上 下
8 / 31

8

しおりを挟む
「行こう、リスティ。お騒がせしました」
 この少年は、人当たりだけはよかった。愛想笑いを浮かべて連れの女を引っ張っていった。
「急に何?どうしたの」
「う~ん、あれはオレが持っていてこそ、意味があるんじゃないかって思って」
 彼女は少し怒っているようだった。
「どうして」
「あの部屋、訳アリで安かったんでしょう?その理由、なんでだっけ」
 答えは返ってこない。
「見ちゃったんだよ、夜に。その人が渡してきたの」
「わたしそういうの信じてないから、あそこを借りたんだけど……別に、アルスくんのことを信じてないって言いたいんじゃなくて……」
 アルスはリスティを真正面に捉えた。彼女はたじろいだ。目が逃げる。
「これは戦争ってやつで配られたものなんだよね?その戦争は、王都のために起こったもので……」
「そう」
「あそこに何が出たのか、出なかったのかはそう大事じゃないんだ。これがオレの元に今あるってことが、ちょっと、問題なんだよ」
 王都育ちであることは看破されたが、彼はリスティに己の素性を明かさなかった。王都の定めた職業区分に属さない、また税をんで暮らす生活では自由業ともいえない異類の身であった。明かされたところで彼女も困ろう。
「何か事情があるわけね。分かった。訊かないし、言えないことを窮屈に思わなくていいわ。人にはそれぞれありますから」
 長い耳飾りをぷらぷら揺らしながら、彼女は海のほうへ歩いていく。アルスもその横に付き従った。天気はすでに快晴。吹きつける風も心地よかった。
「旅日和よね。あなたはそんな状況じゃないんだろうけれど」
 アルスはリスティに、己の立場は伏せておくつもりであった。しかし船着き場で王城関係者の証札を見せてしまった。そしてリスティはそれが何なのか知っていた。一瞬見遣ったときの彼女の顔は引き攣っていた。だが彼女は訊かないと言ったばかりである。そのとおり、このことについて訊きはしなかった。ただ、口数が明らかに減った。
 船を待つ間、彼女は外方を向いて、一度も目を合わそうとはしなかった。
「リスティ?」
「なぁに、アルスくん」
 居心地が悪くなってしまった。こうあからさまに態度が変わるとは思わなかった。うやうやしい対応に改められてしまうことをおそれたのみだった。だが実際は違う。腫物のような扱いである。
「隠しているつもりはなかったんだ」
「何の話かしら?」
「さっきの木板のこと。オレ、城勤めなんだよ、意外かもしれないけど……」
「王都育ちって言ってたもんね」
「言ったっていうか、言い当てられたんだけど……」
 リスティはまだ、彼の顔を見ようとはしなかった。彼女は城嫌いなのかもしれぬ。
「あんなのは、ただの木の板なんだ」
「お金だってただの紙か金属よ」
「それは、そうなんだけど……」
「昨日の火事は大変だったわね」
「そうそう、家の庭に、大きな瓦礫が落ちてきちゃってさ」
 けれど彼女の態度は変わらなかった。共にいた者が城の関係者であることが、そうとう気に食わなかったらしい。アルスは和解を諦めた。
「先に言っておかなくてごめん。言っても困るし、わざわざ言うことでもないと思ったんだ」
「お城の人を、格安の部屋に泊めちゃったなんてね」
 しかし彼女のその態度の変わりようは、それが自由とは思われなかった。
 やがて船がやってくる。木造船で、そう大きくはなかった。人を運ぶよりも物資を運ぶのが主な船であるらしかった。王城が大破したいま、さらに資材などの運搬は増えるのであろう。
 アルスたちは第三船員室を充てがわれていた。他に何組か、旅人らしいのが休んでいた。
 出航して早々、アルスは気分が悪くなってしまった。船酔いである。
「噛みなさい」
 リスティは、彼がどういう状態にあるのかすぐに理解したらしい。青菜を取り出して、口元に突きつける。甘苦さを帯びた草の匂いが鼻腔を刺激するが、それがかえって気持ち悪さを紛らわせた。
「これは何?」
 情けない声を出してしまっていた。彼は顔を背けた。
「船酔いに効く草。嫌なら無理にとは言わないけれど」
「要らないです……」
「ああ、そう。好きなときに食べるといいわ。船酔いが趣味なら捨てるといいけれど」
