彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「柘榴に聞いたんす。結構すごいイミがあったみたいで…オレっち、ただ女の人はこういうの喜ぶかなって…つもりだったんすけど…」
「すごい、イミ…?」
「ま、まぁ、とにかく旦那さんが気にしてないならいいんす!」
 彼は首と手を振って慌て、そして安堵の溜息を吐くも、腹を満たした鍋とはまた違う熱に染まっている。
「他意はないこと、分かっているから。ありがとう。とても綺麗だった」
「そ、そういうコトっす…」
 腑に落ちなさげに、しかし納得しようと努めているらしかった。彼は湯呑を呷る。食後2杯目の茶を飲み、落ち着いた時間を過ごし、店を出た。繁華街の大通りに並ぶ店では店員や待機列の暗黙の圧、だけでなく喧騒に耐えられない。ごちそうさまっした!と笑う姿が緩やかながら長い階段の下の繁華街の熱気と寒空の間で、妙な気温に中てられることなく輝く。
「城まで送るっすよ」
「ありがとう。でも大丈夫。牛車乗り場まですぐだから。お腹減ったらまた来て。銀灰くんは、縹さんの養子むすこなんだから」
 彼の置かれている状況からして、酷なことを言っているつもりはあった。それでも痩せていく姿を見ていられない。叔父の希望で、そして家族なのだ。
「うん、分かったっす。白梅ちゃん、気を付けて帰るっすよ」
 すまなそうに八重歯を見せて笑った。父や母にもそうして遠慮を隠しながら暮らしていた片鱗を彼は無遠慮に曝す。
「じゃあ、また」
「ほいっす!」
 先に立ち去らねば彼は帰らないらしかった。暫く銀灰が見送っていることを横目にしてしまうと、もう振り返らず、繁華街に近い明るい道を通った。牛車のある区画から少し遠ざかるが、途中の寂れた小道にある生菓子屋で練り切りを買う。蜜柑を丸ごと包んだ美味そうな大福もあったが、舌のない口では喉に詰まらせてしまいそうで、柔らかく、見た目も鮮やかな黄色の寒菊を模したものを選んだ。酒に呑まれてばかりの情けない姿を見せたくなかった。値の張るような美味い物を食べてしまったという罪悪感とともに不言通りの外れを北上する。真前を野良猫が横切り、驚きに身体が跳ねて半透明の袋の中で揺れる生菓子の入った紙箱を確認する。小さな口へ運ばれる黄色と餡を想像し、穏やかな心地がした。だが長くは続かない。怒号と金属の音が耳に届いた。城のある北東からではなく彼女が背にした北西の方角で、少しずつ近付いているらしかった。引き取り手や相続主の分からず放置された廃屋の多い区画を足早に縫っていく。鼻唄が聞こえ、繁華街から逃れた星空を見上げる。聞き覚えのある曲だった。淀みを持ちながら低く迫りくるような旋律によって。鼻を刺す酒気が聴覚の後に極彩を忍び寄った。怒号と絶叫が入り混じる。古典短歌を物語にし、芸術音楽と化した歌が浮いている。幻聴のようにさえ感じられた。そして弦楽器が伴う。近い。辿るか否かの判断もつかなかった。立ち尽くす。悲鳴が聞こえる。高濃度の安酒に酔った時の感覚に似ていた。薄膜に全身を覆われたような鈍さと痺れ、それから不適当な安堵感。夏と比べると距離の離れた空と住宅の屋根のとの間に茶髪が見えた。煙のような靄と人々の燈火に炙られた夜の中で若者が立っている。布で半分隠れた顔が家々の屋根の上で視線を這わせ、辺りを探っていた。
「狐さん!」
 夫の軽率さを焦りが忘れさせる。鼻先と口元を覆う布がはためいた。眦を染める化粧が極彩のいる道端を定める。
「危ないから早く降りて。こっちに来て」
 明るい茶髪が夜風に靡き、後方を気にする素振りをしたが、言わるまま瓦の敷き詰められた斜面へ踏み入ると、跳んだ。息を呑んだ。流行に病に侵され、今頃は発熱と意識混濁に陥っているはずだ。着地の音はなかった。極彩は前身の毛を逆立てる。
