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深く擦り剥いた箇所と打撲はまだ大きく疼いているが痛みのためではなかった。
「お姉ちゃん」
高所で呼ばれている。姿は見えないが生きている者の声らしい。彼女は嗚咽を呑んだ。この山に縹はいないのだ。
「大丈夫。だからそこにいなさい。動いたらだめ」
「でも……」
「あなたまで落ちたらどうするの。石段まで、先に戻っていて」
「うん」
「足元に気を付けなさい」
極彩は自分を留めた木の奥、下方を見据えた。鬱蒼とした森と急な勾配が続き、その果ては暗く塗り潰されている。
「こっちだよ」
下方から、大切な人の声が遊ばれている。
「ごめんなさい、縹さん」
彼女は腹を打った木を軽く叩く。掌に樹皮の柔らかな質感がある。骨の軋む膝に力を入れた。木を支えに立つ。斜面を登った。無駄な体力を使ってしまった。滑り落ちたところまで戻り、石段で待機しているうぐいすと合流する。
「お姉ちゃん、怪我してるですか」
「もう傷は塞がっているから大丈夫」
弟に会う身形ではなくなってしまったのが残念だ。
「え?どういうことですか」
「そういう体質なの」
男児は不思議そうな貌をしている。
「少し難しい話だから」
彼女は石段を上る。子供の体力は有り余っているようで、跳ぶように追ってきた。
「聞きたいです」
「叔父さん。大切な。わたしの家族。生まれたときからではないけれど、兄みたいな、父みたいな……そういう優しい人が、病気になって。ある日背中から斬られて、その人から血をもらったの。そうしたら、血が出ると、すぐに塞がるようになった。それだけの話」
彼女は足を止めてしまった。うぐいすもすぐに止められず後ろからぶつかる。
「死に目に会えなかったな。焼かれていくところも見届けられなかった。最期に言われた言葉は覚えているけれど、わたしは何て言葉をかけたか、もう覚えてない」
「はなださんて、人ですか」
「そう」
極彩はまた足を動かす。
「ずっと見えてたのは、その人?」
彼女は答えなかった。
「お姉ちゃん」
土で汚れた手を繋がれる。
「ぼく、お姉ちゃんと一緒にいます。ぼくはお姉ちゃんと、ずっと一緒にいますから」
彼女は苦笑した。会ったばかりの童に気を遣わせている。
「あなたも、わたしと居れば、いずれ別れるよ」
年端もいかない彼は首を捻る。
「一緒に居るから、別れるですか」
「どうかな」
「ぼく、お姉ちゃんとはどう別れるのか、気になります」
予想外な口説き方をされて極彩は童子の目を真っ直ぐ見つめてしまった。
「ろくな別れ方をしないと思う。わたしを恨むことになるかも知れない」
それから、いくつも年下の子供には取り合わなかった。
階段の最上段に着く頃には日が傾いていた。腰から下の感覚はほとんどなくなっていた。踵から脚の付け根が棒切れのようになっている。座り込んでしまった。両脚を揃え、下の段差に投げ出す。さながらどこかで目にした妖怪図画集にある人魚だ。これから畏まった場所で弟と会うというのに、すでに身形に気を遣っていられなかった。
目の前に大きな人陰が立つ。通行の邪魔になるのを詫びて退こうとした。
「天の恵みに感謝を」
河教の寺院のはずである。しかし河教の挨拶とは異なる文句が聞こえた。もうひとつ、新たに小さな人陰がその前に割り込んだ。
「お姉ちゃんに何の用ですか」
極彩は顔を上げた。口を動かす余裕もない。
「その人の、知り合いなんすわ」
声を聞くのと同時に見上げた。視界を阻むうぐいすが振り返り、視線がぶつかる。
「橙ちゃん、小麦くん、あの元気な弟クンと四男かい?」
特殊な文言を吐いたのは、極彩の脳裏を過った人物で間違いなかった。それに続く言葉も。
