彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「極彩様?」
 背後から声をかけられ、極彩は大きく身を震わせた。紺色の傘を差した青年が首を傾げている。鉄錆びの匂いが強くなる。目が合ったまま動けなくなった。
「こちらで何を」
 脇腹に怪我を負っているはずの青年は凍てつき、濁った眼差しで彼女を見下ろす。帰還の宴で白刃を突き付けられたとき以来のものだった。
「極彩様?」
 夏祭りの終わりにも薫っていたものだと嗅覚が景色を呼び起こす。吊り下げられている右腕に彼は左手を忍ばせていた。極彩が側めると共に、まるで束縛されていたように青年の瞳も泳ぐ。
「夫を探しにきた帰り…会えなかったけれど」
「そうでしたか」
 返事は空虚だった。
「つまらないこと言わせないでくれる」
「申し訳ございません」
 擬似的な返答だった。瞳は惑っていたが、わずかに動けばすぐさま牽制するような眼差しに刺される。相手の女の一挙手一投足を見逃すまいとしているらしい。
「自宅療養と聞いているのだけれど、傷は大丈夫なの」
「はい。麻酔を打っておりますから…それより、こちらにはまだ御用が何かございますか」
「そろそろ帰るところ。用も済んだから」
 吊り布から抜かれた左手が落ちる。青年はまだ穏やかの中に鋭さを押し殺しきれていない。些細な動作も言動も見逃さないという気概に雁字搦めにされそうだった。
「群青殿」
 呼んだ直後に紺色の傘が弱い風に踊った。首に入り損ねた手刀を躱す。流れに任せ泥を蹴り、膝を屈めて掌底が青年の細い顎を狙った。彼も上体を反らせて躱す。瞬時に傘を閉じたが脇腹に一撃入れる隙を見つけ、泥水の上に捨てた。しかし寸前で思い留まってしまう。膝蹴りが顔面に迫り、上体を捻った。利き手ではないが傘を拾い上げ、片膝が水溜りに浸る。青年の眉間へ傘の先端が向いた。しかしわずかに届かなかった。除けるように彼の手が添えられている。泥水が伝い、雨に洗われていく。
「帰りたいのだけれど」
 袖口まで泥水で汚れていた。下半身も泥と雨水でびしょ濡れだった。特に大きく濡れていた膝はさらに勢力を伸ばしている。
「自邸に寄ってください」
「ありがたいけれど、すぐに帰る。もう他の男性の家には入れないから」
 群青の頬を滝のように落ちていく水にびっくりしたが、すぐに雨だと気付く。睫毛に水滴が絡み、不規則に瞬いた。
「それも…そうですね」
「いきなり殴りかかられるのも、怖い」
「…申し訳、ございません…」
 群青の横をすり抜け、紺色の傘を拾い、持ち主へと返す。鉄錆び臭さは消えない。
「じゃあ、さようなら」
「お待ちください」
 懇願するように彼は乞う。緊張感を伴いながら振り返った。応じた隙に今度は斬られでもするのかという疑念が払拭しきれなかった。
「何?」
 不信感を訴えながら用件を促す。暗殺の現場など何も見ていない、知らないとばかりの態度を貫かなければ、口を封じられるのだろう。
「いいえ…」
「人を待たせているから、ごめんなさい」
 躊躇いに付き合ている余裕はなかった。次があれば躱しきる自信はない。群青はおそらく確信している。間違いなかった。紺色の傘の下で白い顔が浮かんでいる。切ない表情で凝視され、逸らすことも背を向けることも赦そうとしない。辻斬りにでも遭ったと処理され、消されるのだろうか。傘を握り直す。懐に、純白の簪が入っている。逃がさないという判断が下ったのならば、殺すしかない。二公子の命令で、それでいてこの青年の指示で滅多刺しにされた冬毛の山鼬やまいたちを思わせる師から教えられた体術が果たして通用するのかは分からない。得意ではなかった。さらには腕は鈍り、実戦経験は皆無だ。
