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怪盗キッスとストロベリー 不定期/弟持ちヒロイン/大学生/女装美少年/軟派美青年/気紛れ美男子/etc…
怪盗キッスとストロベリー 1 大金持ちの家でアルバイトする大学生女子と怪盗()の同大学生男子。
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豪華客船ジュエルフィッシュの甲板で、鮠瀬緋鯉は潮風に吹かれていた。弟の蒼多郎が手摺に両腕を引っ掛けて海上を楽しんでいるのに満足すると踵を返す。
彼女はこの船に仕事で乗っていた。せっかくの豪華客船だからと雇主の厚意で、弟も帯同させた。船に酔うこともなく、レストランでは洒落た食事を臆した様子もなく平げていた。
弟とは反対に船酔いをしている雇主の元へ戻ろうとプロムナードデッキに入ったとき、目の前を人影が横切った。口元に手を当てているところからして今にも嘔吐しそうである。若い男で、この海のような淡い青みのデニムジャケットが目を引いた。さらさらとした黒い髪が潮風に撫でられている。青白い顔が水面を見下ろした。
「大丈夫ですか」
緋鯉が近付く。彼女は雇主の趣味でセーラー服を模したワンピースを着ている。肌触りの良い素材で、意匠が可愛らしい。この服をすぐに気に入ったけれど、かなりこの豪華客船の旅を楽しみにして浮かれているように見えるが、雇主の注文でなければまず着ない。しかし着られるとなると彼女もやはり浮ついた。
船室から飛び出してきたかなり酔っているらしい者は海上のほうに預けていた顔を彼女に向けた。青白い顔で唇は紫になっている。
「医務室に行きますか?」
相手のアイラインを引いたように、しかし自然な睫毛が、かっと開いた。その反応は知人を見つけたときのものに似ている。緋鯉のほうも彼の顔を不躾に見つめてしまう。一度見れば忘れてしまうほどによく整った、特徴も印象もない美男子だった。何か言おうとした瞬間に相手が嘔吐き、何を言おうとしたのか忘れてしまった。
「お医者さんがいますから、連れていきます」
「い、いい……」
彼は緋鯉を鬱陶しそうにして距離を取ろうとした。そこまで拒まれたなら善意も引っ込めなければならない。小さく会釈して、今にも吐きそうな者をその場に置いていった。
緋鯉の雇主の部屋、それはこの豪華客船のオーナーの部屋を意味する。まるで権力を誇示するようにこの船の最も高く最も不安定な位置に四方をガラス張りにして、ラグジュアリーな寝室をショールームにしたみたいな6畳ほどの狭い内装だった。船酔いすることを公言していないジュエルフィッシュ号のオーナーは隠しエレベーターで秘密の床下部屋に潜ってしまった。この1つ下の階からもこの部屋は分からない構造になっている。廊下の途中からせり出たような柱の中、壁一枚奥でオーナーが体調不良で臥している。
緋鯉は雇主のいる部屋に降りた。一面のパステルカラーに部屋の大半を埋めるベッドは天蓋付きだった。星の飾りが天井から垂れている。
「みくる様」
ピンク色のドレスに身を包んだ縦巻きロールに金髪の人物は大きなクッションに頬を寄せ、くりりと大きな目を緋鯉に向けた。青白い顔をしている。ドレスの色と揃いの赤みの強いピンク色の大きなリボンの頭飾りでもその血色の悪さは誤魔化せない。
「気持ち悪い……」
緋鯉の雇主は龍魚院美狗瑠といった。緋鯉より4つ5つ下の17歳だが、その風貌はまだ14歳ほどに見えた。
「お外に出ませんか。下の階なら、あまり揺れませんから」
ふさふさとした睫毛を生やした目が伏せられ、唇を噛む。
「でも……」
「お着替えしましょう。わたしも手伝います」
美狗瑠は大きなリボンのヘッドドレスを取り、縦巻きロールの鬘も外した。さらさらとした栗色のミディアムヘアが現れる。その髪色に合わせたロング丈の毛先のカールした鬘をまた被った。ドレスを脱ぎ、軽装に替わる。この雇主は男である。性自認もまた男であり、異性装をしているが彼個人の趣味ではない。肉体的な性別を問われない場面に於いては世間一般に女性的な印象を与える身形、素振り、仕草を装った。
「お腹ちょっと空いた」
「ではレストランに行きましょう」
みくるの身体を支え、立入制限のされた区域を出る。かなりの大人数を収容しているはずだが、このオーナーと関係者以外の立ち入りを禁止している最上階はまったく人気がない。しかし下方からははしゃいだ声がよく聞こえた。四方八方に紺碧の海が広がり、この船体の白い尾が溶けていく。
オーナー専用のエレベーターでレストランのある区画に向かった。とにかく巨大な客船で、田舎の商業施設をひとつかふたつ、娯楽施設をいくつでも乗せ、都会の繁華街をいくつか選んできた盛況ぶりだった。
「あかりぃ」
プロムナードデッキを歩いているとみくるが緋鯉のほうに身を寄せる。
「どうしました」
「ちょっと寒くなってきたよぉ」
綿のプリント半袖シャツが潮風にはためく。
「ではレストランに行く前に上着を買いましょう」