「違うけれど」
「ほぉ」
桃花褐だ。軽々と前方を塞ぐうぐいすを抱き上げて広い肩に乗せてしまう。
「男の子ってよく気付いたこと」
彼女は立ち上がれないまま子供をあやしている大男を仰いだ。男児は女性装を解いていない。
「分かるさ。騙されるかい」
厚い唇が人懐こく笑う。
「ここで何しているの?本当に天のお導き?」
「人聞きが悪ィやな。俺も清く生きようと思ったんでさ。違う宗教さんといっても、清く美しく生きようとする点でそう変わらねェだろ?そういうワケで参拝ってこった」
肩に乗せられた小僧の抵抗など些細なものであるらしかった。無いに等しく極彩を見下ろしている。
「嬢ちゃんは?」
「ここに用があるの」
「それは見りゃ分かる。散歩がてらこんな階段登るかい」
「弟と、これからのこと、話すの」
顔から落ちそうなほど垂れた目が見開かれるが、それがどうにも胡散臭く感じられた。
「たまげたね。弟クンがここにいるってかい」
彼女は勘繰らず首肯する。
「河教の僧になるとかって」
桃花褐の太い眉が片方持ち上がる。
「そりゃまたどうして」
「まだ話せないこと。全部終わったら話させて」
桃花褐は童を肩から降ろす。
「ンじゃあ、子供は俺と遊ぼうや」
うぐいすは途端に極彩のほうに逃げ、まだ這うような体勢の彼女の背に隠れてしまった。
「男の人が怖いみたい」
「ほぉ」
男児は頭を振る。小さく「違うです」と聞こえた。
「この人……」
彼が何か言いかけたとき、大男はまるで威嚇するように頑丈そうな首を鳴らした。極彩もその時の桃花褐の垂れ目が昏く据わったのを見逃さなかった。
「お姉ちゃんと一緒がいいです」
「姉弟の相談の場に居るつもりかい」
少年は躊躇いながらも頷いた。
「遠慮しろや、子供」
「この大きい人とは一緒にいられないです」
「それならここで、三者三様に解散ね。わたしはこれからお寺に行くけれど。気を付けて帰りなさい」
彼女はうぐいすを突き放す。桃花褐の剣呑な雰囲気はほんの一瞬で、すでに普段の軟派な感じに戻り、軽くあしらわれた男児に同情的な様子をみせた。
「弟クンによろしくな」
極彩の知る限り、銀灰はこの男を毛嫌いしている。それを本人も分かっているはずだ。おそらく社交辞令である。
「うん」
大柄な男の横を通り抜けようとすると、またもや背中に体当たりを食らう。
「あの人といます。あの人と……怖いけど、一緒にいますですから、お姉ちゃんと一緒がいいです」
彼女は大男を振り返る。彼は逞しい腕を広げた。
「ごめんなさない。この子を……」
「いいぜ。任せろぃや。託児所も経営してるんでね」
「ありがとう。―あの人はあなたの思うような類の人間じゃない。安心して」
快い態度で面倒を引き受ける桃花褐にうぐすを渡す。
「お嬢ちゃん」
「桃花褐さん……色々と話がついたら話すから。面白い中身ではないと思うけれど」
「おう、待ってるぜ。お嬢ちゃんの望む形で話がまとまるよう、俺も祈ってっからよ」
「ありがとう」
極彩はそれから彼等に背を向け、寺院の聳える方角に往った。また少し短い林道を歩く。白い壁が見え、近付いていくと、そこには僧兵が2人組で門扉の左右に座していた。瞑目して控えている。声を掛けたが反応はない。しかし聞こえているはずだった。一方的に用件を喋る。すると、しゃん、と軽量な金属の音がした。一喝されたような情感を与える。まるでそれが合図だったといわんばかりに徐々に門が開いた。
これは強制ではございませぬが、まず先立つものをいただかねば、この寺はやっていけませぬ。世を捨てど、僧も人。飯を食い、屋根に穴が空いては眠れませぬ。血の情とは世の情でございます。切り傷程度の痛み、爪垢ほどの穢れを捨て、どうか我々にお恵みくだされ。
