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薬が効きすぎたらしかった。昼過ぎまで眠っていた。夜更かししていたことなど忘れて、彼は薬のせいにした。高名な医者、そして有名観光都市の市長が人造人間を自称するなど、おそらく夢である。既存の情報を組み合わせたものが夢であるはずだ。感情学校などというものが、よく思いついた。彼は己に感心した。そして枕元に見舞品が溢れているのもおそらくは白昼夢であった。まさか反レーラ王子派が持ってきたわけではあるまい。
レーラ王子は潔癖なところのある気難しい、偏屈で陰気な人物であった。アルスも幼馴染かつ仕えるべき主君としてみたところで、その人物評は変えられなかった。贔屓目にみてもそうなってしまう。不正が知られ、罰された官吏は少なくない。後ろ暗いところのある官吏たちは、王子の繊細さ、暗さ、寡黙さを建前に、表に出る役についてアルスを推すのである。それだけ貪吏も多い。或る官吏は、血税で個人の別荘を勝手に建てたため、王子に売り払われてしまった。これは新聞にも書きたてられたことだ。しかしそこには記されなかったこともある。王子はその官吏に有給休暇を出した。そして必要な家財を持ち出すように命じたのだ。ところがこのことについてはどの新聞をみても記載がない。王都の新聞記者も生活のために働いているのだ。真実の追究、そしてその告知が第一の目的ではない。より多額の金を得る手段をとったのは、もしかすると已む得ないことなのかもしれない。
そのためにアルスはガーゴン大臣から、「甘いことを言う官吏に心を赦すな」と口酸っぱく言われていた。しかし結局ガーゴン大臣も官吏の政権争いのなかにいる人物でしかなかった。
王族クリスタルの保持を認められている王子の身代わりが大怪我を負ったのだ。見舞品を贈ることは何ら問題はなく、むしろ礼儀としては真っ当な行いくらいであった。見舞品も贈らず、見舞いにも来ない連中を疑うべきであるくらいだった。
だがアルスは渋い顔でそれらを見遣った。無造作に手を伸ばし、贈主も確かめずに箱を開けた。こういう場合、未婚の若い男性には菓子が贈られるものだ。或いは花だが、花が入っている様子はない。
案の定、焼菓子の詰め合わせが入っていた。袋を破ったところで、声がかかる。
「本当の本当の本当に、お城の人なのね」
王立学園の制服ではなく、私服のリスティが佇んでいる。
「モテちゃってさ」
「あの子なら朝、来てたわよ」
「それは訊いてない」
「また来るって話は聞いておくでしょう?」
アルスは彼女へ悲惨に破かれた詰め合わせの袋を差し出した。
「ありがとう、アルスくん。お偉いさんにあたしのこと、よろしく言ってくれたんでしょう。いい宿とってくれたわ」
彼女は焼菓子を受け取らなかった。
「その服、似合ってるね」
見たことのない服であった。王都で買ったのだろう。彼女がよく着ていたゆとりのあるものではなく、体型に沿っている。いかにも王都趣味だった。
「あらあら、口説いてるのかしら」
「違うけど」
「あら、そ!残念」
看護師に確認もとらず、彼は甘味乾パンを食った。
「リスティさ、暇?」
美味い菓子であったが、ひとつで満足してしまった。
「暇ね。なぁに、アルスくん。面白い話でもしてくれるの?一発芸でも?」
「ちょっと散歩しない?」
リスティはわざとらしく小首を捻る。
「誘う相手、間違ってるわよ」
「君、リスティだよね」
「ええ、まあ」
「じゃあ間違ってない。彼女の前じゃ、言葉上手く、まとまらないし」
アルスは白状したかのように苦笑した。リスティの顔から揶揄の色が消えた。
「男の子って強がりで大変ね」
彼は外出の支度を整えると、彼女を連れて街道を逍遥した。
「ロレンツァに逃げちゃおうかな。ロレンツァって、どう?」
暫く無言であったが、アルスから沈黙を打ち破った。
「逃げるには近いんじゃない?」
「近いかー」
「景観条例あるわよ。毎日お花に水やれる?草毟りとお庭の手入れもあるし、結構湿気が多いから、カビ掃除もあるし、それなのに洗濯物は外に干せないのよね」
「さすが観光都市。じゃあ、ロレンツァは、無しか」
「帯魔計も取り除かないと、セルーティア先生にはバレるわよ。あの人、魔凪の追跡できるから。ロレンツァで迷子になると、市長が出てくるからね」
アルスは近くの植え込みの縁に腰を下ろした。リスティは傍には来たが、座らない。