生憎、緋鯉にも今貸せる上着がなかった。雇主の肩を抱き寄せる。彼はこの年齢の男子の平均身長よりも随分と下回り、緋鯉よりも背が低かった。はたから見ると幼い弟のようだ。
「では、それまで、これを着るといいですよ」
みくるは後ろから上着かけられた。緋鯉のほうが咄嗟に振り返る。男女2人組みで、男の方は長い金髪を後ろで結えている。額に上げたサングラスが軟派な印象を与えた。20代後半か、もしかしたら30に差し掛かっているのかも知れない。女のほうも若かった。ピンヒールを吐いているが、それを差し引いても背の高い男と並んでそう差がない。コレクションモデルに出ているような脚の長さで深くスリットの入った黒のワンピースを着ている。彼女のほうはサングラスで目元を覆い、キスマークをそのまま付けたような真っ赤な唇が特徴的だった。異様な覇気がある。それなりに金を持った善良な小市民ではないのかも知れない。
声をかけたのは男のほうだった。みくるはその上着が気に入ったようで自分ごと抱いていた。
「顔色が優れませんのね。さっきも1人、体調が悪そうな子がいましたのよ。今日はそういう日なのかしら」
女のほうが言った。澄んだ質感ながら妙に艶っぽい響きの声だった。
「いいんですか、お借りして」
緋鯉は雇主の肩を上着ごと抱き寄せた。肌触りの良い毛皮のコートは触れただけでも安くないことが知れた。
「どうぞ、どうぞ。案内所に届けておいてくれたらいいですよ。明日あたりに取りに行きますから。困ったときはお互いさまですよ。ここはもう、隔絶された街みたいなものですからね」
男のほうは恋人と思しき女の腰を抱いて颯爽と緋鯉たちを通り過ぎていく。
「みくる様?」
みくるは男女2人の姿を見つめたまま突っ立っている。それは親切なアベックを見送っている感じではない。
「常連さんだよ。一神夫妻っていうの。羽振りがよくて有名で、カジノで色んな人無一文の素寒貧にしちゃうんだって。でも、なんかいつもと違ったな」
船酔いから少し覚めたようにオーナーの態度には厳しさが現れた。
「あ、ボクがこの格好だからか」
「ご存知なんですか、みくる様のこと」
「知らないと思うよぉ。いつもはイチゴミルク色のドレスさんだから」
彼は甘えた喋り方をして緋鯉に抱きつく。
「みくる様」
「さっきよりちょっと快くなった。ごぁん食ぁべよ。牛さんがいいな。死んだ牛さんのお肉、切り刻んで焼いたやつ!」
彼は借りた上着を抱き寄せている。室内飼いの毛足の長いネコやウサギのような滑らかな毛皮にファウンデーションを塗った顔を擦り寄せている。案内所に渡すより先に早いところクリーニングに出すのが賢明だろう。
食事を終えるとみくるは眠気を訴えた。自室に帰るよう促したが、彼は聞かずカジノのあるほうへ行ってしまった。同行も断られる。マロンブラウンの人口毛を手で払い大袈裟に揺蕩わせると船酔いもすっかり治まった様子で行ってしまった。オーナーではなくひとりの客に扮したつもりになっているのをこの若き経営者は楽しんでいるようだった。その背中を追いかけられない緋鯉はまだケーキを食らっている途中だ。みくるが頼んだものだが手を付けずに彼は満足してこの場を去っている。チョコレートを思わせる濃いスポンジケーキにパステルピンク色の生クリームが渦巻いている。その頂点には赤黒いイチゴが鎮座していた。
そこに注文した覚えのない苦そうなチョコレートケーキが届けられた。口直し程度のクリームにミントが添えてある。緋鯉は「えっ」と間の抜けた声を上げてウェイターを見てしまった。ドラマのバーなどでよくみる「あちらのお客様から」らしかった。示された方向には"一神夫妻"の妻だけいた。麗かに手を振っている。サングラスのない彼女の目が優しげに細まった。
緋鯉の身の上は、まったくこの豪華客船とは縁遠いものだった。まどろっこしい書き方の求人広告を家庭教師の求人だと勘違いし、アルバイトのつもりで応募して見事受かったのが龍魚院家の屋敷のハウスメイドだった。そしてそこの若主人にいたく気に入られこのクルージングに同行しただけの成り行きである。彼女の素性は要するに善良な小市民、ごくごく平凡な女子大学生だった。豪華客船には生まれて初めて乗る。弟もそうだ。そしてそこに内蔵された高級レストランでの振る舞い方も分かっていない。この施設に入った瞬間、準礼服や民族衣装、制服に身を包んでいる利用客に圧倒され、みくるはそういう彼女のためにわざわざ壁際の席を指定した。気侭なオーナーはスタッフに対しては己の立場を明確にすることを躊躇わなかったため、彼なりの気遣いはすぐに叶った。その最高権力者とまでは見做さずとも連れがいなくなり、緋鯉の肩身は狭い。ラフな私服でのこのこ訪れていい場所ではなかったのだ。
オーナーの口からこの豪華客船の"常連"とまで言われている金持ちらしき女の突然の厚意に緋鯉は戸惑ってしまう。何か気分を害することになりはしないかと、華美な女が顔を背けるまでひたすらに頭を下げた。まだみくるの残したケーキも残っているが、彼女は2つ平らげる。周りの目が気にならないでもなかったが、見渡してみたところで他の客たちも自分たちの時間を過ごしていた。片隅の席のいやにラフな服装でコース料理も頼まずひとりで4人掛けのテーブルを陣取りケーキを2つ食っている女のことなど気にしたふうもない。
