彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 店長の語りを聞きながらの帰り道で数日通わなかっただけだというのに久々に感じられた焼菓子店に寄った。少年が家で待っているという認識だけが極彩の足をそこに向けてしまっていた。卵液豆腐を買っていった。店員が愛想よく何か話した。イツモノオトウトサンヘデスカ。極彩は適当に躱した。甘い香りと柔らかな光の下を出ると男女が目の前を歩いていった。男のほうにぶつかってしまい、咄嗟に謝った。しかし女のほうと目が合った。見覚えがあったがすぐに名が出てこなかった。名すら知らないかもしれない。女のほうも極彩を知っているふうな態度で、だが気拙げに顔を背けられてしまう。連れの男が一言残し立ち去っていく。そのうち思い出すだろうと天晴組ではない警備の囲いを抜けて屋敷へと帰った。居間は暗いままで咳が聞こえた。廊下をそのまま突き抜け台所で湯を沸かす。居間を常夜灯にして赤みを帯びた淡い光の下で着替えた。卓袱台の上に置いていった炒蕎麦は皿ごと消えている。咳が鎮まり、痰が絡まるらしく濁った喘ぎが聞こえる。両手が寂しがっている。締め上げた時よりもまだいくらか余裕のある嗄れた声が極彩の制御から外れた欲求を煽る。風邪引きの少年とは対照的な深い息をして、卵液豆腐の入った箱を卓の上に投げ、庭へ駆け出した。夜風に当たりながら立派な庭園を歩く。弟と短い時間を過ごした水上の四阿あずまやに足は向かうというのに楽しかったひとときが棘となって胸を襲った。爛漫に笑う健気な少年が脳裏で閃いた。苦しめていたに違いない。純情な少年を。笑顔でいるしか術を知らない少年を追い込んでいたに違いない。四阿の細い長方形の小窓から池を覗いた。彼の指で遊び飛び立っていく天道虫になれたら。彼の周りで舞う蝶になれたら。彼を受け止めて潰れていく花畑に住まう油虫でもいい。自身のものではない息遣いが聞こえて身を翻す。
「帰って来たなら起こせよ」
 風邪引きが四阿の入口を塞いでいる。わずかに明るい外との差を借りて影絵を作っていた。
「具合悪いのか?感染うつしちまったか」
「来てはいけません」
 少年の影絵に極彩は背筋が凍る思いがした。冷え切った両手が肉感を求めている。息が白く渦巻き、春に向かっていても今夜は一段と冷えている。訳の分からない攻撃衝動を抑えていられる自信が彼女にはなかった。暗闇で模られた少年の姿に出て行ってしまった可愛い子を重ねてしまい、極彩は毛を逆立てた。頭の中が吹き飛ぶような混乱に呑まれ、目の前の細い首を折らねばならないという趣味に似た義務感と、守らなければならなかったという落胆がぶつかり合い、自らの首を絞めた。それでは何の足しにもならなかった。
「おい」
 少年の高い体温が汗を纏い極彩の両手を掴む。来ないで。来るな。悲鳴は空気を揺さぶることもなく、幻には届かなかった。
「やめろよ。そんなに首絞めたいなら俺にやれ」
 病人とは思えない力強さで指を剥がされる。いつの日か彼に殴られた時とはまったく違う。背が高くなっている。声も少し低くなっている気がする。他者へ目をやるゆとりまで持ち合わせた。彼女の欲深い両手は汗ばんだ冷たい首へ導かれ、手首は持主の意思が届かないまま餌を食む。
「あんたが……俺を避けるの、嫌だ」
 珊瑚の手は一度苦しげに極彩の手に触れたがすぐに下りていった。しかし彼女の腰に回り、抱き寄せる。
「俺、殺してでも…、傍に、いろよ…」
