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シークレットクレスト 6話放置/浮気/溺愛DV美青年カレシ/既婚先輩

シークレットクレスト 1 好きだった先輩、優しいカレシ、親切な美少年、迫り寄る陰。

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 泣き喚く。好意か怨恨か分からない。それでもはっきりした痛みと嫌悪、続いて怒りを吐き出す胃液。
 埃臭さと嗚咽と胃酸の匂い。腹の引き攣り。砕けそうになる歯と削げそうか鼻腔。乱れたスカートを直す。
―何してるの?大丈夫?
 肩を震わせた。恐ろしい現実の延長である。真っ白に乾ききった虚無の時間はもう終わっていた。
『許して……、許して………』
 掠れた声は喉を焼く。ボタンの弾け飛んで乱れたブラウスに上着が掛けられる。
―これ着て。返さなくていいから。思い出す前に捨てちゃいな。じゃあね。
 香水の匂いが鼻の粘膜に沁みていく。受け取れた感覚はそれだけだ。日常に戻る。傷自体はまだ麻痺している。やがてこの麻酔が切れることを考えもせずに。



 大学のカフェテリアで霞未かすみは牧野宮と共にいた。
「無理に付き合う必要はないと思うよ」
 爽やかな歳上の余裕が感じられる。牧野宮は2期上だった。
「ありがとうございます、牧野宮先輩。こんな相談に乗ってもらって。自分でもそろそろ治さないと……って、思っているんですけれど……………」
 霞未は愛想笑いを浮かべた。隣に座る男は優しい先輩だった。人生に於いて最も傷付き、疲弊したときに寄り添っていたのが彼だった。しかしそういう牧野宮であっても彼女はその目を長いこと見ていられなかった。
「荒療治は良くないと思うな」
 よく炒めたタマネギのような色の髪はふわりと外に跳ねている。毛先がガラス壁から差し込む日の光に溶けている。
「黒崎のペースでやればいい。焦ることもないから」
 霞未は目を伏せる。
「はい。お忙しいときに、どうもすみませんでした」
 彼は軽やかに首を振る。
「ちょうどオレも教授に用があったからさ。気にすんな」
 温かな手が頭を撫でていく。そこに他意はない。懐いた後輩を可愛がるだけだ。猫や犬にするのと大した違いはない。下心もなければ、これという意図もない。無自覚な軽視とある程度の単純な愛着があるのみだ。
「では……」
「おう!」
 彼は霞未の空になった紙コップにまで手を伸ばし、颯爽と席を発っていた。就職先の決まった背中が気取った内装のカフェテリアから消えていく。その様を見つめていた。みるみるうちに霞未の顔面はくしゃりと歪み、彼女は牧野宮が去ったほうからカウンター席の前にあるガラス張りへ向き直る。中庭が見えた。気取ったデザインなのは学外に開放されたカフェテリアだけではない。この大学自体がそういう瀟洒しょうしゃを気取った造りなのである。
 中庭は一段高くなっている。学祭などでメインステージになっているらしいが大学の学祭は高校時代のものとは違って在学生の中では盛り上がりに欠けた。ほぼほぼ来訪者は外部の者でまた別口にもあるけれどオープンキャンパスを兼ねている。イベントがない平生へいぜいは在学生の憩いの場だ。今日も段差に腰掛け飯を食っているのや本を読んでいるのや、通信対戦をしているらしきのが目に入る。
 ぼんやりしていると隣の席を引かれた。牧野宮が座っていたところだった。
「いいか」
 無愛想な男の視線が降る。霞未の座っているのは突き出た柱によって端の席だった。カウンター席は壁の角にしろ柱の脇にしろ隅が人気であることは彼女も知っている。気を遣うべきが片方で済むからだ。この席を譲れということなのだろう。傍目に見ても彼女はカフェテリアをすぐに立ち去りそうな様子であった。
「ああ……すみません」
 たとえば霞未が牧野宮との面会の直後でなければ、その青年が人目を惹くほどの美男子であったことに気付いたかも知れない。否、大きな傷が牧野宮以外の異性の顔を黒く塗り潰していたかも知れない。
 彼女はバッグを取ってカフェテリアを出た。
―そして牧野宮に参っていなければ、先程の青年が昨日自分に交際を乞うた人物だったということに霞未は気付いたかも知れなかった。