ケーキを平らげ、雇主の同行を拒まれた彼女は自室に帰る途中だった。とりあえずのところは邸宅同様に甘えたなオーナーとの同衾を命じられているが、部屋が用意されていないではなかった。弟とも別室だ。小洒落た空母艦に大きなマンションが乗ったような外観だが、そのマンションの上層階の隅であまり人気もない。揺れは下の階と比べると大きいけれど酔うほどではなかった。横になって少し休もうと思いながら廊下を歩いているときにふと、その不調が現れた。船自体の揺れとも思われた。立ち眩みを起こす。真横の壁に手をついた。小窓から紺碧色と澄んだ空色が上下に両断されているのが見えた。手前は波で揺めきながらも、遠景となるときっぱり水平線が断固として淡いブルーへの侵入を許さない。
緋鯉の身体は支えられていた。だが本当に支えられていたのかは定かではない。壁から引き離されるように突進され、そのまま腕を掴まれて歩かされている。
「医務室……連れていって………」
連れていってと言っておきながら、連れていっているのはその言葉の主だった。デニムジャケットに黒いシャツの、黒い髪の若い男だ。先程会った酷い船酔いをしていた人物だ。
「あの、……」
「こっち…………」
まだ青白い顔をしていたが、その腕力は強く、足取りもしっかりしている。
「船酔いですか?」
「………そう………」
薄ぼんやりとした意識で彼は答えた。その面構えを見つめていると緋鯉はまたぴん、と閃きが起こる。この男を知っている。
「あの、鮫ヶ嶋大学の方……ですか?」
緋鯉は彼をキャンパス内で見たことがある。友人が言っていた。箸にも棒にも引っ掛からなそうな美男子、例えるなら豆腐系、調味料に足らない無難過ぎる顔、と好き放題評していたような気がする。
「…………うん」
青白い顔はやはり薄ぼんやりとして頷いた。特に驚きもせず、そこに何かしら感慨を示すでもない。彼は淡々として緋鯉を引っ張ったかと思うと、急に船を横断する狭い廊下に彼女を連れ込んだ。同じ大学であることが判明した男は今まで来た方向を気にしていたが、緋鯉を見た瞬間、彼女は膝頭を奪われたように床に尻餅をついた。力が入らなくなっている。すっかり戸惑った。
「ケーキ…………食べたでしょ………」
彼はまた薄ぼんやりとした態度で訊ねる。今にも寝てしまいそうだ。彼に付き合っているだけでも眠気が伝染しそうである。すでに寝ているのかも知れない。毎秒確認したくなるほどだ。
「ケーキ、食べた……でも、あれが?」
緋鯉にこれという重大な症状を伴う食品アレルギーはないつもりだった。
「食べちゃ………いけないやつ…………」
膝に力が入らない以外にはまったく異変はなかった。頭も回る。眠気はなく、苦しみもない。壁を頼りに立ち上がろうとするが、生まれたての子鹿も同然である。
「何か、入ってた……?」
彼はまた今来た通路を気にしながら首肯する。脳裏に只者ではない雰囲気の女が過ぎる。優美に手を振る姿の裏に、金持ちではない、または貧乏人には分からない思惑があったのだ。
「一服………盛られた」
「え?」
目の前のデニムジャケットもかくりと膝をダルマ落としされたように床に崩れ落ちる。
「ちょっと!」
彼のほうは緋鯉と違う様子で、額を押さえると、倒れ込んでしまった。尻餅をついている彼女は受け止めた。
「俺のこと………守って……」
目頭を揉み、同じ大学に通う謎の男は急に寝てしまった。しかしあまりにも唐突な入眠に緋鯉は焦る。
「ちょっと!」
頬をぺちりと叩いた。耳を澄ますと呼吸をしていることは分かった。同時に近付いてくる足音にも気付く。人影が狭い通路に現れた。あの女だ。レストランでは外していたサングラスを掛けているが、深いスリットの黒のワンピース、夫と揃いらしき毛皮の上着、何よりも真っ赤なリップカラーが彼女だった。緋鯉は戦々恐々として特に他意はなく、勝手に膝枕の体勢のようになっている寝人を抱き締める。それがクッションやぬいぐるみならば尚良かったが生憎のところ人体は硬い。この男子大学生は痩せぎすではなかったが肥満体質でもなかった。中肉中背で引き締まっている。不安を和らげるような効果はクッションほど望めなかった。
「ワタシの可愛いワンちゃんを探しているのだけど、見なかったかしら、お嬢さん」
嗜虐的なところのある女だった。サングラスを勿体ぶりながら額まで上げる。その下にある妙に色っぽい目は眇められ、慈しむようにも責め苛むようにも見える。
「あらあら……」
「あ、あ、あの………」
この船がペット同伴可能だったのかどうかは緋鯉の知るところではなかった。実際顔を合わせてしまうと、本当にこの女に薬を盛られたのか強い疑問に変わっていく。むしろこのデニムジャケットのいきなり寝始める男のほうが怪しくないか。行動も言動も突発的でおかしかった。
「いいのよ、いいのよ。ちょっとうちのワンコのお悪戯が過ぎただけなの」
