彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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すみません。極彩はもう一度謝った。女は病的にどこかを見つめて息を切らしている。もうどこで会っても話しかけないでちょうだい。彼女は険を帯びて叫んだ。悲鳴に近かった。すみません。ただ謝ることしかできなかった。もし夫に会っても関わらないでちょうだい。極彩は合意した。知らないフリをしてちょうだい。また承諾する。女は顔を青白くして汗をかいていた。大丈夫かと訊ねる。放っておいてちょうだい!と女は逃げ出した。また路地から顔を出す青白い子供が遠くなっていく女を見つめていた。極彩も青白くぼやぼやとしている子供の後姿を見ていた。ここは危ないですよ、もう夜です。早く帰りましょう。極彩は女の消えた曲がり角をまだ見ている小さな背中に言った。面倒を看るつもりはなかった。あっちが明るいので、そこを通って帰ることですよ。そう言って子供に勧めたのとは反対の道を極彩は選んだ。
 屋敷に帰る前にそこから一番近い診療所に寄って手首を切った淡藤という患者はいないかと確認した。受付の者は極彩の名を求めた。店で使っている名前を躊躇いながら知らせると妙な表情をされながらも病室を告げられ、奥へ通ることを許された。そこは端から2つ目の個室だった。引戸を開ける。真っ暗な空間に窓が月に光っている。入院患者は寝台の上で起きていた。
「こんにちは、姫様…こんばんは、ですね。真珠ぱぁるさん。私が色街通いだと思われてしまったではありませんか」
「拙いんですか」
「好ましくもないですが特に拙くもないです」
 極彩は照明も点けずそのまま寝台の脇に椅子を出して座った。姿勢を正そうとする入院患者を手で制する。
「容態はどうです」
「悪くないです」
「すみませんでしたね、助けてしまって。目の前で死なれるのも嫌だったものですから」
「いいえ。助かってよかったです」
 真珠ぱぁるさんも来てくださいましたから。淡藤の表情は暗闇に塗り潰されている。
「初めてではないそうですが」
「ふと…たまにそういう気を起こすことがあるんです」
「たとえば、どういう時に?」
「そうですね…綺麗に晴れた日とか、野良犬に懐かれた日とか、作品の構想を得た日とか、飯が美味かった日とか…」
 極彩は「病人ですね」と軽く断じた。
「天晴組は病休とれないんですか」
 淡藤はそういうのを作ってみても良さそうですね、と答えた。
「花束も持ってこられずすみませんでした。気紛れに寄る気になっただけだったので」
「お気になさらず。花束を見舞っていただけるような怪我ではなありません」
 彼の声は少し弾んでいた。
「今日は…客をひとり、診療所送りにしてしまいました」
「落ち込んでいるんですね」
「違います」
「落ち込んでるんですよ。声で分かります」
 極彩は唇を尖らせた。淡藤はおそらく暗さに隠れ、似合わない笑みを浮かべている。
「報告をしに来たんですよ。それとも帰ったら代理が?新しい副組長殿に挨拶をしないと」
「随分と迷惑をかけたものです。姫様にも。すみません」
「もうやりませんね?でないと謝罪に意味なんてありませんよ」
「分かりません。自分のことが、誰より何より信用ならんのです。数分後のことさえ。夏の天気のほうがまだ信じられるくらいなのです」
 静けさに包まれ、加湿器らしきものが水を流す音がした。
「病人です。然るべき機関に適切な治療を求めるべきです」
「それ、私が姫様に言ったことですよ」
「ならば改めてわたしが言うことでもなかったですね」
「いいえ、言ってください。口煩いくらい言ってください。うんざりするくらい言ってほしいです」
 いやですよ。極彩は柔らかく拒否した。
「また診療所送りは勘弁です…否、淡藤殿はまた例外ですけれど」
「そんなに派手にやらかしたんですか。鞭で?叩かれたのですか」
「…いいえ。ごめんなさい、甘えたことを言って。慰めてもらいに来たわけではないんです」
 暗い中に浮かぶさらに濃い淡藤の陰が動いた。
「私は慰められに来ていただきたいです。半ばその任も請け負っているつもりなので」
「入院患者に気休めは求められませんよ」
「私は天晴組の組員より先に入院患者ですか」
「うっかりわたしが淡藤殿を追い詰めてしまったものだと思ったものですから。そうなれば組長よりも先に入院患者ですよ、わたしが入院患者にさせてしまっていたのなら」
 彼は違いますよ、と言った。そして姫様はまったく関係ありません、と続く。「…なんて口では何とでも言えますからね。でも本当に姫様は関係ないんです」とさらに添えた声はどこか虚ろだった。
「姫様は亡霊を信じますか」
「信じ…」
「―ても信じていなくても結構です。これは私の自論に過ぎないのですが…人は弱った時、新しい…といっても、ただ今まで感じられなかった、今現在私が生きている世に覆い被さるような形で存在する、もうひとつの世が視えはじめて、生きている場所は同じだというのに個々の中で重なりはじめるのではないかと。それでそこには、死者もいて、2つの世が視えてくる…」
 極彩は陰から微かに見える淡藤の形のよい額に手を伸ばした。
「宗教家になったらいかがです。名は何教にするつもりで?」
 熱を測る掌を剥がされ丁寧に返される。彼は黙った。冷やかすのは拙かったかと極彩は反省を始める。暗闇に溶けたらしき若者が揺れた。
「すぐには名を決められないものですね」
「案はあるんですか」
「とりあえず3案。わたし教、俗間ぞっかん教、真珠教」
「…何かこう、語感に魅力が得られません。亡霊共存学会とか、化生けしょう後世会とか」
 互いに腕を組み、首を傾げた。診療所の者が面会時間の終わりを告げに来た。扉が開き、照明が点く。目の前の患者と同時に目元を覆った。視線がぶつかる。淡藤は不機嫌な面をして極彩も眉根を寄せていた。
「そろそろ帰ります。長居しました」
「いいえ、またいらしてください。とはいえ明日には退院できると思います」
 何の話をしていたのかも忘れ、極彩は淡藤の病室から出た。進行方向をまだ爪先が定めてもいないうちに横から腕を引っ張られる。手首を締める高い体温と肌に馴染む肉感は知らない相手ではなかった。何者なのか認識が追い付くと極彩はその手を払った。しかしまだその掌は手首に繋がっている。
「放して」
「どうしてああいうことするんで?」
 向かい合わされ極彩は相手から顔を逸らした。
「桜を連れて来たの、貴方?」
「あんさんのことだ、簡単に会っちゃくれねェだろ?」
 威圧的な態度にも臆せず桃花褐は普段の豪放な空気感を纏っている。
「裏口だだめなら正面もってこと」
「店のこと言ってなかったらからな。槿むくげちゃんには悪ィことをした」
「わたしの邪魔をしないで」
 もう一度腕を払うが桃花褐は彼女を放さなかった。
「あの店は危ねェって何回か言ってるよな?」
「何回か聞いたかも知れない」
 手首を巻く指の圧が強まった。
「ンなら辞めろ」
「どう“危ねェ”のか聞いていない」
 彼は鼻を鳴らした。言ったら利くのか?桃花褐は問う。極彩は答えなかった。女豹倶楽部には彼のいう危うさが感じられないため、まだ辞めずに続けているのだった。
「床下…言えるのはそれだけだ。まぁ、気になったら掘り起こしてみるこったな」
「床下?」
「薬もそうだが、そのまんま生臭ェ。嬢ちゃんが止めるまで、俺ァ手、引かねェぞ」
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