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しおりを挟む「あの者ならもういませんよ」
手にしていた掛け布を抱き締めた。玄関の式台で塞ぐように座っている菖蒲はにかりと口角を上げた。片腕を壁に立てかけた刀に絡め、缶珈琲を口にする。
「…ここで寝ているんですか」
「たまには布団を変えるというのも悪くないですよ、ええ。尤も、貴方はその必要ないんですけど」
部屋着だけで防寒具はない。胸に抱えた毛布を差し出す。彼は苦笑する。
「渡す相手も消えたことですし、ありがたく頂戴します」
菖蒲は呑気に毛布を受け取り礼を言った。上の空になっている極彩の前で手を振る。
「案じることはありません…ボクは恰も貴方に恩を売るようなことをしましたが、まったく違います。あることを確かめていました」
彼は夜間にも関わらず珈琲を呷り、毛布に包まる。
「単独犯じゃないです。お仲間がいますね。どういう仲間かは分かりませんけれども…ただの共犯者かも知れません。あ~、彼ひとりを殺害して終わりではないみたいです。そういえば、これ、表沙汰にしていいのか分からないのですが…城に脅迫文が届いていましてね。いや~恐ろしいです。まだ送り主がどういう連中か割れていないので、くれぐれも周囲には気を付けてください」
自然乾燥した髪をばりばりと掻き乱す。
「とはいってももう半月は前のことです。信憑性でいえば半々。実際何か危害を加えられたという報告もなし。城勤めも命懸けだ…ま、別件とはいえ気を付けるに越したことはありません。流石にあの様子では貴方に何かするということは…いや、分かりませんね。心中だなんだと若者は色恋に殉じたがりますから」
「35は若者ではないんですね」
媚びに満ち、態とらしい照れが返っていく。
「色恋に殉じたくないですからね!…ええ。価値観に大らかに、時代には柔軟に、しかし流されず、かといって意固地にならず、当たり前を疑問視し、斜に構えず。若くいる秘訣だって読みましたよ!ただ言うは易し、するは難し…ですよ。一歩間違うと感覚が若く止まったまま…イタい老人になってしまいますからね」
うん、うん、と彼は頷く。絡んだだけで垂れた手がゆっくり刀に添えられる。一気に缶珈琲を飲み干す。
「さて、もう寝ることです。睡眠不足は気落ちの素です。何時まで寝ていても構いませんけど、生活習慣がとち狂うと、寝る時間というのが苦痛になりますからね。いくら内面が若くても、そんなんじゃカラダは30でガタがきますよ」
仕事にいくのだろう。媚態に固い気配が混じる。
「すぐに寝ます。おやすみなさい」
一礼して菖蒲へ背を向ける。異国語らしき慣れない言葉で彼は返した。
違う!怒声が響き、鋼琴の旋律が張り手に消える。隣を歩いていた青年が足を止めた。方向を変えるその肩を掴む。
何度教えたら分かるんだ!この愚図!
感情的な男の声が壁を越えて耳に届く。隣の青年は掴まれた手にも構わない様子だった。
なんで弾けないんだ!次出来なかったらその飾りもんの手を焼くからな!あ?