彼女はワンピースの裾に気を遣いながらそこに屈むと緋鯉からデニムジャケットの男を剥がし、壁に凭れさせた。
「お嬢さん」
女は屈んだまま寝ている男から緋鯉のほうを見た。マロングラッセのような糖蜜的に潤んだ目に覗き込まれた。同性愛的な嗜好のない緋鯉でも、どきりとしてしまう。
「怖いわねぇ、自作自演の送り狼は。怖い、怖い。可愛いワンコほど闘犬の血筋だったりするんじゃないかしら?」
彼女の淑やかな喋り方で、緋鯉の疑惑はこの女から、呑気に寝ている男へ移る。
「寝ている間に行きましょう。ところで小さなお連れさんはどうして?」
一神夫人はピンヒールのサンダルにもかかわらず脚の自由の利かない緋鯉を助け起こした。
「別の場所を見に行くそうで。あの、お借りした上着は一度クリーニングに出しましたので、そのままお部屋に届くと思いますので、ご主人様にお伝えください」
「あら……この船のクルーさんたちは優秀ですのね。するとあの服を見ただけで、ワタシたちがお分かりになったということですものね。なんだか恥ずかしいわ」
おほほ……と手の甲を口元に添えて笑う仕草に緋鯉は感動してしまった。富豪の婦人というのは本当にそう笑うのだと。漫画やアニメなどの誇張表現ではなかったのだと。
「よく伝えておきますわ」
「ありがとうございます。助かりました」
「いいのよ、いいのよ。困ったときはお互い様ですもの」
女に支えられて歩くが、どこに連れて行かれるのかは分からなかった。医務室だろうと高を括る。
「あの、さっきの男の人は……?」
どうするのか、という意味で問うた。素性は知れている。同じ鮫ヶ嶋大学に通っている。それが知れていれば粗方足はつく。
「ワタシの……そうですわねぇ、お使いでしょうねぇ。荷物が多くって、整理も得意じゃぁなくって」
要は緋鯉と同じだ。彼もアルバイトか何かで雇われたのだろう。
「あのままで大丈夫ですかね……?」
「ふふふ、大丈夫よ。寝たフリが上手くて困ってるのよ。そのうち起きるでしょう」
「ところで、ワンちゃんは……?どこかで迷子になったんですか」
彼女の糖蜜的に光る目が緋鯉を射抜く。大きくカールした睫毛は重そうだが、一度二度ことも無げに俊敏に瞬いた。それから特徴的な赤い唇が弧を描く。
「あの人が見つけているわ、きっと。誰に懐くのが最良か、分かっているのね」
艶冶な調子の女はまるで緋鯉に気があるふうで、彼女自身、もし自分が男であったなら惚れてしまっていただろうと仮想した。この得体の知れない美女の夫の上着はバニラの香りがしたけれど彼の妻からは甘い薔薇の香りがする。緋鯉の知っているものの匂いでいえば少し値の張るシャンプーの香りに近い。
「お嬢さんともう少しお話がしたいわ。貴女のこと、もっと教えてくださらない?ワタシ、こうして旅の途中で出会った片方のことを聞くのが好きなんですの。人は一人ひとりが一冊の本のようです。波瀾万丈な人生であろうと、ありきたりでごくごく平凡な人生であろうと。本人の口で、本人の言葉で聞くことに大きな意味があると思うんです。他人を自分の娯楽にしているということになりますけど、もしお嬢さんが快く引き受けてくださるのなら、聞かせてくださいな。ワタシの部屋で、休んでいくといいですわ」
濃い睫毛、その下の覗き込むマロングラッセみたいな目、綻ぶ鮮やかな唇、こてんと可憐に傾ぐ首。緋鯉に対する効果は覿面だ。
「は、はい!わたしの話なんかでよければ、ぜひ」
一神夫人の笑みは深まり、眇められた目元は穏和そうに見えながらも妖しい。
緋鯉が案内された客室は最高グレードの次の位置にありながら、地上のラグジュアリーホテルのような大部屋だった。真っ先に目に入るベッドカバーは海軍風のネイビー地に白抜きのライン、ワンポイントの赤い錨の刺繍が可愛らしい。
「素敵な部屋ですね……」
「うふふ。でも、寝る時しか出入りしませんの。ここには楽しいところが多過ぎますわ」
彼女にソファーを促され、緋鯉は艶々と照る革張りに座った。痺れの残る膝が休みを得て、震えているのが少し恥ずかしい。
「かわいいのねぇ」
「す、すみません……」
夫人の細められてよく潤んだ目が小刻みに痙攣している膝頭をちらと見下ろしてから穏やかに微笑むと、緋鯉の顔をを見つめ、また異なる微笑を浮かべた。思わせぶりですらあるが、彼女は夫のある身だ。何かそこには妖異な意図を覚えてしまうが、理屈で考えれば打ち消せる。しかしやはりこの美女の眼差しは理屈を上回り、夫帯しているという点のほうに疑問を抱いてしまうほどだった。緋鯉は新たな体験に怯んでしまう。そういう好意を醸されたのは異性からのみだった。だが妖婦とさえいえるこの一神の妻ならば、そこに忌避感はなかった。
「本当に、かわいい方。鮠瀬緋鯉さん……」
たとえばいつの間にか名前を教えていたとしても、その言い方には妙な響きがあった。緋鯉は自分が名乗ったものだと錯覚した。相手の姓を知っていたのもそこに一助した。だがやはり教えていないという気もした。どういうルートかは想定していないが、オーナーの側近であることを突き止められ、迷惑のかからないように、名は言うかもしれないが氏名セットでは誰にも教えないつもりでいた。そのために同大学の学生の登場には彼女の中にある種の印象を残した。
