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王都から最寄りの集落だけあって、港町は赤煉瓦敷きの瀟洒な造りをしていた。入ってすぐに海沿いまで繋ぐ大通りには磯焼きや切身を売る出店が並ぶ。主な客層は王都から来た者や、反対にこれから王都へ行く者だろう。海産物を炭火で焼いたり炙ったり、むしろ生で食べたりするのは王都ではあまりしないため、無いものは無いと》宣っている王都民であっても物珍しさがあるのだろう。
アルスはあまり海に詳しくなかった。雨であっても船は出るものと思っていた。だがそう上手く事は運ばない。出航しない旨の看板が、出店を左右に控えた短すぎる大通りに立っている。
賑々しい売り文句を投げかけられながら、彼は数度に渡って看板を読み返すけれども、書いてあることは変わらない。本日は急激な荒天により運行中止。
選択を誤ったのだ。徒歩で行けばよかったのだ。ロレンツァは王都から南東にある。途中にある街で一泊すれば歩いていけない距離ではなかった。
端的にいえば、彼は焦っていた。1日置いて、彼も心身を休ませるべきとこにあった。あまりにも一気に、様々なことが起こりすぎているのだ。彼は本来は温厚柔和な気質であった。だが、何かに、誰かに怒声を浴びせたい憤りに駆られる。しかし、港町の者たちや、目の前の看板でこの鬱憤を晴らしたいわけではなかった。対象を明らかにするとすれば、彼は自身に怒っていた。自然公園で呑気に釣りに没頭している場合ではなかったのだ。
「にいちゃん、急ぎかい?」
貝を焼いていた漁夫が店越しに声をかけてきた。
「はい。ロレンツァに行きたいんですけど、次はいつごろになりそうですかね」
「そうさなぁ、天気読みさんも、予想外のことだって言ってた雨だからなぁ。止んですぐってわけにもいかないだろうなぁ」
「そうですか。ありがとうございます」
アルスはすぐに引き返そうとした。ところが、後ろから袖を摘まれた。衣服を棘などに引っ掛けてしまったものかと思われたが、それは人為的なものだった。
「ロレンツァに行きたいの?」
相手は同じ頃からやや歳上といった若い女だった。晴天を尚更に恋しくさせる髪色に、双眸は燃える夕日を閉じ込めているような橙色。大振りな耳飾りが揺れて注意を引く。
「ええ、はい……ロレンツァにすぐ行かないといけなくて……」
「そう。わたしもなの。連れがロレンツァにいるから」
彼女は背が高かった。幼馴染よりも目線の合う位置が高いような気がした。ランタナ師匠ほではないが、肉付きについては武闘家を思わせる。そして一目で、彼女は棄民か或いはそれに準ずる者であるかもしれないことに気付く。髪が肩ほどまでしかない。毛髪に恵まれていないのならば、鬘という選択もありながら、そうではない。王都とその周辺の街町村では、信仰心の深浅を問わず王族信仰、聖石信仰、精霊信仰が主流だ。そしてそのいずれのものでも、この大陸を覆う魔凪の恩恵を受け、また感謝せよという教えがある。そしてそれ等は毛のひとつひとつにも宿るとされているから、断髪は一種の奇行であった。少数であった。怪我や病、体質や老化によって髪が抜け落ちたとしても、繕うのが通常であった。だがそれをしていない。魔凪や信仰について軽視していたとしても、周辺の人間について無頓着であるのなら棄民やそれに準ずるものとして見られるだろう。とはいえ、王都には信仰について自由があったし、アルスも王都の市井を闊歩する若い連中と同じく、熱心な信仰者ではなかった。棄民かも知れぬ流氓かも知れぬといって、特に蔑むつもりもない。ただ物珍しい。そういう視線は免れられない。
「船が出るまで、ちょっと仕事しない?」
「仕事?オレちょっと急いでて……」
「船、出ないのに?」
「歩いていこうと思ってる」
彼女は少し驚いた様子を見せる。
「本当に急いでいるのね」
「病気の友人がいてさ。ロレンツァのお医者さんに会いたいんだよ」
彼は相手の耳元を揺蕩う耳飾りに無意識的な興味が湧いていた。
「ロレンツァのお医者さん?それってセルーティア市長のこと?」
「確かそんな名前だったけど……市長なの?」
