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「行きましょう、セレン様」
幼馴染とアルスの前に割り入るように進み出てきたのは彼よりも3、4つ年少と思しき少年であった。赤茶髪の一見短くされような頭髪に、襟足から三つ編みを垂らしている。護衛の務めを果たそうとしているのが小賢しく見える。得物で制されてしまい、アルスは彼女から退がった。
「じゃあ、また」
アルスは目の前にいる人物がセレンであることに疑いはなかった。だが彼女が彼女らしくないように見えた。
「うん……」
酷似した別人のように思えたのだった。その口元に浮かぶ微笑の陰険さは、彼女にはないものだった。
頼りないせいだ。王都には王子が必要だというのに踏み切らず、煮え切らない、ろくでなしの成り代わりのせいではあるまいか。利己心に溺れたせいではなかろうか。
幼馴染と、小さな護衛が通り過ぎていく。レーラ王子の骸と会うことは秘することにした、彼女は疲れているようであった。そして希望を持たないよう、セルーティア氏が言っていた。アルスもまた活路を見出さないように努めた。
彼は少しの間、そこに佇んでいた。この期に及んでまだ我が身の可愛さを捨てきれないでいる。平穏で退屈な暮らしが惜しい。しかしそうしてはいられないのだ。いずれにせよ、その暮らしは戻ってはこなかろう。
「セル様」
後ろから声がかかる。若さゆえの高さが残った、瑞々しい響きをしている。その主を彼は知っていた。何かの罰のようである。皮肉のようである。彼はおそるおそる振り返った。もし王子に成り代わったなら、王子から奪い取るのはその役目、存在理由、宝飾品だけではない。全配偶者と全婚約者もだ。
「ガーゴン大臣がお探しになっていました」
レーラ王子は忠義に殉じた側近の娘を婚約者にしていた。それが彼女である。名はロテス。王子の側近の娘だというのに、下働きのようなことをやっている。そして彼女が次期王妃になることを知っているんは、本人を除かなくとも、レーラ王子とアルスと、ガーゴン大臣である。本人も知らずにいる。
「そ、そうなんだ。すぐに行くよ」
アルスが17であった。彼女はそれよりも1つか2つ年少であったはずだ。となると、王子よりも3つは離れている。
「ご案内いたします」
恭しい所作で彼女は礼をする。性格的に、根の暗い王子とは気が合いそうな少女に見えた。日頃の態度からして、彼女もまた王子を憎からず思っているのではなかろうか。アルスにはそう見えた。だがそこには立場の差がある。
「うん、じゃあ、よろしく」
アルスは自身が厭になってしまった。ひとりの少女を値踏みしていた。王子に成り代われば、変わるのはそれのみではない。突然、幼馴染の密かな婚約者というものが、自身に纏わる近しいものに感じられはじめた。このロテスという娘についてよく知りはしないというのに。ろくに話したこともない。傍にいることは多かったけれど、事務的な会話を交わした記憶しかなかった。
「セル様。お気分が優れませんか」
物思いに耽っていた。幼馴染から受け継ぐかもしれない婚約者という見え方が、耳を塞いでいた。
「平気、平気。ごめん、ごめん」
「入院中で手術後、間もないと伺っております。お気分が優れない場合は、すぐにおっしゃってくださいませ」
彼はこの娘が苦手であった。ガーゴン大臣から、彼女の為人を探るよう依頼されたことがある。家柄は分かっている。職務に対する態度も分かっている。しかし後の王妃とするには、私事については何も知らない。そのために彼女を探れというのだった。だが結局、彼はそれを辞退した。結局のところ、先程会ったセレンの小柄な護衛がその任を引き継いだ。
「ちょっと考えごとしてただけだよ」
ロテスが苦手であることについて、彼女には何の責任もなかった。ただこの娘と向き合うことは、選択しがたい己の可能性を見詰めることを意味する。正面切って対峙することを。
「崩壊の虞がございますから、私が先を歩かせていただきます」
「いいよ、危ないから」
「ですが……」
「君が怪我をしていいというわけでもないからね」
ガーゴン大臣が聞いたなら、叱りつけたであろう。王子の成り代わりの前に立つ城勤めと、立場を理解しない成り代わりの両者について諄々と説教したに違いない。
