彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「胸見るの、やめてください」
 極彩は身を竦めて胸元を隠す。錫は嘲るように鼻を鳴らし、首ごと逸らし、座っていたところに戻った。
「何が目的なんです」
「いずれ分かる」
 育ちの良さが窺える所作で腰を下ろす。
「いずれ分かるということは、わたしにも分かります」
 彼女は呆れたような口調だった。
「その内懐うちぶところの刀はなんだ」
 前のめりになる姿勢にすら偽悪的な感じがある。肉を斬り、骨を断ち、鮮血を浴びる職に就くには上品に雅やかに育ってしまったらしい。
「桃を剥くためのものです」
「桃の季節にはまだ早い」
「品種によるのでは。この前、店先に並んでいるのを見ましたよ」
 車内は静まり返る。まるでおかしな発言でもあったとばかりだった。
「群青は、分かるな」
「存知ておりません。何方どなたです」
 嘲りの鼻息吹が空気を擦る。
「貴様の契った男の正体だと聞いている。くだらない駆け引きをするな」
「存じておりません。わたくしは、男の甘言蜜語の譎詐百端けっさひゃくたんに引っ掛かった愚かで哀れな巾幗きんかくでございます。もう少し慮ってくださいまし」
 内容は悄らしいが彼女の口振りにはまったくそのような気配はなかった。
 鼻を鳴らされた次は嘆息される。
「二公子の右腕、二公子の走狗、国の忠犬、その実態は二公子の鼻塵紙はなちりがみ下馬評げばじょうでいえば、刻苦勉励こっくべんれい蹇蹇匪躬けんけんひきゅうの君…………蜚語ひごだな」
 極彩は薄ぼんやりと聞いていた。
「もしかしたら……と思う方はいらっしゃいますけれど、やはり関わりはありませんね」
 錫は小首を傾げた。涼やかな黒髪が靡く。
御諚ごじょうとあらば婦女子も斬り、親の墓石さえ蹴り倒し唾を吐ける男だ」
 極彩はそう言っている男の横面を凝らす。彼の中で親の墓石を蹴り倒すことは禁忌であるらしい。彼の父親の死に様がふと思い出された。極彩としては、群青が露悪趣味の二公子に命ぜられて墓石を蹴り倒すどころか破壊をもしてしまう様は用意に想像できる。この錫という男は城勤めに向かなかったことに、また確信を深めてしまう。
「それで、その御人おひとがどうしたのです」
 ふたたび暫くの間、車内は静かになってしまった。
「知り合いでないのなら、貴様に語るところはない」
 それから城下に着くまで彼は口を開かなかった。目を伏せ、身動ぎもしない姿は寝ていたのかも知れない。
 目的地に到着すると拘束が解かれていく。錫は彼女の着ている物も脱がしにかかった。
「そういうことがお望みだったんですか」
 思いきり相手を睨みつける。襦袢姿に剥かれ、やっと自由になった腕で自身を抱いた。
「男に攫われるというのはそういうことだ」
「他人の体温は好かないなどと、よくも大口を叩けたこと」
 彼はふん、と鼻息吹を擦る。短刀を目交まなかいに晒される。
「預かっておく」
「預かる?返すあてがあるということですか」
 下唇を彼の指が捲るように押した。
「そう騒ぎ立てるな。本当に貴様を犯そうなどとは考えていない。勘違いをするな。女を攫って手を出すほど困っていない。また貴様を屈服させようと犯すほど女の扱いに昏いわけでもない。そういう浅ましい醜悪な趣味もない」
 それでいてその手は極彩の身体に触れた。だが何か確かめているような所作である。そこにはやはり男の言うような意図は感じられない。
「貴様がキズモノになるとこちらとしても困る。女のキズモノは男の前では無価値だ。私と居る間は守られる」
「そんなことを言って、もうキズモノかも知れませんよ。放してくれるんですか」
 彼女は煽るように錫を見る。ふざけたように自身の顔面の傷をなぞり、指を払う。
