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叢雲に消ゆ ロボットヘテ恋/独自世界観/暴力・流血描写/未定につき地雷注意
叢雲に消ゆ 1 永久就職先の基地で巨人型有人機動装甲・エンブリオのパイロットを務める話。
しおりを挟む霹靂神統治ノ地の西の最果てには岬のように鋭く突起した地形の上に大きな基地があった。周りは緑に囲まれ、森林が茂り、そこを貫くように長い道路がひとつ伸びていた。霹靂神統治ノ地、アーレウス県の都市部に繋がる。
アサギリ・ミナカミは基地の中にある彼女の部屋にいた。二日酔いで頭が鈍く痛んだ。ここが自宅兼職場である。
隣には裸体の若い男が寝ていた。彼女にとっての犬であり、ヒトの牡ではなかった。何の感慨もない。肉の関係もない。彼女の目には寝具と一体化している。この同衾者はまるで存在していなかった。アサギリはベッドサイドにあるペットボトルの水を飲み干す。昨夜開けて、半分も残っていなかった。ここは自宅兼職場兼墓場である。
ベッドの下に散らかった服を拾い集め、下着姿の彼女は浴室に入っていった。ホテルのような造りで、なかなかに贅沢だった。この暮らしに慣れてしまうとアパートを借りるのもばからしくなってしまう。家賃、光熱費もかからず、遊興費も経費で落ちた。
フェイスオイル、シャンプー、ボディーソープ、あらゆる洗剤が移り香を消していく。昨日はホストクラブにいた。大枚をはたき、大酒を飲んだ。自身の懐から出ない金で遊ぶのは慣れがある。意外にも面白みがない。ただ酒を飲むだけの場になっている。撥水加工されたタイルを模した壁に額を擦り付ける。少し冷えたシャワーが肌をうつ。これから予定がある。髪を乾かし着替える時間を含めるとあまりもたもたしていられない。彼女は少しの間ぼんやりしていたが、やがて洗浄作業に入った。
シャワーを浴び終えると部屋着を身に纏い、適当に髪を乾かした。暫くはゆったりとしたルームウェアでソファーに横たわり寛いでいたが、そのうちオーダーメイドの下着姿になると、レーシングスーツに身を捩じ込みはじめる。アサギリはレーサーではないけれど日常の中にレーシングカーに乗る習慣があった。基地内のサーキット場にある更衣室は狭苦しくあまり好きではなかった。そのためにこのサザンアマテラス基地の寄宿舎の自室で着替えてそこからサーキットに向かう。
途中、廊下で今から出勤と思われる人物と鉢合わせる。相手もアサギリの姿を認めた。気拙げな表情を向けられるが、彼女は気付かないふりをする。
「おはよ、マヤバシくん」
彼は穏やかそうな目を伏せ、小さく頭を下げるだけだった。フブキ・マヤバシである。職務は違うが同い年で、以前は目を見て肩を寄せ合い話せたものだった。窮屈そうにさせているのを済まなく思い、彼女はいくらかせかせかとしてサーキットに向かう。海に面しているため防風林の奥にはブルー2色の境界と日の光が波に照りつけているのが見えた。
サーキットのクラブハウスで身体検査を受ける。アルコール検知で引っ掛かった。8時間空けているはずだが、まだ基準値を少し越えていた。アーレウス県の条例では酒気が基準値を越えた場合、公道を走るのを禁止しているが、ここはサザンアマテラス基地の敷地の中であり、サーキット場でのアサギリの素行を考慮し、ある程度の数値であるならば酒気帯び運転を認めていた。
彼女は自分のヘルメットを被り、レーシングカーに乗り込んだ。これはアサギリの本業とはあまり関係がない。ただ精神力の鍛錬を怠るわけにはいかず、惰性のように続いてる習慣だ。
サザンアマテラス基地は巨大有人人型機動装甲を6機有している。その1機を操るのかアサギリであるが、しかし彼女は正式なパイロットの任からは降りてしまった。否、降りざるを得なかった。身体が保たなくなってしまった。巨大人型機動エンブリオをもう操縦する必要はなく、彼女は他のパイロットたちのオペレーターになったため、このようにサーキットで神経を研ぎ澄ます鍛錬などは必要がなかった。何よりアサギリ自身、エンブリオの正式パイロットから降りられたことに安堵している。
