18禁ヘテロ恋愛短編集「色逢い色華」-2

結局は俗物( ◠‿◠ )

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飾れ星屑 9話放置/濃いめの暴行・流血の描写あり/殺人鬼美少年/引きこもり美青年

飾れ星屑 7

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 蝋人形に手を繋がれ、外に引っ張り出される。飢えた獣の息吹と悪臭判定された薔薇のボディソープの匂いが胃袋をたこ殴りにする。
『かすみ、かわいい。誰よりもかわいい……かすみの隣を歩けるのが嬉しい。かすみ、俺のかすみ…………』
 人目も憚らず、ヘドロをぶっかけられたみたいに蝋人形に纏わりつかれる。緋霧かすみは嫌がった。周りの人々からは痴話喧嘩、真の底では合意の上の茶番とばかりに見えたことだろう。見目の良い男が女を泣かせる光景が日常茶飯事でもなければ、繁華街の煙たい時間帯でもない。そこに痛罵や暴力は伴わない。歯の浮いて歯茎まで腐り落ちるような甘い言葉と艶めいた面構え、情愛が溢れ出て止め方を知らぬという挙動、ここに見ず知らずのたまたま通りがかった第三者がどう容喙ようかいできるというのか。緋霧も同じ立場なら見て見ぬふりをしただろう。理由もすぐには浮かばず、捏ねる理屈も浮かばない、直感的な拒否感はこの男に対してのみならず、往来の場で喚くことさえにも働いた。唇を噛んで耐える。若い女性たちが何度か重苦しいヘドロに手足が生えたみたいなのを瞥見した。彼女たちは瀟洒しょうしゃだ。この溶けた蝋人形をそういう女たちになすりつけてしまいたかった。
『今度はもっと本格的なデートがしたい。散歩だけじゃ物足りない』
 緋霧は顔を触ろうとする手を打ち払った。前方からやって来る若い男に目を奪われた。若い男といっても高校生くらいだろう。幼い大学生かも知れない。性別としては男だと認識したが、雰囲気としては嫋やかな感じがある。白い花を一輪、風車のように持って歩いている様が滑稽でもあり、どこか神聖な空気を醸し出している。さらさらとした髪が曇天にもかかわらず、宗教画に描かれる楽園の使徒を彷彿とさせる輪冠を携え、さらに異様さを加えた。
『かすみ!』
 それからのことはあまりにも恐ろしい。厭夢から彼女を覚ますほどだった。

―殺されたんだと思いますよ。

―………何故

―勘違いされたのかは分かりませんが。でもあの顔は、……


 ひっ、と悲鳴を上げた。からからと滑車を回す音が呑気だった。硬い枕に肩と首が凝る。
「おは」
 視界に入った面立ちに一瞬ぎくりとして心臓が痛む。しかしそれが亡霊でなければ妖怪でもないと分かると理解する。
「起きたけ」
 叔父の世間でよく聞く成人男性のものより一際低い声が横から入ってきた。
「あ、叔父さん。ごめんなさい、寝ちゃって……」
「いんや。寝てやっせ」
 身体を起こしてから刈田川かるたがわ氷麗歌つららに膝を枕にしていたことに気付く。
「ごめん。痛かったでしょう」
「痛くはなかったけど、」
 彼はちらと叔父を横目で見たから白々しく首を振った。つまり重かったと言いたいのだろう。極彩色の炭酸飲料で続きを濁す。テーブルの上にはハムスターのケージが乗り、鯖の塩焼きに似た柄の毛物は小休憩を挟みながら滑車を回す。
「お疲れなん?」
「う…………うん」
 失神し痙攣する直前まで激しい陵辱に耐え、帰ってくるまではなんとかなってはいたが、家に入ればよく知らぬ相手とはいえ気が抜けてしまった。
「あーしが送るけん。おすみは寝とれ」
 岩石のような腰が持ち上がる。かといってでっぷり肥っているわけではなかった。骨格にがっしりと筋肉がついている。
「おお、ありがたいです、鷹庄……緋霧さんの叔父さん!」
 どうしてもフルネームで呼ばなければ気の済まないらしい青年もひょいと小さな尻を持ち上げる。ある程度背丈に違いはあるが、体格自体は双子に似ている。
 いつか静架しずかの臀部の小ささに言及し、尻にフェティシズムを覚えるのかと苦笑されたことがある。彼のジーンズを履いた姿が好きだったことをふと思い出す。
 ただふわりと彼女の鼻を拭き撫でた匂いは石蕗つわぶき宅のものではない。刈田川の家庭の匂いだろう。
「んじゃあね。また今度」
 親しげな態度につられ、緋霧も愛想を繕い手を振ろうとしたが、氷麗歌の鼻先はハムスターのケージに向いていた。
「ん?ああ、鷹庄……………緋霧さんもね」
 そうして彼も、弟や静架と同じように叔父に懐いたらしく、2人で玄関に移動した。知らない人から見れば巨大なヒグマかも知れないが、不必要に辛辣なことを言ったり、怒声で脅したり、暴力で振るうという人物でないと分かれば、この叔父はなかなかに可愛げがある。
「鷹庄緋霧さんの叔父さん!今度来たときはおいたんがバイトで培ったテクニックで晩ごはん振る舞いますよ!」
 彼は腕を出し、ぺちりと叩いた。氷麗歌はもう緋霧のほうを一度も見ず、彼女の存在も忘れてしまった様子だ。
「あーしもそのまま帰るったい。戸締まり気を付け」
 氷麗歌はミュージカル俳優みたいに軽やかな足取りで先に玄関を出た。叔父は一段高い玄関ホールに立ってもまだ目線の低い姪に合わせて膝を曲げた。
「はい。ごめんなさい。寝ちゃって……」
「いんや」
 頭に軽く、大きな手が乗った。弟は昔、それを河童になったみたいだと言っていた。すぐに離れ、叔父も玄関扉の奥に消えていく。



