彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「脅迫文が届いているという話はしましたよね?」
「はい」
 冷淡な目元に内面の愛嬌を湛えた瞳が揺らいだ。躊躇いがちに髭の生えた口が開き、遅れて喉を震わせる。
「三公子を狙うという内容なんです。だから城から離したんですよ、ええ、難癖つけるみたいな罪状で」
「ある貴人と密通していたという?」
「ええ。ちょうど二十通目が来た頃でして、そろそろ危機感を持ちましょうと…仲良いでしょう、ほら…なんていいましたっけね……あまり接点がないもので、あの小太りの優しそうな……」
「蘇芳殿ですか」
 指を鳴らして肯定される。
「あずきさん同様、蘇芳さんも立場を悪くしていましてね……どうも息子を亡くすとああなるみたいです。若様から聞きましたよ」
 さてと、と呟いて菖蒲は髪を掻き乱すと極彩のすぐ傍までやって来た。
「ちょっと持ち場を離れます。事情が変わりました。群青さんを頼みます」
「え…はい」
 彼は遊んでほしがっている犬に縄を付け、散歩といわんばかりに出て行った。極彩は家に入ると静かな居間を通り過ぎ座敷牢へ向かった。群青は布団も掛けず横になっていたが、気配に気付いて緩やかに起き上がる。脚が自在に動かないらしく、ゆとりのある袴が改良された金魚の尾鰭のように布団の上に広がり弱く滑る。
「…極彩様……ご無事ですか」
 拗ねたような態度が珍しかった。下半身を引き摺りながら格子の傍へやって来る。
「はい。群青殿の調子はいかがですか」
「悪くありません」
 食事を摂らないため頬はけていた。染髪を繰り返したらしく全体的に色の抜けた髪も傷んでいるだけでなく萎びている感じがあった。
「まだ何も食べられそうにないですか」
「擂り潰した果物なら、どうにか通るようになりました」
「今持って来ましょうか」
「朝にいただきましたので、暫くは…」
 格子に手を掛け、震える膝を庇いながら彼は腰を下ろし、壁へ寄り掛かる。膝を曲げようとして、大きく表情を歪めた。
「怒っていらっしゃいますか」
 拗ねた様子から一変して怯えたような調子で群青は訊ねた。
「いいえ。何に対してです」
 答えると群青は首を振って俯いた。
「責任を取らされるのはわたしではなく群青殿と菖蒲殿ですものね。怒られるとするのならわたしのほうです」
「違います!そういうことではなくて…」
 はっきりしない対応で外方そっぽを向き、消えていく語尾は投げやりだった。
「群青殿が仕事一筋なのは分かっていますから、気になさらず」
 桜のことを蔑ろにしたことに対しては多少の驚きがあったが、城勤めの人間はかなり多く、仕事に愚直でそれ以外には不器用さや雑さのある彼には仕方なのないことなのだろう。
「俺個人としても極彩様の身を案じているつもりなんです」
「それは…ありがとうございます」
 拗ねたり怯えたり、躊躇する落ち着きのなさの中が目立ったが真剣な色を持って伝えられる。真摯に染み入り、感謝よりも肩が凝った。これ以上の会話は疲れる。熱に浮かされ好意をちらつかされた時からか、懇意の娼婦と間違われ告白された時からか、白刃を向けられた時からか、彼と話すのは疲れることがある。まだ何か話したそうな群青が口を開く前に極彩は辞去の姿勢をみせた。
「そろそろ戻ります。お大事に」
 菖蒲の帰る時間次第ではまた夜に様子をみにくるつもりでいるが、他に上手く決まり文句が出てこなかった。群青は見送りたがっているのか、格子を支えて痙攣している膝で立ち上がろうとする。骨折ではないようだった。痛みの伝わる所作に思わず相手をしてしまう。座敷牢に留まっていていい状況なのか怪しかった。
「診療所に行きますか」