彼女の脳裏に自身の情けない姿が過った。掃除用具室に隠れ、鬱いでいると先程寄宿舎で会ったエンブリオ整備士のフブキ・マヤバシがやってきて慰められたものだ。それから間もなくして、コックピットを満たす特殊な薬液の濃度調節をするユニットの整備に誤りがあり、アサギリの身体は同様の薬液に拒絶反応を示しはじめた。彼女はもう、正式なパイロットと同等にエンブリオを操縦することはできない。それはアサギリにとっては重圧からの解放であったけれど、担当整備士にとってはそうではない。大きな過失であり、また貴重なパイロットに欠員を出した。謝罪に来たその者の言では一人の人間の身体を壊してしまったというのだからアサギリも軽薄に心緩びしていられなかった。
アサギリが関わるのは同年代のパイロットたちばかりである。エンブリオの操縦には体力と精神力を使う。気分の落差が激しくなり、神経質な者が多かった。今はサザンアマテラス基地に於いてエンブリオの操縦ができる者はアサギリしかいないけれども、戻ってきたばかりの彼等は心身共に疲弊し、悲嘆と憤激と喜楽を短時間に繰り返す。その様を他人事として見ていると、どういった意味でも長く生きられないことを悟る。アサギリもそういう都合で酒の味を知った。
フブキ・マヤバシという男はそうではなかった。整備士の中では背丈はあるが華奢なほうだった。そこはかとなく頼れなそうな穏和な男だ。色白で、赤い眼鏡がどうにかこうにか健康的な色を添えている。近くで見ると雀卵斑があったことをふと思い出した。
『この国も戦争になったら、わたしも戦うんだ……!』
掃除用具室の隅に蹲るアサギリに、彼も屈んで長いこと傍にいた。鍵を閉められぬようにとそこにいたのだ。
『この国は戦争になったりしないよ』
任務を終えたばかりのパイロットが恐慌状態に陥り、駆け付けてきた整備士に絡むのはよくあることだった。殴られる整備士や怒声を浴びるオペレーターもいる。それほどまでに操縦は心身が疲弊する。集中力と判断力が問われ、それが命に直結する。そしてコックピットに充満する興奮作用のある薬剤がさらに彼等をおかしくさせた。
フブキ・マヤバシもその経験があるのだろう。ドックに戻って来てすぐコックピットを開くのは整備士の仕事である。パイロットの奇行には慣れているに違いない。
『この国は戦争になったりなんかしない』
彼は同じ口調で繰り返した。
『お願い、お願い、ウソでもいいから……戦争なんかしないって言って、ずっと…………』
当時まだ名も所属も知らない人物にアサギリは泣き付いた。
この国は戦争になったりしない。霹靂神統治ノ地は、遠く昔にヴェネーシア水源郷という大国と同盟を結んでいる。同盟関係というが、実質は覇権国家と属国の関係である。戦争放棄を選んだ霹靂神統治ノ地は自ら攻撃こそしないが、ヴェネーシア水源郷の支援を行わねばならない。その間、霹靂神統治ノ地は大国に守られるのである。
サザンアマテラス基地にエンブリオの操縦ができる者がアサギリ以外にいないのはそのためだ。今、ヴェネーシア水源郷の軍と共に戦地に赴いている。やることは、民間人の保護と支援物資の輸送車の衛護、生存者の救出だ。
そういう任務の中で、アサギリがまだ正式なパイロットだった頃、彼女は人を殺したことがある。
『ずっと、言うよ。だから戻ろう。今日は眠ろう?』
それから少しずつ、彼と話をするようになった。整備不良を見過ごしていたのがフブキだと知れるまで。
"集中が下がっています。中断を検討ください"
スピーカーから声が聞こえる。サーキット場のオペレーターだ。
「はい……停めます」
公道でやれば制御も利かなくなるほどの猛スピードだが、考え事をしていた。ひとつの操作ミスで落命するという認識が欠けているのかも知れない。分かっていながら集中力が保たなかった。表面的な危機感はあるつもりだった。だが本質的には理解していないことになるのだろう。アサギリといえば、もう少しフブキ・マヤバシに気の利いたことを言えなかったか。そればかりを考えていた。