「あの人相は女を殴るのが生き甲斐だと思うケド?大体、人相かお見りゃ分かんのよ。女どころか人も大事にはできないんじゃない」
 昼時が最もカフェテリアが混む。購買部もあり、小さなパン屋がこの前開いたばかりだった。霞未は空いた席を探していた。そこに知った声がある。
「あら、黒崎ぃ」
 呼ばれたのとその人物を捉えたのはほぼ同時だった。輝かしく華やかな女子大生の集団から同じく派手な女が立ち上がった。そして彼女たちには何も言わずにその人物は霞未のほうにやって来る。
「あっち行きましょ。まったくぎゃーこらうるさくって」
 大学に入って初めての友人で、代永よなが環絹たまきだ。いつも黒を基調とした服装で濃いリップカラーや小物で色を差すのが粋だった。
「喧嘩?」
「違う、違う。シュミが合わなくて」
 唇が柔らかく弾む。友人のリップカラーの粘濃い感じが残る。これが彼女のコミュニケーションだった。
「ごはん、これから?」
 霞未はリップカラーのついた口唇を舐めて頷いた。
「うん。環絹ちゃんは」
「もう済んだ。でもドーナッツ買ったから一緒に食べましょ」
 大学構内を抜け、近くの小さな公園へ出る。遊具に座る。膝の上で黄色のギンガムチェックのバンダナを解くとブロック玩具を思わせる色合いの弁当箱が現れた。
「霞未さ…………牧野宮先輩の結婚式、出るの」
 胸を叩かれた気がした。脈が跳んだみたいだった。霞未は口を開けたまま声が出ずにいた。
「出………たいよ」
 卵焼きを思わせるふりかけの乗った冷飯が好きだったが、今日はただただ冷たく感じられる。
「そう」
「お世話になったし………さ」
 環絹は隣でチョコレートのかかったドーナッツを齧った。彼女には昨年のことは話していないが、牧野宮に懐いていることは知っている。
「あーしはほら、直接の先輩でしょ。ま、大学生からご祝儀搾り取ろうってのがなんだかねぇ。他人のシアワセを妬んでんのかしら、やぁね、あーしったら」
 ほほほ、と彼女は笑う。
「霞未。元気出しなさいよ。次の恋に行きましょ」
 背中をとんと叩かれる。思いもしない指摘を受けて霞未は目を白黒させた。
「えっ、あ、恋……っ?」
「好きだったんでしょ、牧野宮先輩のコト。生き別れのお兄さんにでも似てたってワケじゃないでしょうに。あんな目で見ておいて」
 的確な単語が今更になってぴたりと嵌まった。失恋ソングに妙な共感を見出し、癒されたことが急に甦った。何事も上手くいく恋愛映画に孤独感を覚えたことも。街中で目にする仲睦まじいカップルに胸騒ぎしたことや。
 眼球が火照った。粘膜が沁みていき、視界が滲む。牧野宮の様々な姿が走馬灯になって目蓋の裏に張り付いている。
「ちょっと、霞未……?」
「分かんない」
「分かんない?」
 突然啜り泣きはじめた友人が何を分かっていないのか、環絹も分かっていないふうだった。戸惑っている。
「でも、なんか………牧野宮先輩が結婚するの、イヤだ」
 祝儀によって月のやり繰りが厄介なことになる、くらいの理由であればよかった。しかしそうではない不快感がある。何がめでたいのだろう。周りの気も知らず、知る気も起こさず、何を祝え、めでたがれというのだろう。圧だ。
「うん」
「行っても多分、牧野宮先輩の顔、見られないと思う」
「そりゃね」
 環絹は怒らない。世話になった人間の幸せを祝えないのか、めでたがらないのかと責めることはない。
「嘘でも顔を出すのがいいのかな。嘘なら行かないほうが、いいのかな。ご祝儀だけ渡して……」
「あーしと遊びに行っちゃおうか」
 玉子焼きを口に運ぶ。彼が美味そうだと言っていた。自炊を偉いといい、料理が上手いと言っていた。いい嫁になると言って、それから謝った。そのときの表情と空気で知れた。大きな傷を晒した男の傍に長いこと居られるものではない。
「お世話になった人だから、大丈夫……嘘でもちゃんもおめでとうって言わないと、悪いから」
 かつお出汁を混ぜて焼いた玉子焼きだったが、今日は顆粒を多めに入れてしまったのかも知れない。


 ラベンダー色にほんのりとバイオレットが反射するオープンショルダー型のチュールドレスにパンツスタイルで、髪は編み込みのハーフアップを薄紫色のパールビーズの髪飾りで留めてある。環絹と待ち合わせていた。彼女はネイビーのAラインドレスで裾に向かうにつれて透けた感じがある。胸元の飾りが鮮やかで目を惹いた。