アルスの漠然としたセルーティア氏に対する人物像が、ガーゴン大臣のように威厳のある、しかし陰険さはない知的な老翁へと形作られていく。
「そうよ。まだ若く見えるけど、やり手のね」
そして若作りということも加わる。
「詳しいんだね」
「ロレンツァに住んでるから」
「観光地に住んでるの?いいな。どう、暮らしは」
「景観条例があって面倒臭いわよ」
彼女は肩を竦めた。愛嬌はあるけれど、少し冷淡な感じのある人物だった。
「オレはロレンツァに歩いていくよ。仕事があるのなら、君は船を待つ?」
「そうね。仕事があるから」
そこで別れるものと思っていたが、アルスは去ろうとした彼女を引き止めた。
「オレ、アルス。君の名前、聞いておいてもいいかな。向こうで、連れの人に会うかも知れないし、君が地元の人ならセルーティア市長とも話が通りやすくなりそうだし」
彼女の杏を思わせる唇が吊り上がった。アルスの打算的なやり口についての反応に思われる。
「リスティ。アルス、またどこかで会えたらね」
快活な人物だった。彼女は屋台の並ぶ道を通り抜け、船着き場のほうへ行くらしかった。
斑模様の空が閃く。城が倒壊するときと似たような自然の唸りを耳にする。それは海から聞こえていた。建物と建物の狭間から見える濁った海面が隆起している。そしてその頂からは、汚泥をまとった、なめらかな質感の、巨大な物体が現れた。同じ色をした触手も左右の腕の如く、空へ向かって伸びた。
高くのし上がった緩やかな波が港町の海側の地面へ流れてくる。足下が濡れた。
アルスは先程の女性のことが心配になった。知り合ったばかりの、素性もよく知りはしない相手だが、言葉を交わし、名乗り合った関係である。
彼は行くはずのなかったほうへ走った。例の女はというと、海沿いの船着き場へ続く遊歩道に立ち、逃げもしないで、海妖物と対峙していた。
恐怖で身が竦んでいるのではないだろうか?
アルスは彼女の傍へ向かった。
「何してるんだ。早く逃げなきゃ」
「倒すのよ」
「無茶だって」
「いずれにしろ、これがいる限り、ここに船は来られないわ」
武闘家の師匠と似通った肉付きをしていながら、咄嗟に掴んだ腕は意外にも華奢な質量をしていた。
「海の中だよ。どうやって……」
見たところ、彼女に飛び道具を所持している様子はない。
「普通に、魔法」
アルスは目の前に人がいながら、一抹の寂しさを覚えた。彼女たちには当然として魔術という手段がある。魔物、あるいは敵対勢力への反抗・排除、または応急処置の手段として存在するわけだ。
だが彼にはそれがない。大気を漂う魔凪によって、蓄えられる魔力が彼については干渉しなかった。身体に保っていられる魔力の量が少ない人には人工クリスタルなるものもある。聖石信仰者が唾棄しているものだが、これもアルスにとって干渉するものではなかった。王族に成り代わるには致命的な欠陥とはまさにこのことだった。
「アルスくん、逃げなさい。怪我するわ」
リスティとかいっていた女性は、人工クリスタルを握り締める。彼女の双眸と同じ色に光っている小さな石ころだった。
魔術と使えないアルスは、代替手段として剣術について、より幼い時期からより多くの稽古をつけてもらわねばらなかった。だがあくまで、自身が踏み込める位置に対象がいてこそ成り立つ戦術だった。しかし今、海妖怪との間には水が横たわっている。それにくわえ、彼は武器を携帯していなかった。王都では申請なしに武器の携行が許されていない。市井の若者と変わりない者を装っていたアルスにも当然、その習慣はない。なにより、王都の外へ1人で出たことなど今までにあっただろうか。
「アルスくん!」
リスティの語気がわずかに強まった。だが彼は大きな海異形を睨みつけていることしかできなかった。水面から生えような透明感のある触手は、天を衝き、まだ町のほうへ害を為そうとする様子はない。
「アルスくん、あなた、剣の心得は?」
「ほんの少々」
相手の顔も見ずに答えた。だが彼女のほうでは疑わしげな視線をくれた。
「これ、あげるわ。連れに渡そうと思ったけど、よく考えたら剣なんて使ってなかった。その胼胝は鋤鍬でも握ってたってこと?」
