦せないのだろう。もしかすると一緒にいる女の稼ぎがいいことさえ気に入らないかも知れない。しかしこの地の基準でいっても18歳といえば多くが高校生である。例外はあるだろうけれど、ほとんどは保護者の経済力に依存するはずだ。
「他人のお金で食べるごはんは美味しいらしいから、今は何も考えず食べなさい」
メニューを読み上げて、レーゲンの好きなそうなものを選んでいく。
レーゲン・ランドロックトは熱を測るみたいに額に手を当てていた。
「無理にとは言わないけれど。ただ、そうなると今後の手続きがちょっと面倒臭くなるわけ」
18年間背負ってきたランドロックト姓を捨てろと言われて、彼は快諾できなかった。霹靂神統治ノ地は結婚後、夫婦別姓にすることもできるが、夫婦同姓にした場合、片方は姓が書類ごと変わる。名を捨てることになる。そのため、レーゲン・ランドロックト少年に突き付けられた問題は別段珍しいことではないようにアサギリには思われた。ただ、あまりにも突然であった。そして彼に選択の余地がほぼないのであった。
「いや、分かった。捨てよう。レーゲン・フジオカ……今日から俺は、レーゲン・フジオカを名乗ることにする」
「そう。じゃあ書類にサインして」
「どっちの名前でだ」
「まだ正式に決定してないからランドロックトのほうで」
彼にボールペンを持たせるのは躊躇われた。アサギリは渋い面をしてそれを見ていた。
「動けるようになったの?」
「そろそろ出歩いてもいいそうだ」
「服を買いに行きましょう。それから、髪、どうする?」
「俺は金は持ってないぞ。それに髪をどうするとは?」
ペンを走らせ終えて彼は顔を上げた。
「お金の心配はしなくていいよ。わたしが買うから。経費でね。髪、切る?」
初対面時、霹靂神統治ノ地の基準で20代半ばだと思われていたレーゲン少年は己の髪を一房摘んだ。
「切ったほうがいいのか」
「切ったほうが色々と……ここの土地では暮らしやすいかも」
「それなら切るか」
こちらの問題は特に迷うこともなかった。
「本当にいいの?」
「確かに、ここの男はみんな髪が短かったな。もし嫌だったならまた伸ばせばいい」
「寄付しようか。長いし、綺麗だし」
金色の双眸が訳の分かっていなそうに彼女を見た。
「寄付?髪をか?」
「そう。髪に困っている人にウィッグ作ってあげるの。ウィッグの文化ってあるかな?本物の髪があるように見せる被り物なんだけれど……」
「なるほど。じゃあ、それに寄付しよう」
少し名残り惜しいのか、彼は髪に手櫛を入れた。青みを帯びだ艶のあるよい毛並みをしている。
「触ってみてもいい?」
「ああ」
レーゲンは自分の毛束を鷲掴みにしてアサギリに差し出した。
「いい髪質だね」
「食料が優先されていたからな」
彼はぽつりと言った。アサギリはすぐに意味が呑み込めずにいた。つまりは軍人であるために食うに困らず髪にも栄養が行き渡ったということを言いたいのであろう。
金眼がぱちくりと飼主に甘えた猫みたいにアサギリの反応を待っている。
「そう。じゃあ明日行くから、そのつもりで。髪に別れを言うことね」
「……髪と話すのか?この国では」
「…………話さないのならいいの。じゃあね。明日の昼頃また迎えに来ます。ごはんも外で食べさせるから」
意識的か無意識か、レーゲンは本当に人懐こい猫みたいな反応をした。爛々とした目は興味と関心に満ちている。
「ごはん……」
「もう好きなのを好きなだけ食べなさい。どうせ経費だから」
彼女は雑に剥ぎ取ったため破れかけている外出申請書に要件を記し医局を出ていった。
寄宿舎に戻る前に、派手なリゾートシャツを一枚着た老人と出会した。華美な柄の半袖から伸びる腕は特に老いを感じさせる。基地ジャンパーは持っていない。アサギリは異様な人物を見たとばかりだ。どういうわけか、繁華街の郊外から伸びる曲がりくねった長い道を通り抜けこの広大な敷地に迷い込んだのかも知れない。アサギリは適当に近付いた。するとおそらくセンターのパイロット監視システムが接触者としてこの謎の老人を認識するであろう。そこから警備部なり基地職員が徘徊中の翁を外に出すことが予測される。
「そち」