「お姉ちゃん」
高所で呼ばれている。姿は見えないが生きている者の声らしい。彼女は嗚咽を呑んだ。この山に縹はいないのだ。
「大丈夫。だからそこにいなさい。動いたらだめ」
「でも……」
「あなたまで落ちたらどうするの。石段まで、先に戻っていて」
「うん」
「足元に気を付けなさい」
極彩は自分を留めた木の奥、下方を見据えた。鬱蒼とした森と急な勾配が続き、その果ては暗く塗り潰されている。
「こっちだよ」
下方から、大切な人の声が遊ばれている。
「ごめんなさい、縹さん」
彼女は腹を打った木を軽く叩く。掌に樹皮の柔らかな質感がある。骨の軋む膝に力を入れた。木を支えに立つ。斜面を登った。無駄な体力を使ってしまった。滑り落ちたところまで戻り、石段で待機しているうぐいすと合流する。
「お姉ちゃん、怪我してるですか」
「もう傷は塞がっているから大丈夫」
弟に会う身形ではなくなってしまったのが残念だ。
「え?どういうことですか」
「そういう体質なの」
男児は不思議そうな貌をしている。
「少し難しい話だから」
彼女は石段を上る。子供の体力は有り余っているようで、跳ぶように追ってきた。
「聞きたいです」
「叔父さん。大切な。わたしの家族。生まれたときからではないけれど、兄みたいな、父みたいな……そういう優しい人が、病気になって。ある日背中から斬られて、その人から血をもらったの。そうしたら、血が出ると、すぐに塞がるようになった。それだけの話」
彼女は足を止めてしまった。うぐいすもすぐに止められず後ろからぶつかる。
「死に目に会えなかったな。焼かれていくところも見届けられなかった。最期に言われた言葉は覚えているけれど、わたしは何て言葉をかけたか、もう覚えてない」
「はなださんて、人ですか」
「そう」
極彩はまた足を動かす。
「ずっと見えてたのは、その人?」
彼女は答えなかった。
「お姉ちゃん」
土で汚れた手を繋がれる。
「ぼく、お姉ちゃんと一緒にいます。ぼくはお姉ちゃんと、ずっと一緒にいますから」
彼女は苦笑した。会ったばかりの童に気を遣わせている。
「あなたも、わたしと居れば、いずれ別れるよ」
年端もいかない彼は首を捻る。
「一緒に居るから、別れるですか」
「どうかな」
「ぼく、お姉ちゃんとはどう別れるのか、気になります」
予想外な口説き方をされて極彩は童子の目を真っ直ぐ見つめてしまった。
「ろくな別れ方をしないと思う。わたしを恨むことになるかも知れない」
それから、いくつも年下の子供には取り合わなかった。
階段の最上段に着く頃には日が傾いていた。腰から下の感覚はほとんどなくなっていた。踵から脚の付け根が棒切れのようになっている。座り込んでしまった。両脚を揃え、下の段差に投げ出す。さながらどこかで目にした妖怪図画集にある人魚だ。これから畏まった場所で弟と会うというのに、すでに身形に気を遣っていられなかった。
目の前に大きな人陰が立つ。通行の邪魔になるのを詫びて退こうとした。
「天の恵みに感謝を」
河教の寺院のはずである。しかし河教の挨拶とは異なる文句が聞こえた。もうひとつ、新たに小さな人陰がその前に割り込んだ。
「お姉ちゃんに何の用ですか」
極彩は顔を上げた。口を動かす余裕もない。
「その人の、知り合いなんすわ」
声を聞くのと同時に見上げた。視界を阻むうぐいすが振り返り、視線がぶつかる。
「橙ちゃん、小麦くん、あの元気な弟クンと四男かい?」
特殊な文言を吐いたのは、極彩の脳裏を過った人物で間違いなかった。それに続く言葉も。
「違うけれど」
「ほぉ」
桃花褐だ。軽々と前方を塞ぐうぐいすを抱き上げて広い肩に乗せてしまう。
「男の子ってよく気付いたこと」