「醜い」
「そうですか」
「醜さを羞じぬところが最も醜い」
「醜いとは思いませんでした」
 聞き飽きた嘆息で返される。極彩は偽悪的に微笑を浮かべる。
「この街だけでなく、貴様の顔も焼いてやりたい」
 次の瞬間、視界を塞がれた。上から布のようなものを被せられたらしかった。
「その姿で往来に顔を晒したいのなら好きに取り外せばよかろう」
 つまり襦袢姿である。車から降りたのは色街の前だったらしいのが妙に蒸れた空気と眉を顰めるような生臭さを帯びた香気で分かった。腕を引かれ、近くの建物に入った。地下へと連れて行かれるのが分かった。
「ここは、」
「喋るな」
 ぴしゃりと言われ、彼女は口を噤んだ。
「女をひとり売りたい。檻は要らん」
 物騒な会話があちこちから聞こえる。そして極彩のすぐ傍でも然り。覚えのある場所だった。そこはおそらく極彩が夫を買った闇競売の地下室に違いない。その事務所にいるらしかった。強い身の危険を覚えた。逃げようとしたのを気取けどられ、腕を捻り上げられてしまった。
「手枷が要るな。借りよう」
 錫が押さえているうちに極彩は前から手枷を嵌められてしまった。
「本当に売り払ったりはせん。貴様は餌だ。とはいえ、高額札が出れば、私にもどうすることもできないが」
 耳殻に吐息が当たる。頭の中まで舌を伸ばされて舐め回されるような甘い声の囁きだった。
「餌?一体誰の……」
 しかし返答はない。
「山でサルに育てられた娘だ。噛み癖がある。くつわも借りたい。相当の醜女だ。布は取り外すな。どうせ照明で、買い手には見えん」
 手枷、口枷を嵌められ、ろくに視界も利かぬまま、極彩は競売の主催者に引き渡された。逃げ出せるには逃げ出せる。しかし錫の思惑に対する興味が無いわけではなかった。抵抗もせずついていく。しかし義弟の容態が気にならないわけではなかった。十分な調子ではないまま一人にしてしまった。いちご牛乳は届くであろうか。彼女の思考は桃花褐を頼りにしてしまおうとした。だが彼は、善意によって動いただけで無関係だ。
 布の繊維越しだけれど、部屋は暗いらしい。啜り泣きや怨嗟の聞こえる。しかし考え込むのは程良い状況であった。このまま錫の企みを探るか、それとも脱出を試みるか―
―考えているうちに、彼女はうつらうつらと眠っていたらしい。鈍行とはいえ馬車に揺られるだけでも体力を消耗した。それだけでなく彼女は長い時間、縛られていたのだから肉体が疲労を訴えていたのも無理はない。
 極彩の目が開いたのは自身を覆う布が外されたからだった。視界は相変わらず十分に利かない暗さであるが、局所的に明るいのは懐中灯だろう。周りとの落差によって赫々かっかくとしている。眩しさに目を眇めると、浮かび上がっている顔にぎょっとした。さらにその奥には檻には閉じ込められているらしき”競売品”たちの腕が助けを乞い、格子を握り、悲惨な絵を炙り出していた。だが彼女がそこまで気を取られなかったのは別のことに意識を奪われていたからだ。明かりを持った目の前にいる人物である。存在しないはずの者が屈んでいた。鼻の先を覆い、首元に垂れた布、目元と鼻梁に引かれた朱化粧、襟足で結わえられた明るい茶髪は強い螺旋を描いて肩で遊ぶ。目が合ってしまった。隈取りによって目の形をしっかりと判じることはできなかったけれど、極彩の知る者は四六時中、一昼夜、眠そうな眼をしていたはずだ。しかし今そこにいるのはそうではない。冴えた眼差しをしている。複数人が演じていた者だ。そしてその正体が暴かれるのと同時に消えた人物だ。そして極彩にとっては、自分の夫であった。狐である。
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