アサギリは迷い込んだ老人の脇を通り抜けようとした。独り言と決めてさらに歩を進める。
「そち」
「わたし……?」
振り返る。老人の首からブルーの紐が掛かっていた。カードがぶら下がっている。この基地の関係者であることを示している。老翁はアサギリのどこを見るでもなくただその姿を捉えた。
「国を失うた子を保護しとると聞いたが、どこぞ」
国を失ったと表現されると、該当するのは今アサギリが別れたばかりのレーゲン・ランドロックトということになる。彼女は来訪者玄関を指で差した。
「かたじけない」
「いいえ」
「国を失くすのは己が身の削れるような思いであろうな」
自ら首を掻き切ろうとしたレーゲンの姿が目蓋の裏に甦る。それからつい今目にした姿に上塗りされる。
「そうですね」
本心なのか適当に受け流した返事なのか、それはアサギリにも分からなかった。
「現実味が湧かなくて。戦争とか」
自分の白々しさに慌て、そう付け加えた。
「理解せずともよい。経ねば分からぬこともあろう」
「……経験しても、……………―いいえ」
この老人が何者でどこまで知っている者なのかアサギリは知らない。少なくともアサギリはこの老人に見覚えがなかった。そうなると、エンブリオやそのパイロット、さらには職務について口にしないほうが無難だ。
「ご用の方はあちらの建物です」
アサギリは話を切り上げた。もう行くぞ、と態度で示す。
「ほ、ほ、ほ。傷は舐め合って癒えることもあるものよ」
訳の分からない老人が差したほうに歩いていくのを認めてからアサギリもその場を後にした。翁の首にぶら下がっているカードにはチップが埋め込まれ、敷地内にいれば追跡ができ、監視モニターでも見張っている。故意か病か、おかしな真似をすればすぐさま拘束されるだろう。ここは善意と厚意と寛容で成り立っている市井ではない。
翌日にレーゲン・ランドロックトを迎えにいった。明日には書類手続きが終わりレーゲン・ランドロックトという名は消えてレーゲン・フジオカに改まる。改まるはずだった。結局のところレーゲン・フジオカには改まらなかったのだ。アサギリが彼に会いに行って真っ先に見せられたのはタブレット端末である。養子縁組の届出に彼女はぎょっとした。
「ランドロックトは残せると聞いた」
レーゲン少年を引き取りたがっているのはツキヨノ某氏45歳の女である。
「大丈夫なの?」
歳若く、見目も麗しく、身寄りのない異国の少年を囲いたい資産家の女の存在は、ホストクラブに足繁く通うアサギリにとって具体性のあるものだった。一体どのように彼の情報を得たのだろうか。
「どんな人?」
「昨日来たのは70過ぎくらいのご老人だった。そこに書かれているのはその人の内縁の妻だそうだが形式的なものらしい。実質的にはそのご老人の世話になるみたいだ」
リゾートシャツの老人に違いない。レーゲン少年を気に掛けていた。
「……そう」
「どうだ……?」
「え?」
「ミナカミ先生、いいだろうか?」
いくらか自信の無さそうな上目遣いが彼らしくない。いつもはもう少し横柄なところがある。
「いいんじゃない、好きにすれば。別にダメとは言わないけれど」
「ありがとう」
「いいえ。レーゲン・ツキヨノ・ランドロックトくんね。よろしく」
溌剌とした猫の目がほんのりと伏せられて照れ笑いしている。嬉しかったのだろう。それが分かってしまった。大人びて見えるがまだ20歳にも満たない子供である。安らげる場所もないところで異文化が迫ってきているのだ。胸が絞られるような感じを微かに覚え、アサギリは顔を逸らした。
「無理に、この国に馴染まなくてもいいよ。髪も切りたくなかったら切らなくて」
「いいや、髪は切ろう。馴染めるよう努める。俺に好くしてくれた。この国で生きていけると思えた。恩は返す。未練がましくはしていられないさ」
彼女はレーゲンを窺うように見遣った。
「強いのね」
「男だからな」
「ランドロックトくんの気性かな。まぁ、程々に。柔軟にいきましょう」
想定内の答えであるが、聞いていて妙に痛々しいのは先程の密やかな安堵を垣間見てしまったからだろう。
「さ、出掛けるから。支度なさい」
