18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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熱帯魚の鱗を剥がす(改題前) 陰険美男子モラハラ甥/姉ガチ恋美少年異母弟/穏和ストーカー美青年

熱帯魚の鱗を剥がす 4

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 指が朋夜ともよの弱いところ二箇所を上下から塞いでっては戻していく。ある程度の硬さがある肉感に挟まれ彼女は胸の控えめな先端を膨らませてしまう。他者の体温が擦り付けられ、頭の中と下腹部に艶めいた痺れが駆けていく。
 静かな空間に異様な息遣いが沁み入る。
「ぅん………っ、」
 実粒を捏ねられ腰が揺らめいた。真後ろにある義甥ぎせいの身体に尻を打つ。
「ぁん……」
 耳元や首筋を掠れた吐息が撫でていく。微かな呻き声が混ざっているのは気のせいか。気のせいだろう。この空間で身を熱くし息を荒くしているのは自分一人だけなのである。朋夜は羞恥によってさらに感度を上げた。
「あ………は、ぁんっ……」
 真後ろの指は彼女の異変を悟ったらしい。小さな膨らみを摘まむ手付きが変わった。
「あ………っ」
 咄嗟に胸で遊ぶ手へ自分の手を重ねた。危険な温もりを掌に感じる。耳の裏に吹き付けていた吐息が掠れた声を帯びる。
「ごめ、なさ……」
「叔母さん―!」
 肩を掴まれ、視界が半転する。朋夜は布団に埋まった。思考は停止している。何が起きたのかまったく分からない。ただ苦しそうな呼吸が真上から聞こえる。
「叔母さん……」
 次の瞬間には首を回され、唇を塞がれていた。朋夜の身体がぴくりと跳ねる。
「ん……、ふ」
 触れた瞬間に抉じ開けられ、熱くぬるついた塊が口腔を占領した。それはすぐに大蛇の如くとぐろを解く。
「ぁ……っ」
 朋夜の強張った舌を探っている。しかし彼女は口にばかり集中しているわけにはいかなかった。素肌を撫でられている。臍を辿り、下へ下へ指先がなぞっている。
「あ………っぅん」
 身を捩った。頭を抱き込まれ、泥濘ぬかるむような柔らかさから唇が離されることはない。薄い毛に潜む指からも逃避はできなかった。そのまま蕊肉を擽られる。骨を微かに震わせるような甘い痺れが広がる。そのはずみで口の中の熱くぬめったものに浅く歯を立ててしまった。
「は………ぁ、んっ、ごめ、」
 意識はぼやけていた。しかし義甥に虐げられる生活が身に染みている彼女は、己の粗相を譫言うわごとのように謝った。だがすべてを言わせてくれはしない。京美みやびは朋夜の呼吸も奪ってしまった。彼女は咽せるほど喉に溜められた蜜を嚥下する。そして飲み切れず咳く。
「叔母さん」
 甥の唇が離れた。ところがまだ透明な糸で繋がれている。彼は一瞬の解離を惜しんだのか、もう一度血の繋がらない叔母に口付ける。密着しそうな男の身体へ咄嗟に腕を挟む。
「あ………あ……、」
 腿と腿の狭間にある手がまた不審な動きをした。
「京美く……」
 荒々しい息遣いは過呼吸を思わせるが、それとはまた異質の危うさを帯びている。聞かせている者の危険ではなく、聞いている側の身の危険を想起させる、そういう不穏さだ。
「はな……して。もう、寝ない………と」
 彼女の声は嗄れて消え入りそうだった。義甥が怖い。怯えが隠し切れていなかった。平生(へいぜい)ならばまた嫌味を言われるところであろう。
「まだ、イってないだろ」
 その後のことは朋夜も忘れてしまった。忘れるように努めた。 



 喉の痛みで目が覚めた。
『―……叔母さん、したい。挿れたい』
 レースカーテン越しのフィックス窓は明るかった。実家と違い、心地良い鳥の囀りも聞こえない。ここでの朝は無機質な感じがある。
 身体を起こすと頭に痛みが走った。風邪かも知れない。熱っぽさはなかった。体調不良かも知れないことに安堵する。そうであればおかしな夢も赦されるような気がした。
「叔母さん」
 夢の中で耳に張り付いた甥の声だ。朋夜の肩は哀れなほど痛々しく跳ねていた。彼女はおそるおそる振り返る。ドアのところに京美が立っていた。