 廻冬みふゆは駅にいた。外に出るとすぐにコンビニエンスストアや小さなラーメン屋、ケーキ屋があり、ひとつ道を渡ればとんかつ屋や蕎麦屋が点々としている。そう大きな駅ではないけれども寂れてもいない。こじんまりとした購買部も中にある。
 彼は駅構内だが改札の外にあるベンチに座り、行き交う人々を眺めていた。中規模の駅なりの混雑時間ではない。
 ここでも二度と目にすることのないカップルを見た。

 どし、とした男が女にぶつかった。肥り方からいうと中年のように思えた。偶々ぶつかった様子ではない。階段を上がってすぐ立ち止まったその男の一挙手一投足に廻冬の意識が向いたのは、その中年と思しき男も柱の傍でスマートフォンを操作する女を見ていたからだ。廻冬はこのとき、異様な不安に襲われたのだ。彼女のノースリーブのシャツに黒いビロードのベルボトムパンツが艶やかに照っていた。腕には小羊の毛皮を引き剥がしたような素材の上着が引っ掛けられていた。秋も終わり冬が始まる頃だった。
 廻冬は肌を晒す女に自分と恋人以外の男の目が向いたことが恐ろしくなってしまった。彼女はスマートフォンの画面を見下ろしている。中年らしき男はのしのしと彼女に歩み寄り、そしてその肌にぶつかった。廻冬は両手で両頬を押さえた。まるで目の前で人間が轢き殺されたみたいだった。しかし声は出ない。
『すみません……』
 彼女はスマートフォンを落とし、頭を下げながら拾おうとする。
『気を付けろこのアマ!』
 怒声がそう広くない駅に轟いた。もう少し東方面の繁華街の大型駅にいけば日常茶飯事だろうけれど、この駅はそうではない。彼女はスマートフォンを拾うと髪を直し、もう一度同じところに立った。人の混み具合からいえば、そう邪魔になる場所ではなかった。その直後に購買部から彼女の恋人が小さなビニール袋を下げて現れた。
『大丈夫だった?さっきなんか、怒鳴り声が聞こえたけど』
『うん、へーき』 
 顔に目立つ特徴のある男は女にビニール袋を差し出す。彼女はそこからペットボトルの茶を出した。
『ごめんね、離れちゃって』
『なにが。お茶ありがと。お金足りた?』
 彼女はペットボトルの蓋を捻る。
『うん。あ、お釣り返す』
『手数料だからもらっといて。またお茶買ってもらう』
 廻冬は2人のやり取りを真っ直ぐに見つめていた。そこにだけ花が咲いている。熱心に男女を眺めた。腕を組んでカップルは改札に入っていく。廻冬も追った。カップルは駅のホームのベンチに並んで座っていた。女が話しているのを、顔面に火傷痕のある男がうんうんと聞いている。廻冬はただの駅の利用者を装い、そのやり取りの前を通った。目指す先には自販機の前に立っているあの中年層の男がいた。電車がホームにやってくる時刻だった。廻冬は男が財布を開く瞬間を狙い、コインを飛ばす。河原石で水を切ったみたいにちゃりん、ちゃりん、と音がした。自動販売機の前に立っていた男が廻冬の前を横切り、銀色の硬貨を追った。
『あ、』
 廻冬は女の可憐な声に気を取られる。
『あのおじさん、危ない』
 女の声に火傷痕のある男がベンチから立ち上がり、腹だけ肥えた中年らしき男に歩み寄っていった。肩を掴む。黄色のラインを踏み越えそうなところを止める。電車がホームを流れていった。カップルが電車に乗り込む。廻冬は車窓を隔て、2人寄り添って座る様を電車が発って見えなくなるまで凝らしていた。


