彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 彼は笑みの中に醜さを残して笑った。
「立場上、そうなんです、とははっきり申し上げられませんが」
「それこそ、何と申し上げてよいか…」
「いいえ、言葉に困るようなことを話したのはこちらです。誰かに…話したかったのかも知れません。妻の不貞を、私は認めたくなかったのと同時に、死してなお、辱めているようで…」
 不機嫌さのある素顔が真っ直ぐ極彩を向いた。
「二重に苛まれていたのですね」 
「苛まれていたとか、そういったものではありません。ただ…姫様のお話を聞いて、誰かに打ち明けてみたくなったのです。ですが…誰でも良いというわけではなくて」
「そうでしたか」
 極彩は彼が委縮しないよう、いくらかぎこちない微笑を繕った。牛車はやがて屋敷へ着いた。仇といえる場所に属し続ける淡藤が以前と少し違ってみえた。
「明日は早い迎えになります」
「苦労かけます」
「いいえ。そういうわけですから、早くお休みください」
 玄関まで送られ、彼とはそこで別れた。紅は予定にない帰宅に驚く様子もなく、関心も示さなかった。部屋の隅で静かに座っている。見張り番の者たちから経過を伝えられ、彼等も帰っていった。
「今、ご飯の支度をするから」
 紅は大きく冷えた緋色の瞳で極彩を一瞥した。嘲るような侮蔑のようなものを彼女はそこに見出してしまう。
「明日は、温め直したら食べられるものを作っておくから。美味しくはないかも知れないけれど……ごめんなさい」
 家事を済ませ極彩は縁側で庭の木を眺めた。感情が上下する。考えても仕方のないと分かっていることがこびりついている。思い切りそのことについて思案し、物思いに耽り、飽くまで自ら粘着してみるのも、今度は痛みのない苦しみがそれを許してはくれなかった。根も葉もない噂では太刀打ちできない。反省も意味を成さなかった。
 隣に気配が落ち着いた。紅が音もなく座っている。極彩はそれをいくらか困惑気味に窺った。しかし彼はぼんやりと庭を見ていた。狭い股座に猫が飛び乗る。長いこと言葉も交わさず、同じ方向を向いて並ぶ。少しずつ日が伸びてきていた。

 朝早く城に向かったが予約していた衣装はすでに貸し出されてしまったのだと晴着屋は陳謝した。まるで誰かの首が文字通り飛びそうな勢いで、極彩のほうでも怒りや焦りというものはなかった。しかしわずかばかり、あずきに対してのすまなさがあった。相応しい衣装がないのであれば仕方がなかった。参加を断るだけの理由になる。桜花を愛でる会の会場に運ぶ駕籠かごが無数に並べられている外には出なかった。中庭を少し歩いて、婦人たちで城内が混み始めると庭園に移った。空はまだ灰色を残し、四阿あずまやに座る。濃い影の下で流水装置の音を聴く。城の木々は極彩の住まう屋敷の庭木と比べて実りが良くなかったがこの庭園の草木も寂れていた。もう少しすれば皆、会場に向かうだろう。頃合いをみて帰ってしまう算段でいた。欠伸をひとつして小さな鳥の声を聞く。日常ならやっと布団から出る時間だった。通路を築く低木の奥から物音がした。極彩は機敏に反応した。天晴組とは明らかに身形も雰囲気も違う若者が現れた。亡き第一公子によく似た彼は山吹だった。片手に薄汚れた被せ物をしている。猫とも犬ともいえない、鳥類のようにも思える不気味な形をし、口に相当する部分を開閉させて遊んでいる。
「山吹様」
「ごくさい……さくら?ごくさい、さくら…」
「行かないことにしました。貸衣装の都合がつかなくなったものですから」
 山吹は極彩の隣に座る。
「お身体のほうは、もう大丈夫なんですか」
 彼は長いこと意識が無かったと聞いていたが今見る限り、そういった様子は感じられなかった。山吹も大きく頷いた。
