18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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蜜花イけ贄 不定期更新/和風/蛇姦/ケモ耳男/男喘ぎ/その他未定につき地雷注意

蜜花イけ贄 6

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 あの監視役が人伝てに報告をするとは思わなかったけれど、薬屋を営んで世を忍んでいる以上は忙しいのであろう。
 薬屋に入る。葵は膝をついて薬草棚の整理をしていた。桔梗に気付き、手を止める。
「いらっしゃいませ」
 怒ったように無表情だ。瘡蓋がすべて剥がれ、痕にはなっていなかったけれども、それなりに恨みがあるらしい。
「出掛けます」
 一言告げる。葵はじとりと彼女を睨んだ。端麗な容姿で人気がある。読み書きもできればさらに若い女たちの憧憬の的となる。頬の引っ掻き傷は要らぬ誤解を生んだのかも知れない。恨みが膨らみのも分かる。
「では、少しお待ちください」
 彼は腰を上げ、店の奥に入っていく。あまり口数が多くないのは怒っているのか否かに関係はないだろう。葵という男は無駄口を叩かない。故に、どういう経緯で彼の頬を引っ掻くまでに激昂したのか分からなかった。桔梗は待っている間、自分が怒りそうなものを挙げてみた。叔父を愚弄されたか。しかしそのようなことをする性分でもないだろう。とすれば、やはり事故と結論付けるしかなかった。
「お待たせいたしました」
「あの」
 下から睨み付けられる。思っていたより声も低く感じられた。
「頬の傷、すみませんでした。痕にはなりませんでしたか」
 彼は静かに顔を伏せた。桔梗の目に痕は見えなかったが、実は近付くと薄らと残っているのかも知れない。
「桔梗様は、気が違っていらっしゃいます」
 吐き捨てるように彼は言った。あまりにばっさりと口にしたため、桔梗も最初何を言われたのかすぐに理解ができなかった。
「外に出て行かれる際は、こちらをお持ちください」
 葵は咳払いをして短刀を差し出した。
「わたし、剣術は…………」
「自害のやり方を心得ていらっしゃればそれで」
「はい?」
 またもや意味の分からないことを言われてしまった。
「有事の際に、苦しむのは哀れであると茉莉まつり様から賜りました。そちらをお持ちになってお出かけなさってください。帰ってきたときにお返しください。ここはその時まで開けておきます」
 桔梗の薬指の先から肘まであるような長さの短刀である。
「閉店時間は、わたしにかかっているというわけですね。では、頂戴します。薬師さま」
「なんですか」
 鋭い視線が飛んできた。
「話を通してくださってありがとうございます」
「おやめください。務めに過ぎません」
 機嫌の悪い折りに来てしまったか、頬の傷について激怒しているかである。
「そうですか」
 桔梗は妙に不機嫌な薬師を特に気に掛けるでもなく店を出た。
 この外出にそこまで頓着することはなかったのかも知れない。監視役に許可取りをするほどのことではなかったような気がする。逐一彼のところへ出向き、顔を合わせ、言葉を交わさなければならない手段を取ってまで得たいものであったろうか。叔父を連れて逃げられるわけでもないというのに。所在なく考えているうちに川へと至る。すると粗末な身形の釣り人を見つけて桔梗は両手を打ち鳴らした。釣り人が彼女に気付き、大きく手を振る。暇潰しに考えていたことが拭き取られていくようだった。草の生い茂る法面のりめんを降っていく。
「来てくれたんだ、桔梗ちゃん。おうち、大丈夫なの?」
 上唇が特徴的な八重歯に引っ掛かりながら閉じていくのが面白い。
「うん。普通に出て来られた。アサガオさんは休憩中?」
「そうだよ。さっき穫れたもの売りに行ってたん。桔梗ちゃん、お野菜食べるん?」
「うん。食べる」
「じゃあ今度、お土産に持ってきたげるよ」
 跳ね放題跳ねた毛先が日の光で白くなっている。純心な笑みにつられ、年がら年中顔の強張っている桔梗も表情を緩めた。
「それじゃあ悪いから、わたしからも何か持ち寄ります。何がいいかな」 