「狐さ…ッ」
 眠そうで風流のない男だった。後腐れのない、老い先の短くなさそうな独身でもなければ選ぶことはなかっただろう。だがその男の妻となった。叔父と従弟に紹介し、式を挙げたい。怪我をされては困る。住人がいないらしき荒れた家の裏側へ回った。塀と塀の途切れた庭から足音も気配もなく夫は現れた。手を伸ばした。冷たい手が重ねられるものだと何の疑いもなかった。しかし彼は突っ立っているだけだった。
「向こうで一騒動あったみたい。危ないから、離れよう?」
 今にも寝てしまうに違いない双眸は極彩を射し、何も答えない。間の抜けた彼の雰囲気に警戒が混じっている。頷きさえしない。妻の不義を知っているのだぞとばかりの詰責きっせきとして彼女の中に映る。まだ宙に留まっていた手が垂れた。
「話したいこともあるから」
 どういった経緯かは想像もつかないが、すでに聞き及んでいる、把握しているというのなら、すっかりすべてを打ち明けるつもりでいた。会うときは常に睡眠を渇望している蕩けた彼の濃く長い睫毛の狭間は激しい熱を持ち、一歩一歩確かめながら妻へ進む。白い手袋を徐に外し、彼から素手を差し伸べ直す。剣戟と足音が近付いている。不穏の中に利を求め、伏して待つ捕食者然としたいた。本能的な恐怖を感じながらも白い手に応えた。夫は妻の手を引いて塀の裏側へ連れ込むと、胸へと収める。背負った琵琶が揺れていた。骨張った肩に鼻梁が当たる。酒のほかに香子蘭バニラの人工的な香りがした。淡いそれは移り香のようだった。乱れた足音と怒号が何軒か離れたところで響いた。
「行ったよ…怖かったね…?」
 後頭部を撫でられる。大雑把で不慣れな手櫛に、思わず目を細めてしまう。至近距離で夫の目元も笑っていた。
「咳はもう大丈夫なの?」
「うん…」
 頬に布越しの口付けが降った。寝惚けて甘えた声は相変わらずで空咳はなかった。
「お嫁さんは…大丈夫?どこも痛くない…?」
 極彩は頷く。夫は首を傾げ、もう片方の白手袋を外すと両の素手で妻の頬に触れた。
「それなら…よかった。行こう…?」
「手が冷たい。もう冬なのだから厚着しないと」
 粗末な麻の衣は首元が見えている。極彩は上着を脱ごうとした。しかし冷たい掌に包まれる。
「じゃあ、お嫁さんが温めて…」
 妻の衣嚢いのうへ夫に握られている手を挿し込む。何か腑に落ちない感じはあったが、颯爽としている彼に伴う。街の陰を南下し、不言通りの繁華街へ向かっていった。
「どこに行くの」
「どこが…いい…?どこでなら…落ち着ける…?」
「どこでも構わないけれど、出来れば、2人きりになれるところがいい」
 布と布に挟まれ、生温くなった手が妻へ戯れに絡む。しかし夫は行き交う人々をじっと観察していた。
「出逢い茶屋に…誘ってくれてるの…?」
「そこしかないなら…貴男が行きたいのなら。けれど、その前にわたしに話をさせて」
 指を揉むような手付きが力強い握力へ変わり、見上げた夫の横顔は引き締まる。
「いいの…?」
 口に出来ず、首肯した。くすくすと彼は笑う。意外にも筋肉のある腕が接した。
「お嫁さんと…こうしてるだけで…嬉しい」
 視界が暗くなる。通行人たちが消える。布と前髪を隔て夫の唇が額に当たった。
「でも…もっと…先があるなら…」
 腹の奥が捻じれたように疼いた。夫以外の者に暴かれた身が震える。足元の小さな石ころを見下ろし、人通りの中を守られながら歩いた。覚えのある石畳を辿る。敷き詰められた黒っぽい石は、雨の日には滑りやすそうな表面で、形も素材もこの住宅街と風情ある商店街の気品を表しているようだった。蔵造りの街並みが荘厳な雰囲気を醸すそこは弁柄地区だった。醤油や糠が薫る、色茶屋の似合わない土地だった。
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