青年は静かな制止を振り切る。もう一度身分に相応しない態度で、波打った毛の若者を止める。
―私が行ってきます。また立場を悪くしてしまいます
蜂蜜色の瞳が歪む。彼は不快を露わにして立ち竦む。
全部お兄様に保に抱子してもらえ!こんなコトも出来ねぇで、何が第二公子様だ!租税返せ!この薄鈍。
扉が開き、涙を堪える端麗な少年が目に入る。
『縹、オレにもしものことがあったら弟たちのこと、頼むよ』
朽葉様はまだ根に持っているようだ…相手国の死者より我が国の犠牲者を悼んでほしいものですが…縹殿からも一言言ってくだされ。
―それが朽葉様のお考えであるのなら私は何も申し上げることはございません
縹殿、貴公は朽葉様を敬愛しているのでも、敬慕しているのでもなく、ただ甘やかし囲っているだけです。
『青人草の血税で生かす価値なし、と…』
「おはようございます」
襖と襖の間に首を挿し込んだ菖蒲は目が開いたばかりの極彩へ挨拶した。深夜帯まで起きていたくせ冴えた顔をしていたが無精髭がその雰囲気をすべて壊していた。
「…おはようございます」
「朝ごはんを買ってきます」
「お願いします」
彼は朝から甘たるく胡散臭い上機嫌さで襖の奥に消える。少しの間、寝呆けた頭を放っていたが背後の書院窓が微かに鳴った。小石がぶつかったような軋みだった。もう一度小さく鳴った。窓全体ではなく、小規模な一点にぶつかる掠れたような音だった。窓硝子が割れる前に開け放つ。
「やめなさい」
時折、近所の子供の声が聞こえていた。彼等彼女等の悪戯だと思っていた。馬鹿にした哄笑か逃走の足音に迎えられるものだとばかり思っていた。しかし冬の朝の庭園が広がっているだけだった。外側に突き出た桟に手折られた花が瓦版で束ねられていた。花屋でみる大きさよりも小さく、広げた手の中に納まるほどのものだった。頭を抱える。本当の、人に化けた狐だったのかも知れない。狸の可能性もある。窓の奥の庭園を見渡すが、誰も姿を現さない。粗末な花束に手を伸ばしてはみたが、逡巡し、触れることはなく窓を閉めた。朝支度を済ませ、慣れ始めた日常に戻る。
菖蒲が戻り、極彩は渡された竹輪の磯部揚げと煮玉子、焼鮭が主に横たわる弁当を食らう。彼は座敷牢に弁当を届けた後、飯も食わず珈琲だけ傍に置き、縁側で煙草を吸っていた。口から吐いた煙で輪を作っては崩壊していくのを追っていた。
「群青殿は食事を摂りますか」
「いいえ。摂りませんね。無駄になるから必要ないと言われているんですが、まぁ、そうもいきませんよ。いつ食べる気が起きるのか分かりませんからね。余ればボクが食べればいいんですし」
逆光していると媚びた笑みも無精髭も傷みきった毛髪も霞み、均整の取れた躯体と煙草を握る形のよい手が妖艶な絵画のようだった。
「おそらく、わたしの所為です」
菖蒲は徐に煙草を口から放す。聞いているのか否かは関係がなかった。絵画から出てきたのかと見紛うような蠱惑的な人影へ口が回る。
「わたしの結婚は、周りを巻き込むだけでした」
昨日や一昨日よりは晴れた空を仰ぎ、彼は紫煙を吹く。影は暫く無言だった。
「後悔しているんですか」
扇情的でさえあった影絵から意識が逸れ、漸く彼は反応を示す。
「…分かりません。後悔というにはまとめて捨てられない部分もあって」
「博打ですね。人生なんて喜びを伴って得られた物のほうが少ないし、それでいてそれに気付くのはすぐにじゃないんじゃないか…とたまに考えましてね。結局それも忘れてしまう。でも貴方は今のところ覚えている。それでいいんじゃないですか。まだ清算するには貴方は若い」
煙草の先端が赤く光る。成長しきっていない雉虎模様の猫が縁側に飛び乗り、中年男の股座に収まる。
「似て非なるものは時として残酷だ…いや、案外、非して似たるものなのかも知れませんね。この差は大きい。覚悟していたものよりも…なんて、中年オヤジのぼやきですけど」
煙草を灰皿に潰し、缶が開く。
「ほら、若様付きだったでしょう、ボク。ほいほい生まれ変わる紫煙殿を近くでみていますからね。初めましてって挨拶するんですよ。息子くんとなんとなく年頃が同じだから、いたたまれませんよ」
大きく缶が傾いた。
「香りのある人に情を寄せると、どうも感傷的になっていけませんね」
「…そうですね」
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