怪海洋生物を目前にしておきながら、その語りかけはいささか悠長だ。だがそれも彼女の計算であったらしい。アルスは隙をみせてしまった。直後に巨大イカは水面から生やした触腕を槍の如く彼へ突き出した。脇から跳んできたリスティに突き飛ばされる。彼女は目標を正面に捉えて、炎の玉を放った。
アルスはあまり海に詳しくなかった。雨であっても船は出るものと思っていた。だがそう上手く事は運ばない。出航しない旨の看板が、出店を左右に控えた短すぎる大通りに立っている。
賑々しい売り文句を投げかけられながら、彼は数度に渡って看板を読み返すけれども、書いてあることは変わらない。本日は急激な荒天により運行中止。
選択を誤ったのだ。徒歩で行けばよかったのだ。ロレンツァは王都から南東にある。途中にある街で一泊すれば歩いていけない距離ではなかった。
端的にいえば、彼は焦っていた。1日置いて、彼も心身を休ませるべきとこにあった。あまりにも一気に、様々なことが起こりすぎているのだ。彼は本来は温厚柔和な気質であった。だが、何かに、誰かに怒声を浴びせたい憤りに駆られる。しかし、港町の者たちや、目の前の看板でこの鬱憤を晴らしたいわけではなかった。対象を明らかにするとすれば、彼は自身に怒っていた。自然公園で呑気に釣りに没頭している場合ではなかったのだ。
「にいちゃん、急ぎかい?」
貝を焼いていた漁夫が店越しに声をかけてきた。
「はい。ロレンツァに行きたいんですけど、次はいつごろになりそうですかね」
「そうさなぁ、天気読みさんも、予想外のことだって言ってた雨だからなぁ。止んですぐってわけにもいかないだろうなぁ」
「そうですか。ありがとうございます」
アルスはすぐに引き返そうとした。ところが、後ろから袖を摘まれた。衣服を棘などに引っ掛けてしまったものかと思われたが、それは人為的なものだった。
「ロレンツァに行きたいの?」
相手は同じ頃からやや歳上といった若い女だった。晴天を尚更に恋しくさせる髪色に、双眸は燃える夕日を閉じ込めているような橙色。大振りな耳飾りが揺れて注意を引く。
「ええ、はい……ロレンツァにすぐ行かないといけなくて……」
「そう。わたしもなの。連れがロレンツァにいるから」
彼女は背が高かった。幼馴染よりも目線の合う位置が高いような気がした。ランタナ師匠ほではないが、肉付きについては武闘家を思わせる。そして一目で、彼女は棄民か或いはそれに準ずる者であるかもしれないことに気付く。髪が肩ほどまでしかない。毛髪に恵まれていないのならば、鬘という選択もありながら、そうではない。王都とその周辺の街町村では、信仰心の深浅を問わず王族信仰、聖石信仰、精霊信仰が主流だ。そしてそのいずれのものでも、この大陸を覆う魔凪の恩恵を受け、また感謝せよという教えがある。そしてそれ等は毛のひとつひとつにも宿るとされているから、断髪は一種の奇行であった。少数であった。怪我や病、体質や老化によって髪が抜け落ちたとしても、繕うのが通常であった。だがそれをしていない。魔凪や信仰について軽視していたとしても、周辺の人間について無頓着であるのなら棄民やそれに準ずるものとして見られるだろう。とはいえ、王都には信仰について自由があったし、アルスも王都の市井を闊歩する若い連中と同じく、熱心な信仰者ではなかった。棄民かも知れぬ流氓かも知れぬといって、特に蔑むつもりもない。ただ物珍しい。そういう視線は免れられない。
「船が出るまで、ちょっと仕事しない?」
「仕事?オレちょっと急いでて……」
「船、出ないのに?」
「歩いていこうと思ってる」
彼女は少し驚いた様子を見せる。
「本当に急いでいるのね」
「病気の友人がいてさ。ロレンツァのお医者さんに会いたいんだよ」
彼は相手の耳元を揺蕩う耳飾りに無意識的な興味が湧いていた。
「ロレンツァのお医者さん?それってセルーティア市長のこと?」
「確かそんな名前だったけど……市長なの?」
アルスの漠然としたセルーティア氏に対する人物像が、ガーゴン大臣のように威厳のある、しかし陰険さはない知的な老翁へと形作られていく。
「そうよ。まだ若く見えるけど、やり手のね」
そして若作りということも加わる。
「詳しいんだね」
「ロレンツァに住んでるから」
「観光地に住んでるの?いいな。どう、暮らしは」
「景観条例があって面倒臭いわよ」
