彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 紅の痣について認めていながら、極彩は荏苒じんぜんと日を送った。不安の数日であった。最期こそ看取ることはできなかったけれど彼女は縹の症状を見ていたのだ。紅があの病苦に苛まれたとき、正気でいられるだろうか。
 ある昼間のことだった。すぐ近くで工事がはじまり、世間の人々、城下の全民たちの起床していて然る時間帯から、夕目暮ゆうまぐれまで騒音が響いていた。作業員たちの喧噪、怒号も閑静な住宅街にこだまする。そのためにか、はたまた別の理由によるものか、出掛けていた極彩の帰宅を、留守番中の小さき者たちは気付かなかったらしい。
 金槌で叩いているものらしき振動を足の裏に感じながら、彼女は玄関を上がった。居間で微かに鈍い物音が聞こえ、彼女はこっそりと覗いた。何か考えがあったのでも、心当たりがあったのでもなかった。ほぼ無意識であった。大々的に現われたのでは、事の正体を知る機会を失してしまうことを本能で理解していた。実際にそうだったのかもしれない。紅が床に転がっていた。
 極彩は助け起こすために居間へ出て行こうとした。しかし彼女は次の光景に怯んでしまった。小さな足が、同じく小さな体躯の上に乗る。あの忌まわしい男児が、紅を踏みつけている。為されるがままであった。隻腕になった武人は抗い方も忘れてしまったのか。憤った様子も、威嚇している様子もない。自分自身を疑い、ほんの数瞬の激怒を忘れた。
「紅?」
 呼びかけると、床に転がる躯体に乗った小さな足が引っ込められる。極彩の認識にはある種の誤作動が起こっていた。穏やかな空虚を以って紅に接していた。彼は何事もなかったかのように立ち上がり、気に入りの部屋の隅へ身を縮めた。極彩はそれを目で追い、彼女もまた何事もなく日常に戻っていた。
 夕食を摂らせ、自身は酒を飲み、湯を浴び、褥に入る。その頃には、外の工事は当日分の勤めを終えてしばらく経っていた。つまり静かな夜であった。近隣に住宅があり、住民がいるとは思えない静けさであった。あとは目を閉じ眠りに入るだけであった。目蓋が落ちる。そこで急に甦る。心地好い眠気が波紋のようにやんわりと広がっていくはずであった。だが彼女は跳び起きた。
「紅」
 枕元に座る紅に這い寄った。しかし顔を突き合わせた途端、躊躇する。彼に好かれていないことは重々承知していた。鬱陶しがられているのだ。
「変な遊び、したらだめだからね」
 たとえば以前の職場、加虐っ娘・女豹倶楽部のような妙な遊びを、どう説明したものか。相手からしてみれば、あまりにも唐突な注意だっただろう。
 すでに明かりを消していた。紅の表情は見えなかった。おそらく寝てはいないのだろう。聞こえてもいるのだろう。元々の職務からして、感覚の敏い気質であることは昔からよく知っている。しかし見えたとて表情が豊かな人物ではない。
「何かあったらお願い、紅。ちゃんと言ってね……?」
 だがやはり反応はない。早々に諦めて、いじめられたかたつむりのごとく布団へ戻る。

 明くる日、淡藤が屋敷を訪れた。近所の工事があまりにも騒音を立てるため、膝頭が接するほど距離を縮めなければならなかった。
 仲の悪いらしい菖蒲から話は聞いているようだが、改めてうぐいすについて説明しなければならなかった。当の児童を呼ぶと、秀麗な顔立ちを醜く歪めて微笑を向けた。彼は子供が好きらしい。一方で、うぐいすはこの客人に露骨な不快感を示した。身の上が、大人の男を嫌わせるのかもしれない。
「すみません。あまり幸せな境遇にいた子供ではなくて」
 極彩は寝室へ入っていくうぐいすに視線を留めていた。その部屋には紅がいるのだ。だが席を外し、淡藤を寝室を曝すのも憚られる。
「姫様?」
「ああ……すみません。ぼぅっとしてしまって」
「春ですからね。春といえば、約束がありましたね。色々とやりたかったのですが、なかなか」
「春でなくてもいいではありませんか。そろそろ夏ですし、夏に向けて……」
 彼女の視線はまだ寝室の襖に注がれている。
「眠いですか」
「ごめんなさい。春ですから」
「夢見心地です、私も」
 彼は本題へと入っていった。梔子という架空の人物を装うために、それらしい衣類や小物を持ってきた。
「傷は隠してください。目立ちます。服装も、今より少し奇抜だといいですね。顔よりも衣服に気が取られるものですから」
 極彩はこれからの生活を想像した。また寝室を見遣る。
「あちらの部屋が気になるんですか」
 淡藤も同じ方を見る。
「二公子は自分で面倒を看ろとおっしゃられましたけれど、わたしはどうも、あの子供と相性が好くないみたいで」
「実の子でさえ、相性はありますからね」
「手が出なければいいのですが」
 忌まわしい子供と紅が2人きりになっている。
「どうしてもというのであれば、また預け先を手配します」
 しかしそれは淡藤が二公子の命に反することを意味する。
「とりあえずは頑張ってみようと思います。手酷い目にも遭いましたから」
 すると淡藤は両腕を開いた。不思議なところのある人物だった。
「甘えますか」
「随分と甘えていますか」
 庇護欲の強い気質らしい。

 淡藤が帰ると、彼女はすぐに寝室を開いた。 紅の隣でうぐいすは畏まったように座っている。白々しく映った。この子供の目の前で、紅の腕を鷲掴み、湿布を替えるふりをして痣を数えた。増えてはいない。
「お姉ちゃん。ぼく、お腹空いたよぉ」
「分かった。今、何か作る」
 気付いたことがある。紅に構うと、うぐいすが話しかけてくるのである。
 極彩は台所へ向かった。舌を失った紅のために材料を細かく刻む必要があった。米は粥にしていた。以前、うぐいすから雑炊を食い飽きた話をされたことがあるが、あの子供なりの牽制だったのかもしれない。けれどこの家には紅がいる。極彩自身、ろくに飯が食えなくなってしまった。無理矢理居座ろうとする子供のために新たに飯を炊き直し、食材を切り直してやろうとする大器を彼女は持ち合わせていなかった。その身の上に憐れみがないわけではなかったが、憐れみたい子供ではなかった。
 うぐいすとの別れは、突然やって来た。やはり近場の工事の音が閑静な住宅街を賑わせていた。そして極彩のほうでも、気配も殺して家に帰ったのである。梔子として過ごす家を下見に行っていたのだ。あらゆる物音を掻き消す轟きのなかで、彼女は見たのだ。縁側から紅を突き落とすうぐいすの姿を。
 頭頂部左右から、何か生えそうであった。頭皮が土であるのなら、筍でも生えてきそうな、強烈な情動に襲われる。身体が熱くなったのも、またその育成を助長しそうであった。腹の奥底で起こる澎湃ほうはいが喉を迫り上げる。口から蛇を吐きそうであった。だが極彩はそこに立ち尽くすばかりであった。セミや蝶も羽化の際はそう俊敏に動けるものではない。彼女は目をかっ開き、うぐいすを捉え、わなわなと震えた。
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