彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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191 ある謀反人の遺書 三

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 朽葉様が悩みを打ち明けてくださったのは婚約破棄を宣言して数日と経たないうちでした。彼本人から婚約破棄の理由が明かされたのです。彼女と私が恋人関係にあるから、というものでした。否定しました。誰から聞いたのか確かめました。朽葉様は口を閉ざし、それは言えないというのです。私はこの時、おそらく城が彼女に付けた密偵の類なのだと推測していました。彼がもう少し利口であるか、捻くれ者でさえあれば上手く私をはぐらかせたのでしょうし、そうでなくとも私は騙されたふりくらいならしたものです。朽葉様は私の強い否定にいくらか安心した様子をみせました。私も油断したのです。彼は弟に嫁がせたいと仰せになりました。しかし官吏たちの名を挙げては、反対されるからどうしたものかと相談するのです。私は上手く立ち回らなかった自分を呪いました。
 私は彼女に求婚しました。告白もせずに言いれる幼馴染の姿はさぞみっともなかったことでしょう。朽葉様を裏切るも同然であることは百も承知でした。彼女が私を選ぶとは思っていませんでした。ですがもし、彼女の逃げ道にでも成り得るのなら、彼女の本心は手に入らずとも十分だと考えていたのです。すでに周りに囲まれている状況というのは恐ろしいものです。圧力です。物理の介在しない暴力です。脅迫です。彼女はその場で断りました。すでに二公子との子を宿していると告げたのです。あの時の衝撃は今でも覚えています。父の不正、兄の隠蔽が発覚した時を上回っていました。私はもう諦めねばならないこと、そしてどこか狂気を帯びている二公子を選び、そしてその子を孕んだ彼女を激しく嫌悪しました。その日の夜に私は情けなくも多量の酒を摂取し、不言通りで暴力沙汰を起こしたのです。仕掛けられたとはいえ、高潔な理念を掲げ、亡きものにした家族の墓土を荒らし、墓石を蹴り倒すに等しい鬼畜の所業に手を染めたわけです。相手は武器を持っていました。私は大怪我を負いましたがそれでも命に別条はなく、二日ほどの治療を終えた後、長期に渡る謹慎処分になりました。その間に彼女と二公子の式がありました。風月王の許しが下りたのです。私は祝品だけ贈りました。確か異国の蝮酒五瓶と大山椒魚三頭だったかと思います。絶滅危惧種に指定されていましたから、異国の輸入品とはいえ反感を買ったことでしょう。しかし他意はありませんでした。ただ何となく昔、弾みでハンザキ(これは半裂きと書いて、大山椒魚の別名です)の話をしたのです。互いに忘れていても無理のない小さな約束でした。彼女とその弟に食わせてやりたいと思ったのです。まるでその幼き日の主張のように、式の翌日の朝に彼女と弟が生まれ育ち、私自身も出入りした家が燃え上がりました。あの姉弟の両親は命を落としました。夫の暴力によって母親は足を壊し、単身逃げられる状態ではなかったと検死官から聞きました。原因は放火でした。私はこの放火事件の犯人は未だに捕まっていないと記憶しています。
 謹慎の解けた私に朽葉様は頭を伏せました。焦燥した様子で私に謝るのです。何も語りはしませんでしたが、何に対してのことなのかは嫌でも察せました。私は本心を隠しました。諦めなければならない。ただその一言に尽きました。建前上朽葉様が知り得るのは、私の自棄酒と刃傷沙汰、そして謹慎処分期間中による式への不参加くらいのものです。城内は婚前妊娠結婚ではありましたが、一部では一応の、大部分は盛大な祝賀の空気が漂っていました。彼の忖度であったのか、彼自身の窮屈さであったのかは分かりません。朽葉様は私を散歩に連れ出しました。公務を放ってです。彼は若者であり、兄であり、公子にはなりきれませんでした。ですが私はそこに失望や落胆はまるでありませんでした。彼はもう一度謝りました。私は恍けました。朽葉様も最後まで本心を語りませんでした。この散歩の果ては海でした。清々しいほどの晴れやかさで、風は涼しく、この世にはこの海岸しかないような心地がしたものです。彼ははぐらかすようにまったく別のことを語りました。私は彼女を忘れられると思いました。同時に女性との淫行や酒だの賭博だのもやめられると思いました。