彼女は立ち上がれないまま子供をあやしている大男を仰いだ。男児は女性装を解いていない。
「分かるさ。騙されるかい」
厚い唇が人懐こく笑う。
「ここで何しているの?本当に天のお導き?」
「人聞きが悪ィやな。俺も清く生きようと思ったんでさ。違う宗教さんといっても、清く美しく生きようとする点でそう変わらねェだろ?そういうワケで参拝ってこった」
肩に乗せられた小僧の抵抗など些細なものであるらしかった。無いに等しく極彩を見下ろしている。
「嬢ちゃんは?」
「ここに用があるの」
「それは見りゃ分かる。散歩がてらこんな階段登るかい」
「弟と、これからのこと、話すの」
顔から落ちそうなほど垂れた目が見開かれるが、それがどうにも胡散臭く感じられた。
「たまげたね。弟クンがここにいるってかい」
彼女は勘繰らず首肯する。
「河教の僧になるとかって」
桃花褐の太い眉が片方持ち上がる。
「そりゃまたどうして」
「まだ話せないこと。全部終わったら話させて」
桃花褐は童を肩から降ろす。
「ンじゃあ、子供は俺と遊ぼうや」
うぐいすは途端に極彩のほうに逃げ、まだ這うような体勢の彼女の背に隠れてしまった。
「男の人が怖いみたい」
「ほぉ」
男児は頭を振る。小さく「違うです」と聞こえた。
「この人……」
彼が何か言いかけたとき、大男はまるで威嚇するように頑丈そうな首を鳴らした。極彩もその時の桃花褐の垂れ目が昏く据わったのを見逃さなかった。
「お姉ちゃんと一緒がいいです」
「姉弟の相談の場に居るつもりかい」
少年は躊躇いながらも頷いた。
「遠慮しろや、子供」
「この大きい人とは一緒にいられないです」
「それならここで、三者三様に解散ね。わたしはこれからお寺に行くけれど。気を付けて帰りなさい」
彼女はうぐいすを突き放す。桃花褐の剣呑な雰囲気はほんの一瞬で、すでに普段の軟派な感じに戻り、軽くあしらわれた男児に同情的な様子をみせた。
「弟クンによろしくな」
極彩の知る限り、銀灰はこの男を毛嫌いしている。それを本人も分かっているはずだ。おそらく社交辞令である。
「うん」
大柄な男の横を通り抜けようとすると、またもや背中に体当たりを食らう。
「あの人といます。あの人と……怖いけど、一緒にいますですから、お姉ちゃんと一緒がいいです」
彼女は大男を振り返る。彼は逞しい腕を広げた。
「ごめんなさない。この子を……」
「いいぜ。任せろぃや。託児所も経営してるんでね」
「ありがとう。―あの人はあなたの思うような類の人間じゃない。安心して」
快い態度で面倒を引き受ける桃花褐にうぐすを渡す。
「お嬢ちゃん」
「桃花褐さん……色々と話がついたら話すから。面白い中身ではないと思うけれど」
「おう、待ってるぜ。お嬢ちゃんの望む形で話がまとまるよう、俺も祈ってっからよ」
「ありがとう」
極彩はそれから彼等に背を向け、寺院の聳える方角に往った。また少し短い林道を歩く。白い壁が見え、近付いていくと、そこには僧兵が2人組で門扉の左右に座していた。瞑目して控えている。声を掛けたが反応はない。しかし聞こえているはずだった。一方的に用件を喋る。すると、しゃん、と軽量な金属の音がした。一喝されたような情感を与える。まるでそれが合図だったといわんばかりに徐々に門が開いた。
これは強制ではございませぬが、まず先立つものをいただかねば、この寺はやっていけませぬ。世を捨てど、僧も人。飯を食い、屋根に穴が空いては眠れませぬ。血の情とは世の情でございます。切り傷程度の痛み、爪垢ほどの穢れを捨て、どうか我々にお恵みくだされ。
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