 彼女は勝手にその青菜をアルスの衣嚢に押し入れてしまった。
「ありがとう……?」
「どういたしまして」
 会話はそれきりだった。暫く船に揺られていた。そのうちに旅人の一組が、紙牌―カードで遊ぶことを提案し、アルスも気分転換にそれに混ざった。リスティは甲板に出ていっていた。
 紙牌では負けが続いた。ほどなくして賭けがはじまり、アルスは身を退いた。王都では許可された場合のみを除いて金銭の賭けは違法だ。黙っていればいいことだ。だが気が咎めた。露見しなければいいのである。だがアルスはそれを定めた城の人間であった。彼は律儀であり小心者でもあった。とはいえ、王城があのような惨めな様になりさえしなければ、勢いのまま、露見も恐れず悪怯れもせず加わっていたかもしれない。王都の若者とそう変わらない。生真面目さも捨てられない小心者らしく、流されやすさも持ち合わせているのだった。
 違法賭博から逃れ、甲板へ出ると、リスティが柵を背凭れに海上の空気を愉しんでいるようだった。いくらか表情に緩みがある。
「いかさまされてたわよ、あなた。アルスくん。何か賭けたりしてないでしょうね」
 機嫌を伺いに近付くと意外にも彼女から口を開いた。
「え?」
紙牌カードゲームよ。手札ちょろまかされてたの、気付かなかった?」
「リスティ、いたの?」
「なんだか胡散臭かったから見にいっただけ。相手はああいうの、慣れてるわね」
「賭けになりそうだから断ってきたよ」
 彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「さすが。お役人が賭博はまずいものね」
「そう、そう。どこから洩れるか分かったもんじゃないし」
「密告して小遣い稼ぎしようと思ったのに、あら残念」
「ああ怖い怖い」
 リスティの機嫌もいくらか好くなってきたようだった。海原のせいであろうか。晴れたせいであろうか。
「このまま何事もなく、ロレンツァに行けたら―」
 アルス少年は不運の持主なのであろうか。つい口に出た言葉が終わるかどうかというところで、船が揺れた。リスティの目つきが厳しいものに変わる。呑気な話など聞いている場合ではないとばかりだった。片手で手摺を掴み、均衡を崩したアルスを支える。彼女はすでに状況を理解しているようだった。ただの座礁ではないようである。
「何?」
「弔い合戦だったりして」
「何の?え?誰の?」
 彼女は質問に答えることなく甲板から去っていった。乗組員たちのいる詰所へ向かったらしい。アルスは船の尾のように白くなっている波を見ていた。だが海の真下は見えない。
 彼はリスティの連れである自覚があった。各々、別に目的があるけれども、ロレンツァの道に詳しいだけに彼女が先導であるとすら思っていた。ということは、彼女を一人にしておくわけにはいかない。協力すべきなのだ。彼女にその協調性があるのかは疑わしいけれど。
 彼女の消えた操舵室へ向かおうとした。ところがいかにも具合の悪そうな男を発見してしまう。手摺よりも低く屈み込み、柵の部分から両腕を突き出して、いつでも吐ける姿勢だった。小綺麗な身形は、学者や図書館司書を思わせる。そうとう、酔っている。アルスも船酔いを起こしてはいたが、その者ほどではなかった。だが見ているだけでつらくなるような顔色の悪さだった。髭面の男で、青褪めているためにさらに口元の無精髭が濃く見える。
「船酔いですか?」
 声をかえてしまった。相手は喋る気力すらなさそうだった。だが気の好い人物らしい。不遜な印象を与える風貌だったが、愛想笑いを繕っていた。
「そうです、そうです。困ったものですな」
 唇の色も悪かった。顎が震えている。船酔いのつらさがまったく分からないわけではないだけに、自身のものよりも深刻そうな有様はアルスにも堪えるものがあった。そして思い出す。
「これどうぞ。酔い止めの効果があるとか、なんとか。疑わしいんですけど……」
 アルスは連れから渡された草を取り出した。でろんと萎れているのが嫌だった。
「ほほう、船旅草とは……ありがとうございます。礼と言っては粗末ですが、こちらを持っていってくだされ」
 大振りな飾り襞に覆われて膨らんだ袖は、学者というよりも音楽家や演奏家か。アルスは耳飾りを渡される。
しおりを挟む

処理中です...