「よく来たね、霞未。大丈夫だった?」
 彼女なりの挨拶によって鼻先まで接近されるが、ただ微笑を浮かべられるのみだった。
「化粧が崩れるものね」
 霞未は意識してしまい口唇を舐めた。いつもはあまり使わないリップカラーだった。環絹が微苦笑した。
「その色、よく似合ってる。いつも使ってるところ見たいくらい」
「ほんと?似合うかな……それなら、良かった。服の色に合わせたから、普段使いできるのか分からないけど…………」
 気合いを入れた。牧野宮に恥をかかせられない。装飾品や化粧品を選び、普段はあまりやらないメイクアップの仕方を動画などで勉強した。気分の晴れないのを誤魔化すためでもあったのかも知れない。霞未なりに分かっている。同時にもしかしたら予想に反して案外あっさりと牧野宮に対する後々まで厄介に纏わりつきそうな思慕から払拭されるのかも知れない。
「色合いが似合うかどうかよりも、内面から滲み出るのは表情ね。それから姿勢。自ずと視線とか。それがまとまって空気感になって、やっと似合うということなんじゃない。ふふ、根性論みたい?大丈夫、霞未。似合ってるから。本当に素敵」
 両肩に手を置き、力強く友人がそう言った。すると曇り気味だった内心にほんのりと日が射す。遅れながら気付いた恋は叶わず、今日は訣別をする日であるけれど、いい友人を得られたとまた知らされる日でもあった。
「うん。ありがとう、環絹ちゃん」
 環絹がにかりと笑った瞬間、彼女はすぐに目を逸らした。霞未の視界の端に影が入ったのとほぼ同じタイミングでもあった。環絹の眉根に皺が寄る。霞未も咄嗟にそのほうを見た。ダークカラーのスーツを着た背の高い男が会話に割り込むように立っている。道でも訊きたいのかも知れない。
「電車で行くのか。タクシー?」
 馴れ馴れしい態度だった。環絹の知り合いらしいが、彼女の顔にはほんのりと険しさが残る。
「電車」
 環絹は相手を見もせずに答えた。
「行く先は同じなんだ。乗っていかないか」
「……まだ待ち合わせてる人いるから」
 まだ相手を見ずに環絹は答えた。ばつの悪そうな対応は元恋人なのかも知れない。円満な別れ方をしていない男女にこういうことがあるらしい。
「そうか。―黒崎さん」
 突然呼ばれてぎょっとする。また別の知り合いが現れたものかと思ったが、今まで環絹と喋っていた人物と同じ口で呼ばれたらしい。該当者が他にいない。霞未は相手の寒気がするほど現代風に整った麗しい面構えを捉えてしまう。
「綺麗だ」
 身が竦む。この人物が誰なのか知らない。そして何故忽如と話題を変えたのか。
「う、うん……」
 訳も分からず同意する。どこかで知り合っているらしいことは分かった。角も波風を立てない。霞未も彼を知っていることにした。
「会場で、またな」
 ただ頷く。相手は去っていく。声が届かなそうな地点まで離れていくのを見てから環絹に直った。
「あの人、誰……?」
 環絹もダークカラーのスーツを玲瓏れいろうに着こなした美男子の後姿を見ていた。雑踏に消えていく。通行人の目を惹いている。
「知り合いじゃないの」
 環絹に訊ね返された。緊迫感のある横顔が年齢より上に見えるが、老けているというよりかは悟りに近付いた落ち着きを窺わせる。
「え、環絹ちゃんの知り合いじゃないの?」
「ゼミが一緒だけど、ほとんど初めて喋った」
「人懐こい人ってこと?」
 やっと彼女も霞未を向いた。
「さぁ?その割には人付き合いが限られてるみたいだけどね。興味ある?」
 興味の有無を訊かれ、無いと断るのもよく知らない先程の人物に悪い感じがあった。適当に首を捻って誤魔化す。
月城つきしろ綾麻りょうま。あの見てれでしょ。女子どもがやっぱり放っておかないわけ」
「そうなんだ。環絹ちゃんと付き合ってたのかと思っちゃった。綺麗だって言ってたし」
 環絹はぽかんとしてから厚めにリップカラーの塗られた口唇を歪ませる。
「本気で言ってる?あれ、あーたに向けて言ったんでしょ。だから知り合いだと思ったんだけど」
「ううん。初めて見た。じゃあ、やっぱ人懐こい人なんだ」
 しかし美貌の持主という認識以外、ろくに顔は覚えていない。人の容貌を覚えるのが苦手というわけではないが、たとえば昼時の混雑したカフェテリア兼食堂で見つけろとなったならば困難だ。