 彼は迷いをみせながら首を振る。頷いたら頷いたで移動も厄介そうだった。
「気が向くようでしたら連れてゆきます」
 頭を下げて再び格子へ背を向ける。極彩様。裏返った調子で呼ばれる。予感があった。おそらく内容のない叫びだと。
「はい」
 首だけで応じる。両腕で格子にしがみつく囚人は顔を伏せた。本当に用はないらしい。
「行きましょうか、診療所」
 助け舟を出すものの群青はまた首を振るだけだった。呼んだ自覚すらないのかもしれない。
「もう少しだけ……もう少しだけ、お傍に…」
 居てもいいですか。上擦った声に同情しながら離れた所へ数歩戻った。格子を挟んで隣に並ぶ。意識のあるうちは暇なのだろう。話相手になりそうな者もいない。菖蒲が頻繁に出入りしているようだが、2人は馬が合わなそうだった。何を話すのだろう。異性が介入するのは拙い話題か、誰も傷付かず得もしない世間話か。たった1日の経験が沈黙を許さず、話題を探してしまう。横を盗み見る。格子の奥で俯いていた顔が持ち上がり、あどけない双眸がぶつかった。
「すみません、わがままを言ってしまい…」
「いいえ」
 ただ座っているだけでは眠気に襲われた。蕩けた声で喋る隣の男の影響もある。寝違える兆しはあったが、格子に頭を預け、意識は遠退いていく。惑う体温が大きくはない格子の隙間から伸ばされ、彼女の手に重なった。苦手な単語を薄らいていく意識の中、勝手に耳が拾ってしまう。しかし理解に及ばなかった。娼館の従業員に吐くはずで、熱に浮かされると口癖と化す、その場凌ぎの言葉だった。切なく響き、真意を探る前にうんざりし、意識を手放すことに貪欲になる。
九蓮ちゅーれん街には行かないことを勧める』
 酒を浴びせた美声と火傷痕の持ち主がふと浮かんだ。脳髄まで融解し腰が砕けるかと思うほどの好い声は1人しか知らない。一体九蓮宝燈街に何があるというのか。穏やかな眠りから醒め、他人の体温に改めて気付く。愛庭館でも言われたとおり、他人のから伝わる熱はあまり心地のいいものではなかった。寝息が隣から聞こえる。互いに木の柵に頭を寄せて眠っていた。生温かい手の下から自身の手を引き抜いた。彼は余程疲れているらしく、わずかに身動みじろぐだけでまだ目蓋を閉ざしていた。少し乱れた服装を正して家を出る。菖蒲へ書置きを残しはしたが、不精者らしき彼がそれに気付くとは思えなかった。
弁柄地区を抜け、途中で不言通りに興味が湧いたが、目的地の方向ではなかった。まだ開店準備の時間帯にもなっていない色街に着き、愛庭館を目指した。榛がまだ捕まっていなければ仮面の客について訊けるだろうと踏んでいた。だが白を基調とした風変りな店舗は、揃いの羽織を着た集団に包囲され異様な光景を作り出していた。襟と袖と背に二公子の紋章が刺繍されているその羽織は天晴組を示している。愛庭館を諦め、弁柄地区に戻る。三公子のことは菖蒲が連絡を取るだろう。だが九蓮宝燈街に何があるのかは、好奇心が募るばかりで片付かないでいた。覗くだけのつもりで不言通りに向かう。普段と変わらない人の多さで賑わう横丁に出る。名指しされた場所はここから南の方角に少し歩く。高く空に掲げられた九蓮宝燈街に入る看板をみて帰る気で、少し温度の高くなる繁華街を南下する。
「白梅」
 親しげに呼ばれ、人混みの中にも関わらず足を止めて振り返る。視界の端が背の高い人影に陰った。口元に傷痕のある青年は杏だった。久し振りの対面に戸惑っていると、杏に手を引かれ、道の端に寄せられる。桜や銀灰との不仲は柘榴とは違い伝わっていないようで、誘拐事件のことも知らないふうだった。叔父の病没についても言及してこないのは気が楽だった。
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