彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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「はい」
 意識は思ったよりもはっきりていた。どうみても身投げによる傷ではなかった。だが即座に肯定される。自身を町医者だと思い込んでいる節のある女は笑い声を押し殺し、紫暗は激しい嫌悪感を彼女へ露わにした。
「そちらの奥方を庇って罠に嵌まったと正直に言えばいいものを」
 町医者とは思えまじき女は焼べた薪木を調節しながら言った。
「罠?」
「山道を外れて歩くというのはそういうことですからね。地雷ですよ。先の戦による不発弾か、はたまた山賊だの害獣だのの駆除か。まったく素性の知れた人間が掛かるとは想定外でしょうね」
 医者を名乗った女は極彩へ小皿を見せた。葈耳おなもみの果実に似た、表面に棘のある物がいくつか乗っている。色は黒く、しかし赤みを帯びていた。書物で見たことがある。撒菱まきびしだった。
「爆風で一緒に吹き飛ばせば、殺傷能力を高められるらしいですね。若者の悪戯だとしたら度が過ぎています。役人に通報案件です。この山はそういうところですよ」
 呆れたように説明され、妊婦は顔を真っ青にしながら腹を撫でていた。
「二公子がお待ちです。目標は確保しました。任務を続行します」
 剣士が極彩へ確認する。しかしそれは確認といえるものではなく、すでに彼の中では決定事項でただの報告に過ぎないのだろう。
「無茶言わないでください。見て分からないんですか。傷が開きます」
 立ち上がろうとする2人の青年の前へ立つと小柄さがさらに強調された。両手を広げ残留を提案する。近くの機関から応援を呼ぶと紫暗は聞かなかった。剣士は黙ったまま目にも留まらぬ速さで脇差を抜いた。柄頭つかがしらが無防備な少女の細い首を穿つ。外野の高い声が耳を劈いた。間近にいた群青は白い顔をして眼前に崩れ落ちた小さな体躯を目で追うが引き摺られていく。紫暗は両膝をついて、大きく息を吸い、身を攣らせて失神した。
「極彩様。帰ります。二公子がお待ちです」
 焚火だけが若い剣士に応答した。遠吠えと思しき獣の咆哮が小さく聞こえた。極彩はすぐに現状を理解することが出来なかった。
「落ちただけですよ」
 町医者の女は焚火の前から離れ、目を逸らすほうが拙いことらしかった。声も出せず、極彩は紫暗へ這い寄る。
「極彩様」
 剣士が呼ぶ。群青は回収したのだから要件は満たしたのだ、という不満が感じられた。極彩は紫暗の頭を膝に乗せ、頬を軽く叩く。息はしている。町医者越しの妊婦はすっかり肝を潰していた。
「極彩様、帰ります。二公子がお待ちです」
「どういう考えでこういうことするの」
「任務遂行の邪魔者は斬り捨てます。故に」
「そう。本当に斬らずにいてくれてありがとう」
 吐いてしまわないかとおそるおそる紫暗の首を横へ曲げる。骨が折れそうで慎重になる。細い首に屈強な金属部が勢いよく入ったのだ。
「叩き斬れば今すぐ帰っていただけますか」
 剣士の手が打刀うちがたなに伸ばされた。しかし群青に抜刀を阻まれる。町医者が「喧嘩するつもりなら他所よそでやってくださいね」と2人の会話に割って入った。しかしやはり興味は無さそうで、焚火にばかり注意していた。膝の上の小さな頬を撫でていると、円い目が睡眠中の覚醒のように開いた。極彩の腿に手をついて、身を起こす。喉を押さえ、咳払いした。首に内出血が認められた。周囲を見渡す。しかし剣士は容赦なかった。
「帰ります。予定時刻を大幅に越えています」
「お騒がせしました。帰りましょう」
 小さな肩に触れた。紫暗は苦笑する。項垂れた首を意識してしまうが、問題なく彼女は首を動かした。 