「風邪をひかぬよう、お気を付けください」
 群青は一礼する。呆気ない一言だったが、まだ警戒を緩められないままゆっくり背を向ける。
「ありがとう。群青殿も怪我、大事にね」
 暫く見送られていた。そして彼は鉄錆びと強烈な匂いの漂う路地裏へ吸い寄せられていく。夫に会いに来ただけのつもりが厄介な場面に立ち会ってしまった。遠ざかりたい極彩に反し、もうひとつ足音が現場へ近付く。水溜まりや泥が跳ねる、軽快でどこか開き直った音も一緒だった。荒い息遣いと向かってきた。女だった。落ち着いた渋い色と鮮やかな赤の配色に金糸が煌びやかな着物が汚れることも気にせず、足袋を泥だらけにして走る。毛先を束ねた長い茶髪からも一筋、雨が降っていた。すれ違いざまに、すでに大きく汚れた極彩の足元も汚していく。雨具も持ってはいなかった。極彩は、この先へは行くな、と言い掛け、しかしすぐに言葉にまとめられなかった。
「ごめん、急いでるから。洗濯代」
 何か言おうとしていることは分かったらしく、女は極彩の空いた手を取ると3回ほど折られた紙幣を握らせた。そして殺人現場のほうへ駆けていった。天藍に会いたがり騒ぎを起こしていた女だった。手の中で紙幣が広がる。それが、彼女が風の幻ではないことを証明した。あの娘が群青に殺されるかも知れない。気は進まなかったが娘を追った。色町へ通り抜けるだけかも知れない。群青はすでに撤退しているかも知れない。そう考えている間も、勝手に走っている足を恨んだ。気付けば雨はやんでいた。娘とすれ違った時からやんでいたことにも気付かなかった。空の白さを眩しく見上げた。血生臭い路地から青年が曲がって極彩の前に現れた。両腕の中には先程見たばかりの女が抱えられていた。2人とも赤い水をかぶっていた。据わった瞳が戻ってきてしまった女を認めると、閉じてしまった。
「斬ったの…?」
 活発な印象を与える赤い着物に雨とは違う沁みが模様を作っている。走るのには向いていない上品な着物は上から下までどこもかしこも汚れていた。
「何故戻ってきてしまわれたのです」
 低く彼は言った。興奮に満ち満ちているようだが、それを必死に抑えようとしているらしい。
「そのに用があって…」
 空気感がやすりと化している。油断ひとつ許さず、重苦しく、青年にはそぐわない攻撃性を放っているがそれも抑え込もうと努めていることは、噛み締めた唇や虚ろになったり戻ったりする瞳でよく分かった。腕の中の女はぐったりして身動きひとつしなかった。群青の蒼白な顔から滴る赤い雨が彼女の着物へさらに模様を足していく。
「自邸に寄っていただけますか」
 拒否した誘いに、今度ばかりは頷いてしまった。吊り布を外し、板ごと右腕を巻いた包帯も赤く汚れている。
「その前に…こちらにいらしてください」
 群青に従った。倉庫とも空き家とも分からない真っ暗な部屋で彼は合羽を被った。傘を持つよう頼まれる。桜ほどの若者が戸口を覗いた。暫く離脱する旨をその者へ告げ、群青の口調は威圧的でもあったが同時に茫然としているようでもあった。
「行きましょう」
 娘はまだ目覚めない。だが死んではいないようだった。傍を歩くだけで擦り切れそうなほどの殺気を帯びた群青の隣を歩けず、半歩遅れを取る。彼は極彩が視界から消えるたび、振り返った。
「こちらです。あまり人目につきたくない」
 虚ろな目が曲がり角を通り過ぎた極彩を呼び止める。群青であって、まったくの別人のようだった。弁柄地区は遠くはなかったが、移動時間は非常に長く感じられた。遊水池や使用人専用の小規模な屋敷のある立派な邸宅に着く。
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