「人懐こい人っていうか…………まぁ、気を付けなさい。なんだかあの人、胡散臭くって。だから断っちゃった。ごめんなさい」
 霞未は首を振った。




 虚ろな時間だった。傍にいる環絹に何かと世話を焼かれ、運ばれてくる料理やビュッフェ形式になっている甘味を食らう。同じテーブルに知り合いが多いことも霞未の曇天を紛らわせる。
 牧野宮の新郎姿は眩しかった。故に刺すような影を落とす。新婦の顔も見られない。次々とプログラムが過ぎていく。
 真っ白な壁をスクリーンにスライドショーが流れた。世界人口の何十億人分の中から運命の相手を互いに見つけたというようなことを歌った有名な甘いラブソングが流れた。嘘である。欺瞞だ。結果論だ。しかし2人並ぶ新郎新婦を向けば肯定せざるを得なくなる。努力が足らなかった。魅力が足らなかった。やり方が悪かった。出会いが遅かった。反省点も分からないままである。心情を打ち明けておけばよかったと後悔しながら言わずにおいてよかった安堵もある。
 周りに合わせ、中身の伴わない拍手をする。手を打ち鳴らせば牧野宮を祝える。披露宴の途中で逃げ出した。音も立てず、ひっそりと会場を出てすぐのラウンジのソファーに座る。膝の上で拳を震わせる。唇を噛み締めた。溢れ出る涙を堪える。会場内ならば仲の睦まじい新郎新婦に感動したということになったかも知れない。
 牧野宮 葵衣あおいに対する情は、彼が自分の最も傷付いた瞬間を目の当たりにし、的確な優しさを注いだためであると彼女自身も分かっていた。幼さの否めない依存であることも理解していた。その延長で、その上で関わっていくたびに彼を信用し、朗らかさと聡さに惹かれている。そこにはやはり無かったことにしたい出来事が付随し、事後に理屈で納得できるような心理状態が働いていた。しかしここに来て訪れる喪失感は何だ。霞未は拳を開き膝を握る。シフォン素材のパンツに一滴ずつ染みができる。すばやく滲む。
「泣いているのか」
 正面の赤いソファーが軋む。ダークカラーのスラックスとダウンライトに照る革靴が見えた。徐ろに顔を上げた。蝋人形のように白い顔が薄暗いオレンジ色の照明の中に浮かんでいる。
 霞未は驚いて立ちかけた。トイレだといって環絹を待たせているかも知れない。
「一緒に帰るか」
 周りを見渡した。他に誰もいない。雰囲気は孤高といったところだが、見かけによらない。人見知りのない人懐こい人物らしい。
「環絹ちゃん……待たせてるから………」
 座ったままの相手に見上げられる。
「牧野宮先輩が好きなのか」
 不躾なほどに真っ直ぐ射抜かれる。
「ま、まさか……お世話にはなったけれど」
 マナー違反だと言いたくなるほどに彼の眼差しは霞未の瞳孔まで覗きかねない。
「牧野宮先輩が好きで、俺の告白は無かったことにされたのだと思ったが」
 一瞬、何を言われたのか分からなくなった。時間ごと静止した気がするが、やはりほんの一瞬のことだった。
「なんの……ことだか…………さっぱり、」
「そんなに頻繁に告白されているのか」
「そんな、ことはないけれど……ああ、えっと、」
 思い出すふりをした。
「自分の感情には敏くても、他人の感情なは疎いのか」
「……ごめんなさい」
 しかし自分の感情に敏いと言われても、果たしてそうなのだろうか。牧野宮に対する気持ちに名を付けるのが遅過ぎた程だ。名を付けようとすら考えていなかった。ただ離れていき遠くなることに焦り、嘆いていただけのように思う。
「別に悪いことじゃない。普通のことだ」
 座るか立つかというところで霞未は腰が落ち着かない。
「俺と付き合―」
「霞未」
 ダークカラーのスーツが立つのと霞未が呼ばれて振り返るのは同時に行われた。
「大丈夫?」
「うん。ジュース飲み過ぎちゃったみたいで……」
 防音ドアのすぐ下は色濃く翳っていた。そこから現れた友人に駆け寄る。彼女は一度、霞未から目を逸らし、その後方を見遣った。
「トイレ?」
「うん」
 友人の鼻先が近付いた。口元が弾む。小さな肉料理や魚料理、サラダやスイーツ、ジュースなどでかさつきつつあった口唇がワックスじみる。
「メイクが崩れているから、また戻りましょう」
「うん」
 環絹の手が背に添う。誘導されているみたいだった。
