彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 極彩は、まだ会っていないと答えた。来客は不敵な笑みを浮かべた。
「義理の姉弟なんて形式よ。形式なんだから。アナタやあの子にその関係を強いているのは今のところ紙切れ数枚でしょ。アナタが独断で破った遺言のひとつと何が違うっていうの?」
 口の中がからからに渇いた。湯呑を握る。
「アナタはどう思うか分からないケド…アテクシは正直、縹くんには怒っているのよ」
「…どうして、ですか…」
「年頃の男の子なのよ、あの子は。恋心もまともに抱かせてはくれないのね。あの紙束であの子は…姉弟でなければ、いとこでさえなければ、あの子は、たとえアナタにその気がなくても自由な片想いくらいできたはずよ。アナタには好きでもない相手に想いを寄せられて気持ち悪く思うかもしれないケドね。アナタに夫を紹介されて、訳も分からず泣いてアテクシに誤魔化さなくて良かったはずなのよ。義兄がいい人だといい、義兄がいい人そうで良かったってね」
 柘榴は熱い茶を啜る。極彩は忙しなく相手の太い指やその中の湯呑、豪奢な飾り付けのある大きな胸元に目を移す。静寂は求めてもいない答えを、結論を急かしているようだった。
「こういうことは…初めてで…わたしもどうしていいか…」
「こういうこと?どういうことか分かっているの?」
「そういう意味で…好意を寄せられるということです………恋愛感情で…」
 柘榴は鼻で嗤った。
「嘘おっしゃい。初めて?謙遜かしら?それとも鈍いの?」
 天藍は縹との気質の不一致が形と矛先を変え姪への執心と化し、群青は娼館の勤め人への想いが拗れ、夫に至っては一個人の感情すらも持っていなかった。やはり銀灰から向けられた恋心が極彩にとっては初めてだった。
「桜くん、アナタに求婚する気よ。何か言ったの?それともあの垂れ目くんが焚きつけたのかしら?」
 呼吸が一瞬止まってしまった。息の仕方を忘れてしまう。
「んな、なんでですか」
「アナタが灰汁あくどい商売をしているとかって。そうは言ってなかったケド、大体そんなようなコトを。勉強中の自分じゃ到底稼ぎが足らないから、色街で働くらしいわ。あそこ、お給金いいものね。頭のおかしい客までもれなく付いてきちゃうケド」
 来客は愉快そうに笑った。
「そんな…」
「やっぱりアナタ、鈍いんじゃない?アテクシはたとえ野暮な真似をしてでも桜くんの純情を踏み躙らせていただくケドね。で、どうするの?」
「色街ではもう働いていません」
「そうじゃないわ。求婚のほうよ。どうなの?桜くんとは随分仲が深いようだケド?」
 身体中に電撃が走るようだった。筋肉すべてが動きを止める。
「…断ります!二公子に許されません、そんなこと」
「随分便利な言い訳ね。でもそれが賢明だわ」
 唇を噛んだ。天藍のことなど微塵も考えていなかった。桃花褐と並ぶ桜のことばかりが浮かんだ。あの若者に求婚される。しかしまだ決まったわけではない。柘榴の勘違いということも十分にある。彼が思い直すこともある。色街の日常と比べればあまりにも生温い加虐娘・女豹倶楽部で泡を吹いて失神してしまうくらいなのだ。色街で働くなど1日どころか半日も持たないだろう。茶を啜る音で我に返る。
「意識しちゃったかしら」
「い、いいえ…」
 養えと確かに吹っ掛けた。遊ぶ金が欲しい、着飾るには金が要ると煽った。実行するとは微塵も考えていなかった。
「銀灰ちゃんのことも意識しなさいよ。いとこだったとか弟だっとか…アナタの師匠の子供だとか、そんなの関係ないわ」
 帰るわね、と強張ったままの極彩に柘榴は優しく言った。