ロテスとともに、待ち合わせの場所へ向かった。かろうじて倒壊の危険度は低いと判じられた、平生ならば大臣ほどの位の者は寄りつきもしない、寂しげな場所にある寂しげな部屋であった。そこに大きな収納棚みたいな箱が置いてあった。とても王子の棺とは思えない簡素なものであった。鑢掛けの甘い、艶出しも塗られていない、惨めな木箱であった。厳密にいえばそれは物入れであって、棺ではなかった。ランタナ師匠が城内で見つけたものだろう。
「よく来たな。雪道はつらかっただろう」
「滑ってきましたよ」
「怪我がなければよい」
ガーゴン大臣にロテスとともにいるところを見られたくなかった。「或いは未来の伴侶かも知れぬ」と言われたことを思い出してしまう。揶揄のようでもあれば、野望のようでもあった。
「しもやけになりましたよ」
陰湿に言ってやってから、彼は王子の入っている箱を見遣った。
「開けていいんですか」
「私が開けよう」
しかし大臣は躊躇しているらしいのが、その鈍い手つきから見てとれた。人生のほとんどに、この横盗り鬣狗、没義道蝙蝠、漁り鴉がいたが、この者らしくなかった。
「いいのか、アルス」
「逃げたいですよ。でも多分、ここではそれ以外に感想なんてないです、きっと」
強がればよかった。だが強がらずともいい気がした。
ガーゴン大臣は箱の前で礼をすると、蓋に手を添えた。けれどもすぐに開きはしなかった。部屋の隅に控えているロテスへ目を遣った。
「君も見ておきなさい」
彼女の父は、誰に殉じたのか……
「大臣は、もう見たんですか」
「見た」
蓋が開いた。白い布がまず見えた。後から入れたものらしい。大臣はそれを取り払う。王子の骸が露わになる。寝ていると見紛うような姿をしていた。このまま揺らせば目を覚ましそうであった。燃え滾った焔をそのまま頭に戴いたような緋色の髪は艶やかで、凋落を感じさせない。
期待していた情動が起こることはなかった。その骸はあまりにも綺麗であった。幼馴染を喪った悲哀も、やがて等しく訪れる死への不安も物言わぬ骸への恐怖もない。それは生前のままであった。ゆえに、その目蓋が持ち上がらないことに苛立ち、腹が立ちはじめる。
彼は眠っている幼馴染に手を伸ばそうとした。だがガーゴン大臣に止められる。
「触ってはいけない」
アルスには幼馴染であった。だが相手は王子である。国を守る唯一無二の存在である。同胞はいない。取って替われるけれど。
「セルーティア先生が医務室にいます。ガーゴン大臣、どうしますか」
ガーゴン大臣は彼と目を合わせた途端、ふいと顔を逸らした。嫌な予感がするのだった。官吏が守るべきは国と民であるが、実際官吏が守るのは金と立場と己の身。大臣がよく口にしている。新聞記事が。王子が。しかし官吏も人である。金を得、食わねば生きてはいけない。
大臣の皺を一筋増やすことになる。それを哀れに思った。
「事後報告しよう。例外というものもある」
希望が膨らんでしまうことをアルスは恐れた。
「次、いつ、この機会があるとも分からん。セルーティア氏を呼んできなさい」
アルスは氏を呼びに医務室へ戻った。足がふらついていた。ここ数日はおかしかった。それが終わるかもしれない。平穏な日々に戻れるかもしれない。城や街衢の復興には時間がかかるだろう。それでも。セルーティア氏が王子を診るのなら。だが彼は湧いてくる希望を滅多打ちにしなければならなかった。また打ちのめされる。セルーティア氏は酷い人なのであった。己は空回りどころか悪化するほうへ舞い踊る愚かな道化師なのだ。
曖昧のなかを泳いでいるのが苦しかった。希望とは狂犬だ。闘牛だ。抑えておくことが難しい。それでいて落胆を恐れている。
医務室へ転がりこんだ足取りは蹣跚としていた。凍瘡のせいであろうか。看護師長に支えられる。しっかりとした肩の奥に、セルーティア氏が見えた。隻眼とぶつかる。
「セルーティア先生……」
「はい」
氏らしい、突き放したような応答であった。
「王子を頼みます。よろしくお願いします」
処置をしていた手が止まる。
「承知しました」
近くにいた看護師と代わり、セルーティア氏はアルスについてきた。まだ期待は持てない。治療にも限度がある。夢のなかを行きつ戻りつしているような心地であった。
大臣は氏に、氏の無事について一言二言話していた。そしてすぐ木箱へ誘導した。氏は静寂を手に入れた王子へ手を翳す。アルスは固唾を呑んだ。これで未来が決まるとさえ思った。まともに息ができなかった。氏の気紛れで、どうにかなるとすら思った。
「分かりました」
セルーティア氏の診察が、実際よりも長く感じられた。その淡々としたことばかり言う口が開かれたとき、焦燥のあまり息を忘れた。