「ご、ごめんね、寝過ごしてたみたい」
 しかし枕元にある目覚まし時計はこれといって寝坊や遅刻を示してはいない。何より朝の支度は京美自身で出来ることだった。以前、余計な世話を焼いて気分を害してから朋夜が朝、彼に対してできることは何も無いのだと学んだのだ。朝飯も弁当も用意しなくなってしまった。よく考えると仕方のないことだったのかも知れない。大学の友人と食べに行くのだろう。
「何か、用……かな?」
 おぞましく妖異な夢をみてしまった。平静を装う。寝る前の酒は控えるべきかも知れない。ベッドに入ったときの記憶まで飛んでいた。
 京美は黙っている。
「洗濯物、何か足らなかった?ごはん要るとか……?」
「……別に」
 彼は冷たく言って踵を返した。そろそろ大学に行くのだろう。1限目から出席する曜日らしい。朋夜も用はないけれど義甥の起きている時間に寝ていることが後ろめたく、彼よりも早く起きるのが常だったが、今日はそうもいかなかったようだ。
 見送りに出ようと迷いはあった。しかし義甥に嫌われている自覚は大いにある。出掛ける直前に不快にさせる気もない。京美の動きを窺い、顔を合わせないように朋夜も身支度を済ませた。玄関ドアの開閉を聞きながら、彼女はリビングで外を眺めていた。京美に対する済まなさと亡夫に対する詫びを呆然と空に馳せていた。
 どこまでが夢で、どこまでが現実だったのか……朋夜はリビングに残る手掛かりを見ないことにした。それにしても限界がある。彼女はひとり家に居られなくなって出掛けてしまった。

 住んでいるマンションの南側に図書館とカルチャーセンター、それらを包括するように自然公園がある。朋夜は暇なとき、そこをたびたび訪れていた。夫ともこの自然公園によく来ていた。桜の木があり、それを眺めにやってきたのだった。今ではどこか色褪せている。
 朋夜は夫が亡くなってから初めてここに来たことに気付いた。まだそう景色や雰囲気の変わったところはない。彼女の耳に歌が届いた。カルチャーセンターとその別館の外通路にある駐輪場はダンサーたちの練習場になっていた。しかし彼等は近所迷惑によく配慮している。音楽を開放したりはしてなかった。ふと歌の出処に目がいった。そう大音量というわけではなかったが、閑静な場所である。ハミングのような、コーラスのような歌声は敏く耳が拾ってしまう。うるさいわけではなかった。歌っているのは10代後半から20代前半といった中背の痩せた男で、長い丈のカーキー色のダブルガーゼシャツとだぼついた白のカーゴパンツがどこか野暮ったい。ゆらりと横に身体を揺らす様が平和呆けしている感じがあるが、実際、朋夜の生きているこの世間は確かにどこかの遠い国で戦争や飢饉、貧困があることも否めないけれど、身近なところでいえば安穏としていることに違いなかった。
 暢気な空気感を持った人物の歌が止む。
「うるさかったですか」
「きゃっ」
 まったく予想だにしていなかった角度、タイミングで声を掛けられ、朋夜は身を竦めた。
「ごめんなさい。びっくりしちゃって……」
 野暮ったい歌謡うたうたいは彼女の少し離れたところにいる。とすると声を掛けたのは彼ではなかった。
「いいえ。突然声を掛けてしまってすみません」
 背のすらりと高い、爽やかな青年である。黒い不織布のマスクをしているのが印象的だった。腕には資料を高く積み上げて、どこかに運ぶ途中だったらしい。
「あれ、ぼくの双子の兄なんですよ」
 双子と言われ、朋夜は思わず背格好の割りに垢抜けない歌謡いとこの声を掛けてきた青年を見比べてしまった。二卵性双生児なのかも知れない。遠目に見ているためか、あまり似ているという印象を抱けずにいた。
「注意しておきますね、うるさいって」
 不躾な視線に気分を害した様子もなく彼はにこりと笑った。マスクによってそう見えるのか顔が小さかった。
「ああ、い、いいえ。うるさくないですよ。ただちょっと、聴いてただけで」
「そうですか。近所迷惑なのはこちらなので、うるさかったら言ってください。言ってやれば聞きますから、あいつは」
 やはりマスクによるものか目元が柔らかく見えた。眇められるとより優しい印象を受ける。
「はい……」
 他にも公園の利用者は何人かいる。彼はひとり一人に訊いて回っているのだろうか。