「おもてなし、させてくださいな」
眼前に形の良い、絵に描いたような鮮やかな唇が迫っている。
彼女はこの船に仕事で乗っていた。せっかくの豪華客船だからと雇主の厚意で、弟も帯同させた。船に酔うこともなく、レストランでは洒落た食事を臆した様子もなく平げていた。
弟とは反対に船酔いをしている雇主の元へ戻ろうとプロムナードデッキに入ったとき、目の前を人影が横切った。口元に手を当てているところからして今にも嘔吐しそうである。若い男で、この海のような淡い青みのデニムジャケットが目を引いた。さらさらとした黒い髪が潮風に撫でられている。青白い顔が水面を見下ろした。
「大丈夫ですか」
緋鯉が近付く。彼女は雇主の趣味でセーラー服を模したワンピースを着ている。肌触りの良い素材で、意匠が可愛らしい。この服をすぐに気に入ったけれど、かなりこの豪華客船の旅を楽しみにして浮かれているように見えるが、雇主の注文でなければまず着ない。しかし着られるとなると彼女もやはり浮ついた。
船室から飛び出してきたかなり酔っているらしい者は海上のほうに預けていた顔を彼女に向けた。青白い顔で唇は紫になっている。
「医務室に行きますか?」
相手のアイラインを引いたように、しかし自然な睫毛が、かっと開いた。その反応は知人を見つけたときのものに似ている。緋鯉のほうも彼の顔を不躾に見つめてしまう。一度見れば忘れてしまうほどによく整った、特徴も印象もない美男子だった。何か言おうとした瞬間に相手が嘔吐き、何を言おうとしたのか忘れてしまった。
「お医者さんがいますから、連れていきます」
「い、いい……」
彼は緋鯉を鬱陶しそうにして距離を取ろうとした。そこまで拒まれたなら善意も引っ込めなければならない。小さく会釈して、今にも吐きそうな者をその場に置いていった。
緋鯉の雇主の部屋、それはこの豪華客船のオーナーの部屋を意味する。まるで権力を誇示するようにこの船の最も高く最も不安定な位置に四方をガラス張りにして、ラグジュアリーな寝室をショールームにしたみたいな6畳ほどの狭い内装だった。船酔いすることを公言していないジュエルフィッシュ号のオーナーは隠しエレベーターで秘密の床下部屋に潜ってしまった。この1つ下の階からもこの部屋は分からない構造になっている。廊下の途中からせり出たような柱の中、壁一枚奥でオーナーが体調不良で臥している。
緋鯉は雇主のいる部屋に降りた。一面のパステルカラーに部屋の大半を埋めるベッドは天蓋付きだった。星の飾りが天井から垂れている。
「みくる様」
ピンク色のドレスに身を包んだ縦巻きロールに金髪の人物は大きなクッションに頬を寄せ、くりりと大きな目を緋鯉に向けた。青白い顔をしている。ドレスの色と揃いの赤みの強いピンク色の大きなリボンの頭飾りでもその血色の悪さは誤魔化せない。
「気持ち悪い……」
緋鯉の雇主は龍魚院美狗瑠といった。緋鯉より4つ5つ下の17歳だが、その風貌はまだ14歳ほどに見えた。
「お外に出ませんか。下の階なら、あまり揺れませんから」
ふさふさとした睫毛を生やした目が伏せられ、唇を噛む。
「でも……」
「お着替えしましょう。わたしも手伝います」
美狗瑠は大きなリボンのヘッドドレスを取り、縦巻きロールの鬘も外した。さらさらとした栗色のミディアムヘアが現れる。その髪色に合わせたロング丈の毛先のカールした鬘をまた被った。ドレスを脱ぎ、軽装に替わる。この雇主は男である。性自認もまた男であり、異性装をしているが彼個人の趣味ではない。肉体的な性別を問われない場面に於いては世間一般に女性的な印象を与える身形、素振り、仕草を装った。
「お腹ちょっと空いた」
「ではレストランに行きましょう」
みくるの身体を支え、立入制限のされた区域を出る。かなりの大人数を収容しているはずだが、このオーナーと関係者以外の立ち入りを禁止している最上階はまったく人気がない。しかし下方からははしゃいだ声がよく聞こえた。四方八方に紺碧の海が広がり、この船体の白い尾が溶けていく。
オーナー専用のエレベーターでレストランのある区画に向かった。とにかく巨大な客船で、田舎の商業施設をひとつかふたつ、娯楽施設をいくつでも乗せ、都会の繁華街をいくつか選んできた盛況ぶりだった。
「あかりぃ」
プロムナードデッキを歩いているとみくるが緋鯉のほうに身を寄せる。
「どうしました」
「ちょっと寒くなってきたよぉ」
綿のプリント半袖シャツが潮風にはためく。
「ではレストランに行く前に上着を買いましょう」
生憎、緋鯉にも今貸せる上着がなかった。雇主の肩を抱き寄せる。彼はこの年齢の男子の平均身長よりも随分と下回り、緋鯉よりも背が低かった。はたから見ると幼い弟のようだ。
「では、それまで、これを着るといいですよ」