「少し遠い、モルティナはどう。大きな留置所と処刑場があるんだけど、街自体は綺麗よ。絵本みたいで。ここも景観条例あるけど。もちろん帯魔計、取り除いたら」
彼は、くすぐったくなった。
「絵物語だと、王子様とかお姫様とかって、誰からも羨まれる的だったりするけど、実際はあんなやり甲斐ないもの、ないと思うな。座ってるだけ。官吏の話聞いて、いざ選ぼうとすると、大事なのは人民じゃなくて官吏の面子なんだよな。国民の前じゃ手懐けられた陽虎だけど、官吏の前じゃ金魚だね。それは崇めるよ。じゃなきゃ割に合わない。決定権を持ってる叩き枕なんだから。国民は行儀がいいよ。力の分配ってやつをよく心得てる」
「正直でよろしい。綺麗事の300や500でも並べられたら帰るところだった」
アルスはまだ苦笑を続けている。
「どう思う。逃げちゃうこと」
「どう思うって?ロレンツァは近過ぎるし、景観条例が生活習慣に合わないんでしょう。モルティナは砂糖菓子みたいで街並みはかわいいけど。テュンバロで学生さんする?」
彼は苦笑を深める。
「逃げるって選択が浮かんだのなら、それがひとつ、あなたのなかで賢明な手段かもしれないと直感したのね。直感はときに、理屈に勝るわよ。でも常にとは、限らないわね……なんて、無責任?」
彼は大仰に首を振った。
「今は責任重大な人の言葉、聞きたくなくってさ」
足元の石ころを蹴り転がした。
「でも冗談だからさ。逃げないよ。色々背負わなきゃいけないことがあるんだなって思って」
空が青い。白い雲がわずかに形を変えて流れていくのをぼんやり眺めていた。人を誘ったことも忘れていた。そしてふと、黒いリボンを取り出して天に透かしてみる。
「まだ持っていたの」
「皮肉だよね。何かの暗示だったりして。オレが王子の成り代わることの。もう戦争するなってさ」
リスティは首を傾げた。
「困ったときって何かと過去から理由や兆しを探したくなるものよ。意味を見出して、背を押された気になりたいのよ」
彼は暫く空を見上げていたが、やがて思い出したように彼女を見遣った。
「ありがとう。気が済んだよ」
「護衛賃、高くつくからね」
「出世払い利子付きで、ね」
答えると、彼女は意地の悪そうに口角を釣り上げた。
日が暮れる頃に幼馴染が病室を訪ねてきた。枕元の台に置ききれず、床に直接並んだり積まれたりしている見舞品に驚いている。
「セレン、あのさ」
昨晩というのか明朝というのか、手巾をセルーティア氏にくれてしまったことを打ち明けた。彼女に怒ったり気分を害した素振りはない。
「それならもっといいものにしておけばよかった」
「そんな気にしていないと思うけど」
焼菓子の袋を差し出す。彼女は首を振った。
「もう食べて平気なの?」
「良好だし、平気、平気。もう退院してもいいくらいだよ。セレンは?背中の傷」
「さっき包帯を替えてもらいにいってきたところ。順調に回復に向かっているって」
「そう。それならよかった。朝、来てくれたんだって?」
「うん。でも大した用事ではなかったから。お買い物のついで。でもこの時間に来るのが、一番空いてていいかも」
「いつもって混んでるんだ」
彼女は室内を見回した。
「隣の……出たところのすぐ左にあるお部屋の人って、アルスのお友達なんでしょう?」
シールルトくんのことだろう。アルスは肯じた。
「そうそう、その人。入院してるのはシールルトくん。王立学園の人で、セルーティア先生の教え子。大きめな怪我しちゃってさ。でもあとは目覚めるのを待つだけだって。そのときは紹介するよ。ちょっときついところはあるかもしれないけど、悪い人じゃないんだ」
ふと、甦った。些細なことかもしれなかった。しかし巨大な魔人の鉞が振り下ろされたときの障壁。身を真っ二つに斬り裂かれ、即死していたかもしれない一撃を防いだ障壁の、その術者はシールルトくんではなかったか。そういう友人に、アルスは何も返せなかった。
「どうしたの?」
彼は自身の時間に浸ってしまっていた。
「ううん、ごめん何でもない」
「そのアルスのお友達のお部屋に、いつもお見舞いに来てる女の人がいてね、いつも挨拶してくれるんだ」
リスティであろう。世話になった人である。ここで紹介してしまってもよかった。しかし、だからこそ、互いに面と向かったところで紹介したかった。
「早く、アルスのお友達の目も、覚めるといいけれど……」
外で鳥が鳴いている。灯台を失った王都はここから一気に暗くなるのであった。
「もう暗いから、送るよ」
「大丈夫。アルスは寝ていて。安静にしていなきゃ」
「ちょっと散歩しないと。膝が固まっちゃうよ」
