彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 夜に菖蒲がやって来た。銀灰の話をしにきたらしかった。紅は激しい警戒を示し、彼が極彩に近付くたび2人の間に割り込んだり彼女の袖を引っ張ったりした。極彩は当惑する。そうされている当人の菖蒲は媚びたように笑うだけだったが、その涼やかな目は眠そうでありながら満足しているような妖しい光沢を帯びていた。
「報告が遅れて申し訳ない。さっき帰ってきたところでしてね」
 菖蒲は煙草を吸い、珈琲牛乳を飲むとさらに事細かく銀灰の様子や話したこと、出掛けた先のことを報告した。その最中も強い視線を浴び続けるため何か用があるのかと、話相手に悪いとは思いながらも紅のほうを振り向いてしまう。
「ごめんなさい、すぐ戻ります」
 部屋の隅に居る強い視線を送る小柄な男の前に屈み、用を問う。彼はすばやく立ち上がると極彩の前に割り込んだ。片方だけ残された腕が彼女の前に出され、へらへらと情けない笑みを崩さない中年男から守るような体勢をとる。
「どうしたの、紅…?ごめんなさい、菖蒲殿」
「困ったな、ボクもそんな警戒されるほど後ろめたい事情は抱えていないつもりなんですけれども。それとも、ヤキモチですかね」
 無精髭のある顎を撫でながら菖蒲は言った。外観は少年ほどの男は極彩の前から移動したが、彼女の座る真後ろの壁に腰を下ろす。
「ごめんなさい、本当に。紅が失礼な態度を取ってしまって…」
「いいえ、気にしないでください。紅さんもビックリしちゃいましたよね。いきなりこんなおじさんが極彩さんと仲良くしていたら」
 極彩は紅を振り返った。彼は相変わらず無表情で、しかしその眼差しからは警戒しか読み取れなかった。
「緊張しているのなら隣の部屋に居る?」
 赤茶の短くなった髪を指で一房ひとふさ一房整える。彼は小さな頭を横に振る。
「少しだけ我慢していてね」
 再び菖蒲と対すると、いくから呆けた表情をしていた。しかし目が合うと普段の頼りない面構えに戻った。
「すみません。いつもはこんなこと無いのですけれど。ところで話が変わるのですが、刀の手入れというものをしてみたいのです。ご教示願えますか」
「刀の手入れですか、お安いご用ですよ。道具を持って来ます。座敷牢のところにあるみたいなので」
 菖蒲は快諾し、居間を出ていった。極彩は後ろへ身体を回した。俯きがちな顔を覗く。少しすると小さな頭が持ち上がった。幼い顔立ちをさらに際立たせる大きな目に射される。彼は彼女の膝にある手を慎重に取ると掌を翻した。人差し指がその上を這う。アノモノハ。居間に足音が近付いた。まだ主語しか明らかにされていないというのに小さな手は動きを止めた。
「ありましたよ、ありました。群青さんがこの前使ったみたいで、すぐ見つかりましたよ。埃もそんなにかぶってません」
 桐箱を2つ重ねて持っている菖蒲は嬉しそうに居間へ戻ってきた。紅は首から力を失ったようにまた深く俯く。極彩は数秒ほど紅に気を取られていたが、縁側の傍に桐箱を広げる菖蒲の隣へ寄った。すでに縛めを解いた時雨塗りの短刀を渡す。
「まず、礼をするんですよ。見ての通りただの金属なんですがね。刃物、特に刀剣となると、ある種の信仰が生まれがちなので。まぁ、ちょっと知り合いより偉い人に会ったくらいの調子で」
 胡坐から正座に直り彼は上体をゆっくり倒した。極彩もそれに倣う。
「手入れは割かし簡単です。ただちょっと慣れというか、程度の感覚を掴むのに数をこなす必要があるだけで。端的にいうと、すでに塗ってある油を落として新しい油を塗るんですけれども」
 時雨塗りの鞘から刀身が抜かれる。彼は小さな棒状のものを摘まんで極彩の目の前に持ってきた。菖蒲は刀身を持ち、拭紙を手に取る。
「これで拭きます。下拭きといって古い油を取りますよ」
 桐箱の中にある溶剤用揮発油を2種示される。それから握り拳大くらいある白く丸い物が付いた棒を手にした。
「打粉です。中には砥石の粉が入っています。中身は小麦粉とかじゃないのでやりすぎないように、擦り付けるとちょっときずが付きますので。これを使わない方法もあるのですけれども、少し難しいんですよ。一応説明しておくと、これかこれをちょっといい拭紙に一気に取り除くんですけれどね。ちなみにボクはあまり使いません。拭紙でも十分なので。とりあえずこれで古い油は取れます」
 菖蒲は火が点いたように喋り続けた。相槌を打つ暇もない。
「ここまで何か質問は?」
「これは何かを塗る作業ではないのですか」
「中身は砥石の粉ですから、その粉に油を染みこませてそれごと拭い去るというのが目的です。油はこれから塗ります」
 彼は2枚目の拭紙で打粉をかけた刀身を拭いた。
「これで今、丸裸です。こちらが先程お話した新しい油です。城では植物油と教わりますが、ボクは機械油を推します。いやぁ、新人の教育担当だったもので。機械油を使え、なんて言ったら即日外されましたよ」
 菖蒲は熱くなりながらまだ拭紙を取った。
「ボクは珈琲豆の布紙使ってましたけど、お城は形式にこだわるのでこちらで」
 説明しながら彼は手際良く手入れを終え、刀身にはばきを付け柄に入れると目釘を挿した。
「こんなものですね。どうですか、やれそうですか」
「え、ええ。はい。ありがとうございます」
「いいえ。ボクも初心に戻れましたよ。天晴あっぱれ組の若い子たちに任せきりでしたからね」
 彼は桐箱に道具を片付けていく。座敷牢のある部屋の棚にしまっておくと言ってまた居間を出ていった。そしてすぐに戻ってくると帰る旨を告げた。極彩は紅を一瞥してから玄関に向かう菖蒲を追う。紅もまた居間から出てきた。
「あの、」
「どうしました?」
 極彩は背後の紅をまた気にした。
「あ…えっと、」
 菖蒲はすでに三和土に立ち媚びたような、機嫌を取るような笑みで言葉を待っていた。
「今夜、泊まっていってくださいませんか。どうしても明日、同席していただきたい用事がありまして…勿論、お忙しいのは理解しています。もし、都合が合えばという話で…」
 返事を聞く前に極彩は紅を振り返った。小さな身体は居間へ戻っていく。
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