彩の雫

結局は俗物( ◠‿◠ )

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 紅との時間を終え、廊下を歩いていると布を被せられた担架が通ってきたため端へと避けた。運ばれていくものは人間で、そして生きてはいないことが動きのない麻布から分かった。洗朱風邪か事故か。短すぎる葬列は城の裏口へ向かっていく。わずかな鉄錆びの匂いが、心地良さに近い不快感をもたらした。煙草の弱い匂いが漂って残った。担架の進行方向から帯刀した青年が現れ、極彩とは対向の端へ避け、道を開ける。風のような物腰だった。円くはないが紫暗に似た目元が極彩を映して伏せられ、それが不器用な会釈のようにも思えたため極彩も控えめに一礼した。そしてすれ違う。だがやはり勘違いだったようで青年は彼女を見てもいなかった。天藍専属の世話係を務める者は癖が強い。藤黄もそうだった。あの壮年は積極的に挨拶をしたが、新たな若い剣士は仕事となれば強引であるが、そうでなければ自ら関わろうとしない。ふわりと遅れて強い煙草の香りがやってきた。不言通りで何度か嗅いだことがあるが、煙草には何種類も微妙な匂いの違いがあった。しかしこの瞬間に鼻に届いたものは担架から薫ったものと同じだった。出来るだけ煙草臭さを抑えたようなものでも、甘みのある香りでもなく、ただ辛さと苦味が前面に乾いた樹木を思わせるわずかな酸味を帯びた匂いだった。不言通りや色街で嗅ぐものよりも強い。そのためかあの青年へ見た目にそぐわず愛煙家という印象を残した。顔立ちだけが紫暗に似ている寡黙な剣士の後姿を何度か振り返ってしまった。不気味な面で背後に立っていそうな気がした。だが考え過ぎだった。まだ煙草の香りに嗅覚が支配されている。不言通りが最近分煙に喧しい理由を身を以って知る。洗朱風邪の存在もさらに愛煙家たちを追い込んでいった。城ではまだ流行病は治まらず、すでに慣れた生活音と化していたものの巷で噂になっているほどの死者は城では出ていないようだった。曲がり角の奥で咳払いを聞きながら縹の部屋へ寄った。叔父は快方に向かったと思われたが冬の兆しに少しずつ体力の衰えを見せはじめていた。気が急き、毎日縹の様子を確認するようになった。しかし当の本人は穏やかでかえってそれが極彩を焦らしていた。すでに寝台からは起き上がれなくなり、喋ることもつらくなっているようだ。医療行為が許されている者が頻繁に出入りするようになった。持ち直した頃の無理が祟ったものと思われた。だが縹は薬の耐性がついてしまっただけだと調子こそは軽く、しかし消耗した様子で説明した。入室の合図はするものの許可もなく開扉した。すでに扉の奥へ声を届ける力はなかった。寝台の上に寝たまま、微かな衣擦れの音をたてるのが精一杯といったところだ。急激に刺青に似た痣は彼の萎れた皮膚を蝕み、すでに表情もよく分からないほどになっている。傍に置かれた銀皿には花弁が山盛りになっている。吐いたものを拾い集めることしかすることがなかったようだがそれすらもすでに自力では困難だろう。花はよくないと桃花褐が話していたため、寝台とは反対にある机へ移した。
「傍にいてもいいですか」
 縹は時間をかけて頷いた。重く目蓋が閉じていく。それが見慣れた姿とはかけ離れた、隙だらけで弱々しく甘えたもので、とうとう意地も張れなくなっているのだと知る。昨日一昨日と油断できないほど弱り方が急で、息が詰まってしまう。何も気付かないフリをしているつもりで、だがおそらく下手だった。それでも表にさえ出さなければ成り立つ。己の忖度でこの末期ともいえる病人をそれに付き合わさなければならない。歯痒く思うが耐えねばならない。長くはないのだろう。だが長くあってほしい。斑紋だらけの眼球の中で濁った瞳が極彩だけを映し、やおらに開閉している。そろそろ銀灰を呼ぶ頃合いなのかも知れない。だが彼も忙しい身だ。縹は罅割れた唇を震えさせながら口を開いた。何か言おうとしている。耳を近付ける。
「し、き」
 音は吐息に混じったり、途切れたりした。
式、挙げられずに…す、まな…い…ね。
 潰れた声を必死に紡ぐ。苦しげに深まる眉の皺が極彩の胸を締め付けた。
「いいんです。挙式なんて望んでいません」
 色の薄い髪が枕を滑っていく摩擦が目立った。
君…の晴れ姿が…見た、かったんだよ。
 別人のようで恐ろしくなる。白い唇が固く動いた。まだ君に、何もしてあげられなかったから。途切れ、消える。
