彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 可能ならばもっと踏み込んだ問いをしたかった。知り合いであることはどう見ても分かっている。紫暗は顔を伏せ、それが肯定のように思えた。だが遅れて彼女は首を振る。
「まったく身に覚えがありません。もし血縁者だとしても、生き別れです。それなら他人も同然ですよ」
 朗らかな声は冷めていた。さらに彼女は「本当ですよ、本当にまったく知らないんです」と念を押した。そこまで言われたならば、他人の空似であるか、勘違いであることを認めるしかなかった。
「変な質問をしてごめんなさい」
「いえ、以前訊かれた時にちゃんと否定しなかったものですから」
 気付けば辺りは真っ暗くなり、視界の利きづらくなった中で少女の瑞々しい笑いが聞こえた。
「あの人は噂では、暗殺に失敗した者だと聞いています。見せしめのために弄んでいるみたいなんです」
 きゃらきゃらとした声から一気に落ち、そう続いた。
「紅さんが生かさているのはきっと…だから、もしそうなったら自分が紅さんを連れて逃げます」
「紫暗」
 決意に満ちていた。だが巻き込む気はない。彼女は城の人間で、風月国に生きていている。
「その時は、紅は…」
 明滅の中で彼を突き刺した時の肉感が蘇る。血の代わりに溢れた赤い結晶の音もまだ鼓膜は覚えている。
「まともな出自ではないですし、待つ人も、迷惑のかかる家族もいませんから。丁度いいくらいです」
 軽く口にした。淡々として反逆に等しい話をしている。
「何を、言っているの」
 冗談はやめて、と言外に含ませた。鈴が鳴りかけたが、柔らかな掌が手首を包み、涼やかな音は鈍く曇った。
「行きましょう」
 彼女の少し焦ったような態度が、緊張を煽る。あの剣士が融通の利かない群青へ刃を抜かないとも限らなかった。翡翠の報告では傍に子を探す女がいるはずなのだ。柔らかな掌が汗ばみ、熱を持っていた。剣士の手にする小さな燈りは山道から外れた茂みの中で目立った。足元の草は踏み均され、木々に傷が刻み込まれて標にされている。面倒な作業ではあったが、万一何かあった時、結局近道となり得る。草を踏んでいる後ろ姿にはすぐに追いついた。
「極彩様と待っていられないのですか」
 振り返りもしなかった。手にした小刀が樹皮に痕をつけていく。
「群青殿が首を横に振ったらどうする気なの。夜だし、女の人と一緒にいるらしいのだけれど」
「任務遂行の邪魔になるのなら斬り捨てます」
 まったく意図を理解していない剣士に極彩は返す言葉を失った。
「そういうことをするから単独ひとりで行かせられないのが分からないんですか」
 紫暗は強い口調で草を踏み、樹木を裂く若者の背へ嫌悪を向ける。
「分かりません」
 たった一言そう返し、興味も示さず小刀を振って進んでいく。
「群青殿のことは傷付けないで。わたしが二公子に顔向けできないから」
「そういうことであるのなら、承知しました」
 剣士は足を止め、小刀を下ろすと半分身を翻して極彩の話を聞いた。二公子からの間接的なめいと認識したらしかった。剣士は暫く迷いも見せず直進していたが、拓けた岩場の道の途中へ出ると足を止めた。極彩たちの前を腕で制した。川の流れる音が微かに耳に届いている。
「ここでお待ちください」
 人間味の無い目がふわりと高所を見上げた。その先を辿る。星空を背に、紺色に染まった白衣を羽織った者が立っている。
「こちらです」
 岩場の上から陰気な印象を抱かせる低い女の声が降った。剣士が硝子の中の燈火を掲げた。
「おそらくお探しの方々かと」
 襟が高く詰まり、脚部には大きな切れ込みの入った服に白衣の女が高圧的に見下ろしている。足場にそぐわない踵の高い靴を履き、髪は夜空に溶けている。彼女の声が静かに暗闇に沁みいっていく。動こうとした極彩へ上げたままの腕を近付け行く手を塞がれる。
「何故」
「この時間帯ですから。人探しに相違ないかと」
 針金のような眼鏡が見えた。薄い唇には鮮やかなべにが引かれている。
「火に慣れた獣が出ますから、早急に撤退するようお伝えください」
「何者です」
 剣士は訊ねた。不審な女は極彩と紫暗の方へ顔を滑らせる。
「薬草採りに来た、しがない町医者です。そう警戒することもありませんね」
「この時間にですか」
 紫暗が警戒心を含み問うと、得体の知れない女は肩を竦め、彼等の目線に届かない、岩と星空の狭間に消えていってしまった。
「山賊の類かも知れません。ここでお待ちください」
 極彩の前に出さられたままの腕が下げられる。返事も待たず剣士は岩に上っていく。
「行きましょう」
 紫暗は剣士の意に従わなかったが、彼はただ一瞥しただけだった下半身だけでなく腹部にまで至っている筋肉痛が喘ぎ、弱く頭痛もしていたが極彩も岩場を登っていく。流水音が段々と近付き、焚火が居場所を示した。同じ方向に消えたはずの町医者を自称した女はいなかった。彼女の履いていたものは、踵の部分が棒状になっている靴底だったはずだが足跡もなかった。化かされていたのだろうか。しかし散々聞かされた山ノ怪のひとつにしては俗物的な容貌をしていた。
 剣士は刀を揺らし焚火へと歩んでいった。紫暗も極彩を放って彼を追う。何をしでかすか分からないといった具合で余程信用がないらしかった。極彩も遅れて火へ集まる。腹の膨れた女がいた。その奥の燃え滾る木々の脇で、探していた人物の横たわった姿が炙られている。少女は口を両手で押さえ、隣の剣士は首を傾げて負傷者を眺めていた。後から加わった極彩へも妊婦は視線を寄越した。洗朱風邪の悪化とは違う弱り方で、腹に巻かれた包帯には血が滲んでいた。上下する腹を見ていたが、極彩は用件を思い出して妊婦に夫に会ったことを話した。女の不安に惑う目がいくらか和らいだが、瞬時に群青を気にしてしおらしい態度をとった。
「彼女は明日の朝、私が送ります。そちらの若い方は任せることにします」
 薪木を抱いた自称町医者の女が一行の背後から現れた。若い剣士と少女の間を割り込み、焚火の前に屈むと薪木をべる。
「任せるって言ったって…」
 紫暗の足が近付くかと留まるか迷っていた。町医者を自称する不審な女は誰に目をくれることもなく炎を凝視していた。漆黒の髪が輪郭に沿って切り揃えられ、美しい顔立ちをしていたが、どこか見覚えのある目鼻立ちだった。
「帰ります」
 剣士はただじっと群青の腹の傷を観察していたが、そう宣言すると怪我人の元へ膝をついた。刀が鳴る。
「やめてください。怪我人なんですよ」
 紫暗はびっくりして叫んでいるみたいだった。眉間が痙攣している。
「麻酔は打ってありますがね。痛みがないというのは危険です。それはお忘れなく」
「死んでも構いませんね」
 剣士が問うた。少女と同じ動きをして極彩は若者を見てしまった。町医者の女は愉快げに口角を上げ、妊婦は奇異の眼差しで彼を捉えていた。常日頃は朗らかな質の言葉にならない制止は振り切られ、怪我を負っている青年は揺すられる。剣士の見たところ華奢な腕に上体を起こされている。
「どういう経過なんです」
 群青から目を逸らし、誰にともなく極彩は問う。妊婦が顔を背けた。どこからも返答はない。目が覚めた本人へ直接訊ねる。
「身投げでもしたわけ」
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