 すでに肺病の兆しをみせていた兄に改めて詫びました。治る病でしたが、兄は治療を拒みました。信仰を捨てたわけではなく、弟を憂いて還俗しただけですから、医療行為というものを宗教的観点から訝しみ、懐疑を刷り込まれていたのです。私も本人の意向を重んじる以外にはないと考えていました。病床に伏すまでになった兄は私にいくつかの教戒を説くだけでした。
 私が患ってしまった花労咳の初期症状もこの兄の肺病に似ていました。違うのは進行の遅さといった具合なので、肺病をもらい、そして大したこともなく治ったものと思っていたのです。場合に依っては死に至る病でしたが症状も分かりやすく治療法も薬もありました。しかし伝染病ですから城内では病状が落ち着くまで隔離されながら勤めていました。花労咳は軽い初期症状の後、一度すべてが完治したかのように何もなくなるのです。隔離から解かれ、私は謹慎後の通常勤務に戻れば降格処分を受けていたものですから三公子の教育係を任されていました。少し話が変わりますが、朽葉様は三公子に武具を持たせることを厭いました。そして楽器を習わせることもです。公子として育てる気がなかったのです。そのため私は三公子本人の意見も周囲の諫言も汲み取ることをしませんでした。初めて槍を握った二公子の、「自分は兄の代替として武器を握るが弟たちに武器は絶対に握らせるな」という言葉を口にしていたのはまだ耳に焼き付いています。私が二公子に強い嫌悪を抱く前のことです。私はこの「代替」という言葉をわざわざ使った意図がよく分かっていませんでした。兄に資質がないことを見出していたか、野心があったか。私は早苗川の一件よりも前から二公子を恐ろしく思っていたようです。
 三公子が疑心に駆られるのは仕方のないことです。そのために多くの城勤めが彼に手を焼いたことでしょう。
 私は三公子の教育と雑務、朽葉様との関わり合いの中で彼女のことをすっかり忘れていました。まるで忘れるために激務に浸っていたといってもいいでしょう。腹に宿っていた子のことも。二公子に子が生まれたら、いくら隔離生活を送り、必要最低限しか外部との接触がなく、目立たず日陰に過ごしていたとはいえ私の耳にも自然と入るはずでした。子とは孕めば必ず産まれてくるものではありません。必ず母体が安全であるとも限らないものです。もしそうでなかったら、私の下にもう一人、妹か弟があったはずなのです。下に妹でもいたなら私は或いはもう少し鷹揚さを持ち合わせていたのかも知れないとたびたび思うのです。しかし母子ともに健康というのは多数派にせよ、誰も語りはしないにせよ、当然のことではないのだと私は理解しているつもりなのです。多くの女性にとっては、それが私の理解するには能の及びきらない繊細な部分、こびりついて払拭できない価値観、把握しきれない感受性をひどく害すると、腹の中で子を亡くした母を目にした記憶のうちに学んだものです。そういった経緯があったものですから、私は誰にも問うことをしませんでした。そして漠然と決めてかかっていたのです。いつの間にか彼女の腹の子に対して肯定的な意識を抱いていました。しかしそれは、この世に産み落とされなかったという同情や覆ることのない優越に他ならなかったのだと思います。 ある日朽葉様に呼び出されました。仕事中だったので脱け出したのです。急用でした。向かった先には彼女がいました。気拙そうに彼女から離れている朽葉様の逆光した姿に何か不穏な感じがありました。この書類が何者かに届くまで、あの光景が消えることはないでしょう。
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