両手を打ち鳴らす。レーゲンといえばアサギリの来た時にはすでに起きていたが、支給品のハーフパンツに薄手の毛布を引っ掛けていた。髪は相変わらず艶やかで寝癖もなくすとんと真っ黒な清流を作っている。
支給品の基地内制服とジャンパーを身に纏う彼は生々しさがないゆえにあまり着画の参考にならなそうなモデルのようだった。野暮ったいと思っていた制服が垢抜けて見える。
「向こうで気に入ったのがあったら、それで帰ってきましょう」
用意の整ったレーゲンと医局を出て、寄宿舎の近くを通りかかったとき、前方からフブキ・マヤバシがやってくるのが見えた。まだ彼はこちらに気付いていないようである。隣には若い女性職員がいる。ふんわりとした印象の柔和な女で、制服のジャケットの下に桜色のロングスカートを穿いている。肩で切り揃えられ、赤みのある栗色の毛先が緩いウェーブを描き、焼菓子を彷彿とさせる。フブキ・マヤバシは俯くようにして彼女の話を聞いているらしかった。声は聞こえない。
「ちょっと、ランドロックトくん!」
特に理由もない、反射的な気拙さを覚えてアサギリはレーゲンを呼ぶ。止まる隙も与えなかった。止まらず歩き続けているようにさえ彼女には感じられた。もどかしさは彼女の背を突き飛ばし、彼女はレーゲンの腕を掴んだ。引き寄せかけたところで、視界の端の朧ろげなフブキ・マヤバシとその連れの女性職員が動く。雰囲気に違わない柔和で可憐な声で「おはようございます」と挨拶される。それに続くようにフブキ・マヤバシも挨拶した。
「お、お、おはよ……マヤバシくんと、えっと、―……」
アサギリが挨拶を返している間、レーゲンは腕を掴まれたままきょろきょろと三者を見回す。訳が分かっていなそうだった。フブキ・マヤバシがやっとレーゲンに視線をやって、アサギリは2人に紹介する。覚えたての言語でたどたどしく彼は自己紹介をする。それからアサギリに通訳を頼んだ。
"この前は騒動を起こしてすまなかった。この国で世話になることになったからよろしく頼む……と伝えてくれ"
今度はレーゲンからアサギリを引き寄せて耳打ちする。
「この前はお騒がせしてすみませんでした。しばらくの間、この基地に滞在すると思いますので、よろしくお願いします、と」
それから一言二言交わして、フブキ・マヤバシたちと別れた。レーゲンはぷらぷらと行先が定まらない故の蹌踉とした足取りでアサギリを気にしながら半歩前を歩く。彼女はただ真っ直ぐ前を見て、何となくレーゲンを追っていた。
「今の男に惚れているのか」
「え?」
「ミスター・マヤバシ、マヤバシ……さん」
「なんで?」
金色の目が一度、基地の外に広がる水平線に投げられる。そしてアサギリにやって来た。
「俺と話す時と声の感じが違った」
「分かるの?」
「戦場だと、そういうのは大切な手掛かりだからな」
特に得意げというふうでもなく、彼はまたアサギリから目を滑らせる。
「ふぅん。でも残念。惚れてるっていうのとは違うんだな」
「そうか。それならつまらないことを言った」
落胆するでも追及するでもないレーゲンを彼女は追い越した。
「色々とお世話になった人なんだ。もうダメだ、ムリだって思ったときに、寄り添ってくれた人でさ。惚れてる・惚れてないっていうと、ちょっとニュアンス変わってくるけれど、多少自分の考え曲げてでも、返したい恩があるっていうか」
聞いているのか否か不明なほど無反応のようでいて、金色の双眸はアサギリが話し終えるまで彼女を凝らしていた。
「あっち」
黙っている連れに彼女は途端に恥ずかしくなったのか、上擦り気味の声を出した。広大な駐車場とタクシー乗降場、バス停がある。アサギリはそこでそう大きくない青い色の車に乗った。彼女の乗る機体エンブリオ・アスマは暗赤色が使用されていたが、車はメタリックブルーであった。基地の上層部から贈られたものである。
「免許とか持ってる?」
シートベルトを締めながら後部座席のレーゲンをバックミラー越しに捉える。
「こういう車のは持っていない」
「そう。じゃあタクシーかバス使って。徒歩でもいいけれど、長いし、夜はシカとかイノシシ出るみたいだから」
