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 物心つく前からアルスは城で暮らしていた。そして今まで、彼はこの王都でこのような惨事を目の当たりにしたことはない。王族に、あるいは王都に、ひいては城に反感を持つ者がいるのは確かだった。定期的に反・王族連合会だの、王城不要論者集会だのが解体を求める抗議活動に勤しんでいる。それを見たことがあった。同時に副業として、そこに混ざり人員増幅を偽装する仕事をしたこともある。だから当事者としても知っているのだ。
 彼が城の育ちで王族の側近であることは城下の者たちには秘されている。
 それにしてもこの城で、一体何が起きたというのだろう。目が回るような螺旋階段を駆け上がり、アルスはようやく王子の部屋へ着いた。広さこそあるが天空の隔離部屋のような立地である。尖塔の頂上の部屋はもはや天空牢とでもいえる。
「レーラ!」
 アルスやセレンよりも2つほど上の王子は果たして無事なのか。扉を蹴破って踏み入った。しかしアルスは硬直した。まず、穏やかに佇立ちょりつする後姿が目に入った。濃い青のマントが開けっ放しの小窓から吹き付ける微風そよかぜに揺蕩う。橄欖かんらん―オリーブを思わせる髪色に硬そうな毛先はまさしく、昔亡くなったはずのリーザもそうであった。そしてその者は、徐ろに顧眄こべんする。間違いなかった。その顔立ちからしてもリーザと証明するほかなかった。決定的なのは悠長に向けられた金色の双眸である。
 レーラという偏屈なところのある王子を求めたつもりが、セレンの譫言みたいな、信じるにも信じがたい言葉の真相を知る羽目になってしまった。アルスは絶句した。頭の中は真っ白だ。ではここに、レーラ王子はいなかったのであろうか?いいや、いた。当の王子は窓の近くに倒れていた。風にそよぐ紺色のマントの奥に、燃え盛る炎を彷彿とさせる美しい緋色の髪の人物が横たわっている。
 アルスは未熟な、まだまだ青い、凡愚な若者である。この非常事態、そして非日常な有様、状況に対してどうしていいのかまったく判断がつかなかった。何が最善であるのか、何を最優先にすべきか、皆目見当もつかなかった。
「リ、リーザ……ひさしぶり……」
 引き攣った笑みを浮かべながら、生きた友人と再会しているふうに彼は雑談をはじめるつもりらしかった。相手はもう疑いようもなくリーザであった。しかし彼が死没した時期からそのままというわけではなかった。故人であったはずだ。未来を絶たれたはずだ。ところが彼はアルスやセレンと同じ歳の頃まで成長を遂げているのだ。
「レーラは……?」
 リーザは黙っていた。アルスは脂汗を浮かべ、そして意識のなさそうなレーラ王子の身体へ目配せする。
 問いに返答はなかった。様々なことが起こりすぎている。アルスは同時に暑さも寒さも味わった。
 問いへの返答はない。しかしリーザはアルスのほうへ煤けた紙片を一枚投げつけた。それを拾おうとする。瞬間、彼は頬や耳に鋭い衝撃波を感じた。痛みはあれど傷はなかった。彼の身体にはそのとき、靴の裏を弾かれるような柔らかくも圧倒的な力が加わった。何者か、第三者の介入によって彼は負傷を免れて。だが誰何すいかするよりも、リーザから目が離せなかった。しかしそこに死んだはずの旧友の姿はないのである。ただ小さな窓が蝶番を軋ませて前後に揺れ惑っているのみだった。
「バカ野郎!とっとと逃げろ」
 怒声が幽閉部屋みたいな王子の部屋へこだました。男にしては高いが、女にしては低い声で、一本柱を通したようなどっしりとした音吐おんとである。
「ごめんなさい……」
 アルスは反射的に謝った。その声で怒鳴られたならば、返す言葉は決まっていた。条件反射として身に染み付いていた。
 彼の危機を救ったのはランタナ師匠であった。彼の武術の師である。30代半ばのはずだが、筋骨隆々と鍛えてあるだけ瑞々しさのある女性である。
「城が崩れる前にさっさと逃げるぞ」
 ランタナ師匠はアルスの脇腹へ腕を回し、土嚢でも運ぶかのように抱えるつもりらしかった。
「レーラが大変なんです。ランタナ師匠!」
 彼女は王子の存在に気付いていないわけではなかったようだ。気付いていたうえで、アルスのみを連れ出そうとしている。王子には意識がなかった。それだけの理由である。
「諦めろ。この緊急時に、足手まといだ」
「叩いたら目を覚ますかも知れないでしょう」
 アルスは暴れた。大きな溜め息は聞かされている。
「分かった、莫迦たれ。お前は先に逃げてろ」
「でも、」
「お前もいちゃそれこそ足手まといだ」