「では」
 地毛を思わせる焦茶めいた黒髪は少し傷んでいる兆しをみせていたが綺麗に梳かされていたのを朋夜は何となく見つめていた。その双子の兄というのは遠目からでも暗い髪色にメッシュを入れているのが分かる。若白髪が散らばったような風情にも見えるのは彼の垢抜け無さであろう。先程の青年のあまり似ていない兄はまた歌いはじめ、しかし調子が良くないのか中途半端なところでやめてしまった。左右に首を傾げる様がどこか白痴的で、そしてまた声を出すがすぐにやめる。
 朋夜は彼を見ていた。どことなく夫に似ている感じがした。姿は似ていない。ただ削ぎ落とされず擦れないあどけなさが仁実と重なる。
 ペットボトルを口元で傾けた歌謡いが朋夜を認める。おそらく同じタイミングで彼女も我に帰った。離れているが、相手が照れ臭そうに笑ったのが分かった。どう応えていいのか分からず、朋夜は会釈する。彼はペットボトルを置くと傍にやって来た。文句を言われるのではないかと身構えてしまったが、近付いてくる顔は朗らかである。醜いと断じるほどではないけれど、肌荒れが目立ち、顔立ちは冴えなかった。しかし愛嬌によって厭悪感は払拭され、服装の野暮ったさや体格の少し貧相な感じが嫌味を無くし、どこか憐憫すら誘っている。双子の弟といっていた人物と、一目でそれとは分からない。
瞳希とうきの知り合いなんすか?」
 彼はからからと笑った。
「え?」
「さっき話してたから」
 該当する人物はすぐに絞れた。
「黒マスクの人?」
「そう。知り合いじゃないのか。な~んだ」
瞳希とうきくんって言うんだ?双子のって言ってたけれど、双子なの?」
「似てないっすよね。そう、双子なんすよ~。あいつが瞳希でオレが瞳汰とうた。あそこの家に住んでんすよ」
 彼は身を翻してこの公園から見えるなかなか立派な一戸建ての民家を指で差す。
「近いんだね」
「そうそう。だから瞳希のやつ、そこの図書館でバイトだかボランティアだかってやってんすよ」
 随分と馴れ馴れしいが、嫌な感じはしなかった。朋夜は長らく他者と話していない。見ず知らずの高校生だか大学生だか社会人かも判じられない人懐こい人物と話して彼女はどこか安らいでいた。
「瞳汰くんだっけ?あ、わたし綾鳥あやとり朋夜です」
「そ、そ。綾鳥さん?オレはね、糸魚川いといがわっす」
「糸魚川くんか。それで糸魚川くんは、歌の練習?」
 双子というからには先程の黒マスクの青年とは同い年のはずだ。しかし瞳希というらしいあの青年は大人びていたのに反して、この瞳汰とかいうのはあどけない。体格も健康的な印象のあった瞳希に反して、瞳汰は背丈は小柄でないといえどもその華奢さはどこか不健康な栄養状態を疑わせる。
「あ、名前呼びでよかったのに。苗字教えなきゃよかったな、なんて。お歌はね~、趣味っすよ」
 けたけたと笑っているのが無邪気だった。朋夜は自宅からここまで背負ってきてしまった暗雲が幻のように思えてしまう。
「じゃ、呼び止めちゃってゴメンなさいっした」
 彼は何度か頭を軽く下げて練習場所へ戻っていく。朋夜も公園の中に踏み入って、ベンチに腰掛けた。こうしている場合ではない。実弟の精を受けている。然る医療機関に赴かねばならなかった。それでいて足が向かないのは、まだ認められずにいる。可愛かった神流かんなが牡になっていた。そして実姉にその情欲をぶつけたことを、理解しようとすることさえ拒んでいる。他人事のように頭の中を事実だけが駆け巡り、おそらくそこに感情や倫理を乗せてしまったなら最後、正気ではいられなくなりそうであった。ぼんやりと屋外植物園のていをなす自然公園の木々、空を覆う枝葉を眺めていた。
 ぽつりと頬が濡れる。気付くと曇天に変わっていた。雨だ。京美は傘を持っていただろうか。ぽつ、ぽつ、と頬を叩く雨粒の間隔が短くなっている。朋夜はカルチャーセンターへ走った。そこは図書館と地下で繋がった中型の施設で、大ホールと小ホール、視聴覚室やギャラリーがある。喫茶店も備わっているらしい。雨宿りにラウンジのソファーに座る。表の通りに面した壁はガラス張りだった。みるみる外は暗くなり、アスファルトが色を濃くしている。
 京美は傘を持っていっただろうか……