彼女は肩を竦めた。愛嬌はあるけれど、少し冷淡な感じのある人物だった。
「オレはロレンツァに歩いていくよ。仕事があるのなら、君は船を待つ?」
「そうね。仕事があるから」
そこで別れるものと思っていたが、アルスは去ろうとした彼女を引き止めた。
「オレ、アルス。君の名前、聞いておいてもいいかな。向こうで、連れの人に会うかも知れないし、君が地元の人ならセルーティア市長とも話が通りやすくなりそうだし」
彼女の杏を思わせる唇が吊り上がった。アルスの打算的なやり口についての反応に思われる。
「リスティ。アルス、またどこかで会えたらね」
快活な人物だった。彼女は屋台の並ぶ道を通り抜け、船着き場のほうへ行くらしかった。
斑模様の空が閃く。城が倒壊するときと似たような自然の唸りを耳にする。それは海から聞こえていた。建物と建物の狭間から見える濁った海面が隆起している。そしてその頂からは、汚泥をまとった、なめらかな質感の、巨大な物体が現れた。同じ色をした触手も左右の腕の如く、空へ向かって伸びた。
高くのし上がった緩やかな波が港町の海側の地面へ流れてくる。足下が濡れた。
アルスは先程の女性のことが心配になった。知り合ったばかりの、素性もよく知りはしない相手だが、言葉を交わし、名乗り合った関係である。
彼は行くはずのなかったほうへ走った。例の女はというと、海沿いの船着き場へ続く遊歩道に立ち、逃げもしないで、海妖物と対峙していた。
恐怖で身が竦んでいるのではないだろうか?
アルスは彼女の傍へ向かった。
「何してるんだ。早く逃げなきゃ」
「倒すのよ」
「無茶だって」
「いずれにしろ、これがいる限り、ここに船は来られないわ」
武闘家の師匠と似通った肉付きをしていながら、咄嗟に掴んだ腕は意外にも華奢な質量をしていた。
「海の中だよ。どうやって……」
見たところ、彼女に飛び道具を所持している様子はない。
「普通に、魔法」
アルスは目の前に人がいながら、一抹の寂しさを覚えた。彼女たちには当然として魔術という手段がある。魔物、あるいは敵対勢力への反抗・排除、または応急処置の手段として存在するわけだ。
だが彼にはそれがない。大気を漂う魔凪によって、蓄えられる魔力が彼については干渉しなかった。身体に保っていられる魔力の量が少ない人には人工クリスタルなるものもある。聖石信仰者が唾棄しているものだが、これもアルスにとって干渉するものではなかった。王族に成り代わるには致命的な欠陥とはまさにこのことだった。
「アルスくん、逃げなさい。怪我するわ」
リスティとかいっていた女性は、人工クリスタルを握り締める。彼女の双眸と同じ色に光っている小さな石ころだった。
魔術と使えないアルスは、代替手段として剣術について、より幼い時期からより多くの稽古をつけてもらわねばらなかった。だがあくまで、自身が踏み込める位置に対象がいてこそ成り立つ戦術だった。しかし今、海妖怪との間には水が横たわっている。それにくわえ、彼は武器を携帯していなかった。王都では申請なしに武器の携行が許されていない。市井の若者と変わりない者を装っていたアルスにも当然、その習慣はない。なにより、王都の外へ1人で出たことなど今までにあっただろうか。
「アルスくん!」
リスティの語気がわずかに強まった。だが彼は大きな海異形を睨みつけていることしかできなかった。水面から生えような透明感のある触手は、天を衝き、まだ町のほうへ害を為そうとする様子はない。
「アルスくん、あなた、剣の心得は?」
「ほんの少々」
相手の顔も見ずに答えた。だが彼女のほうでは疑わしげな視線をくれた。
「これ、あげるわ。連れに渡そうと思ったけど、よく考えたら剣なんて使ってなかった。その胼胝は鋤鍬でも握ってたってこと?」
怪海洋生物を目前にしておきながら、その語りかけはいささか悠長だ。だがそれも彼女の計算であったらしい。アルスは隙をみせてしまった。直後に巨大イカは水面から生やした触腕を槍の如く彼へ突き出した。脇から跳んできたリスティに突き飛ばされる。彼女は目標を正面に捉えて、炎の玉を放った。
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