彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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店長に絡んでいた男は興味を彼女の手の上に移す。
「こういうの、どこで買うの」
 よくある柄のもので、紙の繊維も特殊な感じはなかった。男も興味があるようなことを言った。それは言えねぇ。店長の様子が変わった。男が不機嫌な眉をさらに強く歪め、腕で捕らえられている店長を威圧する。欲しいってんなら俺から注文してやるからよ…。すっかり弱ったらしく店長はたじろいでいる。髭面の男はさらに圧力をかけた。言えねぇ、言えねぇ、と店長は首を振って繰り返す。
「これはどういうクスリなの」
 どうせ惚れ薬の類だろ。そこのすけに盛ったところを見る限りな。それとも風邪薬ってか?ご親切なこって。
 髭面の男は極彩の手の中の薬包紙を怪しげに指で突ついた。それから男は紙幣を店長の襟元に手を滑られながら挿し込むと、極彩へ標的を変え、彼女の肩に腕を回す。自力で立つ気もないとばかりに容赦なく体重を預けられる。男は上手く体重を乗せ彼女の動きを制御し、支払に付き合わせる。圧し掛かられたまま店へと連れ出された。
 向いてねぇよ、辞めちまえ。どこの潜入員だ?
 外へ出ると髭面の男は極彩を突き飛ばし、鼻を摘まんだ。
 女は臭ぇから嫌いなんだよ。羊の肉より臭ぇ。
 そう言い捨て、さらに居酒屋通りの中枢へ歩いていった。人間の胴くらいの大きさしかない木板の出入口から大慌てで店長が出てきた。悪かった、悪かったと謝り、どうにかして取り繕おうと必死だった。何の話だと恍けて「また明日」と言えばいくらか安堵していた。

「訳あって原物を手に入れました。違法賭博のほうは何も進展はありません」
 黒地に鶴と花の模様で穀紙の繊維が混じった、よくある折紙の中でもわずかに値の張る程度のもので包まれた粉末らしき手触りの薬を渡した。淡藤は無表情な顔面に驚きの色を浮かべる。
「大変申し上げにくいのですが、念のため…姫様には血液検査をしていただきたい」
「分かりました」
 淡藤は拒絶の返答に構えていたようだが、呆気なく無関心ですらある反応に素早く瞬きをする。
「申し訳ございません」
「いいえ…触れてしまった以上、疑われても仕方ありません。報告はそれだけです」
 この言葉が最近は帰ることを促す合図になっていた。それまでは小姓が肩の力を抜き、淡藤が雑談するか否かを決める頃合いだった。今日は小姓はおらず、淡藤がひとりで来ていた。寄り道に時間を割いてしまったため夜が更け、子供を連れ歩くのに好ましい時間でもなかった。
「姫様」
「はい」
「最近…その、」
 淡藤は居間を見回したが部屋の隅に溜まった洗濯物を目にした途端、気拙げに極彩へ視線を戻した。それがあまりにもあからさまで、彼自身も不本意にある種の意図を持たせてしまったことを自覚したらしく緊張感を帯びはじめた。
「家事が行き届かずすみません」
 時折菖蒲がやって来て時間の許す限りは洗濯物を片付けていったがまた山を作っていた。
「いいえ…そうではなく、姫様のご様子が、最近…どうもおかしいように思えまして。気分を害しましたら申し訳ございません。どこか具合が悪いのでは」
「ありがとうございます。ですが潜入は滞りなく務めますので、ご心配なさらず」
 淡藤は複雑な顔をしたが何も言わず切れ長の目を伏せた。
「組長の石黄から伝言を預かっております。明々後日しあさっての夜にお邪魔すると…」
「そうですか。伝言しかうけたまわりました」
 淡々としている極彩に淡藤はあからさまに顔を顰める。
「おふたりの私事であるなら深く介入はできません…しかし見過ごすわけにもゆきませんので口を出させていただきますが、如何わしいものではありませんよね」