「交換になっちゃうじゃん」
「いいじゃない?交換で」
「そうなん?」
 粗末な釣竿に反応があった。桔梗が水面を指で差す。アサガオが引き上げた。喇蛄ザリガニがついている。
「大きいの釣れた」
 手に取って、桔梗のほうに晒す。何をするにも楽しそうである。ハサミが上下に揺らめいている。
「食べるの?」
「逃がす~。食べたいん?捌こぉか?」
 桔梗は首を振った。
「生きてるものなのに全然違う形なの、面白いな~って思って。おでザリガニ見てるん、好きなんだ」
 アサガオはあらゆる角度からザリガニを眺める。
「水ん中にいるからサカナなんかな?あんよいっぱいあるからムシ?」
「大雑把にいうとムシなんじゃないかしら?細かくいうと違うけれど……」
「水ん中で生きてるムシ?」
 ザリガニを眺め終わり、川に帰す。
「さ、さ、桔梗ちゃん。何して遊ぼ」
「今、休憩中なんでしょ……?」
 仕事を邪魔しているのではないかと桔梗は萎縮する。
「おで畑いじるから、桔梗ちゃん横でおしゃべりしててよ」
 彼についていく。釣りをしている場所から近い。大きな畑に囲まれた、細長い畑がアサガオの土地らしい。
「おいも作ったり、かぼちゃ作ったりしてるん。白菜もやるよ。大根もちょっと」
 畦道に降りた。座布団を縛り付けてある木箱を渡される。
「少し汚れてるん。桔梗ちゃん、綺麗なおべべ汚しちゃいそう。でも良かったら座ってね」
 桔梗はそこに座った。着ているものはすべて監視役の葵を通して茉莉から贈られたものだ。あまり頓着するものでもなければ、この体験で汚れて損害を覚えるものでもない。
「そんな長くないからね。今日はちょっと、そこの手入れするだけだからさ」
 働くアサガオを眺めていた。野菜や魚やたまに肉などは、決まった時間に家の前に置かれていく。それを本邸の使用人が調理し、桔梗の元に運ばれた。生産の場には関わりがなかった。
 取り留めのない、何の役にも立たない会話で、宣言どおりに短時間でアサガオは農作業を切り上げた。
「もういいの?わたし、何時間でも観てられるけれど」
「ホントにやること終わったよ」
 アサガオは背負子しょいこを背負って歩きはじめた。
「いつもおうちの中にいるから、あんまりこういう機会ってなくて。空と畑が一面にあるの。土の匂いってなんだかいいな」
 アサガオの半歩後ろを下がって歩く。彼は何度かひょいひょいと振り向く。そして彼女の足元を見た。
「足痛い?」
「え……?痛くないけど」
「そかそか」
 また数歩進む。急に鈍くなる足取りにぶつかりそうになった。彼はまた立ち止まって振り返る。
「おで、歩くの早い?」
「早くないよ」
 アサガオの不思議そうな顔を桔梗も不思議そうに見ていた。互いに小首を傾げる。
「隣、歩きたい。?」
「嫌じゃないよ。でも、いいの?」
「いいよ。なんで?」
 彼は手を差し出したが、指も爪も土で汚れているのを見ると引っ込めた。
「男の人、隣歩かれるの、嫌かと思って」
「そうなん?」
「うん。そういうものだと思ってた」
「ふぅん。でもおでは隣で歩きたい。ここ人、あんま来ないし」
 彼はきょろきょろと辺りを見回した。桔梗も同じところを見る。開けた場所だが確かに人通りは少ない。田畑に人が点々としているのみである。
「今晩は何食べよっかな~」
 軽快によく笑っている。背負子の肩掛けを握っていた手が落ちる。歩くたびに揺れる汚れた指を桔梗は見ていた。捕まえそうになって躊躇う。
「桔梗ちゃんは何が好き?」
「食べ物?」
「なんでも」
 ふんふんと鼻歌を歌って彼は楽しそうだ。
「家では、本読んでる。家のことしてくれる人、縫物できないから」
「おさいほ~できるんだ。すごいな。おで全然ダメなん。針も怖いし」
 そのために彼の野良着はあちこちが解れている。
「縫おうか。案内してくれたお礼、できてない。失礼なこともしちゃったし……」
「気にしなくていいよ、そのことは。縫ってくれるなら嬉しいケド。あ、じゃあお野菜持っていきなよ。お漬け物にするのかな、お吸い物にするのかな~」
 何を喋るにも楽しそうである。前後に揺れる汚れた手を摘んだ。
「お?」
「隣歩くの、手、繋いでもいい?」