 あの日彼女の飲んでいたペットボトルの茶を同じ店で買って一口飲んだ。1年経った。それから間もなく弟を亡くし、そして恋人も亡くす。そろそろ同じ商品として出されている温かいほうを飲みたい季節だった。昨年よりも乾燥し、冷えている感じがある。上着を脱いで肌を晒していた彼女を柱の横に思い描いた。しかし不思議と装いは喪服になってしまう。両手で顔を覆い、待てども待てどもやって来ない待ち合わせの相手を悼んでいる。
 茶を口腔に注ぎながら、その唇は緩んでいた。茶が垂れていく。服を濡らした。顎に下げた紙マスクを戻す。この時期になると、乾燥して唇や喉や鼻の奥が痛む。
「お姉ちゃん…………」
 膝枕のようにして寝ていた白いガーベラを起こす。風車のように持ってくるくると回しもてあそぶ。
 コインなどで小細工せずに、そのまま突き落とせばよかったのではあるまいか。そうして血飛沫が上がり、彼女の肌を汚せばよかった。真っ赤なシャワーを浴びたカップルが見たかった。否、廻冬は落胆する。電車に轢かれたところで、求めたような大した血飛沫はそう簡単に上がらない。彼女の肌を汚すような鮮血シャワーなどはフィクションであり、願望であり、妄想だった。
「お姉ちゃん……」
 公共の場でありながら廻冬の下半身は膨らんでいる。トイレは改札の奥にある。
「お姉ちゃん…………」
 ぶつぶつと喋っていると、前を通った若い女に顔をじとりと見られた。毛先を巻いた栗色の髪、20代半ば、ヒールのある靴を含めると背はそこそこ高く見えた。膝丈のスカートからベージュのストッキングの光沢を帯びた脹脛が瑞々しい。
 廻冬は彼女を見たまま、すっと立ち上がった。まるでベンチの座面にバネでも仕込まれていたように、すっと、直立した。女が不審者を見たとばかりに顔を逸らした。望んでいた地味で控えめな化粧と違う。目元に入っている色味も違った。
「かすみお姉ちゃん………」
 くるくると指と指の間で回される白い花に接吻する。