運転して15分で目的地へと着いた。商業施設が並んでいる区画で、サザンアマテラス基地の制服は目を惹いた。否、理由は制服だけではなかったかも知れない。結い上げても腰に届くほど長い髪の男性は非常に少数派で、またその引き締まったスタイルも只者ではない空気を漂わせて目立つ。カラーコンタクトレンズほどの発色もなく自然に馴染むゴールドの瞳もまた物珍しい。首都に出ればさらなる人口に埋もれそこまでのことはなかったかも知れないが、片田舎の都市部の繁華街ではまだ視線を集めてしまっていた。レーゲンはもぞもぞとばつが悪そうだった。戦場に出ていた彼は人の気配や視線に敏いらしい。
「大丈夫?」
「ああ」
しかし眉間には皺が寄っていた。送られてきた視線すべてを睨み返そうとしているのか忙しなく左見右見する。
「落ち着かない?」
「いいや……目立つか、俺は」
「うーん、かっこいいからね、ランドロックトくん。スタイリッシュというか。美容室までもう少しだから、髪切ったら変わるよ、きっと……」
レーゲンは足元を見下ろしている。迷いをそこに見出してしまう。
「嫌だったら切らなくてもいいよ。でも、目立ったりはしちゃうよ、やっぱ。でもそれは敵意とかじゃなくて……」
「敵意じゃないのは分かっている。俺が慣れれば済む問題だ。切るさ」
彼は自身の垂れた毛先に手を入れた。しゃらしゃらと黒絹のカーテンのようである。アサギリのほうに断髪させる躊躇いが生まれている。美容院に予約は入れてあるが、直前でキャンセルするかも知れないことも告げている。後悔と比べればキャンセル代など安いものである。
「けじめだ。髪の根本から無くなるわけじゃないんだろう?また伸ばせばいい」
アサギリの戸惑いは相手にも伝わっていたらしい。悪戯っぽく笑ったのがどこかあどけなく、あまり彼らしくなかった。そうして美容院に辿り着き、レーゲン・ランドロックト改めレーゲン・ツキヨノ・ランドロックトは腰まで届くほど長かった黒髪を切った。ラウンジのアサギリと合流したとき、彼は霹靂神統治ノ地の若者にありがちなヘアスタイルに変わっていた。
「髪が柔らかい」
レーゲンはふっさりと空気を含んだようにセットされた自分の髪を揉んでいた。
「トリートメントしてもらったからね」
代金を支払い、店を出て、アパレルショップに入るまで彼は頻りに髪を揉んでいた。ガラスや鏡に映るたび不思議そうに立ち止まる。気に入らないのではないかと疑ってしまう。
「かっこいいよ、その髪型」
「そうか」
「ランドロックトくんの雰囲気とか顔立ちに合うようにしてくださいって頼んだんだから。短いの、慣れない?」
「頭が軽いな。首元も涼しい」
彼は頸に手を当てる。首が動くたび、シャンプーが薫った。
「不思議な感じだ。でも、ありがとうミナカミ先生。まだ礼を言えてなかった」
「髪切ったのは美容師さんでしょう」
「だがここに連れてきてくれたのはミナカミ先生だ」
すぐ傍を若い女2人組が通っていった。会話に夢中になっている。華やかなやりとりだった。何か言われたわけでも、それらしき事柄を聞き取ってしまったわけでもないが、ふと人目を気にしてしまった。
「"ミナカミ先生"ってなんか、教師と生徒みたい」
「嫌か?」
「ちょっと恥ずかしくなっただけ」
「慣れてくれ」
ガラスの反射した自身を気にするレーゲンの隣に映る自分をアサギリも気にした。身長は彼のほうが高い。
「でも、高校生と新人教師ならこんなもんか」
斜向かいの薄らとして透けた平面のレーゲンが遠い目をした気がして、アサギリは隣の本物を覗き込む。
「ランドロックトくんって18歳だよね。学校とかって……行けてたの?」
仄かな後ろめたさが過った。争いのない国の常識を彼に問うのはどこか気負ってしまうところがある。
「ハイスクールの1年までは通ってた。戦況が変わってからは軍隊一辺倒だったがな。軍事訓練を専攻していたんだ。学費が安くなるから。だから生活はほとんど変わらないといえば変わらなかった」
「そう……」
「徴兵されるから明日クラスメイトに別れを告げるものだと思っていたら、その前日の夜に校舎が吹き飛ばされててな。奴等は無事だったみたいだけど、結局別れは言えなかったな」
彼は微苦笑する。
「もう戻る学校もなかったからそのまま軍に志願した」