マシンは減速し、やがて停まった。ヘルメットを取る。他にサーキットを使う者たちはいない。皆、戦地の支援に派遣されている。貸切状態が彼女から緊迫感を奪うのかも知れない。
オペレーターに適当な礼を言いに行って、彼女は行き場もなくサーキットの裏に屈み込む。
フブキ・マヤバシとのぎくしゃくした関係を早々解決してしまいたい。真面目な彼はパイロットの1人を使い物にならなくしてしまったことを気に病んでいるに違いない。しかしアサギリはまったく、彼を恨んでなどいない。それを長いこと、およそ2年、放っておいてしまっている。一度彼を外食に誘ったことがある。彼はその負い目から断りはしなかった。誘った手前、アサギリが無尽蔵に等しい金を使って支払いを済ませるはずだった。そうするはずだったのである。だが律儀なフブキ・マヤバシがそれを許すはずがなかったどころか、油断をしていた。アサギリの知らぬ間に2人分の支払いが済まされていたのである。彼を食事に誘うの賢明ではない。
アスファルトの亀裂に咲く、雑草みたいな黄色の小花を見つめながら彼女はサーキットのトレーニングの数値の悪さも気にせず思考を巡らせる。まだ正式なパイロット時代、散々に我儘を言い、弱音を吐き、文句を聞かせた相手である。
蟠りのある友人について彼女は暫く俯いていた。陰が近寄っていることにも気付かない。
「ミナカミ」
おそらくこれが一度目ではなかった。何度か呼ばれて過ごしていたのを、気付いた瞬間に悟る。
アサギリは顔を上げた。ナイロン製のリバーシブルのジャンパーはサザンアマテラス基地指定のものだ。黒い髪をオールバックにし、銀フレームの細い眼鏡が峻厳な印象を与える。背の高い男性が立っている。アサギリは彼を見た途端、げぇ、と逃げ出したくなってしまった。この基地を出てもよくある、苦手な上司というやつだった。
「二日酔いで車に乗る奴があるか」
連絡が行ったらしい。初回、二度目までは許されたが三度目はそうもいかないらしい。
「い、いいじゃないですか、別に。わたし好きで、こんな基地にいるんじゃない」
咄嗟の言い訳も出ない。堅物のこの実直な仕事人を怒らせたかも知れなかった。彼はやる気のない部下は嫌いそうだ。無能な上司にさえ物申しそうな勢いである。実際、アサギリの開き直った態度には溜息が返ってきた。
「ミナカミ」
「なんですか」
テンセイ・イセノサキは神経質げな眉根を寄せているが、いつものことである。呆れた様子ではあるが怒ってはいないようだった。鋭い叱責さえ飛ばなければ、アサギリは彼から見限られようと見放されようと、大した頓着はない。
「人を助け、人を守れる力というのは、誰しもにあるわけではない。それは分かっているな。力の有る者は、無い者のために使え。特にミナカミ。お前の持つ力は大きい。アレを操縦できるということは」
大きな溜息の次に出てきたのは説得だ。
わたしはもう、そんなのじゃないんですよ。彼女は浮かんだ返答を呑み込んだ。誰かに遠慮してしまった。責めているみたいではないか。そのようなつもりは無いというのに。
「じゃあ、わたしは疲弊してもいいっていうんですか」
「それが正義であるのならば」
彼は根から基地の人間である。パイロットの能力を持ってしまい、この基地に住み込まなければならなくなったアサギリや、その他パイロットとは認識も覚悟も違うのだ。分かり合えるはずもない。正義感で進路を決めた彼等と、ただある素質を見抜かれて招集され、大型機械に乗せられて戦地へ赴かなければならない者たちが。
「わたしは、そういう正義についていけません……」
アサギリは目を伏せた。彼等は遠隔地に於いて指示を出すのみである。撃沈の恐怖はない。目の前で人が死にゆく様を見ることもない。人が人を殺し誰かの故郷を木っ端微塵にする光景を見ることもない。
「持った者の使命だ」
反抗する気も起きなかった。彼なりに"持たざる者"である身を歯痒く思っているのかも知れない。
「苛斂誅求ですね」
厳しい上司の眼差しが呆れに満ちている。