「何を言います。叔父上と城に行くまでの散歩、楽しかったですよ。花緑青殿を待ちながら、夜中にお話したことも。無理をした時は助けに来てくださいましたね。叔父上に話したいことが沢山あります。まだ沢山…」
 花弁を散らして咳をしながら枝を見紛う手を布団の下から伸ばした。口元を押さえようとする体温の感じられない指を握った。緩やかに彼の眉が下がる。婿と相談して式を挙げようか。急がねばならない。予定にはまるでなかった。だが縹の望みであるなら叶えたい。
「考えておきます。挙式のこと」
 弱々しく睫毛が伏せる。
「…い、い…要らない。我儘を言って、すまない…」
 泣くのではないかと思うほど縹はくしゃりと顔面を歪めた。涙で光っている斑紋だらけの瞳に絶句する。病によって彼もまた情緒に影響が出ているのだ。そういうことにした。屈辱だろう。もうここへは訪れないほうが彼は自由に感情を操れる。
「好きな、人がいた…よ、ずっと…」
 縹は硬直したみたいに上体を起こそうとした。支えようとして悲鳴を上げそうになるほど痩せ、軽くなった胴へ腕を回す。だが糊の効いた病衣に抱き締められた。介護を求めるような手付きだった。
「君を、代わりにして…たわけじゃ、ない…けど…」
「縹さん…?」
 病が彼を変えていく。しかしここまで、彼は意地を貫いた。
「君に…よ、く…似て……る、危なっ……かしくて、頑固…で、」
 しがみつかれる。
「ず…っと、好きだった。ずっと…ずーっと、結婚し…ちゃっても………ずっと…」
 話に聞いている。結婚の決まっている女性に言い寄ったと。そして拒まれたことを。
「ボクは、本当…に、君を、娘み……たいに、思って…信……く、信じ……れ…本当に、……彼女の、むす、」
「はい」
 必死に言葉にしようとしているらしいが、力が追い付かないらしかった。背に回った棒切れのような腕は力強くなるがそれでも簡単に振り解けそうなほど脆い。
「君、は…よく、似……だか…ら、心配…君は、自由に……生き……」
「はい」
 極彩の肩の上でのたうちながら咳をする。赤や白の花弁が舞った。
「ボクは……何をす…も、遅…か、ら…」
「そうですか?」
「朽…葉様、が望む……ら、何も…惜し…なか、……彼女も、愛…」
 病人は強張り、怯えた。年上の頼もしい青年が見ず知らずの少年へと変わっていく。短い期間関わりのあった小柄な芸妓から薫っていた甘酸っぱい香りに抱かれる。
「あの…人……二公子と、…―婚した。君は……だめだ。いけ…ない。逃げて…誰のこ……、も気に…いで、それが、」
 ボクのお願いだから。
「…はい」
 慰めるように背を叩かれる。儚い掌だった。まだ降り落ちていく雪のほうが気丈なくらいだった。ボクを許さないでくれ。彼はまた咳き込み、花をいくつも吐いた。唾液を嚥下する音が生々しく彼の痛みを告げる。
「叔父上…」
「いい子だ…ね、とっても、強い子……とっても…眩しいな…」
 見てはいけない、聞いてはいけない、知ってはいけない側面だった。重苦しさが胸元に留まっている。
「もう寝ましょう、叔父上」
 少年になったかと思うと縹の纏うものは瞬目の間に一気に老けた。弱った身体を横たえる。眉間の皺が強く寄り、歪んだ目元から水滴が落ちている。
「ここにいます」
 枕に後頭部を委ね、伸ばされる手を握る。乾燥した木の皮同然の感触だった。虚ろな眼差しが濡れて、また零れた。
「ボクと……契って……ボクを、選……んで、他の…人と、結……ない、で…」
 また一筋、眦が照る。咳が薄い胸を殴打する。花弁が吹き出る様は目を逸らしたくなるほどの凄惨さと、目を凝らしてしまうほどの絶対的な美しさがあった。譫言を繰り返し、縹は眠りに落ちた。扉の外に出るや否や、以前と同じような激しい喘鳴が始まった。生きている者から発されるものとは思いたくないほど低く轟き、苦しさを理解しようとすることさ放棄させた。聞いていられなかったが耳を塞ぐことも、ここから立ち去ることも極めて不孝な仕打ちに思えてならなかった。しかし自然と両手は素直に聴覚を甘やかす。何故天藍との生温く不本意な時間を苦痛などと片付けられたのだろう。腹の内を探られるよりもずっと痛く、苦しかった。初めて見せられた姿が呼吸を忘れさせる。何故縹を拒んだ女になれないのだろう。己を恨んだ。望みは全て叶えたかった。幻影へ重ねられることに何を厭うことがあるのだろう。彼の揺れた色の薄い毛先が師と重なっていたというのに。
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