みくるは後ろから上着かけられた。緋鯉のほうが咄嗟に振り返る。男女2人組みで、男の方は長い金髪を後ろで結えている。額に上げたサングラスが軟派な印象を与えた。20代後半か、もしかしたら30に差し掛かっているのかも知れない。女のほうも若かった。ピンヒールを吐いているが、それを差し引いても背の高い男と並んでそう差がない。コレクションモデルに出ているような脚の長さで深くスリットの入った黒のワンピースを着ている。彼女のほうはサングラスで目元を覆い、キスマークをそのまま付けたような真っ赤な唇が特徴的だった。異様な覇気がある。それなりに金を持った善良な小市民ではないのかも知れない。
声をかけたのは男のほうだった。みくるはその上着が気に入ったようで自分ごと抱いていた。
「顔色が優れませんのね。さっきも1人、体調が悪そうな子がいましたのよ。今日はそういう日なのかしら」
女のほうが言った。澄んだ質感ながら妙に艶っぽい響きの声だった。
「いいんですか、お借りして」
緋鯉は雇主の肩を上着ごと抱き寄せた。肌触りの良い毛皮のコートは触れただけでも安くないことが知れた。
「どうぞ、どうぞ。案内所に届けておいてくれたらいいですよ。明日あたりに取りに行きますから。困ったときはお互いさまですよ。ここはもう、隔絶された街みたいなものですからね」
男のほうは恋人と思しき女の腰を抱いて颯爽と緋鯉たちを通り過ぎていく。
「みくる様?」
みくるは男女2人の姿を見つめたまま突っ立っている。それは親切なアベックを見送っている感じではない。
「常連さんだよ。一神夫妻っていうの。羽振りがよくて有名で、カジノで色んな人無一文の素寒貧にしちゃうんだって。でも、なんかいつもと違ったな」
船酔いから少し覚めたようにオーナーの態度には厳しさが現れた。
「あ、ボクがこの格好だからか」
「ご存知なんですか、みくる様のこと」
「知らないと思うよぉ。いつもはイチゴミルク色のドレスさんだから」
彼は甘えた喋り方をして緋鯉に抱きつく。
「みくる様」
「さっきよりちょっと快くなった。ごぁん食ぁべよ。牛さんがいいな。死んだ牛さんのお肉、切り刻んで焼いたやつ!」
彼は借りた上着を抱き寄せている。室内飼いの毛足の長いネコやウサギのような滑らかな毛皮にファウンデーションを塗った顔を擦り寄せている。案内所に渡すより先に早いところクリーニングに出すのが賢明だろう。
食事を終えるとみくるは眠気を訴えた。自室に帰るよう促したが、彼は聞かずカジノのあるほうへ行ってしまった。同行も断られる。マロンブラウンの人口毛を手で払い大袈裟に揺蕩わせると船酔いもすっかり治まった様子で行ってしまった。オーナーではなくひとりの客に扮したつもりになっているのをこの若き経営者は楽しんでいるようだった。その背中を追いかけられない緋鯉はまだケーキを食らっている途中だ。みくるが頼んだものだが手を付けずに彼は満足してこの場を去っている。チョコレートを思わせる濃いスポンジケーキにパステルピンク色の生クリームが渦巻いている。その頂点には赤黒いイチゴが鎮座していた。
そこに注文した覚えのない苦そうなチョコレートケーキが届けられた。口直し程度のクリームにミントが添えてある。緋鯉は「えっ」と間の抜けた声を上げてウェイターを見てしまった。ドラマのバーなどでよくみる「あちらのお客様から」らしかった。示された方向には"一神夫妻"の妻だけいた。麗かに手を振っている。サングラスのない彼女の目が優しげに細まった。
緋鯉の身の上は、まったくこの豪華客船とは縁遠いものだった。まどろっこしい書き方の求人広告を家庭教師の求人だと勘違いし、アルバイトのつもりで応募して見事受かったのが龍魚院家の屋敷のハウスメイドだった。そしてそこの若主人にいたく気に入られこのクルージングに同行しただけの成り行きである。彼女の素性は要するに善良な小市民、ごくごく平凡な女子大学生だった。豪華客船には生まれて初めて乗る。弟もそうだ。そしてそこに内蔵された高級レストランでの振る舞い方も分かっていない。この施設に入った瞬間、準礼服や民族衣装、制服に身を包んでいる利用客に圧倒され、みくるはそういう彼女のためにわざわざ壁際の席を指定した。気侭なオーナーはスタッフに対しては己の立場を明確にすることを躊躇わなかったため、彼なりの気遣いはすぐに叶った。その最高権力者とまでは見做さずとも連れがいなくなり、緋鯉の肩身は狭い。ラフな私服でのこのこ訪れていい場所ではなかったのだ。
オーナーの口からこの豪華客船の"常連"とまで言われている金持ちらしき女の突然の厚意に緋鯉は戸惑ってしまう。何か気分を害することになりはしないかと、華美な女が顔を背けるまでひたすらに頭を下げた。まだみくるの残したケーキも残っているが、彼女は2つ平らげる。周りの目が気にならないでもなかったが、見渡してみたところで他の客たちも自分たちの時間を過ごしていた。片隅の席のいやにラフな服装でコース料理も頼まずひとりで4人掛けのテーブルを陣取りケーキを2つ食っている女のことなど気にしたふうもない。