「王子のこの状態については治療が可能です。ただ、目が覚め、生命活動が戻るのみです。意識については、難しい……いいえ、戻らないと考えてください」
幼馴染とアルスの前に割り入るように進み出てきたのは彼よりも3、4つ年少と思しき少年であった。赤茶髪の一見短くされような頭髪に、襟足から三つ編みを垂らしている。護衛の務めを果たそうとしているのが小賢しく見える。得物で制されてしまい、アルスは彼女から退がった。
「じゃあ、また」
アルスは目の前にいる人物がセレンであることに疑いはなかった。だが彼女が彼女らしくないように見えた。
「うん……」
酷似した別人のように思えたのだった。その口元に浮かぶ微笑の陰険さは、彼女にはないものだった。
頼りないせいだ。王都には王子が必要だというのに踏み切らず、煮え切らない、ろくでなしの成り代わりのせいではあるまいか。利己心に溺れたせいではなかろうか。
幼馴染と、小さな護衛が通り過ぎていく。レーラ王子の骸と会うことは秘することにした、彼女は疲れているようであった。そして希望を持たないよう、セルーティア氏が言っていた。アルスもまた活路を見出さないように努めた。
彼は少しの間、そこに佇んでいた。この期に及んでまだ我が身の可愛さを捨てきれないでいる。平穏で退屈な暮らしが惜しい。しかしそうしてはいられないのだ。いずれにせよ、その暮らしは戻ってはこなかろう。
「セル様」
後ろから声がかかる。若さゆえの高さが残った、瑞々しい響きをしている。その主を彼は知っていた。何かの罰のようである。皮肉のようである。彼はおそるおそる振り返った。もし王子に成り代わったなら、王子から奪い取るのはその役目、存在理由、宝飾品だけではない。全配偶者と全婚約者もだ。
「ガーゴン大臣がお探しになっていました」
レーラ王子は忠義に殉じた側近の娘を婚約者にしていた。それが彼女である。名はロテス。王子の側近の娘だというのに、下働きのようなことをやっている。そして彼女が次期王妃になることを知っているんは、本人を除かなくとも、レーラ王子とアルスと、ガーゴン大臣である。本人も知らずにいる。
「そ、そうなんだ。すぐに行くよ」
アルスが17であった。彼女はそれよりも1つか2つ年少であったはずだ。となると、王子よりも3つは離れている。
「ご案内いたします」
恭しい所作で彼女は礼をする。性格的に、根の暗い王子とは気が合いそうな少女に見えた。日頃の態度からして、彼女もまた王子を憎からず思っているのではなかろうか。アルスにはそう見えた。だがそこには立場の差がある。
「うん、じゃあ、よろしく」
アルスは自身が厭になってしまった。ひとりの少女を値踏みしていた。王子に成り代われば、変わるのはそれのみではない。突然、幼馴染の密かな婚約者というものが、自身に纏わる近しいものに感じられはじめた。このロテスという娘についてよく知りはしないというのに。ろくに話したこともない。傍にいることは多かったけれど、事務的な会話を交わした記憶しかなかった。
「セル様。お気分が優れませんか」
物思いに耽っていた。幼馴染から受け継ぐかもしれない婚約者という見え方が、耳を塞いでいた。
「平気、平気。ごめん、ごめん」
「入院中で手術後、間もないと伺っております。お気分が優れない場合は、すぐにおっしゃってくださいませ」
彼はこの娘が苦手であった。ガーゴン大臣から、彼女の為人を探るよう依頼されたことがある。家柄は分かっている。職務に対する態度も分かっている。しかし後の王妃とするには、私事については何も知らない。そのために彼女を探れというのだった。だが結局、彼はそれを辞退した。結局のところ、先程会ったセレンの小柄な護衛がその任を引き継いだ。
「ちょっと考えごとしてただけだよ」
ロテスが苦手であることについて、彼女には何の責任もなかった。ただこの娘と向き合うことは、選択しがたい己の可能性を見詰めることを意味する。正面切って対峙することを。
「崩壊の虞がございますから、私が先を歩かせていただきます」
「いいよ、危ないから」
「ですが……」
「君が怪我をしていいというわけでもないからね」
ガーゴン大臣が聞いたなら、叱りつけたであろう。王子の成り代わりの前に立つ城勤めと、立場を理解しない成り代わりの両者について諄々と説教したに違いない。
ロテスとともに、待ち合わせの場所へ向かった。かろうじて倒壊の危険度は低いと判じられた、平生ならば大臣ほどの位の者は寄りつきもしない、寂しげな場所にある寂しげな部屋であった。そこに大きな収納棚みたいな箱が置いてあった。とても王子の棺とは思えない簡素なものであった。鑢掛けの甘い、艶出しも塗られていない、惨めな木箱であった。厳密にいえばそれは物入れであって、棺ではなかった。ランタナ師匠が城内で見つけたものだろう。