「紫暗。大丈夫なの」
「はい。ご迷惑おかけしました」
 少女は妊婦にだけ会釈をして何事も無かったかのように軽々と腰を上げた。
「待って。首、動かさないで。帰ったらすぐに医者に連れていくから」
「はい。ありがとうございます」
 首を動かすなと言ったそばから彼女は頷いて、剣士と怪我人のほうへ向かった。町医者の女はやっとひとり残された極彩へ癖のある美貌を傾けた。さっさと立ち去れ、の意を読む。
「お邪魔しました。群青殿の手当、ありがとうございました」
 2人へ頭を下げ、極彩は紫暗と剣士の間に入っていった。
城の用意した牛車に乗って本当の帰路に就いた。これ以上の道草をおそらく過激な剣士は許さない。すでに深夜帯で到着予定は明朝だ。群青も紫暗も眠り、極彩も鈍い頭痛を堪えながら何度か眠りに落ちては目が覚め、車窓の奥の空の色が徐々に変わっていくのを眺めていた。明るくなっていく景色の果てが眩しく感じられた。脇から、幾度も眠りから覚めてしまう原因である視線を受け、そろそろ我慢が利かなくなった。彼女の膝の上へ頭を預けている紫暗が身動ぐ。
「まだ何か、わたしに用がある?」
「死の相がみえます」
 射抜くような双眸であるくせ、生気はなかった。定まっていた瞳がやっと自由になったみたいに横へ流れ、車内を泳ぎだした。
「沈香の匂いでもしたというわけ」
 彼の主から薫る木材の名を上げれば、否定が返ってくる。小さな口元もその動きも、膝の上の少女にやはりよく似ていた。
「群青殿を弁柄地区の自宅に降ろしたいのだけれど、構わない?」
「最優先事項は極彩様の帰還です。予定日時を大幅に過ぎています」
 是非による簡潔な返答ではなかったが、それが十分答えになっていた。何をするのか分からない物騒な若者に従うしかなかった。刃物を突き付けられた藤黄の脅迫よりも厄介だった。今度こそ誰か、または牛車そのものをか、あるいは想定し得なかったものを叩き斬ってしまうかも知れない。
「…分かった」
「協力、感謝します」
 事務的に彼は言った。出会った頃の疲れた顔をした群青と同じでありながらもまったく異質なガラス玉のような目に早朝の光が照っていた。
「貴方、名前は何というの」
紫煙しえんと申します」
 城の牛車は民間の牛車よりも軋みが少なく、外に吊るされた人除けの鈴には鉄の細い棒が混じり、繊細で美しい音を奏でていた。見慣れた風景が車窓を流れ、品の良さが漂う弁柄地区の住宅地はまだ閑散とし、キジバトの特徴的な鳴き声が鳴り響いている。腹に傷を負っている群青を自邸へ送ることはできず、徐に牛車は弁柄地区から離れていった。
「胸に入っている物は何ですか」
 またちらりちらりと鼻先は別方向を差しながらも瞳が極彩の胸部を気にし始めた。反応を示すと、無遠慮に顔ごと注がれる。近視の者が字を読み取ろうとする仕草に似ていた。邪な意図は一切感じられなかったが、不快感に筋肉痛になっている腹を捻って胸元を隠した。
「危険物であれば二公子と会う前処分してください」
「ただの黒曜石。藤黄殿から預かった物」
 不本意ではあったが懐から鏃を取り出す。場合によっては、あの夫婦を永遠にあの山へ縛り付けるのかもしれない小さな石だ。彼は躊躇も逡巡もなく極彩の手から黒曜石を奪い取り、車窓へその塊を放り捨てた。極彩はびっくりして追い縋るみたいに車窓の外へ腕を出した。身を乗り出すも窓はそう大きくはなかった。御者に止めるように叫んだ。剣士は逆のことを言った。御者は惑う。この御者や牛まで斬るつもりではないかと思うと、停車の要求を撤回した。騒ぎで群青と紫暗の目が覚める。
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