「本当にいきなりで悪かったわね。焼き饅頭食べてね。見送りはいいから、よく考えることよ」
 厚く柔らかな掌が極彩の肩を叩いた。小さく返事をする。冷静でいられなかった。丁寧な挨拶もろくに出てこなかった。桜のことばかりが頭に浮かぶ。求婚される。胃がひりつく。養えと言ったばかりに、あの清楚な若者の尊厳を荒らしてしまう。しかし条件を揃えられてしまえば断る理由もなくなる。真面目な彼の婚歴を塗り潰すことになる。叔父も結婚相手に推していた。結婚しないと彼は宣言していた。桜からひとりの女性として好かれているのか。しかし過去の関係に囚われ、色街で働く元・主に同情して求婚をすると言っているに決まっていた。とすれば天藍や群青から受ける執心とある程度内容は違えど、あまり変わらない。
悶々としているうちに玄関扉が叩かれた。天晴組ではなく武官たちが車輪の付いた椅子を中心に並んでいた。その上には、片腕のない小柄な男が残された腕も胴に括られ、足枷を嵌めた状態で座らされていた。首には女豹倶楽部で触れたものよりも頑丈そうな幅のある首輪も付いている。。彼等のうち前に一歩踏み出た者が「間違いありませんな?」と高圧的に問うた。極彩は首肯する間も惜しんで駆け寄った。しかし周りの武官が紅との間に入った。誓約書を書いてから接触を許される。絶対に逃がすな、足首の鈴は外すなという約束のもと、彼等は帰っていった。首輪や足枷、縄を外し小さな身体を抱き上げて居間へ運ぶ。紅は黙ったまま部屋の隅で壁を背に預け、項垂れたように座った。城でもそうだった。極彩は襤褸のような薄着の彼に自身の衣類を羽織らせる。赤茶の跳ねた髪を撫で、茶を飲むかと訊いた。小さな頭は首を横に振る。何か食べるかと訊ねても彼は否定した。猫と遊ぶか、寒くはないか、どこかに行きたいか、様々な問いをしても彼は肯くことはない。構い過ぎたと反省して紅から離れる。縁側から成猫にもなっていない、しかし仔猫という時期は過ぎている雉虎模様の獣を拾い、居間に放った。猫は惑いながらも徐に隅に佇む暖かそうな息吹に進んでいく。少年然としているが中年であるはずの男の小さな手が猫の毛を撫でて膝の上に迎えた。極彩のはいくらか安堵して家事にとりかかる。少ししたら彼が着る物を買いに行くつもりでいた。女豹倶楽部の一件が終わってから警備は大きく緩んだのだった。護衛が付くかも知れないが長春小通り辺りならば自由に行けるだろう。紅はその間も極彩のほうに興味を示す様子もなく項垂れたまま置物と見紛うほどだった。許されることない傷を与えてしまった。手の中にはまだ彼の腹を貫いた覚えがしっかりと残っている。猫と戯れる姿をちらちらと盗み見て、関わり方を考え直すことにした。共に過ごすと望んだくせ、叶った途端に思い描いていた紅との生活が濁っていく。自分を刺した女と暮らすことに喜びなどあるはずがない。そのことにまるで考えが及ばなかった。紅に気持ちが、考えが、思想があることすらも。
「少し買い物に出るから、お留守番していてね」
 遠慮がちに言って極彩は玄関を出た。一緒に行こう、と言って首を振られることは容易に想像できた。かといって有無を言わさず命令のように連れ出す気もなかった。2人に減らされた警備の天晴組の若者へ用件を告げ、彼等は帯同することもなく許可を出した。食材や衣料品を買うには釣銭がくるほどの費用を渡され長春小通りに向かった。日用品は屋根付き商店街が特に充実していた。普段とは雰囲気が違ったが構うことなく衣料品と扱う店に入る。裏起毛の衣類を数枚買った。失った片腕を通す布は縫うなり裁つなり加工の構想はすでにあった。
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