 首を絞める力に比例して少しずつ発育を知らせる腕が彼女を締める。身体が弟が来ていた寝間着に埋まっていく。眼前で呼吸が変わる。この少年を殺すのだと思った。汗でも涙でも鼻水でもない体液が顎に伝い、喉を折ろうとする手を濡らした。花畑で聞いた息が聞こえる。耐えねばならなかった圧がまたすぐそこにある。ネエチャン。イツモノオトウトサンニデスカ。オトウトガイルンデス。オトコノコニモニンキノケーキハドレデスカ。ネエチャン。お腹減ったっす。寂しいっす。寒いっす。苦しいっす姉ちゃん。重なった手は掴んでいるものを投げ捨てた。鈍い音がした。足の裏に木板を通して質量感が響いた。咳の嵐が静かな夜を騒がしくした。風邪をひいて弱っている年下の男が恐ろしい怪物に見えた。
「大丈夫だ。大丈夫だから。あんたは俺を殺さない。あんたはいつも俺のこと、守ってくれてただろ」
 後退りする間も与えられず、汗ばんだ寝間着に包まれる。
「あなたは三公子だから…あなたは三公子だから…」
 弟が着ていた柄が薄らと見えた。寒気と同時に背を摩られる。
「あんたまで風邪ひいちまう。戻ろう」
 極彩は腕を後ろ手に回し固く指を結んだ。背を押され居間に戻される。明かりの下に出た珊瑚の顔は蒼褪め、汗で照っていた。冷凍庫に入っていたうどんを食わせた後に薬用酒を少量摂らせ、彼は寝付いた。極彩も自ら両腕を縛り上げて床に就く。慣れていた咳が消え目が覚めた。襖を開くと珊瑚はまた低く咳を繰り返す。寝間着の前を寛げても彼は眠ったままで、座敷牢にいた可愛い子供が軽度の鼻詰まりを起こした時に買っておいた軟膏を胸元に塗った。彼は風邪には至らず鼻詰まりもすぐに治ってしまっていた。指の痕がひとつついた表面に銀紙を被せる。弱い清涼感が極彩の鼻腔まで通りを良くした。加湿器を点けて冷めた布団に戻った。
 朝になり城の者たちが三公子を迎えにきた。卵液豆腐を渡して見送ることもせず玄関で別れる。城の者は極彩に匂い袋のような小さな袋を寄越した。中身は石灰のような白く乾いた土の塊だった。石黄の形見で二公子からだと説明される。それから少しして絹毛鼠も滑車の上で突然動きを止めた。手巾に包んで天晴組を介して二公子に会えるよう乞うた。その日のうちに設けられ、不愉快な沈香が薫る部屋を訪れる。卓の上に小さな骸を包んだ手巾を置いた。対面に砕けた姿勢で座っている天藍は微笑んではいるがいくらか頬を攣らせた。
「埋めるべき場所が分かりません」
 白い石灰のようなものが入った匂い袋大の包みも絹毛鼠の死骸の横に置いた。
「9人目の紫煙を埋めたところでいいんじゃない。君が住んでるところの庭」 
 口調こそ普段の無駄話と変わりなかったが意味ありげな眼差しで天藍は言った。彼の隣には極彩に背丈も容貌も酷似した人形が背凭れに身を委ねていた。顔面に傷はなく、巻かれた形跡のない真っ直ぐ伸びた髪にはまだ櫛の通り道が残っている。肌の露出度が高く、派手な衣装を身に纏い、腿を撫でられていた。肉感まで生身の人間のようだった。
「生前、彼と縁のあった…雄黄の実家の墓園とまでは言いません。ですが、せめて近くに埋めたいのです」
 天藍は陽気に笑った。しかし不穏な陰が差す。
「君の勝手な忖度だね。中身みた?土くれだよ、それ。肥溜めに投げ入れたって自然なくらいなんだよ。適当に埋めてもばちは当たらない」
 彼は袋の紐を解いて中身を出した。卓に角砂糖にも似たものが粉と共に現れる。
「しかし、石黄から聞いたものですから。父親に会いたいそうです。聞いてしまった以上、叶えたいのです。父親に会うことは叶わずとも…」
 天藍は中身を袋に戻して隣の人形の腿にまた触れる。
「へ~、そんなこと言ったんだ。雄黄の模倣が君に?」
「はい」
「オレには一言も言わなかったのに。他にはなんて?」
 二公子は鼻で嗤った。極彩は目を側めた。そっくりそのままの人形の瞳をぶつかるが、それは虚空を凝らしていた。
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