ケーキを平らげ、雇主の同行を拒まれた彼女は自室に帰る途中だった。とりあえずのところは邸宅同様に甘えたなオーナーとの同衾を命じられているが、部屋が用意されていないではなかった。弟とも別室だ。小洒落た空母艦に大きなマンションが乗ったような外観だが、そのマンションの上層階の隅であまり人気もない。揺れは下の階と比べると大きいけれど酔うほどではなかった。横になって少し休もうと思いながら廊下を歩いているときにふと、その不調が現れた。船自体の揺れとも思われた。立ち眩みを起こす。真横の壁に手をついた。小窓から紺碧色と澄んだ空色が上下に両断されているのが見えた。手前は波で揺めきながらも、遠景となるときっぱり水平線が断固として淡いブルーへの侵入を許さない。
緋鯉の身体は支えられていた。だが本当に支えられていたのかは定かではない。壁から引き離されるように突進され、そのまま腕を掴まれて歩かされている。
「医務室……連れていって………」
連れていってと言っておきながら、連れていっているのはその言葉の主だった。デニムジャケットに黒いシャツの、黒い髪の若い男だ。先程会った酷い船酔いをしていた人物だ。
「あの、……」
「こっち…………」
まだ青白い顔をしていたが、その腕力は強く、足取りもしっかりしている。
「船酔いですか?」
「………そう………」
薄ぼんやりとした意識で彼は答えた。その面構えを見つめていると緋鯉はまたぴん、と閃きが起こる。この男を知っている。
「あの、鮫ヶ嶋大学の方……ですか?」
緋鯉は彼をキャンパス内で見たことがある。友人が言っていた。箸にも棒にも引っ掛からなそうな美男子、例えるなら豆腐系、調味料に足らない無難過ぎる顔、と好き放題評していたような気がする。
「…………うん」
青白い顔はやはり薄ぼんやりとして頷いた。特に驚きもせず、そこに何かしら感慨を示すでもない。彼は淡々として緋鯉を引っ張ったかと思うと、急に船を横断する狭い廊下に彼女を連れ込んだ。同じ大学であることが判明した男は今まで来た方向を気にしていたが、緋鯉を見た瞬間、彼女は膝頭を奪われたように床に尻餅をついた。力が入らなくなっている。すっかり戸惑った。
「ケーキ…………食べたでしょ………」
彼はまた薄ぼんやりとした態度で訊ねる。今にも寝てしまいそうだ。彼に付き合っているだけでも眠気が伝染しそうである。すでに寝ているのかも知れない。毎秒確認したくなるほどだ。
「ケーキ、食べた……でも、あれが?」
緋鯉にこれという重大な症状を伴う食品アレルギーはないつもりだった。
「食べちゃ………いけないやつ…………」
膝に力が入らない以外にはまったく異変はなかった。頭も回る。眠気はなく、苦しみもない。壁を頼りに立ち上がろうとするが、生まれたての子鹿も同然である。
「何か、入ってた……?」
彼はまた今来た通路を気にしながら首肯する。脳裏に只者ではない雰囲気の女が過ぎる。優美に手を振る姿の裏に、金持ちではない、または貧乏人には分からない思惑があったのだ。
「一服………盛られた」
「え?」
目の前のデニムジャケットもかくりと膝をダルマ落としされたように床に崩れ落ちる。
「ちょっと!」
彼のほうは緋鯉と違う様子で、額を押さえると、倒れ込んでしまった。尻餅をついている彼女は受け止めた。
「俺のこと………守って……」
目頭を揉み、同じ大学に通う謎の男は急に寝てしまった。しかしあまりにも唐突な入眠に緋鯉は焦る。
「ちょっと!」
頬をぺちりと叩いた。耳を澄ますと呼吸をしていることは分かった。同時に近付いてくる足音にも気付く。人影が狭い通路に現れた。あの女だ。レストランでは外していたサングラスを掛けているが、深いスリットの黒のワンピース、夫と揃いらしき毛皮の上着、何よりも真っ赤なリップカラーが彼女だった。緋鯉は戦々恐々として特に他意はなく、勝手に膝枕の体勢のようになっている寝人を抱き締める。それがクッションやぬいぐるみならば尚良かったが生憎のところ人体は硬い。この男子大学生は痩せぎすではなかったが肥満体質でもなかった。中肉中背で引き締まっている。不安を和らげるような効果はクッションほど望めなかった。
「ワタシの可愛いワンちゃんを探しているのだけど、見なかったかしら、お嬢さん」
嗜虐的なところのある女だった。サングラスを勿体ぶりながら額まで上げる。その下にある妙に色っぽい目は眇められ、慈しむようにも責め苛むようにも見える。
「あらあら……」
「あ、あ、あの………」
この船がペット同伴可能だったのかどうかは緋鯉の知るところではなかった。実際顔を合わせてしまうと、本当にこの女に薬を盛られたのか強い疑問に変わっていく。むしろこのデニムジャケットのいきなり寝始める男のほうが怪しくないか。行動も言動も突発的でおかしかった。
「いいのよ、いいのよ。ちょっとうちのワンコのお悪戯が過ぎただけなの」
彼女はワンピースの裾に気を遣いながらそこに屈むと緋鯉からデニムジャケットの男を剥がし、壁に凭れさせた。
「お嬢さん」
女は屈んだまま寝ている男から緋鯉のほうを見た。マロングラッセのような糖蜜的に潤んだ目に覗き込まれた。同性愛的な嗜好のない緋鯉でも、どきりとしてしまう。
「怖いわねぇ、自作自演の送り狼は。怖い、怖い。可愛いワンコほど闘犬の血筋だったりするんじゃないかしら?」
