彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「わたしの知るところではありませんね。となれば口も出せません」
 長い睫毛ごと頭が伏せられた。彼女は気拙げに視線を逸らす。
「軽蔑してください」
「する、しないでできるものではありません」
「貴方に軽蔑もされないだなんて、そんなのは…」
「そんなもの、されないほうがいいはずです」
 群青は再び自信のなさそうな卑屈な表情を浮かべた。
「俺は貴方に軽蔑されるのが悦びです」
 珍妙な発言に極彩はあからさまに不快を示た。彼は重大な告白をしたかのように硬直した。
「わたしみたいなつまらない女に尊敬でもされたら侮辱に等しい?」
 極彩は顔を顰めたまま苦々しい笑みを浮かべる。群青は非常に慌てた様子で何か言おうとしたが彼女の自嘲的な姿を見つめるだけで、形は良いが乾燥している唇を半開きにしたまま静止していた。
「確かにわたしはつまらない賤しい女ですけれども、わたしの中で何がわたしの誇りなのか分かりました。関わった人、大切な思い出ばかりはわたしごと賤しいと撥ね退けられないものですから。そこだけは驕らせてください」
 群青は眼球のひとつも動かせなくなったようにぼんやりと極彩へ意識を奪われていた。
「お慕いしております」
 彼は囁くように言った。極彩の耳はそれを拾ってしまう。彼女は罵倒されたのかと思うほどに気を病んだようだった。
「極彩様…お慕いしております」
 くしゃみや咳、吃逆といった反射のように湧き起こった激情を放たずにはいられないような、先日の嘔吐よりも苦しげな調子で彼は口にした。
「お慕いしております。お慕いしております!苦しいです…」
 気が狂ったように捲し立て、極彩はそれを聞くたびに眉に寄る皺を濃くした。溜めこんだものが発散し終えたらしき彼は肩で息をしていた。極彩は大きく嘆息する。
「群青殿は、わたしにどうしてほしいんです」
 潤んだ目が見開き、白く光った。
「考えたことも…ありません」
 彼はいくらか落ち着きを取り戻すと俯いてしまった。
「群青殿はご自分で言ったとおり既婚の身ですから、たとえわたしが応えたいと思ったところで、それは許されないことです。お帰りください。貴方と一緒に居ることほど不毛なことはありません」
 帰りを急かすあまり彼女は先に玄関のほうへ出ていった。家主にそうされては群青も腰を上ざるを得ず、彼も廊下へと出た。
「お着物ありがとう。大切に着させていただきます」
 目の前に立つ青年に極彩は気遣わしげに礼を言った。直後、体温を帯びた微風に包まれる。視界が暗くなり、嗅ぎ慣れた匂いが呼吸に混じった。柔らかな抱擁だった。
「群青殿」
「どうしたいのか、これからのことはもう語れませんが、できることなら恋人に…貴方の本物の夫になりたかったです」
「胸の内に秘めておきます」
 腕の中に閉じ込める力が強まった。極彩は群青を見上げる。蒼白くも美しい顔が陰りながら近付いた。しかし玄関を叩く音に止まる。「ごめんください」という声は淡藤のものだった。
「どうぞ」
 放すだろうと高を括っていた。玄関扉を開けようと群青の腕から抜け出そうとした。しかし群青はすぐに放さなかった。新たな訪問者は開かれない玄関戸を様子を窺うように控えめに自分で開けた。極彩は抱擁をやめない相手を突き撥ねた。現れた天晴組の長に取り繕って対応する。淡藤は不機嫌な素顔を本当にいくらか険しくしてありきたりな来訪の挨拶を述べた。群青はその後にすまなそうにして脇を擦り抜け帰っていった。淡藤は揶揄するでもなく真剣な口調で邪魔したことを詫びる。
「何か誤解があるようですね」
「果たして誤解でしょうか」
 居間に通し、座布団も茶も替える。淡藤は冗談なのか本気なのかも分からない泰然とした雰囲気で答えた。
「先日のことで話があっただけです」
 片付けられていく桐の衣装箱を淡藤は目で追った。