 駅で遊んだその足でさらに聖地を巡礼する。石蕗宅のマンションだ。彼女のよく通る歩道橋から車の往来を眺めた。乾いた風にさらさらとした髪が靡く。大振りな花を上着に隠す。すでに空は暗くなりつつある。
 "ママの言うとおりいい子にしていた"ため、彼はそこに陰鬱な空気を纏う男女2人を認めることができた。歩道橋を今から上がろうとしている。白いダウンジャケットが浮いているみたいに非常に陰気で黴臭い2人組だった。男が女の手を取って、自分の上着のポケットに入れている。女のほうは強張ったような歩き方で、引き摺られているふうにも見えた。
「かすみ、寒いんじゃないか。コートを買おう。なんでも欲しいものは買えるから。頑張って働く……好きなものを買ったらいい。俺はかすみがいたらそれで十分だから……………デートするみたいで、楽しみだ」
 廻冬は車道を見下ろしながら耳をそばだてていた。すれ違いざま、薔薇の匂いが残っていった。香害だ。感覚過敏に容赦がない。目眩と頭痛はない。吐気を催す。それでいて彼は生活に支障が出るほど嗅覚が鋭い体質でもなかった。そうとなれば原因は薔薇の匂いではないのかも知れない。砂糖を無限に使ったような甘たる質感の声が悪いのか、歯が浮きすぎて大気圏まで突破しそうな物言いが悪いのか、馴れ馴れしく呼ばれた名前の所為か。廻冬は上着越しに花を握り潰した。
 臭い男と連行されていく女は歩道橋を降りていく。少し勢いづいた朔風が吹く。白いダウンジャケットが女を抱き寄せた。
 カシャ、と音がした。咄嗟に隣を見た。白煙が空に溶けていく。息だ。スマートフォンが構えられている。持っているのは若い男だった。ネックウォーマーに顎を埋めている。廻冬がその者を見たのと同時に彼も廻冬を見た。
「あ、あ、」
 廻冬は下の歩道を歩く白いダウンジャケットと隣の青年を交互に指差した。
「双子さん、ですか?」
 青年も白いダウンジャケットの後ろ姿を向いた。それからへにゃりと笑いはじめた。
「そっくりでしょ。でも兄弟だよ」
 そっくりか否かと問われても、廻冬は彼女を引き摺っていった異臭の男の顔面をろくに見てはしなかった。だがあれは、この手で焼き殺した男の双子の相方だろう。愚鈍でどうしようもない抜け作の雪兎吉ゆうきちは嘘を言ったのだ。それか梼昧とうまいを極め、質問に答えきれていなかったのだ。あの犬は一度即席バーナーで炙られるべきだったのだ。莫迦者は悲劇の前でしか知恵を得られないというのが廻冬の考え方だったが、彼女の愚弟はそれすらも覆すほどの表六玉ひょうろくだまだったのだ。
「どっちがお兄ちゃんなんですか」
 青年は鼻の下を指で擦る。
「誕生日ならオレのほうが早いから、お兄ちゃんはオレかな」
 彼はひょいとウィンドブレーカーのポケットにスマートフォンを突っ込んだ。
「さぁて、もう寒いから帰ろ帰ろ。今日の晩ごはんはなぁにかな」
 彼は後頭部に両手を当てて上機嫌に2人組の行く方とは逆に向かっていった。
 後姿を黙って見つめる。廻冬のそのかさついた手にはナイフが握られていた。このまま刺してみるにはまだ彼女との関係性が分からない。刺してみるか否か、ナイフを出し入れしながら考え、結局刺さないことにした。


 自宅の玄関扉を開いた瞬間に拳が飛ぶ。強かに頭を打った。
「また学校に行かなかったのか!」
 怒声が玄関ホールに響いた。マスクの下の鼻の下が冷たくなった。口内炎に鉄錆の風味がこもる。
「パパ……」
「いくつになったんだ!そろそろパパはやめろ!」
 父親の姿が逆光する。
「ごめんなさい、お父さん」
「明日こそ学校に行け」
 廻冬は鼻血で汚れた不織布を取り外す。
「学校は、いじめがあるから、行きたくないです……」
 怒号を聞いて、母親が奥からやって来る。
「腑抜けめ!自分でどうにかしてみせろ!男だろう!いくつになったんだ!まだ親を頼るつもりか!」
 起き上がると、崩れたガーベラが三和土たたきに落ちた。父親は妙な顔をした。
「お前、本当は女なんじゃないか……?」
 その声音は先程とは打って変わって気拙いような、腫れ物に触るような、弱々しいものだった。継父ではない。実の父だ。息子が男体として生まれたことは知っているはずである。
「男ですよ、お父さん。分かりました。明日は学校に行きます。僕は男の子ですから」
 鼻血を垂らしたまま彼は階段を登っていく。後ろから母親が来た。
「廻冬ちゃん。学校が嫌なら、無理に行かなくてもいいのよ、廻冬ちゃん…………」
「大丈夫です。明日はちゃんと行きます」
 にこりと笑って彼は部屋へと入っていく。

 怯えた目を向ける少年の写真立てを手に取った。目の前でガスバーナーとしては売られていないスプレー缶とライターで火炎を噴き出す。
「ゆうきちちゃん」
 写真の前に張られたガラスが赤々と輝く。
「ゆうきちちゃんの嘘吐き」
 ゴオオォと炎が唸った。
「ゆうきちちゃんが焼かせてくれなかったから、お義兄にいちゃんが死んじゃったんだよ」
 写真は何も言わなかった。抜作への怨嗟を一通り愉しむと、彼はベッドに転がった。今度は枕元にある写真立てを手に取って、ガラス面に口付ける。引き伸ばしにされ、画質が荒い。喪服姿の女が映っている。

―僕も高校行っていい大学出て、稼げる男になるからね、かすみお姉ちゃん。待っててね。僕と赤ちゃん作る前に赤ちゃん産んでてもいいよ。かすみお姉ちゃんの子供だもんねぇ。僕はかすみお姉ちゃんに赤ちゃん産ませられる男の子だからね。明日見ててね。僕男の子だから。かすみお姉ちゃんに赤ちゃん産ませてあげられない性別メスじゃないよ。いっぱいちんちん勃たせて、いっぱい赤ちゃん作ろうね。かすみお姉ちゃんの赤ちゃんなら、みんな僕の子供だから。
 写真に頬擦りする。