 叔父と暮らしていたのは都市だった。男と女が明るいうちから並んで歩き、手を繋ぐのは不埒とされていた。叔父は歳が近い。叔父ということになっていたが兄として見られてもおかしくなかった。或いは恋仲にある二人として見られたかも知れない。しかし叔父は年頃になった桔梗の手を引いて歩いた。それが優しい思い出になっている。
「いいよ」
 見た目の割りに手の感触は大人びている。彼は鼻歌を歌う。それを聴きながら空を見上げ、草木を眺め、詞が浮かんだ。
「なんて歌?」
「名前ないの。おでが作った」
「晴れた日の歌みたい」
 繋いだ手が大きく揺れる。
「そうだよ。美味しいお野菜、いっぱい穫れるように~って、歌」
 少年とも青年とも判じられない顔が綻ぶ。彼といると、意地が張れない。虚勢に似た羞恥心が霧消する。桔梗もふわりと微笑する。
「歌うの好きなん、おで。へへ」
 アサガオの家へと案内される。栗ほどの大きさの握飯が玄関戸の脇に供えられている。埃で黒ずみ、固まって透け感も帯びている。盛り塩に似ていた。まじないの類いであろうか。
「これは?」
「おで、会ったことない兄ちゃんいるんだって。もう家族いないから、兄ちゃんは無事にってお願いしてるん。食いっぱぐれないようにって。顔、知らないんだけど」
 相変わらず軽佻な様子でアサガオは言った。一人暮らしにしては広い家である。そして古かった。柿や芋がら、大根が干されている。桔梗は一段高くなっている居間に腰掛け、手を洗うアサガオを見ていた。
「貯え漬けがあるからね、持っていきなよ」
 土産を渡される。彼は桔梗のすぐ傍にちょこんと座った。
「裁縫箱みたいなのはあるの?」
「うん。ある。これ。古いから使いづらいかも」
 出された裁縫箱はなかなか立派である。鋏は錆びていた。
「じゃあ、脱いで」
「今……?おで汗かいて、臭いよ」
「平気」
 アサガオは脱いだ。顔は幼さがあるけれども、身体は鍛えられている。渡そうとして、だが躊躇っている。
「桔梗ちゃんはいい匂いする」
 だから汗臭く、土で汚れ、草臥れた衣類を渡すのが恥ずかしいらしい。
「そう?」
「なんか、悪いなって」
「たまにはいいんじゃない?ほら、貸して。寒くなる前に終わらせるから」
 穴やほつれを繕っている間、彼は自分の仕事着を恥じながらも身の上の話をはじめた。家もこの裁縫道具も彼の肉親のものかと思っていたが、アサガオは拾われた児であるらしい。老夫婦のもとですくすくと育ち、親代わりの翁と媼を看取って少し経つらしい。
「俺よりちょっと大きい息子さんがいたらしいんだけど、ワルくなっちゃったんだって」
 へらへらと軽率短慮な調子で話す。
「悪く?」
「賭け師の極め人だって。今でいうヤクザ屋さん……?」
 つまり警裁府のおどしも効かない破落戸ごろつき、与太者集団ということだ。
「それは…………大変ね」
「大変なんかな?ははは、でも、だからおで、じ様ば様に拾ってもらえたから、おでは感謝してる。へへ、じ様ば様の苦労の上に、おでがあぐらかいて座ってるん」
「あぐらはかいてないでしょう?でも、なんだか不思議。わたしもおうちの人の痛そうな火傷で、アサガオさんに会えて、今ここにいるんだから」
「へへ。誰かの不幸でおで、幸せになっちゃったんだな」
 そこに言葉ほど何かを嘲笑うような響きはなかった。
「でもアサガオさんを育ててくださった夫妻は、アサガオさんと出会えて幸せだったと思うな。アサガオさんの持って生まれた性格かも知れないけれど、アサガオさんのなんか、明るいところとか……う~ん、なんか、わたしの直感みたいなの」
 すでに野良着には綻びを綺麗に直された跡がある。
「……違った、かな?」
 まったくの見当違いで、もしかすると暴力を伴い、奴隷の如く扱われたのかも知れなかった。
「ううん。そうだよ。楽しかった。おで、ホントの父ちゃん母ちゃん知らないケド、知らなくてもいいなって思ったの、じ様とば様といて楽しかったからなんだよな。どゆつもりでホントの父ちゃんと母ちゃんがおでのこと捨てたのか分かんないけど、もし仕方なかったんなら、おで幸せだよ~って伝わったらいいな。父ちゃん母ちゃんがおでのこと捨てたの、おでにとっては間違いじゃなかった」