「Mr.マヤバシと話したようだな」
アサギリはすでに正式なパイロットではない。しかし一応、今基地にいる中では唯一、エンブリオを操縦できる人員である。正式なパイロット同様、誰とどのタイミングで接触があったか、寄宿舎の自室から外、基地内では監視されている。人間関係の機微がパイロットの精神状態に干渉してはならない。彼等は軍人ではない。ただ本人の意思もなく、能力を持った人間を然るように使うだけなのだ。何よりもコックピットに噴霧、または注入される薬液である。アサギリの搭乗を遠ざけさせることになったあれが、人を興奮させ、また鎮静させた。
「話しましたよ」
監視され、接触を禁止されたりすることはなく、また人間関係を把握されていることにも消極的な承知の姿勢を見せてはいるが、アサギリにも内密に、知られていようと見ない振り、知らなかった振り、黙認していて欲しいことはある。
「気が散るのは彼の所為か」
すでに彼はこのろくでもない部下の腹を探り探り接するのはやめている。彼女が元・正パイロットで、現在有事の際には出動してもらわなければならない貴重な人員でもなかったら、すぐにでも自分の手元から突き放しただろう。仕事が趣味、生き甲斐、存在意義のような男である。職場から出て厄介な部下のメンタルケアまで務めなければならないのは屈辱であろう。
「彼の所為……って。違います。挨拶しただけですよ。顔突き合わせたら、するでしょう」
さすがに監視カメラも音声までは拾っていないのだろう。基地としても、好き好んでパイロットたちのプライバシーを暴きたいわけではない。
「訊き方が悪かった」
この上司も意地が悪いわけではない。会話の先、つまり結論を焦るきらいがある。アサギリもそれは分かっていた。底意地が悪いわけでも、好きで部下に辛辣な態度を取るわけでも、譴責が趣味なわけでもない。
「……わたしは乗りたくなかったんですよ。だからわたしは今の生活、気に入ってます。なのにマヤバシさんだけ、気拙そうなのは、ちょっと……」
「彼は一個人のお前を見ているわけではない。ひとりの職人として、関わった職場の欠員を出した。そのことを悔やんでいる。勘違いは、」
「していません。そんなようなことは、もう本人から聞いておりますから」
上司は特に驚いたふうもない。アサギリは眉を顰め、唇を歯で揉むながら、陰険な雰囲気のある上司から目を側めた。
「不調を感じるのならば無理に仲良くする必要はない」
「無理に、じゃないです。少なくともわたしは。マヤバシさんの様子、見ました?嫌がってたならもうやめます」
「Mr.マヤバシのメンタルケアは専門の医官に任せておけ。当人同士で解決する話ではない。ろくにトレーニングにも専念できないのならばMr.マヤバシと関わることを、私は上司として禁止するとまでは言わないが、控えろというほかない。彼を転勤させたくはないだろう」
「わたし次第で人事が決まるんですね。ほんっとに嫌だな。腕でも切り落とさないと、わたしはここを辞めることもできないんだから」
アサギリは対話をやめてしまった。上司のイセノサキのほうでも撤退を決めた。彼女の前に未開栓の缶が置かれていく。スポーツドリンクが入っている。上司はすぐに踵を返した。無愛想で人が好きではなく、また人好きもしないイセノサキと穏健に話が進むことはない。仕事人間としての正論を前に開き直り、八つ当たりになってしまう。彼の立場を理解する前に個が出てしまう。ただ頷いておけば良いことも分かっていた。過激な無理難題を要求されているわけではない。アサギリの実際に赴任したことのある戦地よりも、この基地のやり方は慈悲深い。
缶を回収してアサギリは寄宿舎に帰った。夜を待つ。ホストクラブで浴びて浸り溺れるほど酒を飲める時間が恋しい。否、今日はフブキ・マヤバシを夕食に誘うのである。彼女が辿り着いた答えは、鍋料理である。互いに好きに具材を浮かべれば良い。さっそく食材を買いに行こうとした時、放送が入った。アサギリが個人名で呼び出されている。ありがたい懲戒免職に処されるときであろうか。しかし基地内の酒気帯び運転でこの任が解かれるとは思えない。おそらく基地外の公道で死傷事故を起こしても、パイロットというだけで基地があらゆるものを肩代わりするに違いない。
