彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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他の店と比べるとあまり繁盛していないようだったが、それでも人は多かった。落ち着いた雰囲気の内装が階段下からでもみてとれた。勧められるまま猪と牛の肉を注文した。猪鍋は肉の他に野菜を中心に出汁が効き、牛鍋はこだわりの豆腐と菌類で甘い汁が売りなのだそうだった。不言通りにある店の中では広いためか、周囲は家族連れが多く、子供たちの高らかな声が聞こえた。対面で美味そうに白米と鍋を口に運ぶ堂弟を眺めて食う飯は美味かった。家族の賑やかな話し声が近くからずっと聞こえている。すぐ隣は勤め人らしく、仕事の文句を垂れ流していた。美味い美味いと言いながら銀灰は鍋の中身を平らげていく。好き嫌いはあまりないようで野菜を残すことなく自ら取り皿に乗せていく。箸の進まない極彩をそのうち彼は気にしはじめたため、彼女は追加の具を鍋に浮かべた。自己申告通り、箸の持ち方は正しいとされるものではなかった。しかし食べ方が汚いとか、よくこぼすとか、行儀が悪いということはなかった。食器の持ち方もこれといって変ということもない。言われなければ気にするほどのことではなかった。まだ長屋で生活するために茶屋で働いていた頃に目撃した客のほうが酷い有様なくらいだった。そしてそれを本人たちは気にする素振りもなかった。
「食べ方のこと、誰かに言われたの」
 青ねぎの細切りを肉で巻こうとしていた銀灰が受け皿から堂姉いとこへ面を上げた。
「うん」
 そして口に運び、熱さに咽ていた。
「そんな気にするほど変ってわけではないけれど」
「食べる分にはこれ以上いい持ち方ないんすけど、やっぱ親の躾がなってないとか思われちゃうみたいなんすよ」
 卵黄を纏った糸蒟蒻を摘まみ上げながら彼は笑った。
「社会で上手く生きていくにはそれじゃダメみたいっす」
 美味そうに食べる姿は見惚れてしまうものがあるが形式にこだわりのある者と会食し、心無い一言を掛けられたらしかった。
「親父もお袋もそういう躾はしなかったっすから。教わったって直せたかどうか。言われるまでオレっちもあんまりこだわりなかったっす。飯は食えればいいと思ってたんすよ。こういうお行儀ぎょーぎ、お作法さほーってのは、最小限の力で最大限の効果が出せる合理的で効率のいい動きがもとになってるらしいっすけど、箸の持ち方ひとつ変えたら、強くなれるんすかね…なんて。強くなりたいわけじゃ、ないっすけど」
 後半はまるではぐらかすようだった。
「世の中何があるか分からないもんっすね。ドブねずみみたいなボロ屋で生まれて。気付けばてて親は前科持ち。お袋は新しい男のところ行っちゃってさ、お前はお父さんと一緒に生きな…ってな感じっすよ。でもま、お袋の新しい男、結構いいオトコなんすよ。オレっちにもお菓子とか買ってきてくれるんす。妻子持ちなんすけど」
「え」
 冗談なのか否か分からなかった。銀灰はにやりとした。何となくそれが柘榴のやる偽悪的なものを思わせ、事実かも知れないと思った。
「でもオレっちは縹サンみたいな綺麗な父さんのところの子供になってさ。白梅ちゃんと親戚になって…舎弟ができて…箸の持ち方ひとつでオレっちの生きてきた社会みられるんすよ、驚きっす」
 白菜の漬物を齧り、彼は遠い目をしていた。極彩はやはり何かあったらしい銀灰を心配したが、彼は器用に胡麻や蕃椒ばんしょうを集め白菜に乗せて口へ放っていた。劣等感に陥るほど奇特な食事のしかたではなかったが、こだわる人からすればそれは縁起や手相のように凶兆や不都合なのだろう。