 彼はけたけた笑っている。桔梗は顔も知らない彼の養夫婦を想像し、この家に馳せてみた。彼女もふふふも笑った。
「なぁに」
「なんでもない」
「桔梗ちゃんは?桔梗ちゃんの話も聞きたい」
 桔梗の表情が強張った。手も止まる。アサガオは無邪気に彼女の顔を覗き込む。
「わたしの話をしても、仕方ないよ」
「そうなん?」
「うん、きっと」
 彼女は愛想笑いで上手く誤魔化す。アサガオは騙されやすい。彼なりに気を回したのかも知れない。
「そか~。知りたかったんだけどなぁ。桔梗ちゃんのこと」
 彼は髪を掻いた。ばりばりと日に焼けたり乾燥に晒されて傷んだ毛が軋んでいる。
「そう?」
「せっかく仲良くなれたんだもん。でもいっか!これからの桔梗ちゃん知ってけばいいし」
 彼は白い歯を見せて笑った。後ろめたさを拭い去っていく。
 桔梗は安堵する。錆びて固いハサミが糸を断つ。針山へ摘んでいた針を突き刺す。
「できた。また破れたりしたら言ってね」
 数箇所の綻びを直し、野良着を軽く張った。それから綺麗に畳む。アサガオは肌を晒したまま彼女に背を向け、吊るされていた干柿を取る。小皿に下ろされる。
「よかったら……食べて」
 彼はぼそぼそと喋った。
「ありがとう。いただきます」
「桔梗ちゃんの、食べてるものと違ったらごめん。こんなものしかなくて……」
「同じだよ。炊き込みごはんの横に出てくるもの」
 それは杏だったかも知れない。干された甘いものがついてくる。ダリアが好きなためにくれてしまっていた。
 アサガオが先にひとつ齧った。桔梗もひとつ齧る。
「うん、甘い。よかった。それは、甘い?」
「うん」
 半生菓子のような柔らかい食感だった。
「まだ渋かったらどうしようかと思った」
 干柿を口に入れ、彼は繕われたばかりの野良着を身に纏う。
「へへへ、よかった」
 ほつれていた箇所を確認しているアサガオを眺め、桔梗もまた柔らかな顔をしている。
「漬け物じゃ足らないかも。これ、持っていく?」
 出された干柿が引っ掛けられていた一縄を摘んでアサガオが訊ねた。
「いいの?家の人が好きなの」
「ああ、そうなん?じゃあ一番大きいの持っていきなよ」
 アサガオは摘んでいたのを戻して、土産として渡すものを選んで持ってきた。
「ありがとう、アサガオさん。今度わたしも何か持ってきます。もらってばかりで悪いから」
「何言ってるん。おで、桔梗ちゃんが来てくれただけで嬉しいよ!もう会えないかもって思ってたから。あのおにぃさんが困るだろうし」
 自分の監視役が、この気の好い人物に無礼なことをした。恥ずかしくなる。監視役がいなければ何もできない子供みたいだ。溌剌として生命力溢れるアサガオの前では特にそう思う。
「あの人のことは気にしてなくてへーき……ごめんね。無礼なこと言われたでしょう?」
「ううん。言われてないよ」
「そう?」
「うん」
 素直な彼の顔からも、嘘や隠し事があるようには思えなかった。
「なら、よかった……」
「でも、帰るとき送ってく。危ないもんね。最近物騒なんだって、朝行った町の人も言ってた」
「じゃあ、帰り遅くなっちゃうし、そろそろ帰ろうかな。アサガオさん、わたしののこと送って、時間は大丈夫なの?」
 アサガオが頷いた。肉体労働者である彼をさらに働かせてしまいすまなく思いながらも、帰り道も一緒に居られるのなら帰れそうである。
「うん。ゆっくり帰ろ~」
 彼は干柿と漬け物を持たせ、それから2人で家を出た。揺れる手を掴む。
「いい?」
「うん。安心だ~。歩くの速かったら言ってね」
 無邪気だ。村を出て、土手を歩いている途中でアサガオは鼻歌を歌う。橙色の差しはじめた空は、また違う詞を桔梗に授ける。容赦なく繋いだ手が前後に振れた。律動と肩の軋みが心地良い。何が楽しいわけでもないが楽しくなってしまった。桔梗も鼻歌を歌う。だが長くは続かなかった。アサガオの歌が止む。腕が重くなり、足が止まった。桔梗も静かになる。
「あ、あの人。あの人、桔梗ちゃんの知り合いの人じゃない?」
 アサガオが土手の下方を指す。離れていたが、まるで彼の声が聞こえていたみたいに、その先にいる人物がこちらに気付く。ハクビシンじみた白抜きのある馬を牽いているのは葵だ。薬屋の振りをした領主の仕え人である。