 頷くしかなかった。副組長の双眸は返答の後も力強く彼女を見据える。言ってしまおうか、という気が起きた。しかし脅迫が大好きなあの薄気味悪い青年が次は何を提示するのだろう。脅迫の域を越え実際に行動に移してしまうかもしれない。それだけの残虐性を彼は持っていた。肌で感じている。
「心配には及びません。何ひとつ」
「何かありましたら相談してください」
 そう言って淡藤は帰っていった。彼は見送りも珍しく断っていった。居間に静寂が戻る。滑車の音が聞こえた。副組長が座っていた場所を見つめる。子持ちの既婚者という大きな括りが彼女を安心させていく。年代が近く、頻繁に会う異性に惑わされることもないはずだ。知らず知らずのうちに誑かしたり誘惑してしまわずに済む。
絹毛鼠と遊んで敷き放しの布団に倒れ込む。飲みそびれた酒の代わりに入れた薬用酒が腹の奥で熱くなる。滑車の音に安堵し、眠りに落ちていく。賢い犬の呼び出しにも気付かなかった。鳴くことを禁じられた犬は大窓を引っ掻くが、暫く経つと飼い主のもとへ帰っていった。

 ごみ袋を回収しにやって来た天晴組の若者に大量の即席麺の容器を見られ、渋い顔を浮かべられた。食材の注文もしなくなり、廃棄する物もなかった。凝った料理をしていた日々は遠くないくせ懐かしく思えた。献立を考え、出汁を取り、綺麗に盛り付ける。その意義が見出せない。やめてしまえば気怠さから抜け出せない身体には酒と即席麺だけで快適な日々だった。健康には問題ないのだと、訊かれもせずに先走れば、天晴組の若者はごみ袋を両手に所定の配置へ戻っていった。給湯甕が沸騰を告げると朝飯を食らい、空になった屑籠に即席麺の容器が投げ込まれた。ふらふらと女豹倶楽部へ出勤する。夜に石黄が来る。嘔吐感を堪え、考えないようにした。普段の業務が早く終わったような気さえした。酒場での出来事の翌日はよそよそしかった店長が、さらに翌日には極彩の恍けた対応に調子を戻し、まるですべてなかったことのように腕を回して帰路についた。
 今日は随分と歩くのが遅いな。店長に揶揄される。帰りたくねぇってか。ろくに話も聞いていられなかった。おれとまだ居たいとか?呑気な声も耳に入らず、しかし逃げ出すわけにもいかず極彩は帰り道を辿る。店長と別れてから寄り道という選択に惹かれてしまう。暗い裏通りに入る。普段とは違う道だった。点滅している街灯が不気味で、いつもは避けていたのだった。
「紫煙殿」
 返事はない。監視しているなどはったりだったのかと疑心が浮かんだ。
「紫煙殿」
 もう一度呼ぶ。独りで喋っている気がして居心地が悪い。
「いないの?」
「はい」
 上のほうから声がした。見上げても曇ったような夜空があるだけだった。
「石黄殿はもう屋敷にいるの」
 石黄の監視をしているわけではない紫煙が知るはずもないことは分かっていたが八つ当たりのように訊ねずにはいられなかった。
「おそらく。いの一番に出掛けたと管理記録係が」
「…そう。ありがとう」
 裏通りを抜け屋敷への道に従う。紫煙は足音こそなかったがそのまま隠れるでもなく半歩後ろをついてくる。
「紫煙殿」
「はい」
「中のことも見張っているの?」
「いいえ。二公子からは店の出入りを監視せよとのことですので」
 冷めた声が返ってくる。夜風の悪戯のような質感を持っている。
「そう。できるだけこの任務しごと、早く終わらせるから」
「焦らず慎重にお願いいたします。必要なのは早さではなく正確性ですので」
 蟄居先の屋敷の前で彼は無言のまま立ち止まった。極彩は振り返る。彼はただぼんやりとしているようにも見えたが真っ直ぐ彼女を捉えているようにも見えた。話すこともなく、邸内へ入っていく。緊張感に胃に鉛を詰め込んでいるみたいだった。すでに玄関から居間に明かりが点いていることに気付いてしまう。
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