幼馴染は負傷中の入院患者が出歩くことを嫌がったが、アルスもまた譲らなかった。巨鳥といい、魔人といい、今の王都は危ないのだ。王子の復活が待たれている。そしてそれはレーラ王子でなくともよいのだという。
レーラ王子は潔癖なところのある気難しい、偏屈で陰気な人物であった。アルスも幼馴染かつ仕えるべき主君としてみたところで、その人物評は変えられなかった。贔屓目にみてもそうなってしまう。不正が知られ、罰された官吏は少なくない。後ろ暗いところのある官吏たちは、王子の繊細さ、暗さ、寡黙さを建前に、表に出る役についてアルスを推すのである。それだけ貪吏も多い。或る官吏は、血税で個人の別荘を勝手に建てたため、王子に売り払われてしまった。これは新聞にも書きたてられたことだ。しかしそこには記されなかったこともある。王子はその官吏に有給休暇を出した。そして必要な家財を持ち出すように命じたのだ。ところがこのことについてはどの新聞をみても記載がない。王都の新聞記者も生活のために働いているのだ。真実の追究、そしてその告知が第一の目的ではない。より多額の金を得る手段をとったのは、もしかすると已む得ないことなのかもしれない。
そのためにアルスはガーゴン大臣から、「甘いことを言う官吏に心を赦すな」と口酸っぱく言われていた。しかし結局ガーゴン大臣も官吏の政権争いのなかにいる人物でしかなかった。
王族クリスタルの保持を認められている王子の身代わりが大怪我を負ったのだ。見舞品を贈ることは何ら問題はなく、むしろ礼儀としては真っ当な行いくらいであった。見舞品も贈らず、見舞いにも来ない連中を疑うべきであるくらいだった。
だがアルスは渋い顔でそれらを見遣った。無造作に手を伸ばし、贈主も確かめずに箱を開けた。こういう場合、未婚の若い男性には菓子が贈られるものだ。或いは花だが、花が入っている様子はない。
案の定、焼菓子の詰め合わせが入っていた。袋を破ったところで、声がかかる。
「本当の本当の本当に、お城の人なのね」
王立学園の制服ではなく、私服のリスティが佇んでいる。
「モテちゃってさ」
「あの子なら朝、来てたわよ」
「それは訊いてない」
「また来るって話は聞いておくでしょう?」
アルスは彼女へ悲惨に破かれた詰め合わせの袋を差し出した。
「ありがとう、アルスくん。お偉いさんにあたしのこと、よろしく言ってくれたんでしょう。いい宿とってくれたわ」
彼女は焼菓子を受け取らなかった。
「その服、似合ってるね」
見たことのない服であった。王都で買ったのだろう。彼女がよく着ていたゆとりのあるものではなく、体型に沿っている。いかにも王都趣味だった。
「あらあら、口説いてるのかしら」
「違うけど」
「あら、そ!残念」
看護師に確認もとらず、彼は甘味乾パンを食った。
「リスティさ、暇?」
美味い菓子であったが、ひとつで満足してしまった。
「暇ね。なぁに、アルスくん。面白い話でもしてくれるの?一発芸でも?」
「ちょっと散歩しない?」
リスティはわざとらしく小首を捻る。
「誘う相手、間違ってるわよ」
「君、リスティだよね」
「ええ、まあ」
「じゃあ間違ってない。彼女の前じゃ、言葉上手く、まとまらないし」
アルスは白状したかのように苦笑した。リスティの顔から揶揄の色が消えた。
「男の子って強がりで大変ね」
彼は外出の支度を整えると、彼女を連れて街道を逍遥した。
「ロレンツァに逃げちゃおうかな。ロレンツァって、どう?」
暫く無言であったが、アルスから沈黙を打ち破った。
「逃げるには近いんじゃない?」
「近いかー」
「景観条例あるわよ。毎日お花に水やれる?草毟りとお庭の手入れもあるし、結構湿気が多いから、カビ掃除もあるし、それなのに洗濯物は外に干せないのよね」
「さすが観光都市。じゃあ、ロレンツァは、無しか」
「帯魔計も取り除かないと、セルーティア先生にはバレるわよ。あの人、魔凪の追跡できるから。ロレンツァで迷子になると、市長が出てくるからね」
アルスは近くの植え込みの縁に腰を下ろした。リスティは傍には来たが、座らない。
「少し遠い、モルティナはどう。大きな留置所と処刑場があるんだけど、街自体は綺麗よ。絵本みたいで。ここも景観条例あるけど。もちろん帯魔計、取り除いたら」
彼は、くすぐったくなった。