「よく来たな。雪道はつらかっただろう」
「滑ってきましたよ」
「怪我がなければよい」
ガーゴン大臣にロテスとともにいるところを見られたくなかった。「或いは未来の伴侶かも知れぬ」と言われたことを思い出してしまう。揶揄のようでもあれば、野望のようでもあった。
「しもやけになりましたよ」
陰湿に言ってやってから、彼は王子の入っている箱を見遣った。
「開けていいんですか」
「私が開けよう」
しかし大臣は躊躇しているらしいのが、その鈍い手つきから見てとれた。人生のほとんどに、この横盗り鬣狗、没義道蝙蝠、漁り鴉がいたが、この者らしくなかった。
「いいのか、アルス」
「逃げたいですよ。でも多分、ここではそれ以外に感想なんてないです、きっと」
強がればよかった。だが強がらずともいい気がした。
ガーゴン大臣は箱の前で礼をすると、蓋に手を添えた。けれどもすぐに開きはしなかった。部屋の隅に控えているロテスへ目を遣った。
「君も見ておきなさい」
彼女の父は、誰に殉じたのか……
「大臣は、もう見たんですか」
「見た」
蓋が開いた。白い布がまず見えた。後から入れたものらしい。大臣はそれを取り払う。王子の骸が露わになる。寝ていると見紛うような姿をしていた。このまま揺らせば目を覚ましそうであった。燃え滾った焔をそのまま頭に戴いたような緋色の髪は艶やかで、凋落を感じさせない。
期待していた情動が起こることはなかった。その骸はあまりにも綺麗であった。幼馴染を喪った悲哀も、やがて等しく訪れる死への不安も物言わぬ骸への恐怖もない。それは生前のままであった。ゆえに、その目蓋が持ち上がらないことに苛立ち、腹が立ちはじめる。
彼は眠っている幼馴染に手を伸ばそうとした。だがガーゴン大臣に止められる。
「触ってはいけない」
アルスには幼馴染であった。だが相手は王子である。国を守る唯一無二の存在である。同胞はいない。取って替われるけれど。
「セルーティア先生が医務室にいます。ガーゴン大臣、どうしますか」
ガーゴン大臣は彼と目を合わせた途端、ふいと顔を逸らした。嫌な予感がするのだった。官吏が守るべきは国と民であるが、実際官吏が守るのは金と立場と己の身。大臣がよく口にしている。新聞記事が。王子が。しかし官吏も人である。金を得、食わねば生きてはいけない。
大臣の皺を一筋増やすことになる。それを哀れに思った。
「事後報告しよう。例外というものもある」
希望が膨らんでしまうことをアルスは恐れた。
「次、いつ、この機会があるとも分からん。セルーティア氏を呼んできなさい」
アルスは氏を呼びに医務室へ戻った。足がふらついていた。ここ数日はおかしかった。それが終わるかもしれない。平穏な日々に戻れるかもしれない。城や街衢の復興には時間がかかるだろう。それでも。セルーティア氏が王子を診るのなら。だが彼は湧いてくる希望を滅多打ちにしなければならなかった。また打ちのめされる。セルーティア氏は酷い人なのであった。己は空回りどころか悪化するほうへ舞い踊る愚かな道化師なのだ。
曖昧のなかを泳いでいるのが苦しかった。希望とは狂犬だ。闘牛だ。抑えておくことが難しい。それでいて落胆を恐れている。
医務室へ転がりこんだ足取りは蹣跚としていた。凍瘡のせいであろうか。看護師長に支えられる。しっかりとした肩の奥に、セルーティア氏が見えた。隻眼とぶつかる。
「セルーティア先生……」
「はい」
氏らしい、突き放したような応答であった。
「王子を頼みます。よろしくお願いします」
処置をしていた手が止まる。
「承知しました」
近くにいた看護師と代わり、セルーティア氏はアルスについてきた。まだ期待は持てない。治療にも限度がある。夢のなかを行きつ戻りつしているような心地であった。
大臣は氏に、氏の無事について一言二言話していた。そしてすぐ木箱へ誘導した。氏は静寂を手に入れた王子へ手を翳す。アルスは固唾を呑んだ。これで未来が決まるとさえ思った。まともに息ができなかった。氏の気紛れで、どうにかなるとすら思った。
「分かりました」
セルーティア氏の診察が、実際よりも長く感じられた。その淡々としたことばかり言う口が開かれたとき、焦燥のあまり息を忘れた。
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