 連絡手段が無いわけではない。確認するべきだ。それが保護者の務めに違いない。傘を持っていっていないのなら迎えに行くなり、早々家へと帰って湯の支度でもしておくのが孤独の身となった甥に対する情であろう。
「大丈夫ですか?」
 外の様子を見ていると、横から声を掛けられる。あの黒マスクの青年だった。双子の兄とは違い、全体的に垢抜けた感じがある。彼はファイルの束を腕に積んでいた。
「え、ああ、はい」
「雨、降ってきちゃいましたね。傘、ありますか」
 だが双子の兄と同様に人懐こいらしい。
「それが……持ってなくて。ちょっとだけここで雨宿りしていこうかなって」
 ところが雨脚は強くなっている。すぐさま帰ってしまったほうがよかったのかも知れない。
「それがいいですね。よかったら傘、貸しますよ。家がすぐそこなので」
「さっきお兄さんと話しました。近いそうですね。でも大丈夫です。ありがとうございます」
 借りたところで返せるあてもない。少し意外そうな顔をされて朋夜は焦った。もしかするとそのつもりがなくとも己の言動や態度は明確に相手を不快にさせているのかも知れない。京美もそのために日がな一日怒っているのなら合点がいった。
「優しいんですね」
「いいえ、全然。困ったときはお互い様ですから。それより、兄とお話しになったんですね」
「はい。あの後すぐに」
 朋夜は彼がここで話していていいのか、それを気にして落ち着かない。
「大丈夫ですか?お話していて」
 またぴくりと片眉を動かした相手に朋夜は怯えた。兄のほうだけ見れば高校生くらいに思えたが、弟のほうを見れば、京美と歳の頃はそう変わらないようだ。
「大丈夫ですよ。ああそうだ、急で失礼なんですが、お仕事とか何かされているんですか?」
 まるで初めて行った美容室のような話題の振り方だ。
「いいえ……専業主婦で。仕事はしておりません」
 人好きのする双子の兄のほうは気を遣わせるような遠慮がない、臆さず踏み込んでくるような屈託の無さがあったが、弟のほうは頑固とした壁をひとつ隔てたような空気感を纏っている。初対面からどの程度近付けるのか理解させてしまう、本人にその気は無さそうな突き放したところが醸し出されている。それでいておそらく、彼にその自覚がない。眇められた目元は柔和でありながら薄情だ。
「そうなんですね。あの、もしよかったら……今カルチャーセンターのちょっとしたアルバイト募集していて。あそこに貼紙あるんですが。もしよかったら、検討してみてください」
 つまりは暇そうな利用者を見つけ、勧誘が目的だったのである。何か拍子抜けしてしまった。しかしよくよく考えれば目的なしに初対面の通りすがりの利用者に善意など振り撒かないであろう。
「そうなんですね。夫と相談してみます」
 笑っていないが笑っているつもりの目はとうとう笑っている風を装うのもやめてしまった。じとりと朋夜を見下ろす。その様は義甥を怒らせた時の不穏な夕凪に似ていた。聞き慣れた舌打ちは待てどもやって来ない。
「まるまる1日潰れるような仕事でもないですから。ご主人が出勤してから帰宅する前に終わったりしますし」
「そう」
 さすがに夜の歓楽街の如くしつこい勧誘をされるとは彼女も思っていない。だが先程から山を張られていたらしき誘いを断ったのだ。ばつが悪い。朋夜は苦笑を浮かべて場所を変えかけたが、外へと出てしまった。すぐ隣のカルチャーセンターの別館ならば空いている。彼女はそこへ移動した。耳鳴りのような音が空を覆っている。
「あれ、さっきのお姉さん」
 カーキ色のダブルガーゼ素材のシャツが野暮ったい歌謡いの青年がビニール傘を差して前を通った。
「こんにちは~」 
 何と反応してよいのか分からず、愛想笑いを浮かべて彼女はおどけた。
「何してんすか?」
「雨宿り」
 糸魚川瞳汰とかいったのはあざとく首を傾げた。朋夜はまだ愛想笑いを続けて空を指した。
「あ~。じゃあこれ使うといいっすよ。オレんすぐそこっすからね!ってこの話さっきしたな」
「え、いいよ。だって君が濡れちゃうじゃない?」
「でも濡れてもすぐおうち帰れるから、別に。ずぶ濡れでも3分足らずですぐお風呂っすよ」
 けらけらと笑って彼はビニール傘を閉じる。
「どこか行くところだったんじゃないの?」
