彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「この前お話ししたこと、覚えていますか」
 見抜かれているようで肩が震えた。しかしそれは柘榴の告げ口であり、あの場に桜はいない。いつの話をしているのかと記憶を手繰り寄せる。最後に会ったのは店を辞めさせられた日の桃花褐と居た時だ。色街にあるとある遊郭を勧めた覚えがあった。
「例のお店には行ったの?」
 この生真面目な若者が嫌がる話題を振ってやると彼は頬を赤らめわずかに眉を寄せた。
「行ってません!」
「行ったら良かったでしょう。一緒にいた友達は慣れていそうだったんだし」
 平静を装う。柘榴の言っていることが間違いであればよかった。今からでも現実にしなければいい。
「恥ずかしい?お店の人も何十人、何百人と相手しているのだからすぐ忘れてしまうと思うけれど。夢を壊してしまった?けれどきちんと払うもの払って、最低限の良識を守っていれば笑顔はくれるはず」
「不潔です…!そういうのは、好きな人とするから…」
 極彩は鼻で嗤ってやった。刀はいつの間にか声を小さくしてまるで彼女の機嫌を窺ってでもいるようだった。
「そんなことを今時思っているのはおめでたい頭の貴方だけ。色街はそんな理想論では成り立たない。わたしたちは霞を食べて生きているわけじゃないででしょう…?人間だって動物に過ぎないんだから。それともご自慢の思想と信仰でそれを覆すつもり?」
「否定はしません。でも…そこには分別ふんべつがあるはずです」
「一度行ってみたら?そのお堅い考え方が変わるんじゃない?」
「変わらなくていいです…」
 沈んでいく表情に手応えがあった。
「変えたほうがいいと思うけれど。その少数派な考えは生きづらいでしょう?世間の認識と板挟みにならない?精々変な女に騙されないことね」
 桜の握った拳が戦慄している。この者はすでに変な女に騙されて家族を失った。極彩は自嘲する。傷付けてでも今ここで求婚などさせてはならない。破廉恥な女に求婚し断られるなどそれこそ一世一代の恥に違いない。
「騙されません!」
「どうだか」
「どうして…そんな意地悪ばかり言うんですか。一体御主人の身に何があったんですか。やっぱり僕が…」
 極彩は唇の端を吊り上げ、大袈裟に手を振った。
「勘違いしないで。どうして貴方なんかの言葉にわたしが左右されるだなんて思うの」
「誰から吐かれようと、使い方次第では刃物ですから」
 怯えるような態度で彼は答えた。
「見本どおりの答え。教本にでも書いてあったのかしら。貴方、わたしと自分の言葉で向かい合う気ある?」
 大きな目が力強く極彩を捉えた。睨んでいるように思えた。これ以上言うことはない。警戒していた点を除いて桜の鼻柱をし折るつもりはなかった。
「あります」
 眼力と引けをとらないほど強く、決意に満ちた語調で桜は行った。
「明日、伺います」
 桜は一礼して彼女の脇を抜けていった。関係が変わろうとも、変わらないでいる優しい洗剤の匂いが線香の煙に紛れていた。境内に敷き詰められていた大きな玉砂利を極彩は所在無く見下ろしていた。逆効果だったらしかった。そうなると、ただの意地の悪い女になっただけだった。必要はない、考えたくもない断りの挨拶を用意しなければならない。形式張った、手本通りの言葉を。極彩は歩き出した。本尊安置金堂へ向かう。時雨塗りの寸延短刀はいっそう激しく鳴き、これは耳を塞いでも頭の中で鳴り響くため処置のしようがなかった。
「うるさい!」