彼女の淑やかな喋り方で、緋鯉の疑惑はこの女から、呑気に寝ている男へ移る。
「寝ている間に行きましょう。ところで小さなお連れさんはどうして?」
一神夫人はピンヒールのサンダルにもかかわらず脚の自由の利かない緋鯉を助け起こした。
「別の場所を見に行くそうで。あの、お借りした上着は一度クリーニングに出しましたので、そのままお部屋に届くと思いますので、ご主人様にお伝えください」
「あら……この船のクルーさんたちは優秀ですのね。するとあの服を見ただけで、ワタシたちがお分かりになったということですものね。なんだか恥ずかしいわ」
おほほ……と手の甲を口元に添えて笑う仕草に緋鯉は感動してしまった。富豪の婦人というのは本当にそう笑うのだと。漫画やアニメなどの誇張表現ではなかったのだと。
「よく伝えておきますわ」
「ありがとうございます。助かりました」
「いいのよ、いいのよ。困ったときはお互い様ですもの」
女に支えられて歩くが、どこに連れて行かれるのかは分からなかった。医務室だろうと高を括る。
「あの、さっきの男の人は……?」
どうするのか、という意味で問うた。素性は知れている。同じ鮫ヶ嶋大学に通っている。それが知れていれば粗方足はつく。
「ワタシの……そうですわねぇ、お使いでしょうねぇ。荷物が多くって、整理も得意じゃぁなくって」
要は緋鯉と同じだ。彼もアルバイトか何かで雇われたのだろう。
「あのままで大丈夫ですかね……?」
「ふふふ、大丈夫よ。寝たフリが上手くて困ってるのよ。そのうち起きるでしょう」
「ところで、ワンちゃんは……?どこかで迷子になったんですか」
彼女の糖蜜的に光る目が緋鯉を射抜く。大きくカールした睫毛は重そうだが、一度二度ことも無げに俊敏に瞬いた。それから特徴的な赤い唇が弧を描く。
「あの人が見つけているわ、きっと。誰に懐くのが最良か、分かっているのね」
艶冶な調子の女はまるで緋鯉に気があるふうで、彼女自身、もし自分が男であったなら惚れてしまっていただろうと仮想した。この得体の知れない美女の夫の上着はバニラの香りがしたけれど彼の妻からは甘い薔薇の香りがする。緋鯉の知っているものの匂いでいえば少し値の張るシャンプーの香りに近い。
「お嬢さんともう少しお話がしたいわ。貴女のこと、もっと教えてくださらない?ワタシ、こうして旅の途中で出会った片方のことを聞くのが好きなんですの。人は一人ひとりが一冊の本のようです。波瀾万丈な人生であろうと、ありきたりでごくごく平凡な人生であろうと。本人の口で、本人の言葉で聞くことに大きな意味があると思うんです。他人を自分の娯楽にしているということになりますけど、もしお嬢さんが快く引き受けてくださるのなら、聞かせてくださいな。ワタシの部屋で、休んでいくといいですわ」
濃い睫毛、その下の覗き込むマロングラッセみたいな目、綻ぶ鮮やかな唇、こてんと可憐に傾ぐ首。緋鯉に対する効果は覿面だ。
「は、はい!わたしの話なんかでよければ、ぜひ」
一神夫人の笑みは深まり、眇められた目元は穏和そうに見えながらも妖しい。
緋鯉が案内された客室は最高グレードの次の位置にありながら、地上のラグジュアリーホテルのような大部屋だった。真っ先に目に入るベッドカバーは海軍風のネイビー地に白抜きのライン、ワンポイントの赤い錨の刺繍が可愛らしい。
「素敵な部屋ですね……」
「うふふ。でも、寝る時しか出入りしませんの。ここには楽しいところが多過ぎますわ」
彼女にソファーを促され、緋鯉は艶々と照る革張りに座った。痺れの残る膝が休みを得て、震えているのが少し恥ずかしい。
「かわいいのねぇ」
「す、すみません……」
夫人の細められてよく潤んだ目が小刻みに痙攣している膝頭をちらと見下ろしてから穏やかに微笑むと、緋鯉の顔をを見つめ、また異なる微笑を浮かべた。思わせぶりですらあるが、彼女は夫のある身だ。何かそこには妖異な意図を覚えてしまうが、理屈で考えれば打ち消せる。しかしやはりこの美女の眼差しは理屈を上回り、夫帯しているという点のほうに疑問を抱いてしまうほどだった。緋鯉は新たな体験に怯んでしまう。そういう好意を醸されたのは異性からのみだった。だが妖婦とさえいえるこの一神の妻ならば、そこに忌避感はなかった。
「本当に、かわいい方。鮠瀬緋鯉さん……」
たとえばいつの間にか名前を教えていたとしても、その言い方には妙な響きがあった。緋鯉は自分が名乗ったものだと錯覚した。相手の姓を知っていたのもそこに一助した。だがやはり教えていないという気もした。どういうルートかは想定していないが、オーナーの側近であることを突き止められ、迷惑のかからないように、名は言うかもしれないが氏名セットでは誰にも教えないつもりでいた。そのために同大学の学生の登場には彼女の中にある種の印象を残した。
「おもてなし、させてくださいな」
眼前に形の良い、絵に描いたような鮮やかな唇が迫っている。
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