「絵物語だと、王子様とかお姫様とかって、誰からも羨まれる的だったりするけど、実際はあんなやり甲斐ないもの、ないと思うな。座ってるだけ。官吏の話聞いて、いざ選ぼうとすると、大事なのは人民じゃなくて官吏の面子なんだよな。国民の前じゃ手懐けられた陽虎だけど、官吏の前じゃ金魚だね。それは崇めるよ。じゃなきゃ割に合わない。決定権を持ってる叩き枕なんだから。国民は行儀がいいよ。力の分配ってやつをよく心得てる」
「正直でよろしい。綺麗事の300や500でも並べられたら帰るところだった」
アルスはまだ苦笑を続けている。
「どう思う。逃げちゃうこと」
「どう思うって?ロレンツァは近過ぎるし、景観条例が生活習慣に合わないんでしょう。モルティナは砂糖菓子みたいで街並みはかわいいけど。テュンバロで学生さんする?」
彼は苦笑を深める。
「逃げるって選択が浮かんだのなら、それがひとつ、あなたのなかで賢明な手段かもしれないと直感したのね。直感はときに、理屈に勝るわよ。でも常にとは、限らないわね……なんて、無責任?」
彼は大仰に首を振った。
「今は責任重大な人の言葉、聞きたくなくってさ」
足元の石ころを蹴り転がした。
「でも冗談だからさ。逃げないよ。色々背負わなきゃいけないことがあるんだなって思って」
空が青い。白い雲がわずかに形を変えて流れていくのをぼんやり眺めていた。人を誘ったことも忘れていた。そしてふと、黒いリボンを取り出して天に透かしてみる。
「まだ持っていたの」
「皮肉だよね。何かの暗示だったりして。オレが王子の成り代わることの。もう戦争するなってさ」
リスティは首を傾げた。
「困ったときって何かと過去から理由や兆しを探したくなるものよ。意味を見出して、背を押された気になりたいのよ」
彼は暫く空を見上げていたが、やがて思い出したように彼女を見遣った。
「ありがとう。気が済んだよ」
「護衛賃、高くつくからね」
「出世払い利子付きで、ね」
答えると、彼女は意地の悪そうに口角を釣り上げた。
日が暮れる頃に幼馴染が病室を訪ねてきた。枕元の台に置ききれず、床に直接並んだり積まれたりしている見舞品に驚いている。
「セレン、あのさ」
昨晩というのか明朝というのか、手巾をセルーティア氏にくれてしまったことを打ち明けた。彼女に怒ったり気分を害した素振りはない。
「それならもっといいものにしておけばよかった」
「そんな気にしていないと思うけど」
焼菓子の袋を差し出す。彼女は首を振った。
「もう食べて平気なの?」
「良好だし、平気、平気。もう退院してもいいくらいだよ。セレンは?背中の傷」
「さっき包帯を替えてもらいにいってきたところ。順調に回復に向かっているって」
「そう。それならよかった。朝、来てくれたんだって?」
「うん。でも大した用事ではなかったから。お買い物のついで。でもこの時間に来るのが、一番空いてていいかも」
「いつもって混んでるんだ」
彼女は室内を見回した。
「隣の……出たところのすぐ左にあるお部屋の人って、アルスのお友達なんでしょう?」
シールルトくんのことだろう。アルスは肯じた。
「そうそう、その人。入院してるのはシールルトくん。王立学園の人で、セルーティア先生の教え子。大きめな怪我しちゃってさ。でもあとは目覚めるのを待つだけだって。そのときは紹介するよ。ちょっときついところはあるかもしれないけど、悪い人じゃないんだ」
ふと、甦った。些細なことかもしれなかった。しかし巨大な魔人の鉞が振り下ろされたときの障壁。身を真っ二つに斬り裂かれ、即死していたかもしれない一撃を防いだ障壁の、その術者はシールルトくんではなかったか。そういう友人に、アルスは何も返せなかった。
「どうしたの?」
彼は自身の時間に浸ってしまっていた。
「ううん、ごめん何でもない」
「そのアルスのお友達のお部屋に、いつもお見舞いに来てる女の人がいてね、いつも挨拶してくれるんだ」
リスティであろう。世話になった人である。ここで紹介してしまってもよかった。しかし、だからこそ、互いに面と向かったところで紹介したかった。
「早く、アルスのお友達の目も、覚めるといいけれど……」
外で鳥が鳴いている。灯台を失った王都はここから一気に暗くなるのであった。
「もう暗いから、送るよ」
「大丈夫。アルスは寝ていて。安静にしていなきゃ」
「ちょっと散歩しないと。膝が固まっちゃうよ」
幼馴染は負傷中の入院患者が出歩くことを嫌がったが、アルスもまた譲らなかった。巨鳥といい、魔人といい、今の王都は危ないのだ。王子の復活が待たれている。そしてそれはレーラ王子でなくともよいのだという。
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