つまり、有事の際にあるということだ。テーブルに置いた端末が跳ね回りそうな勢いで震えている。地震の多い霹靂神統治ノ地の緊急地震警報よりも出動要請の報せのほうが音が大きく震えが強い。
アサギリは着の身着のままで基地本部まで走った。寄宿舎の全階に本部と繋がる渡り廊下が架かっている。
センターに飛び込むと、言い合いがすぐに耳に入ってきた。ひとつは先程話したテンセイ・イセノサキのものである。もう片方は指揮官だ。出動させるの、させないのという小競り合いである。2人はアサギリが顔を出したのを見て取った。
「酒気帯びです!この状態で出動など無謀です。彼女の身も危険だ」
テンセイ・イセノサキが指揮官のフォーティタウゼントにアサギリを突き出す。
「一体何があったんですか」
アサギリは周りのオペレーターに訊ねる。まず大画面のメインモニターが差された。そこには人ひとり歩いていない荒れ果てた都会が映されている。雑草が伸び、ビルには蔦が絡んでいる。
そこは特殊な化学薬剤で汚染された都市である。現在では居住不可能とされて地図上でも消されているが、調べればすぐに場所は分かる。正式にはトレスヴェレと名付けられた街だが、霹靂神統治ノ地の訛りで居住不可都市を意味するカタストロイのほうが、この地のものたちには通じやすかった。
そういう街を徘徊する監察ロボットが人影を映した。アサギリにはその人物を回収する任務が下りかけている。それを阻むのがイセノサキだ。長時間曝されていれば人体に有害な空気に満ちた場所にいる者をわざわざ拾ってくるのは、機体とパイロットだけでなく基地全体にリスクが及ぶ。そういう手間と慎重な作業を要する任務を、アサギリが承諾しそうにはない―というのが彼の見方なのだろう。
「ミナカミ」
指揮官がアサギリを呼んだ。30代半ばの女性である。冷淡な印象を受けやすい風貌だが、ただ単に人懐こい気性ではないことと、立場上孤独であるほうがやりやすいらしい。
「薬液なしで出動させる気ですか」
「空いているパイロットが彼女しかいないのは貴方も分かっているでしょう」
やはり出動要請であった。薬液の不備以来、試運転でしか彼女はエンブリオには乗っていない。数歩前進し、また数歩後退し、手脚を動かすだけの操縦である。飛行訓練は行っていない。その短時間の、ドックに繋がれた状態ではアサギリの正パイロットとして問題になっている薬液は要らない。
「防護服を持っていきなさい。帰還次第、除染作業に入りますから。要救助者は腹部シェルターに回収なさい」
語気も強い。
ほぼ確定したことを前提に命じた指揮官に、イセノサキが割り入りかける。
「どうしたんです、イセノサキ。貴方らしくもない」
パイロットの能がある者として使命を果たせ、と言ったのはこの男である。アサギリも不思議に思った。
「ミナカミ。機体から降りなければならない。そこは理解しているな」
「……はい」
アサギリの戸惑いがちな顔を見ると彼は指揮官を捉える。
「銃の所持の許可を」
「はい?」
曖昧な返事をしたのはアサギリだ。
「要救助者は男だ。身形からして軍人かも知れない。お前は射撃の腕前はあまり良くないが、無いよりいい」
準パイロットでも失うのは痛手である。訳の分かっていなそうなアサギリにイセノサキは苛立っている様子だ。
「私も同行するのがいいか」
「薬液無しなら余計ダメでしょう。気が狂いますよ」
アサギリは首を傾げた。脇から差し出された銃砲所持許可証を受け取る。この基地で借りている治長の代筆に代理印が押されている。
「ちょろっと行って、ちょろっと帰ってきます」
心身共に安定を図る薬液が投入されずに遠地まで飛ぶのは初めてであるが、彼女は軽佻な足取りであった。
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