「黒崎さん」
 前を通るときに呼び止められた。
「はい……」
「また、話そう」
 霞未はこくりと頷いた。そしてトイレに入っていく。センサーによって進むたびに少しずつ照明が点いていく。照らし出されたメイクルームはミラーハウスのようだった。ブラウン地に女性用トイレを示しているらしい繊細なピンクの柄が入ったタイルがストロベリーチョコレートを思わせる。ロビーやラウンジ、内装に留まらず水のオブジェなどがあった外構からいっても建物自体は小規模だったが、金がかかっているようだ。
「帰ろうか」
 環絹はポーチを探りながら言った。メイクを直すといっても霞未はポーチを置いてきてしまった。
「え?」
「結婚式には出たんだし、披露宴なら途中退席できるらしいから。やることはやったでしょ」
 霞未は鏡に映った自分を見られなかった。光の加減が普通の鏡台よりも美容効果を与え、自身を確認するあてにならない。
「出てきちゃったけれど、やっぱり途中で帰るの、悪いから。空いた席って目立ちそうだし」
 幸せそうな新郎が果たして後輩のいたテーブルに気付くのかは定かでない。しかし空いていることには気付くかも知れない。
「ごめんね。わたしがこんな感じだと、環絹ちゃん、楽しめない」
「楽しもうだなんて思ってないから。招待されたから参加しただけ。あーし、料理は一気に食べたいのよね。同期ならとにかく、こんな大規模に呼んでくれちゃって。直の後輩のあーしより、アンタのほうがよっぽどこの結婚式に真面目よ。気にすることじゃぁない。たまにはこういうふうに綺麗に着飾るのも悪くないし」
 彼女はリップカラーを直していた。口唇を引いたり窄めたりしている。
「あーし、結婚式って懐疑的。でも霞未、アンタがもしこの先、結婚式やるってときは呼んでよね」
「うん………環絹ちゃんには、スピーチ読んでもらうことになるかも」
「それって光栄。任せなさい。でもきっと、あーしよりまともな友人がアンタにはできるよ」
 鏡越しに手招きをされて環絹のもとに近付く。口元に赤みの強いピンク色のリップスティックが触れた。友人の塗ったものとは少し色味が違う。口角の端から端をなぞられた。
「環絹ちゃん」
「牧野宮先輩はいい先輩だったわね。良くも悪くも無邪気だった。あーしには全部綺麗事の事勿れ主義に見えてたけど、真面目なアンタにはそれがちょうど良かったのかもね」
 ポーチの中身がかちゃかちゃと小気味良く鳴った。それから一気にファスナーが引かれていく。
「前に、ショックなことがあって、そのとき、傍にいてくれたんだ。面倒臭いこと、色々相談してた。自分のことなのに自分で決められなくて、牧野宮先輩に相談しないと、何も、決められなかった。牧野宮先輩がいないと、何も決められない。これからどうしていいのか分からないんだ」
 そしてそこに恋愛というタグを付け忘れていた。そういう方向に舵を切りアプローチも仕掛けられなかった。牧野宮を追い、牧野宮に縋りつき、頼るのみ。思い返せば、彼の結婚を惜しみ悲しむ立場にないのかも知れない。
「戻る。ごめん、環絹ちゃん。もう大丈夫。ありがと」
 しかし環絹は強気に引かれた眉を下げるだけだった。
 会場に戻る。ぼんやりしながら閉幕を眺めていた。異国の薔薇園迷路を思わせる出口で新郎新婦が並び参加者を見送る。環絹と共に順番が回ってきた。
 牧野宮は外に跳ねがちな髪を染め直し、綺麗に後ろへ撫でつけていた。オフホワイトのタキシードが眩しい。
「来てくれてありがとう、黒崎」
 牧野宮がくしゃりと笑う。新婦も笑いながら頭を下げた。傍にきてやっと彼女の顔を見ることができた。背が高く、過去に長く運動をしていたことを思わせる肉感があった。ウェディングドレスから強いパープルのビロードのドレスへ変わっている。
 霞未は上手く繕った。瞬きができずにいる。
「おめでとうございます、牧野宮先輩。招待してくださって、ありがとうございました」
「楽しんでくれたようでよかった。ケーキ美味しかったでしょ」
 今更霞未の願ったものとはかけ離れている。
「はい。とっても。末永く―お幸せに」
 目を見開く。環絹はすでにこの通路の行き着く先、駐車場のほうにいた。
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