「わたしは銀灰くんと夕飯食べられて嬉しい。何を食べるかも大切な要素だとは思うけれど、誰と食べるかもやっぱ大切なんだなって。何をどういうふうに言われたのかは分からないし、訊かない。でもわたしは全然、気にならない。銀灰くんだからかも、知れないけれど」
 空いた皿を重ね、通路側に寄せながら銀灰は照れ臭そうに口元を緩めた。それでもただの気休めとしか届いていないようだった。
「そう言ってくれるとありがたいっす」
「今日、銀灰くんが来てくれてよかった。お酒ばっかり飲んで、あてもなく夜を待つだけの日々だったから…」
 叔父が叔父になる前の廃れた生活は酩酊と虚無の繰り返しで長かったのだろう、というのが極彩の中の結論だった。だが彼の過ごした世はあまりにも短い。
「城に入らないか、なんて変なこと言い出してごめん。焦ってしまって。銀灰くんの気持ちが離れていくんじゃないかって…」
「縹サンみたいな若くして高官に就いてた人が、どうして学も教養もないオレっちを息子として迎えたのか…やっぱり親父のことしかないのかなって、正直思ってるんすよ、まだ。このまま正式にオレっちが縹サンの後継ぐの、色々厳しいでしょ。表沙汰にしてないし、それが多分答えなんす。オレっちが養子になったことで少しでも縹サンが自分を許せたなら、オレっちの役割はそこで終わってたんす」
 気後れしながら彼は言った。親子にしては歳の近過ぎた2人の内面的な距離は埋まっていなかった。亡くなった親友であり、仕えていた公子に似ているからだと伝えてしまうことは簡単だった。その当て推量はもう極彩の中では揺らいでいなかった。しかしそれを銀灰がどう受け取るかについては心許なさがある。誤解さえ生じかねない。もしかすると誤解でさえないかも。彼女は肯定的に捉えたその役目を、彼は反対に受け止める可能性は十分にある。
「終わってないよ」
 彼は素直に困惑を滲ませる。
「むしろこれからかも」
「どういうことっすか」
 食前と、そして食後にも頼んでいた黒茶が運ばれてくる。
「銀灰くんがこれから健やかに生きていくってこと。明るくて素直なままで…それはもちろん、少しずつ人は変わっていくけれど…2人の父親のもとで、銀灰くんが銀灰くんらしく、真っ直ぐに…その中にわたしのことも混ぜてくれるとありがたいけれど」
 冷たい黒茶で喉を潤す。釣られたのか黒茶が目の前にあることを思い出しように彼も涼やかな器を手にした。
「…これから、っすか。そうかもしれないっすね。白梅ちゃんってオレっち、姉ちゃん持ったことないけど、姉ちゃんみたいだ。…家族、また持てて、嬉しいっす」
 人懐こく従弟は笑う。
「切った貼っじゃないと思うから…多分。良くも悪くも…そうなんじゃないかなって、思ったんだ」
 目の前の快男児の表情が崩れてしまう。誤魔化して笑った。
「そうだ、わたし結婚したの。出来ることなら…叔父上の体調次第で本当に小規模でも式も挙げたかったけれど…まだ紹介もしてなくて、ごめんなさい。急な話で…その時は銀灰くんのことも呼びたくて…」
 銀灰は呻くような声を漏らして、湯呑を口から遠ざけた。茶で濡れた唇があどけなく開いている。
「ただ夫のほうの都合がつかなくて。もしもすべてが整ったら改めて連絡するけれど…わたしだけではまだどうにも…」
 驚きながらも痙攣したみたいに彼は忙しなく頷いた。
「分かったっす…」
 従弟は茫然として何か拙いことをしたとばかりだった。極彩は首を傾げる。
「ごめんっす、知らなかったんす。簪渡しちゃったの、旦那さん、悪い気するっすよね」
 大きな目も口もすべてが丸くなり、不安を示しながらもしっかりと瞳は真っ直ぐ堂姉いとこを射抜く姿が愛らしく感じられた。
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