「そうみたい。ありがとう、アサガオさん。ここで。楽しかった。本当に……」
「そか!よかった!また来たらいいよ。この川にも畑にもいなかったら家で干柿食べて待ってたらいいや」
「うん……また来るよ。お土産、ありがとう」
 裾を摘み、法面のりめんを下りていく。生い茂り伸びた雑草が掠った。顧眄こべんする。アサガオはまだそこにいた。
「また明日ね!」
 桔梗から叫ぶ。普段からあまり大声を出さないために、少し喉に痒さが残る。
「うん!いつでも待ってるからねぇ~!」
 桔梗は馬のほうに歩いていった。数歩置きに後ろを向くが、アサガオはまだ待っていた。
「桔梗様」
 葵と合流する。彼女は咄嗟に土手を確かめてしまった。アサガオは元来た道へ身体の向きを転換していた。
「楽しかったです、とても。許可してくださって、どうもありがとうございました」
 葵は唇を引き結んだまま冷めた眼差しをくれる。
「いいえ」
 軽蔑と嫌悪に満ちた様子である。桔梗はすまなそうに微苦笑する。
「これからは自分で帰ります」
「お邪魔をしてしまい申し訳ございませんでした。ですが仕事ですのでお迎えに上がります」
 声音もやはり冷え冷えとしていた。頬に4本も傷を引いたのだ。ただでは許されまい。馬を挟み、ぎすぎすとした沈黙が流れる。栗毛が艶やかだった。耳を通さず、友人の歌が聞こえる。いつの間にか鼻遊む。
「桔梗様」
 独り立ちした女が外や他人の前で歌うのははしたない。都会的ではない。下品である。桔梗は気付き、俯いた。
「すみません」
「いいえ……お続けください」
 しかし続けられるはずもない。彼女は俯いたまま歩いた。裾や足袋、草履が少し汚れている。鼻緒にも小さな葉や種などが絡まっていた。短い時間に感じられたが、なかなか沢山のことをやれた気もする。
「随分と、お楽しみになられたようですね」
「はい」
「僭越ながらお訊きしますが、ご夫君にはどう説明しているのです」
 桔梗は思わず葵を睨んだが、美しい栗毛が目に入るのみである。
「説明する義務を感じませんでした」
「何故です。あの者は男性。ご夫君に説明をなさる義務は、……………………………いいえ、申し訳ありません。出過ぎた真似をいたしました」
 彼はぼそぼそと喋った。ほとんど独り言と化している。
「薬師さまとご結婚なさる方は、窮屈そうです」
「貴方様のご夫君の心労をお察しいたします」
「そういうものなんですか。それでは、帰ったら相談してみます」
 彼女は泥や草で汚れた爪先を眺めながら歩く。
わたくしも、貴方様のご夫君にお話があります」
 桔梗は首を傾げた。この男が夫に何の用があるのか。別れろとでも言うのであろうか。しかし威鳴狐狗狸いなりこくりと契ったのはこの男の主君のめいである。
「ではお訪ねください。夫はいつでも家におりますから」
 葵は黙ってしまった。普段から物静かで寡黙な男だ。最近少し、口数が多くなってきたくらいである。しかし稀に口を開いたかと思うと陰険なことしか言わない。人にはどうしても外見や性格とはまた別に肌で感じる相性というものがあるのだろう。理屈では説明しようのない理由もなく心当たりもない、言語や概念の域を越えた拒否感、厭悪感というものがあるのだろう。この職務一辺倒の監視役にとって自分はそうだったのだ、と桔梗は特に怒りや落胆も覚えず素直に受け入れた。桔梗は彼に対してそうではなかった。ゆえに鷹揚としている。彼に対するものには理由がある。たとえ私怨であろうとも。嗚呼……もしかすると彼は、要らぬ仕事を増やしたことを恨みに思っているのかも知れない。つまり理由はあるのだ。
 あれこれと考えているうちに村へと着く。
「寄っていただけますか」
「はい」
 屋敷のほうにはすぐに戻らず、薬屋の裏側、うまやに案内される。葵がハクビシンみたいに眉間を白くした馬を繋ぐのを見ていた。
「桔梗様。先程の話であるならば、わたくしのこともご夫君にはお話していらっしゃらないんですか」
 小さな厩舎きゅうしゃから出ようというときに腕を引かれ、彼女は戸に背を打った。
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