「返します……返しますから…………」
 店員を慮って会計の場を譲ったのが間違いだった。不本意な出費だが仕方なしと出した金額を叶奏かなでは受け取ろうとしない。
「かすみのために貯めておいた金だから。かすみのために使わせてほしい」
「そういうのが、困るんです……」
「どうして。かすみは俺のすべてを満たしてくれるのに、俺はこんなことくらいでしか、かすみの役に立てない。かすみの身体に負担ばかりかけているから……いつもありがとう。大好きだ。愛してる。風邪をひかないように温かくしてくれ」
 彼は店前のベンチに紙袋を置いてディムグレーのダッフルコートを取り出した。
「下に色のあるものを履いたらきっとよく似合う」
 縮こまる緋霧の肩に厚手の上等なコートを羽織らせた。ひとつひとつトグルボタンを嵌めていく。その姿に歓喜の溜息を漏らすと人目のある店内にもかかわらず叶奏は緋霧を抱き寄せた。
「やめ、て!」
 突き飛ばして後退する。相手は自分は被害者だと言わんばかりの表情をする。蝋人形みたいな面をして、今にも泣きそうに眉を下げ、睫毛を伏せる。
「困ります……」
「……すまない」
 だが詫びておきながら彼は緋霧の腕を掴む。
「まだ……」
「そろそろ帰って、夕食の支度をしないと…………明日も早いですから」
 彼の手を払い除ける。白かった肌が温まって赤らんでいる。
「かすみの家に俺も行ってみたい……」
 まるで猛禽類の爪で引っ掻かれ、熱したフライパンを当てられたかのような大袈裟な所作で払われた手を撫でている。
「家族がいますから……」
「挨拶する」
 緋霧は黙った。叶奏のほうも無言でいる。随分と気の早いクリスマスソングが遠くから聞こえている。
「かすみ……」
「わたしは静架の婚約者だから…………静架と以外はそういうの、考えてない」
「考えてほしい。かすみにきちんと俺との将来を考えてほしい。俺と結婚してくれ」
 傷付いた面のまま、怒り狂った悪鬼の機嫌を窺っているが如く、媚びておもねた様子の眼差しをくれる。緋霧を恐ろしい虐待犯とでも周りに思わせたげである。それでいて声音は甘えている。緋霧は恐ろしくなってしまった。
「そろそろ帰ります。また後日、コートのお金は返しますから」
 一度頭を下げて緋霧は踵を返して逃げる。現地解散という条件で外に出たのだから恨まれる筋合いはない。このままでは本当に家まで来そうだ。
 立体駐車場へと出る。
「遅い」
 突然かけられた声に、恐ろしい男から逃げてきた彼女は肩を跳ねさせた。
「いつまで待たせんの」
 車と駐車場の壁の間に氷麗歌つららが屈んでいた。温熱用ペットボトルのロイヤルミルクティーを飲んでいる。
「刈田川くん……」
「もう飯決まったん?」
「まだ……」
 彼は立ち上がって、我が物顔で彼女の車の脇につく。ウィンドブレーカーの下から袖を伸ばす。
「開けて」
 緋霧はポーチからハンドクリームを取り出して手の甲から両手に塗りたくる。
「金木犀だ」
「そう」
 季節外れの人工的な金木犀の香りがふわりと漂った。
「おいたんもつける」
 ハンドクリームを近付けると、彼は掌を差し出した。そこに小さな山を作る。
「わ、すげ。金木犀だ。ちゃんぼく、この匂いすこ」
「乾燥すると静電気起きやすくなるから」
「ふぅん」
 彼は両手の匂いを嗅いで話を聞いているのかいないのか分からなかった。
「今日はここでは買い物しない」
「なんで」
「向こうのスーパーのほうが今日は安いから」
「主婦みたい」
 彼は自分でドアを開けて車に入っていった。緋霧も運転席に乗り込んだ。氷麗歌はすでにシートベルトも締めている。
「おでんにしよ。おいたんシェフが作ってあげる」
 氷麗歌は山の麓の道の駅にあるレストランでアルバイトをしていたのだと豪語していた。ゆえに料理が得意らしい。
「叔父さん来てるん?」
「うん。暫く泊まりで来てくれるって」
「そうなんだ。じゃあ鷹庄緋霧助手はおいたんシェフを手伝ってくれたまえ」
「はいはい」
 妙に明るい後部座席がいくらか気分を紛らわせる。
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