「おうち帰ったらさ、飯なかったんすよ。だからちょっとコンビニ行こうと思ってたんすケド、すぐそこなんで」
 雨水を垂らす傘を差し出される。
「でも……」
「もしかしておうち、オレん宅より近いとかっすか?」
「違うよ。あそこだもん。あっち。駅のちょっと北側」
 自宅マンションのある方角を指す。瞳汰は興味があるのだか無いのだがよく分からない反応を示した。
「じゃあ濡れちゃうじゃん。コンビニ行ってさ、お店出たら失くなってる!ってザラすから、使うといいすよ。返さなくていいんで」
 へら、へら、と吃逆を起こしたように肩を跳ねさせて笑うのが変わり者といった風情がある。
「じゃ、じゃあちゃんと返しに行くよ。あそこのおうち、だよね?」
「うん。表札出てるし。ママンに言っとくっすね。オレが出られたらいいんすケド。ゴメンなさい、さっき名前聞いたのにもう忘れちゃった。もう一回訊いていいすか?」
 ビニール傘の把手には彼の体温が微かに残っていた。
「うん。綾鳥。紐で遊ぶあやとりってあるでしょ?あれと同じ名前」
「ああ、それオレも思ったっす。綾鳥さんね。綾鳥さん……綾鳥さん。じゃあママンに一応言っとくっす。綾鳥さんが傘返しに来てくれるかもって。でもそれ100円くらいっすから無理しなくていいすからね。お店とか出てきた時にはもう失くなってる運命なんすから。ンじゃ!」
 敬礼の真似事をして彼は雨の中に消えていく。
 仁実―当時の飛?(ひだか)仁実との出会いも雨だった。傘を貸したのは朋夜だった。営業に行くため濡れることのできない仁実に傘を貸した。あまり印象に残っていない。その後に長い付き合いになるどころか夫婦になると思っていなかった。朧げな記憶である。
 ビニール傘を差して帰路に就いた。京美は傘を持っていったであろうか―……
 彼は朝、傘の在処を問いたかったのではあるまいか。傘ならば玄関にあるが、折り畳み傘はリビングのチェストにしまってある。朝は晴れていた。気が重いのは気候の所為なのだろうか。
 自宅に帰る前に、洋菓子店に寄ってクッキーを買った。明日か明後日には返しに行けるだろう。




 玄関ドアが開き、雨に濡れた京美が入ってきた。息が詰まるのを無視して朋夜はタオルを持っていく。
「お……おかえりなさい」
 ドアを静かに閉め、鍵を閉めている。「ただいま」が返ってこないのは常だ。代わりに彼は靴を脱ぎ、迎えた叔母の顔も見ずに口を開く。
「チェーンロックしたらどうなの」
 彼は叔母の持ってきたタオルを拒絶した。
「でも、わたしもすぐ出て来られるとは限らないから……」
「弟が来るからだろ」
 自室に入る直前に彼は吐き捨てる。瞬間、朋夜は眩暈を起こした。恐ろしい会話がふと夢ではなく現実として目の前に押し寄せてきた。
「合鍵渡してるんだろ」
 底意地の悪い笑みを浮かべ、自室に吸い込まれていくはずだった爪先は向きを変えた。朋夜の身体が強張る。距離が詰められ、彼女は後退った。濡れて色を深めた黒髪の奥に侮蔑と憎悪と非難に満ち満ちた眸子が潜んでいる。
「京美くん……」
 呆れたような溜息が聞こえた。水気を多分に含んだ髪を掻き上げ、また叔母を睨み直した。
「シャワー」
「い、今用意するよ。ごめんね、気が利かなくて」
 奏音さんなら、と続けられる前に朋夜は謝った。
「違う。一緒に入れ」
「え……?」
「血の繋がった弟とやれるんだ。血の繋がってもない甥とシャワーくらい、浴びられるよな?」
 眼前に京美の美貌が迫った。朋夜は傘を借り、雨には殆ど濡れなかった。しかし身体は一気に冷えていく。
「せ、狭いんじゃ……ないかな」
 歯が鳴りそうだった。濡れている甥の前で、濡れていない身体が凍えている。
「それならこうやって入る?」
 濡れた服が寄ってきている。朝よりも濃くなった布が引き締まった肉体に張り付いている。壁と甥の胸にプレスされかけている。
「あ……ぁ、」
 鼻先が触れる。陸に揚げられた魚よろしく朋夜は哀れなほど口をぱくぱく動かした。唇が触れかけ、しかし接触はしなかった。
「こんなことして入れるわけないだろ」
 とんと鎖骨の辺りを突き飛ばされる。壁に背中を打って弾む。
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