「抜け出してきたわけではありませんよね」
 山吹は兄たちによく似た円みのある目を逸らした。
「戻りましょう。騒ぎになったら大変ですから」
 極彩は入れ違うように腰掛から降り、彼の腕人形を嵌めていないほうの腕に手を差し出す。しかし応じなかった。
「世話係が処罰されてしまいます」
 口にしてみて卑怯な言葉だと彼女は思いながらも、実際の城の処遇を考えれば強ち見当違いでもない。山吹は脅迫染みた注意に従った。
「ごくさい」
 山吹は温順おとなしく手を引かれていた。庭園を出るときになって急に立ち止まる。
「ごくさい。ぐんじょ……おしどり」
 弟の向けるような眼差しで山吹は極彩の肩を抱いた。彼は群青によって懐いていた。どうやら長いこと顔を合わせていないらしかった。極彩からも抱擁を返す。
「すぐに会いに来てくれます、きっと。もう少し、生活に慣れれば…」
 妻帯し忙しくなった仕事人が恋しいのだろう。当たり障りのない言葉をかける。
「ごくさい…ごくさい、あめ?」
「わたしはおめでたいと思っていますよ。無理な生活ばかりしているようでしたから。戻りましょう」
 山吹の表情の中に気遣わしげなものが窺えた。極彩は苦笑する。認めざるを得なかった根も葉もない噂を山吹も知っているかも知れなかった。
 城内はまだ婦人が行き交っていた。半ば忍び込むように隠れながら廊下を歩いたが、山吹もそれをすぐに理解した様子で率先して身を隠した。すぐ上の兄の部屋とはまったく反対な雰囲気を持つ柔らかな色調の部屋は相変わらずだった。薄布ばかり積んである寝台に部屋の主は座った。砂糖菓子や牛乳菓子を思わせる香りを嗅ぐと城に来たばかりの頃が克明に思い出された。縹がいて、紫暗がいて、紅は城下のどこかで長閑に暮らしていると思い込んでいられた頃。
「ごくさい…ねんね?」
「いいえ。帰ろうと思っていたのですが、もう少しだけここに居させてください」
 屋敷に残してきた紅も見張番がいるとはいえ1人になりたいこともあるのだろう。彼女はそう考えた。やることのない極彩に山吹は竹笛を教えた。息の吹き方を掴めたところで扉が開いた。普段の不潔な感じのある風采とはうって変わり、髭を剃り、髪を整え、皺やほつれや毛玉のない格式高げな衣装に身を包んでいる。菖蒲だった。涼しげな目元が意外そうだった。そして引き締められていた顔には特徴的には媚笑が添えられた。
「あっれ、極彩さん?何故こちらに?」
「貸衣裳の都合がつかなくなってしまって。他に相応ふさう物は持っていませんから。急遽不参加ということになりました」
「はぁ…なるほど。そういうこともあるんですねぇ。困りものじゃないですか、他のご婦人のところでも頻発していたら」
 菖蒲はよく剃られた顎を撫でた。そして極彩から山吹へ目をやった。彼女もつられて山吹を向いた。
「山吹サマ、検温はもうお済で?」
 山吹は頷いて歪な字で受け取った紙片に体温を書き込む。
「平熱ですね」
 これから桜花を愛でる会に移動するらしき中年男は書かれたものを確認して懐にしまった。
「極彩さんにつきましては、ま、自由参加の部もありますから、気が向いたら顔を出してください。山吹サマにつきましてはこのまま留守を任せます。今日は城の警備も最低限ですからね」
 彼は名簿に必要事項を記してから日付を訊ねた。間髪入れずに山吹が答える。
「あ、別に何か悪さしろって言ってるんじゃないですからね」
 名簿が戻され、菖蒲は慌てたように付け加える。
「懇親会でなければ平服で参加できますよ」
 そう言って彼は部屋を出ていった。山吹は極彩を覗き込む。
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