 境内に怒声が木霊する。んつんつ、と赤子の夜泣きに似た騒ぎが止まる。怒りの混じった叫びを聞いた僧のほうから極彩の前へ現れ、穏やかな態度を崩さず事情を訊ねた。極彩は除霊をしたいのだと言って奇妙な縛り方で吊るした短刀を差し出した。僧は不思議そうな表情をして話を聞いた。霊的な、神秘的なものは感じられないと僧は言った。しかし極彩は納得できず除霊の儀を依頼した。その間も短刀は長鳴きの癖がついている甘えたの犬猫のような不可解な言動を繰り返していた。刀の一切を僧に任せ、極彩は境内の端にある四阿の腰掛けに座った。よく晴れ、日差しは強いくらいだった。刀の声から解放され一息ついて、本尊安置金堂から聞こえる喝に安堵する。これで紅も落ち着けるはずだ。座敷牢に放置してからは万事解決したかと思うほど極彩には何も聞こえなかったため、彼の方がよく聞こえるらしかった。桜とのことを考えながら目を瞑る。断るなど簡単だ。たった一言で済むのだから。そして何より、まだ決まったわけではない。明日来訪するからといって柘榴の言うとおりに求婚の用とは限らない。そのうちに木蘭寺は静けさを取戻し、金堂から僧が降りてきた。極彩は駆け寄った。僧は表情こそおっとりしていたが、その目は観察するようで、首を傾げ様々な角度から彼女を覗き込んだ。真に厄祓いが必要なのは貴方のほうかも知れません。僧は小さく断りを入れてから極彩の額に指を突いた。爪と肉の感触があった。後頭部を押さえられ、大きく回すように揺らされる。僧の手が離れ、短刀が手元に戻ってきた。気遣うような素振りで僧は、これは応急的な処置でしかないというようなことを言った。紙幣3枚の布施を渡すと憎らしい短刀をぶら下げて寺を後にする。すでに彼には舌がないが紅に美味い物を食べさせたくなって不言通りへと入った。頭の中に、視界に入っている光景とは別のものが浮かんだ。それは飲み屋の通りで女豹倶楽部の店長と行って薬を盛られかけた風情のある酒場だった。極彩の足は飲食店街へ進んでいるというのに、脳裏の順路はまったく違う道を歩んでいる。それは九蓮宝塔街が爆破された時のような不安を煽り、不快な印象を強く与えた。良からぬことが起こるかも知れないという思い込みから離れられなくなる。しかし確信にはほど遠く、嫌な予感と括るにも気の所為と片付けられてしまうほど漠然として証拠もなかった。仮にその酒場かその付近ので何か良からぬ出来事があったとしてもやれることなどない。鶏の空揚げやたこ焼き、馬鈴薯の揚げ物などの店が並ぶ食べ歩きに特化した通りに辿り着いたが、意識すればするほど足は酒場のある飲み屋通りに寄っていた。しかし門を潜ろうとした時、襟首が後方へ引っ張られた。
 物騒な品じゃねぇか。
 振り返る。髭面の男が冷たい目で見下ろしていた。黒髪は日の光に透け茶色を帯びていた。常に何かしらに怒っているような眉間の皺とその下の切れの長い目を視線がぶつかると相手から逸らされ、それは亀の甲を連ならせた縛めの短刀へ移った。
 誰か討つのか、酔いに託けて?
 紐を摘まみ短刀をぶら下げている極彩の手を捻り上げるように掴むと男は低い声で威嚇するように「失せろ」と言った。逆らってまで成す用は飲み屋街にない。
「分かりました」
 了承すると呆気なく放される。反発せず忠告を聞いたというのに髭面の中年らしき男は不審げに極彩を観察した。彼女に触れた手をまるで汚物に触れでもしたかのように宙に持ち上げたまま、「女子助なごすけ触っちまった」と呟く。酒場で会ったことのある男だった。極彩は数歩後退り、それから背を向け彼から離れる。直後に大きなリボンの付いた長い黒髪の少女とすれ違う。可愛らしい声で「お父さん」と言ったのが聞こえた。お父さん。まだ後見人と会っていないことをふと思い出した。
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