ぽんぽんと自身の短くなった髪を叩きながら彼はまた歩き出す。
「こっちでいいのか」
「うん。あそこの角を曲がるの」
いくらか彼の所作に挙動不審なものが混じるのは戦地にいたためであろうか。ここ100年近く戦争のない霹靂神統治ノ地では想像がつかない。アサギリもまたエンブリオ無しに戦地へ赴いたことはなく、また赴任先も前線ではない。あくまで民間人の保護や救援である。ここは戦場ではないと言っても彼の身に染みついた習慣はすぐには拭い去れないだろう。
アパレルショップに着いた。サザンアマテラス基地の制服が異様だ。アサギリは適当に見繕うよう店員に声を掛ける。
「欲しいものがあったら言って。買えそうなものなら買うから」
尻込みしているレーゲンを試着室に預け、彼女はその近くのソファーに腰掛ける。
見たところ少し奇抜な意匠の衣料が多かった。試着室が開くたびに、ホストクラブ風だったり、ストーリーダンサー風の服を身に纏ったレーゲンが現れる。
「どう?」
「分からない」
彼は首を振った。アサギリもまた、今流行りの若い男の服装が分からなかった。イセノサキにせよフブキ・マヤバシにせよ制服姿しか見ていない。マージャリナに至っては裸である。
店員に相談して、結局この店では歴史的名画のプリントされたフード付きのスウェットシャツを2着とジーンズパンツを購入した。制服から着替え、また別の店に渡り歩く。アサギリのよく使っているブランドのやたらとふわふわともこついたルームウェアのセット数着と、衣料量販店で普段から着回せるようなものを何着か買い漁った。紙袋が増えていったが、そのほとんどはレーゲンの手にぶら下がっている。車道側に回るのもさりげない。イセノサキもそうである。エンブリオに乗る際は暴力に成り得る武力を持つ強者としての自覚を叩き込まれるが、降りた途端に弱者として扱われる。妙な心地になってしまう。機体に復帰不可能のエラーメッセージが出た際はパイロットもろとも海に沈め、またそのようにプログラムされている言われている立場である。非常事態の際は銃の所持が許され職員や非パイロットを守るよう命じられている立場である。それが基地を出た途端、たちまち守られる側となる。パイロットとしての自身と一個人的な自分。そこが上手く彼女の中で合致しない。
小道から頭を出す車が停まる。隣のレーゲンも立ち止まり、紙袋をぶら下げた腕が遮断機の如くアサギリの前に出された。
「どうした?」
それでいて彼は連れのぼうっとした様子に気付いている。
「別に。ごはん何食べたい?好きなものは?」
「肉」
「何の肉?羊とかだとあんまりお店ないかも」
車が曲がっていくと新品の布に包まれた遮断機が上がる。
「この地では何の肉が主流なんだ」
「牛か豚か、鶏か……」
「じゃあ牛か豚」
「ステーキと飯店風バーベキューどっちがいい?」
「飯店風バーベキューってなんだ」
彼は首を傾げた。人工的な薔薇が髪から薫る。
「お肉を直火焼きにするやつ」
「丸焼きか?」
「薄切りになってるよ」
「じゃあそれがいい」
ちょうどその専門店の看板が見えた。レーゲンを案内する。夜間に混雑する焼肉店だが昼間は空いていた。すぐに席へと通される。掘り炬燵のような個室だった。レーゲンは店内を見回していた。霹靂神統治ノ地とは別の地の風情をテーマにしている。
「高いんじゃないのか」
メニュー表を広げてはいるが、彼は見てもいない。
「大丈夫。稼ぎいいから、これでも」
アサギリは反対にメニュー表を眺めていた。
「……そうか。働いて必ず返す」
「ふぅん。あてにはしてないけれど、程々に」
レーゲンの今までの言動からして女が金を出すのが赦せないのだろう。もしかすると一緒にいる女の稼ぎがいいことさえ気に入らないかも知れない。しかしこの地の基準でいっても18歳といえば多くが高校生である。例外はあるだろうけれど、ほとんどは保護者の経済力に依存するはずだ。
「他人のお金で食べるごはんは美味しいらしいから、今は何も考えず食べなさい」
メニューを読み上げて、レーゲンの好きなそうなものを選んでいく。
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