「本当ですよ」
「何も言っておりません」
 2人して黙っていることは珍しいことではなかったが、この場に於いて喋らない相手へ極彩は念を押した。彼は不機嫌げな無表情を和らげる。極彩は唇を尖らせた。
「誤解なんです、本当に」
「先程の言葉は冗談です」
「本当なんですよ、先日のことで話があっただけなんです。これはその件で…」
「分かっています。妙なことを言ってごめんなさい」
 少し不細工に笑う訪問者に極彩は反発心と同時に安堵を覚えた。それから天晴組として訪れた本題へ入る。城から依頼されている潜入の件だった。
「姫様には梔子くちなしという19の女性になっていただきます。不言通りの地和ちーほう街西区画で居酒屋の仕入れをやっている素行不良な娘という設定です。ついでにそれらしい衣装もきちんと用意してありますので。偽装書類のほうもすでに整っております」
「随分と生々しい設定をするのですね」
「…あまり、治安のいいところではありません。女性となれば蔑まれるようなところです。そう…つまり、絡まれるんです。任務遂行の妨げにならない範囲で事件にまでは至らないよう尽力致しますが、不快極まりない思いはすることになるでしょう」
 淡藤は拙げに声音を淀ませたが、説明責任があるとばかりにすべて言ってしまった。
「ある程度想定内ではありました。では、今教えられたとおりにお答えします」
 彼はすまなげに頭を下げ、「お願いします」と添える。そして懐から封を出した。中には例の偽装書類が入っていた。あたかも実在するような店の名と、これから外で名乗る梔子の字が刻まれている。
「わたしにはたくさんの名がありますね」
「それだけ生きてゆける可能性があるということです」
「梔子という名は何方どなたが考えたんです?」
「私です。あの緑の葉の中で白く映える花が好きなんです。あの花弁はなびらの捻くれ具合が似ていらっしゃいますよ、姫様に」
 極彩は嬉々とした色を持った不機嫌な面を半目で見つめた。
「褒められているのか、そうでないのか絶妙なところですね」
「ですが、私は好きですよ、梔子。姫様も気に入ってくださるといいのですが、お嫌なら考え直します。そちらも作り直して……偽りであろうと、姫様が騙る名ですから」
「構いません。本名が変わるわけでもなし」
 言ってから極彩は妙な心地がした。
「では、梔子でいきましょう。良かった。これでも三日三晩考えたんです」
 相手は端整な顔を笑みで醜く歪めた。そして潜入の日と場所を知らせた。そこは新しい形態の「撥珠ぱちだま」と呼ばれている小さな鉄球を使った賭博をする店らしかった。
「それから…その、様々な人と関わるかも知れないので、梔子でいる間は笑顔と元気と軽率さをお忘れなく」
「想像以上の重労働のようですね」
「…以前はよく笑う方だったと聞き及んでいます」
「何方から」
 淡藤はまた不細工に笑んだ。極彩はばつが悪げに短く、そして清々しさも持って彼を一睨みした。
「紫暗嬢です。仲良いんです、これでも。城の古代土人形の品評会で付き合いがあって」
「そういうものがあるのですね。そうですか、紫暗が……早く良くなるといいのですが。また一緒に暮らしたいものです。ああ、忘れてください。昔のことも」
「今の世で無理に笑えというのは酷です。ですが…梔子は姫様であって姫様ではありません。そして、城に仕えている以上、姫様たちだけでなく風月国に暮らす民たちが笑って暮らせる世を築きます。ゆくゆくは」
 彼は笑みを消した。剣呑な感じがそこにあった。
「ではわたしも努めます。淡藤殿にはお世話になっていますから」
 淡藤は窺うような、隙を狙うような眼差しで極彩を見ていた。それでいて本人は穏和な態度を崩していないつもりらしかった。
「姫様と打ち解けることができて嬉しいです」
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