 すでに抱え上げられていたアルスは部屋の外へ放り投げられてしまった。彼は特別背が低いというわけではない。王都の同年代男性のなかで平均から多いに離れているわけではなかった。中肉中背の平々凡々とした体格の持ち主である。つまり軽いわけではないのだ。しかしあまりにも呆気なく担ぎ上げられて投げ飛ばされるのである。
 彼が投げられ、壁に打ちつけられて、床に叩きつけられている間に、ランタナ師匠はレーラの容態を看ていた。外観として流血はなく、セレンのように身体の一部を損傷しているということも、可動域に反した曲がり方をしているということもなかった。
「ランタナ師匠、レーラは……」
「さっさと行け、クソガキ。王子は後から連れていく。瓦礫でもどかして退路の確保でもしてろ」
 アルスは幼少期からこの女師匠に勝てなかった。彼にとって常に自分よりも強い女であった。それは成長期が訪れても変わらない認識であった。拭い切れないことだった。根から信用していた。彼は王子を師匠に任せた。しかしひとつ、こわい師匠の言いつけを破ってしまった。退路の確保は必要なかったが、そのことではなかった。真っ直ぐに城の外へ避難しなかったのだ。彼は寄り道をした。城外へ出るのに謁見の間に寄る必要はまったくない。けれども負傷した幼馴染のことが気になった。廊下はどこもかしこも無事ではなかった。無辜の警備兵、官吏、下働きたちが亡骸となって横臥している。瓦礫の転がる音が染み渡っていく。城内は不気味なほどに静かだった。気が変になりそうな凪の中にいた。胸のうちでは、ふつふつと得体の知れない感覚が蠢いている。
 散々彷徨った結果、セレンもまたすぐに脱出などしていなかった。彼女は自身も怪我を負っていながら、負傷者に肩を貸して、牛や亀の歩みだった。赤い翼はもうなかった。
「セレン」
 後ろから声をかけ、場所を入れ替わり、アルスが負傷者を支える。彼女とはただ目交ぜがあったのみだった。セレンの連れている負傷者が城の関係者だからである。彼女も察しがついているのだろう。自ら訊ねるようなことはなかった。
 城の正門にある吊り橋に差し掛かったとき、ついに城郭の一部が崩れ落ちた。地響きがした。アルスはセレンを見遣り、片腕を委ねている負傷者とともに姿勢を低くした。背後では崩落が連鎖していく。城を振り返ることができなかったのは凄まじい粉塵の大波もあっただろうが、多くは後悔のためだった。師匠と王子を置いてくるべきではなかった。まだ意識もあり動けたはずの師匠に我儘を言うべきでなかった。
 吊り橋の揺れが落ち着き、アルスは立ち上がった。頬に雨粒がぶつかった。曇天は雨へと変わっていた。徐々に強まって、砂煙を打ち鎮めてしく。遠雷は倒壊の唸りと紛らわしかった。目瞬きか閃光か判断もつかない。
 それは恵みの雨だったのだろうか。
 城は燃えているのだった。爆発と炎上を繰り返しているのである。
 
 城前広場が避難場所になっていた。王都中の医者がそこへ招集されていた。点綴てんていしている鮮やかな天幕のひとつをくぐり幼馴染と負傷者を託す。
 そこには、幼少期から懐いていた看護師長がいたのである。恰幅のいい中年の女で、城に勤めていながら市場通りにいる気取らない感じがよかった。彼女の無事がまずアルスをわずかながらでも和ませた。
「アルス、無事だったのかい」
 看護師の制服が砂埃で汚れるのも厭わず、肥えた猪首の看護師長はアルスを抱き締めた。彼はすんでのところですぐ横にある診察台へ負傷者を座らせた。
「婦長こそ、無事でよかったです」
「大変だったね。さあ、もう安心おしよ」
 アルスは腕の中でセレンを見遣った。
「彼女が怪我をしているんです。どうぞよろしく頼みます」
 看護師長の抱擁が解かれる。彼女は仕事をする面構えに戻っていた。
「セレンちゃん、怪我してるの?」
「背中側なんです。オレはちょっと行くところがあって……」
 その言葉に反応したのはセレンのほうだった。
「アルス、どこ行くの?」
「そうよ。セレンちゃん、きっと心細いでしょうよ」
 そういうわけではないとばかりに彼女は困惑を浮かべ看護師長を一瞥する。
「ちょっと忘れ物しちゃって」
「お城の……中?」
 遠慮がちな問いだった。しかしここで暴露すれば、看護師長という強力な味方がいるわけである。この幼馴染に隠し事はできないらしい。
「危ないじゃないの」
「ランタナ師匠にちょっと用があるだけです」
 嘘ではなかった。看護師長は露骨に怪訝な表情をする。彼女は粗野で乱暴な女武闘家と折り合いが悪かった。それは厳しい鍛錬による幼い少年弟子の度重なる怪我も関係しているだろう。
「すぐ帰ってきますから。彼女をよろしくお願いします」
「はいはい。“カノジョ”をね……」
 アルスはよく聞きもしないで天幕を飛び出し、雨脚の強いなかを急いだ。
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